一瞬の役なれど
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第一章
一瞬の役なれど
歌舞伎の仮名手本忠臣蔵に斧定九郎という役がある、悪家老であり主役の大星由良之助の同僚でありながら敵に通じている言うならば敵役の息子だ。
その悪家老の父にも勘当されるならず者だ、だがその格好が破れ傘を持ち黒の着流しで刀を持ち中々のものだ。色悪と言うべきか。
それで有名な役の一つだが出番は少ない、されど。
「あれっ、今日も」
「そうよね」
岸部亜季と沢田愛美は忠臣蔵の舞台の配役を見て二人で言った。
「定九郎いい役者さんよね」
「格のある人出てるわ」
「出番少ないのに」
「すぐに出てきてね」
そしてというのだ。
「すぐに猪が来て、なのに」
「どうしてかしら」
「いつもいい役者さんが出るのは」
「それはどうしてかしら」
こう話すのだった、二人で。
そしてだ、亜季は愛美に言った。
「何かあるのかしら」
「定九郎に」
「ええ、それでね」
「ああしてね」
「いい役者さんが出ているのかしら」
「そうかもね」
「何しろ」
亜季は首を傾げさせて愛美にさらに言った。二人共まだ入社したばかりのOLで初々しい。歌舞伎も入社してから興味を持ったばかりだ。
「台詞一言でしょ」
「五十両ね」
「そう言ったらね」
「そこに猪が来て」
そしてというのだ。
「その猪と間違えられてね」
「撃ち殺される」
「それだけの役ね」
「そうでしょ」
こう愛美に言うのだった。
「それで何でああもね」
「いい人が演じるのか」
「それがね」
「わからないわね」
こう二人でだ、仕事の合間にお茶を飲みながら話していた。
そこにだ、二人より十年先輩の紙谷琴乃が来た。入社したてでまだ初々しさの残る二人と違い既婚者であるということもあり風格も備わっている艶やかな顔立ちだ。髪も色気を出す感じに長く伸ばしてセットしている。膝までのタイトスカートにベストとブラウスという制服も琴乃が着ていると色香がかなり前に出ている。
その琴乃にだ、二人は尋ねた。
「あの、先輩」
「お伺いしたいことがありますけれど」
「何、仕事のこと?」
「あっ、違います」
「今回は」
二人共仕事のことでよく琴乃に教えてもらっているがだ、今回は違うと返した。
「ちょっと歌舞伎のことで」
「気になることがありまして」
「歌舞伎ね」
歌舞伎と聞いてだ、琴乃は。
一呼吸置いてだ、こう二人に言った。
「私も好きだけれどね」
「そうですよね、ですから」
「お聞きしたいんですが」
「いいですか?」
「忠臣蔵のことで」
「忠臣蔵ね、あれはもうね」
忠臣蔵と聞いてだ、琴乃は。
まずは二人と同じテーブルに座ってだ、そのうえで。
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