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八神家の養父切嗣

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十三話:幸せとは


 ホテルの一室で切嗣は安物のソファの上に腰を下ろし、米神に指をあてる。
 繰り返される自身の過ち。何の罪もなく消えていく人々。
 耳にこびりついて離れない助けを求める人々の声。
 ふと気を抜くとその声が思い出されてしまう。

 ―――助けて。

 もし、叶うのならばその声に応えて救い出したかった。だがそれは衛宮切嗣には許されない。
 何でもない日常の場面であれば応えられるかもしれない。
 しかし、彼の仕事場(・・・)である戦場ではいつもそれ以上に優先することがある。
 命令を忠実に遂行することだけが彼に許されたこと。
 誰かを救えという命令が下されるのならば喜んで命すら捨ててみせよう。
 だが、いつだって彼が行うことは最小の犠牲を生み出すことだけだ。
 悲しみの連鎖を続けていくだけだ。

「……ごめんなさい」

 自然とその言葉が零れ落ちてくる。かつてであれば理想の為の犠牲だと割り切れた。
 必ず彼らの死は報われるのだと信じていた。だから謝ることなどなかった。
 しかし、そんなことは幻想だと気づかされた。それ故に謝り続ける。
 例え、これから先の行動で彼らの死が報われたとしても、見当違いの犠牲を強いられたことに変わりはない。
 だからこそ、彼は後悔と自責念を込めて謝罪の言葉を零してしまう。

「ごめんなさい……」

 そんなどこまでも弱く、今にも壊れてしまいそうな男を幸福の追い風は見つめていた。
 普段であれば彼女の前で弱音を吐くことはない。
 だが、今日の彼は彼女に気を使えない程に心身が弱り切っていた。
 一体何があったのかと心配になりリインフォースはゆっくりと切嗣に近づく。

「どうした、切嗣?」
「……また見捨てた。『助けてくれ』と縋ってきた人達を助けようともしなかった」

 切嗣は今にも泣きだしてしまいそうな子供のような声で告げる。
 思い出されるのは地雷で片足を失い物乞いをする者。
 ゴミを拾って売りその日の糧にする子供達。
 とにかく、この世の弱者の全てが集まったかのような町だった。
 切嗣は自身の仕事を果たすために彼らの前を通ってしまった。
 顔も名前も知らなくとも身なりから自分よりも裕福だと判断した彼らは切嗣に助けを求めた。
 
 彼らとて本当に助けてもらえると思っていたわけではない。
 それでも、何かに、希望に縋るより道がなかった。
 彼らの救いを求める声は切嗣の心に痛いほどに響いた。
 けれども、優先すべきこと為すために彼らを見捨てた。そこまでなら良かった。
 しかし、彼は為すべきことを為した後にあろうことかそこに戻ってきてしまった。
 自身が自由である時間だけでも誰かを救えればと思ったのかもしれない。

「もしも、僕が立ち止まっていれば…あの時助けていれば……やっぱり彼らは死なずに済んだ」

 しかしながら、そんな気の迷いは彼にさらなる絶望を抱かせたに過ぎなかった。
 せめて誰か一人でも助けられないかと再び訪れたそこに彼らはいなかった。
 いや、居るには居たが、皆―――息絶えていた。
 町には火が放たれ、弱きものは蹂躙され尽していた。
 限られた財を、糧を、奪う為に敗残兵が数の暴力をもって襲っていたのだ。

 無論、切嗣はそのことに対して灼熱のような憤りを抱いた。
 弱者を襲う者達を今すぐにでも撃ち殺して止めてしまおうかとすら考えた。
 だが、ふと気づいた。気づいてしまった。
 どうして“敗”残兵がこうも大挙して押し寄せているのかの理由を。
 簡単だった。衛宮切嗣が一方的な形で戦争が終わるように仕向けたからだ。

「戦争が終わったって争いが無くなるわけじゃない……当の昔に知っていたはずなのにね」

 敗残兵が犯した罪ですら彼に押し付けるのは余りにも酷だろう。
 しかし、彼自身の心は打ちのめされた。見捨てただけだと思っていた。
 けれども、真実としては彼が正義だとかつて思っていた行為は弱者への止めでしかなかった。
 本当に救われるべき、本当に救いたかった者達を地獄へ追いやっていたのだと今更ながらに突き付けられたのだ。

「少数を犠牲にして多数を救う。……ははは、言葉にすればどこまでも正しい。でも、あの光景を、人が人を喰らうのを見てもそう言えるのか?」

 今の今までそうした光景を見続けてきたにもかかわらず気づかなかった己を嘲る切嗣。
 何のことはない。敗残兵達は切嗣と同じ行為をしただけに過ぎないのだ。
 100人の敗残兵が30人の弱者から全てを奪い生き残った。
 それがどんなに残酷で悪辣極まりない行為だとしても、それは正しい(・・・)ことだった。

 そんな正しい(・・・)ことをしている彼らをどうして衛宮切嗣が断罪できようか。
 否、出来などしない。その行いの先端を走る人間が責めたところで笑い話にもならない。
 かつて、衛宮切嗣は大飢饉に襲われた人々が、人間を殺して食べる光景を見たことがある。
 その時はその行いを軽蔑し、もう二度とそんなことをしなくともいいように世界を変えようとした。

 もしも、その時にその行いは彼自身が行っていることの縮小版に過ぎないと理解できればよかった。
 多くの人間を生かすために一人を喰らう犠牲の分別。
 全ての命を等価に量り、より犠牲の少ない選択をする。
 驚くほどに衛宮切嗣の人生と一致する思考と行動。
 要するに、彼が行ってきた行為は人が人を喰らう食人となんら変わりがなかった。

「ねえ、リインフォース。世界はどうして……こんなに残酷なのかな?」

 おぞましいほどの下種で外道な行為が正しい(・・・)歪んだ世界。
 切嗣は苦悩のあまりにそんな世界への恨み言を零してしまう。
 この世界を創った神が存在するのだとしたら血飛沫や絶望が好みの悪辣な存在に違いない。
 だからこそ思う。もしも―――


「僕が神様だったら―――こんな世界は創らなかった…ッ」


 誰もが笑いあえる世界を創った。誰も傷つかない優しい世界を創った。
 仮にその世界が誰にも望まれない世界だというのならこの身は悪魔でいい。
 例え、悪魔だとしても自分はこんな血と絶望に満ちた世界など創りはしなかった。

「……切嗣」

 リインフォースは今にも泣きだしてしまいそうな切嗣の隣に座りそっと寄りかかる。
 突然のことに切嗣は驚いて目を見開き、リインフォースを見つめる。
 そんな切嗣に対して彼女は優しく微笑みを返す。

「泣いてもいいのだぞ」
「……そんな権利があるわけがないだろう」

 彼女の優しい言葉にも切嗣は何かを堪えるような表情をして首を振るだけである。
 数え切れぬほどの悲しみを生み出してきた自身が泣いていいはずがないと彼は思っていた。
 それが分かったためか彼女も少しだけ悲しそうに目を伏せる。
 しかし、それだけだ。決して離れはしないとでも言う様に彼の肩に頭をのせる。
 そのことに困惑する切嗣をよそにリインフォースは語り始める。

「世界は確かに冷たく、残酷だ。私もよく知っている」
「リ、リインフォース……」
「だが、それだけでもない。愛も奇跡も存在する。かつてのお前はそれらをどこまでも否定していたが、本当は全ての人がそういったものを受け取れる世界が欲しかったのだろう?」

 記憶が摩耗してしまう程に絶望の時を過ごしてきた彼女の言葉に切嗣は何も返せない。
 あれだけ否定し続けた。でも、原初の理想は否定したものが満ち溢れている世界だった。
 求めているのに否定していた。それがどんなに滑稽なことか、今になって理解する。
 矛盾した願いが叶えられるはずもない。最初から衛宮切嗣の理想は崩れ去る定めだったのだ。

「愚かすぎて理解できないよ……。どうして僕は矛盾に気づけなかったんだろうか」
「自身の姿を見るためには鏡が必要だ。そして、人にとっての鏡とは他者に他ならない」
「ああ……そうか。どうりで分からないはずだ。ずっと……一人だったからね」

 誰からも理解されないと心を閉ざして走り続けた。
 その間は心に迷いなど生じることなく走り続けられた。
 だが、誰とも理解し合えなかったためにその道が間違っているという指摘すらなかった。
 勝手に暴走して、勝手に道に迷って絶望しただけ、笑えるほどに自業自得だ。

「そうだな。だが、今はもう―――一人ではない」

 切嗣の体に温かく柔らかな感覚が広がった。まるで故障したかのように固まる。
 そして、ようやく頭が現状を理解する。自身は今抱きしめられているのだと。
 リインフォースからの暖かな抱擁を全身で受け止めているのだと。

「な、何をしているんだい? リインフォース」
「私が居る。お前の傍にいてやる」
「――ッ」

 声にならない程に小さく、短い悲鳴が切嗣の口から零れる。
 何も彼女が嫌いなわけではない。寧ろ親愛の念を抱いていると言っていいだろう。
 だからこそ、彼は悲鳴を上げる。自身のせいでまたも誰かが不幸になってしまう可能性に。
 どうしようもない自分の為に幸せを投げ捨てようとする彼女の行為に。
 何よりも恐怖する。

「何を言っているんだ、リインフォース! 君ははやての元に帰るんだろう。もうこちらの目的は達成されたんだ。僕に気を使う必要なんてない。そうだ、今すぐにでもはやての元に連れて行こう」

 まるで怒鳴りつけるように言い返す切嗣の姿にもリインフォースは一切動じない。
 それどころか楽しそうな表情で見つめ返すばかりである。
 困惑する切嗣の耳元に彼女は淡い桃色の唇を近づけてハッキリと告げる。


「嫌だ」


 その言葉に呆気にとられ間抜けな表情になる彼を見て、彼女は少女のように笑う。
 まるで悪戯に成功したかのような無邪気な笑顔に毒気を抜かれながらなんとか彼は声を絞り出す。

「……契約だとはやての元に帰るはずだっただろう」
「いいや。契約は身の安全の保障、目的の達成後の自由、そして人間としての幸せを教えることだ。つまり私がどこに居ようとも自由だということだ」

 本当に今まで言ったことは全て覚えているのかスラスラと読み上げる彼女に彼は頭を抱える。
 確かに彼女がどこに居ようとも自身に止める権利はない。
 しかし、自身の傍となれば人間としての幸せを得られるはずがない。
 何としてでも踏み止まらせようと考え、ため息と共に口を開く。

「それだと三つ目の人間としての幸せが満たせないだろう。やっぱり君ははやての元に帰るべきだ」
「確かに主と騎士達と共に過ごすのは幸せだろう。しかし、それ以上に私が幸せを感じることがあるのならばそちらが優先されるのではないか?」
「お、おい、リインフォース?」

 立ち上がり、肩を掴むようにして顔を近づけてくる彼女に切嗣は慌てふためくしかなかった。
 ルビーのような美しい瞳が彼を捉えて放さない。
 まるで、宇宙にでも吸い込まれるような感覚を感じ切嗣は動くに動けない。

「様々な形の幸せを見続けた結果、私は辿り着いた。私の幸福は―――お前の傍に居ることだ」

 二年余りの時を共に過ごした果てに彼女が得た答え。
 それは衛宮切嗣の頭を真っ白にしてなおも痛めつける程に威力があった。
 これだけはあってはならなかった。絶対に人を幸せにできない男の傍に居ることを選ぶなど。
 決してあってはならなかった。だというのに、彼女は選んでしまった。
 この世で最も過酷な道そのものに幸福を見出してしまった。
 余りの絶望感に切嗣はがっくりとうなだれてしまう。

「……どうしてだい。どうしてそんな碌でもない道を選んだんだい? 全ての幸福から背を向けて。全ての悲しみを飲み干す道を、どうして選んでしまったんだい?」
「切嗣……お前は鈍感なのか? そうでないのなら私も少し怒るぞ」

 切嗣がこの期に及んで理解しようともしないことに少し眉を寄せるリインフォース。
 対する切嗣と言えば、何を言っているのかが分からずに彼女を見上げる。
 そう言えば今の彼の自己評価は最低を通り越してマイナスに行っていたのだと思い出して彼女は少しため息を吐く。
 リインフォースは埒があかないのでストレートに言ってしまう。


「簡単なことだろう。私は一人の女性として―――お前を愛しているからだ」


 少しばかり恥ずかしかったのかほんのりと頬を染めるリインフォースとは対照的に切嗣の表情はまさに顔面蒼白といったものだった。
 それもそうだろう。彼を誰かが愛するということは。彼が誰かを愛するということは。
 ―――最後には愛する者をその手にかけなければならないということなのだから。

「……ダメだ。君は僕を愛してはいけない」
「『僕は契約通り、君が人としての幸せを見つけ出すまでの手伝いをする。それが、僕の思い描く幸福と違っても止める権利はないから安心してくれ』確かお前はこう言っていたが?」
「違う…っ。違うんだ! こんな僕に君を愛する資格も愛される資格もあるものか!」

 頭を左右に振り、必死に否定の言葉を言い続ける。
 しかし、それは彼が彼女の愛を拒むだけの理由とはならない。
 故に彼女は微動だにせず彼を見つめ続ける。

「だって、僕は必要になれば、名も知らない誰かの為に……愛する君を殺してしまうッ!」

 だから、自身には愛する資格も権利もないと続けようとしたところで彼女に頬を撫でられる。
 そして、自覚する間もなく一つ、どこまでも慈愛に満ちた口づけをされていた。
 呆然とする切嗣をよそにリインフォースは聖女のような笑みを向ける。


「それでもいい、それでも構わない―――お前を愛せるのなら」


 その言葉に感じたこともない感情が切嗣の胸の中に沸いてくる。
 自然と彼自身も気づくこともない柔らかな微笑みが零れる。
 彼はもうこれ以上言っても無駄だと悟り、柔らかな声を出す。

「とんでもない愚か者だ……君も、そして僕も」
「そうだな。私達はとんでもない愚か者だ」

 二人で笑い合いながら切嗣は立ち上がる。
 そして、ゆっくりと、不器用に、リインフォースを抱き寄せる。
 お互いの心臓の鼓動と体温を感じながら彼は少し冗談交じりに呟く。

「僕の完敗だ、リインフォース」
「ああ、そして……私の勝利だ」

 そんな切嗣に対してリインフォースは幸せそうに頬を緩めるのだった。
 この先に新たな絶望が待ち受けているのだと知りながらも。
 
 

 
後書き
ケリィを愛した女性はみんな……。誰か大河並みの幸運をリインさんに。 
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