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海牛

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1部分:第一章


第一章

                     海牛
 オホーツク海とベーリング海の間の広い海。凍て付いたこの海に今一隻の調査船があった。乗っているのは日本人とロシア人だった。彼等はこの海の生態系の調査でここに来ていた。
 黄色い肌の小柄な者達と白い肌の大柄な者達がそれぞれオレンジの救命胴衣を着けて船の上にいる。そうしてあれこれとォ折が漂う海を見回しながら話をしていた。
「ラッコはどうですか?」
「そうですね。今のところはまだ」
 大柄で眼鏡をかけた青い眼の男に黒髪を後ろで束ねた切れ長の目の妙齢の女が答えている。外見から男がロシア人であり女が日本人とわかる。
「見かけませんね」
「この辺りにはいませんか」
「はい、もっと南です」
 女ははっきりとした声で男に答えた。氷があちこちに漂う海の上を調査船が静かに進んでいる。その船の甲板から海を眺めながらの言葉だった。
「この時期ラッコがいるのは」
「だといいのですがね」
 男はそれを聞いてまずはいぶかしむ目になった。
「それですと」
「ラッコがいなくなったと思われているのですか?」
「その危険は否定できないでしょう」
 彼は流暢な日本語で女に対して語った。
「最近この辺りも生態系が壊れてきています」
「それは確かに」
 彼女もまたその言葉に頷いて答えるのだった。その強く端整な目の光を曇らせて。
「特に近年は」
「漁師達だけの問題ではありませんからね」
 男の言葉が次第に曇ってきた。鉛の色をした如何にも冷たそうな海を前にして。
「やはりこれは」
「地球規模のですね」
「その通りです。もっともそれを調べる為にここに来たのですが」
「はい」 
 女はあらためて男の言葉に頷いた。
「その通りです。私達は」
「大山田さん」
 男は彼女の名前をここで呼んできた。
「貴女もやはり近年のこの海が危機にあると思われていますね」
「その通りです」
 今度もはっきりとした言葉だった。
「これは。かなり」
「ラッコだけではありませんからね」
 男の言葉はさらに続く。憂いもまた。
「セイウチもトドも。かなり」
「魚もまた減っています」
「何もかもが減っています」
 彼はこう言って海を見る。今彼等の目の前には何の生き物もいない。その鉛色の海と白い氷があるだけだった。空もまた鉛色で暗く沈んでいる。オーロラさえ見えそうだった。
「ここでは」
「では今回もまた」
「でしょうね。報告は悲観的なものにならざるを得ません」
 暗い顔でその大山田に述べた。
「残念なことですが」
「ヴィシネフスカヤさん」
 今度は大山田が彼の名前を呼んできた。
「何でしょうか」
「一旦中に戻りましょう」
「中にですか」
「はい、交代の時間になりました」
 こうヴィシネフスカヤに言うのだった。
「ですから後は交代のペアに申し次をして」
 ここに来ているのは彼等だけではない。日露の学者達がこの調査船に乗り込み調査に当たっているのである。丁度その海の調査の時間の交代となったのである。
「それで後は」
「中で休みますか」
「ウォッカが待っていますよ」
 大山田は静かに笑って彼に述べた。
「ですから」
「ウォッカですか」
「ここに居続けていればそれだけ身体を冷やしてしまいます」
 また彼に言う。
「ですから。休憩の時はやはり中で」
「ウォッカで身体を暖めると」
「食事もありますし」
 ここでは少し笑みが深くなった。
「それで一息つきましょう」
「そうですな」
 ヴィシネフスカヤも笑顔になった。あまり深刻な顔のままでいるのにも疲れたのだろうか。その顔に綻びが入るとそれで話が進むのであった。
「ではそういうことで」
「それでは」
 こうして二人は船の中に入った。船の中にはベッドや小さなテーブルに船体にそのまま付けられた椅子といったシンプルな生活用具がある。そこに三人程度詰めている。二人は階段でそこまで降りたのだ。すると二人は残っていたその面々に手を振られて声をかけられたのであった。
「おかえり」
「御飯ね」
「ええ、そうよ」
 大山田がにこやかに笑って彼等に答える。やはりそこにいるのもロシア人と日本人だった。彼等はそれぞれの手にパンや酒を持って楽しくやっていた。
「ウォッカあるわよね」
「あるよ。ほら」
 金髪の若い女性が二人に瓶を出してきた。透明の酒がそこにある。
「ピロシキもあるわよ」
「缶詰めもな」
「鯨あるかしら」
 大山田はにこりと笑って彼等に言ってきた。
「鯨の缶詰めも持って来てる筈だけれど」
「ええ、これね」
 その若い女が早速テーブルの下から出してきた。日本語と鯨のイラストが目につく。
「そうそう、それそれ」
「どうぞ。それにしてもこれって」
「何?」
「結構美味しいわね」
 にこりと笑って大山田に答えてきた。
「鯨って」
「そうでしょ。ロシアでは鯨は食べていいのね」
「ロシア人は他人が何食べようと文句は言わないわよ」
 彼女はこう大山田に述べるのだった。
「アメリカ人とは違うわ」
「そうね、それはね」
 ロシア人の美徳の一つでもあろうか。大山田もその言葉を聞いてまた笑みを浮かべる。
「有り難いわ」
「じゃあゆっくり休んでええ」
「二人共今日はこれで終わりよね」
「ああ、そうだよ」
 ヴィシネフスカヤはもう座っていた。そこで受け取ったウォッカの瓶を開けながら答えている。やはりウォッカが好きらしい。にこにことした顔になっている。
「我々はね」
「じゃあ後はしこたま飲んで寝るだけね」
「ウォッカってあれよね」
 大山田も椅子に座る。そこで彼女もウォッカの瓶に手をかけていた。
「ちょっと飲んだらそれですぐ寝られるのよね」
「そうかな」
 だがヴィシネフスカヤはそれには懐疑的な顔を見せるのだった。もうウォッカをガラスのコップにこぽこぽと入れている。そのままストレートで入れている。
 
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