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アニー

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4部分:第四話


第四話

 ボストンに帰ると次の日から仕事に復帰した。早速仕事が一つ入っていた。
「この男の弁護ですか」
「そうだ」
 所長は彼に一枚の顔写真を見せてそう答えた。写真には品のよさそうな老人が映っていた。
「妻への殺人容疑で裁判にかけられている。彼の弁護を頼みたい」
「わかりました。ですが一つ気になることがありますね」
「何だね」
「彼が殺人をおかしたのですか」
「そういうことにはなっているな」
「そうですか。私がみたところそんなことをするような人物には見えませんがね」
「君はこうした仕事にはあまり関わってはいなかったな」
「ええ、まあ」
 彼は答えた。
「あまり。弁護といっても殺人とかはしたことはありません」
「だからだ。殺人というものはな、誰でもおかす可能性があるものだ」
「驚かさないで下さいよ」
「いや、これは本当のことだ」
 彼はそう断ったうえで言葉を続けた。
「君だって今まで誰かを憎いと思ったことはあるな」
「ええ、まあ」
 それに頷いた。三十年以上生きてきて誰かを嫌いになったり憎んだりしないで済むということはまず有り得ないのではないかとさえ思えた。
「殺したいと思ったことはあるな」
「否定はしません」
 これも思ったことがない者はまずいないだろう。それにも頷いた。
「ではそれだけで充分だ。誰かを殺すにはな」
「そうなのですか」
「そうだ。だが彼が本当に殺したかどうかは別問題だ。そして」
 また言った。
「例え彼が殺人を犯していても、そして君が心の中でどれだけそれを許せないとしても我々は彼が救われるよう最大限の努力をしなくてはならない。いいね」
「わかりました」
 それが弁護士の宿命であった。例えどの様な凶悪犯であってもその命と人権の為に立たなければならないのだ、因果といえば因果な商売であった。
 彼は早速仕事に取り掛かった。まずは証拠を集め、依頼人と話をする。依頼人は容疑者自身であった。
「では貴方は無実だと仰るのですね」
「はい」
 彼は拘置所のガラスの向こうでそう言って頷いた。
「私は妻を殺してなぞいません」
「わかりました。では奥さんは何で死んだのでしょう」
「あれは事故でした」
 彼はそう答えた。
「事故」
「はい。妻はかなり前から不眠症に悩まされていまして。それでずっと睡眠薬を飲んでいたのです」
「ですがそれは貴方が買って来た薬なのですよね」
「ええ、まあ」
 彼はそれを認めた。見れば目の光も穏やかで顔付きも優しげだ。やはり人を殺すようには見えない。
「しかし私は妻にはあまり飲み過ぎるなと忠告していました」
「ふむ」
 ヘンリーはそれを聞いて考え込んだ。
「ではあれはあくまで事故であったと」
「私の家族は今では妻だけです。その私がどうして殺す必要がありますか」
 その声が大きくなった。
「弁護士さん、私を信じて下さい。私は無実です」
「わかりました」
 形式的な言葉であるがそれに応えた。
「貴方は必ず私が救い出してみせましょう。いいですね」
「有り難うございます」
 これでその場は終わった。彼は事務所に戻り別の仕事に取り掛かった。今度は今回の裁判で選ばれた陪審員達に関する資料である。十二人分の資料が彼のデスクの上に置かれていた。
 彼はそれを見ていた。一人一人の経歴や癖、考え方等まで書かれている。彼はそれを見ながら考えていた。今後の裁判の進め方を。
「どうだね、進み具合は」
 所長が資料に目を通しているヘンリーに声をかけてきた。
「順調といっていいですね」
 彼はそれに顔を上げてそう答えた。
「陪審員にもおかしな人物はいないようですし。容疑者にも殺す動機は見当たりません」
「ふむ」
「おそらく無罪を勝ち取れるでしょう」
「それはいい。だが一つ不思議なことがないかね」
「不思議なこと」
「この事件に関してだ。何か思うところはないかね」
「そうですね」
 彼はそれを受けて考え込んだ。
「彼の妻の遺体の解剖結果を見てみますと」
「ふむ」
「明らかに致死量の薬を飲んでいます。それまでとは全く違った量で」
「自分で飲んだのかね」
「そうですね。飲んだ時間と死亡時間を考慮しますと。口の中も乱れた形跡はありませんし」
「間違っても容疑者が無理矢理飲ませたというわけではないのだな」
「検死結果を見る限りそうですね。私はそう思います」
「では自殺ということになるな」
「ですかね」
 彼はそれを聞いて首を捻らせた。
「そう判断するにはまだ証拠が揃ってはいないと思いますが」
「容疑者の妻は長い間不眠症に悩まされていたそうだが」
「はい」
「他にも病気はなかったか」
「あっ」
 ヘンリーはそこに気付いた。
「それも不治の病とか。それなら自殺の理由がわかるな」
「病気を苦にしての自殺、というわけですか」
「そういったラインからも考えていった方がいいかもな。どうだ」
「わかりました。調べてみます」
 彼はそれを受けて容疑者の妻のことに関しても調査を続けた。そして病院で予想通りのことがわかったのであった。
 容疑者の妻は癌であった。それも末期の。何年もそれで苦しんでいたらしい。
 これで決まりであった。彼は陪審員達にそれを言い、資料を持って裁判に挑んだ。その結果見事無罪を勝ち取ったのであった。
 これで彼の名はあがった。拍手の中裁判所を後にしようとするところで彼を呼び止める声があった。
「やるじゃない」
 それは女の声であった。低く、何処か知的な印象を受ける。見ればそこにグレーのスーツとスカートに身を包んだブロンドの女性が立っていた。黒縁の眼鏡もかけている。
「君は」
「貴方の同業者よ」
 彼女は笑ってそう答えた。
「キャスリン。キャシーって呼ばれてるわ。ニューヨークでやっているの」
「そのニューヨークの弁護士さんがどうしてここに?」
「たまたま出張でね。ここでちょっとした訴訟の弁護をしていたのよ」
「へえ」
 アメリカは訴訟社会とさえ呼ばれている。それを専門に取り扱う弁護士も多い。あまりにも訴訟が多いので訴訟産業とさえ皮肉られている程である。
「それが終わって傍聴席で見ていたのだけれど。上手くやったわね」
「上手くやるのが僕達の仕事じゃないか」
 彼は笑ってそう答えた。
「そうじゃなきゃ食べていけなくなるよ」
「面白いことを言うわね」
「君だって同じだろ」
「その通りよ」
 彼女はそれを認めた。
「どうやら貴方とは色々とお話して楽しいことがるようね」
「告白かい?」
「そんなところよ。どう、この後カフェでも」
「ニューヨーカーは積極的だね」
 今度はボストンの者としてそれに応えた。
「こんな田舎町じゃ考えられないよ」
「ニューヨーカーはね、何でも積極的なのが信条なのよ」
 眼鏡の奥の青い目を光らせてそう言う。
「じゃあ決まりね。仕事が終わったらこの裁判所の前で」
「もう少しムードのある場所がいいんだけれど」
「じゃあ球場の前で。いいかしら」
「今日はヤンキースは負けるよ」
 彼はそれを聞いてニヤリと笑った。
「レッドソックスにね」
「強気ね」
「今のレッドソックスには何処も勝てはしないさ」
 今連勝街道をひた走っているところであった。こうなった時のレッドソックスは誰にも止められないのである。昔から熱狂的なファンが多い理由はそこにあった。色々と不運なことも起こったりする球団であるがそのドラマティックさが印象的な球団なのである。
「あら、ヤンキースだって今調子がいいわよ」
 どうやらキャシーはヤンキースのファンらしい。ヘンリーはそれを感じて内心ムッとした。
「今シーズンは優勝かしらね」
「それは今ここで僕達が言ってもはじまらないね」
 彼は憮然としてそう答えた。
「球場でそれははっきりするよ。レッドソックスが勝ってね」
「じゃあ球場でそれをはっきりさせましょう」
「望むところ」
 こうして彼は仕事の後キャシーと球場でデートをすることになった。デートといっても彼は不機嫌であった。何しろ相手は憎きヤンキースのファンなのであるから。
「なあアニー」
 彼は車に乗りながらアニーに語り掛けた。
「ヤンキースってのはなあ、あんなのは野球じゃないんだよ」
 彼のヤンキース嫌いは相当なものである。それを裏返すとそのままレッドソックスへの愛情となる。同じリーグ、地区にいるだけに憎しみは尚更であった。
「思いきり叩き潰すべきなんだよ。あんなオーナー永久追放になっちまえ」
 実は選手達はそれ程嫌いではない。よくレフトを守っているいかつい顔の日本人はわりかし好きである。最初顔を見た後で年齢を聞いて驚いたものだが。
「あれが二十代の顔か」
 そう思ったものだ。まるで日本の映画大魔神のようだと思った。シアトルには本当にそんな仇名の日本人選手がいたと聞いているが実は彼はそちらはよく知らない。
 ちなみに彼の大嫌いなそのヤンキースのオーナーは二度程永久追放になっている。コミッショナーと衝突することも多い何かとお騒がせの人物なのである。だが少なくとも彼は野球が好きではある。
 だから最低限の許容範囲にはあった。ヘンリーの心の中では。悪態をつきながらも試合を楽しみにしていた。当然レッドソックスが勝つものと信じて疑ってはいなかった。
 時間が来たので球場に向かった。アニーのハンドルもブレーキも絶好調であった。彼はそれを確認してさらに上機嫌になった。
「御前もレッドソックスの勝利を願っているんだな。当然だよ」
 ヘンリーは上機嫌でまたアニーに声をかけた。
「今日勝って一気に突き放す。そして優勝だ」
 優勝について考えるだけで頭がとろけそうだった。勝利に沸き立ち、抱き合う愛する選手達のことを思うとそれだけで頭が一杯になる。優勝と選手達と共に味わうあの一体感程素晴らしいものはない。少なくともいつも優勝して当たり前といったヤンキースのファンにはわからないだろうと思っていた。


 
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