無人列車
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1部分:第一章
第一章
無人列車
「やれやれだな」
伊豆並隆之はかなり疲れた顔で駅のホームにいた。周りには誰もいない。
「ったくよ、何でこんなに遅くなったんだ?」
そしこう言ってぼやくのだった。今は十二時前だ。終電の時間である。
「残業っていっても限度があるだろうがよ」
ぼやきは続く。明らかに疲れきった顔である。
背はかなり高く細面で痩せた頬をしている。一重のやや切れ長の目が鋭い。黒い髪を伸ばし鬣の様にもしている。仕事は医者である。
その彼がだ。ぼやきながらホームに立って最終電車を待っている。言うまでもなくこれから家に帰るのであった。
「医者って何でこんなに辛いんだ?」
こう言ってまたぼやく。
「朝から真夜中まで仕事ってよ。どうなんだよ」
医者はハードワークである。過労死も多い。彼も過労を感じていた。その中でぶつくさと言っているのだ。
家に帰っても今は彼女も妻もいない。堂々たる独身だ。
その独身主義者の彼が今家に帰る。しかもである。
「明日も仕事か。朝も早くからな」
とにかく仕事仕事だった。疲れを感じながらだ。今行くのであった。
そうして電車が来てそれに入る。電車の中は今は誰もいない。
その中の席に座って疲れた顔で沈み込む。後は家の最寄の駅に帰るだけだった。
「もう飯は食ったし」
病院での夕食だ。簡単なコンビニ弁当である。最近は朝から晩までコンビニ弁当でこのことにも内心かなりうんざりとしていたりする。
「シャワー浴びて寝るか」
それを考えるだけだった。本当にそれだけだ。疲れていて他のことを考える余裕もなかった。とにかく疲れていて仕方がないのだ。
それで沈む込む様にして座り込んでいるとだった。不意に何かが見えてきた。
「んっ!?」
最初は目の前にだ。それが見えたのだ。
何かと思って見るとだ。それは透き通っていた。
「透き通る?っていうか」
そのことにいぶかしみながらさらに見るのだった。
そしてだ。彼は顔をあげながらあることを思い出した。それは。
「俺だけだろ?」
今電車の中にいるのはだ。このことを思い出したのだ。
それはホームで待っている人間が彼だけだったことからも明らかだ。それは見ていたし見間違えようもなかった。それを思い出したのだ。
しかし今確かに見た。しかもだ。
また出て来た。それは。
「女の人か?」
右手の車両から出て来たのだ。白い服を着た美女だ。
黒く長い髪で肌は白い。その美女はすうっと出て来たのだ。
そしてだ。次は腰の曲がった老人、その次は小さな子供。そうした相手がどんどん出て来てそのうえで彼の前に出て来たのだ。
次から次に出て来てそれが続く。挙句には百人は見た。終電にいるような数ではなかった。何しろ小さな子供までいるのだ。有り得なかった。
「疲れてるのか?」
このことを真剣に思った。
「過労か、やっぱりな」
最初はそう思った。しかしであった。
次の日も終電でその次の日もだ。彼は毎日それを見たのだ。
あまりにも毎日見るのでだった。職場の先輩に話した。若村浩成という。浅黒い肌に細い切れ長の目をした痩せた男である。顔付きも痩せて鋭く見える。髪は黒でそれを左右に分けている。背は隆之程高くはないがそれでも一八〇ある。
彼もまた医者である。その彼に話したのだ。
「終電に出る?」
「そうなんですよ」
職場で話をする。やはり今日もコンビニ弁当だ。これは隆之も浩成も同じだ。違うのは隆之が鮭弁当で浩成はハンバーグ弁当だ。それだけの違いしかない。休憩室で二人で食べている。
「最初は疲れかって思ったんですけれどね」
「ここんとこ忙し過ぎるからな」
「ええ、それでもですよ」
また言う隆之だった。
「普通毎日そんなの見ませんよね」
「普通はな。薬でもやってないとな」
「それはしていないですから」
「なら有り得ないな」
「ええ、それどころか最近飲む暇もないですから」
連日朝早くから終電まで仕事だ。それで飲める筈もなかった。
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