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鋼殻のレギオス IFの物語

作者:七織
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二十一話

 
前書き
 糸繰り人形(マリオネット)は元気に動きます。
 手を振り動かし、地を蹴り、元気いっぱいに動きます。
 口の端をあげ笑い、足を回し地を駆けます。
 もう大丈夫だと。
 自分は耐えられたと。
 自分の意志で動いていると宣言するように走り口を開き手を振り光のない目で口だけで笑います。
 
 その腕には糸があります。
 その足には糸があります。
 その口には糸があります。
 その頭には糸があります。
 至る所に糸がくくりつけられています。

 糸が踊るのと同時に立ち上がり人形は踊ります。
 楽しそうに嬉しそうに踊ります。自分の意志で立てたのだと嬉しがるように。
 糸につり上がられ、とても楽しそうに口端が上がっています。
 
 見えない糸に操られ、その糸に気づけないまま人形は自分で動けていると思い続けます。
 だって、心が楽なんだ。考えなくていいから。
 だって、動きが楽なんだ。無の声に従えばいいから。
 自分で考えて動いているんだ考えて立ち直ったんだだってだって辛さが薄くなったんだ立ち上がるのが楽なんだ前を向けている皆見てくれる受け入れてくれる歩ける杖がある辛さを受け入れてくれた闇が薄まったんだ理解して肯定してくれたんだ間違ってないんだ約束したんだまた■■って相手になるって自分は成長したんだ成長したはずなんだ自分で思ったじゃないか答えを出したはずじゃないかなら自分で前に進めたじゃないかあの■に憧れに手を伸ばすって■■に追いつくって決めたんだだから立ち上がったじゃないか歩かなきゃいけないんだ答えなきゃ■いに答えなきゃなら■を握らなきゃ握れなきゃ■に意味なんてああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ―――――!!!

 




 しばらく先に手がありました。
 いずれ人形は気づけるか、気づけないかの堺。
 握ってくるのを待っているようにそっと出された手。
 きっと握ってくれると信じているような手。

 引きずり込まれる。そう思いました。
 引き上げられる。そう感じました。

 だらんと出された一本の手。
何の支えもないのに確かにある手。
もしかしたら支えがいるのかもしれない。支え合う何かが要るのかもしれない。
糸を張り詰めれば指先が届く。引き込まれれば糸はもう届かないだろう。
掴めば確かに引き込まれると信じられてします。
そんな境に手が、確かにあるのです。


 

 
「銅の酸化式は2Cu+O2=2CuO。鉄が2Fe+O2=2FeO。……金属は一つなんだ。二酸化炭素はC+……ああ、そのまんま二つなんだ」

 へーと思いながらレイフォンはペンを握る手を動かす。
 
「銀はAg+……Ag2? え、あれ? 二つ?」

 疑問に手が止まる。
 二つ。そう二つなのである。
 他の金属は一体一だというのに可笑しい。まさか銀は金属ではなかったのか。ならば衝撃の事実だ。
 つい手を止めたまま後ろの幼馴染の方に体が向く。

「ねえリーリン。銀って金ぞ―――」

 バシィィィン!!
 突如乾いた音が空気を震わせレイフォンの振り向きを止める。
 レイフォンは机の上、手元のすぐ傍に振り下ろされた音源に笑顔が止まる。

「ただただ書きなさいって言ったわよね……?」

 暗い、聞くだけで心が怯えるような声でリーリンが言う。
 その顔にいつものやらかい笑顔はない。無感情な、諌めるような、憐れむような、そんな表情だ。
 分かりやすく端的に言うならバカを見る目だ。

「え、いやでも……」
「言いたいことは分かるわ。でもそれ合ってるから。手、止めちゃダメでしょ?」

 片手でハリセンを弄びながらリーリンが言う。

「レイフォンは理解できないんだから頭じゃなくて体で覚えるしかないの。書いて書いて書いて体で覚えなきゃ。疑問を挟んじゃダメなの。考えても分からないでしょ? 考えるよりも早く言えるようにしなさい。頭で思うより先に手が書くようになるまでしなきゃ。……ほら、手、止めちゃダメよね……?」

 優しく、けれど強い圧力を持った言葉にレイフォンは何も言えない。
 逆らっても無駄だと分かっているのだ。
 それ以前に何か言おうとしても口から出ないのだが。

 突如リーリンが言う。

「水酸化ナトリウムの燃焼で発生する物質は?」
「え? えーと、その、確かえーと、あー、ナトリウムと……」
「酸化銅の化学式は?」
「ふふん。Cu2O!……あれ?」

 ふふ、とリーリンが笑う。

「ほら、余計なこと考えたから間違えちゃった」

 ビシビシビシビシハリセンを手で叩きながらリーリンが優しく言う。

「何も考えちゃダメよ。手を動かしなさい。ひたすらに書かなきゃね。……ほら、まだノートは百ページ以上ある。今までの後三十回は繰り返せるわよね」
「えっと、リーリンそれは……」
「ああ、足りないわよね。大丈夫。買っておくから」
「ちょっと手が疲れてきたなー、何て……はは」
「なら教科書を読みましょう。太い字のところだけ最低でも百回は読むのよ」

 ひたすらにリーリンは佇む。
 労力自体は大したことないはずなのにレイフォンは手が震えそうになる。
 ずっとやってこなかったことなのだ。何が書いてあるのか正直良く分からない。
 確かに書いて丸暗記以外に方法はないだろうと自分でも思えてしまう。
 だがただひたすらに同じことを書いていると精神が不安定になりそうだ。
 直ぐにでも逃げ出したい。
 
 リーリンの視線にレイフォンはペンを取る。
 辛い、辛すぎる。
 そもそもAgって何だ。銀でいいじゃないかこのやろうくそう。
 ふと後ろを見ようとするとブゥンと風切り音が聞こえる。
 リーリンがスイングしているのだ。
 黙ってレイフォンは手を動かす。
 心が摩耗していくのを感じながらひたすらに同じことを書き続けていく。
 まるで機械だ。心があるから辛いのだ。
 そう思いレイフォンは思考を放棄する。
 自分は機械だと念じて手を動かす。

「後でテストしてダメだったとこはもう百回書いてもらうわよ」
「……」

 ああ、機械になりたい。
 そうレイフォンは思った。









 カリカリカリカリとペンが動く音だけが部屋に響く。既にリーリンも特になにもせず立っているだけだ。
 精神が死にかけているレイフォンはふと手を止め息を吐く。
 手元に一極化させていた集中を緩ませ意識を拡散させる。
 広がる感覚(せかい)の中、それまで敢えて無視し今の今まで忘れていたそれを感じてしまう。
 自然、気が堕ちかける。

「気にしちゃダメよ。……って言っても無理よね」

 様子に気づいたリーリンが言う。
 レイフォンに対しての優しさと現状への悲しさを混ぜた自嘲気味な声がそれへの思いを語っている。
 小さく首だけレイフォンは振り返る。リーリンも咎めない。
 それは視線だ。
 振り返った先、部屋の扉部分。幾人かの弟たちがこちらを覗き込んでいる。
 誰一人そこから中へ入ってこようとしない。見る視線からは忌避の感情が伝わってくる。
 レイフォンの視線に気づいた弟たちは直ぐさま去っていく。その勢いで扉が音を立てて締まる。
 
 ずっとこんな距離感が続いている。
 弟たちからは避けられ、声をかけられることも少ない。
 もっとも最初に比べればずっとマシになったほうだ。少なくとも夜部屋に一人で寝ることはなくなった。世間の反応も下火になり、露骨な嫌がらせはなくなった。壁の落書きも次の日にはなくなっていた。リーリンがハリセンを振り回すなんてテンションが少し高いのもその為だろう。
 だがそれでもゼロに戻ったわけでは当然ない。
 変わらず、といっていいのか分からないが孤児院の中で今でも普通に話しかけてくれるのはリーリンとアイシャ。それと口数は減ったがデルク。
 院を出た上の年代の者は事情にある程度の理解があるのだろう。院に来た際に話してくれるがそもそもそこまで来ない。
 自然、レイフォンは孤立する。そして程度の差はあれレイフォンを擁護する側のリーリンたちも。

「あんな風に見られっぱなしじゃやりづらいわよね」

 勉強している時は大体あの視線にさらされている。一日だけならいいがそれが積み重なれば現状を突きつけられる様で心に来るものがある。
 
「もう一人いれば気が紛れるんでしょうけど……アイシャはどこ行ったのよ。あの子も受けるんでしょ?」

 呆れたようにリーリンが言う。
 レイフォンとは別のもう一人の受験者を心配してのことだ。

「何でも探し物があるんだってさ」

 レイフォンがアイシャから聞いたことを言う。

「探し物って……ハァ、そんなに大切なものなの?」
「僕は知らないよ。でも、もう少しで終わるって言ってたから大丈夫だと思う」
「そう。まあ、レイフォンとは違って勉強のこと余り心配いらないから大丈夫よね」

 リーリンが言う。それにはレイフォンも同感である。
 アイシャは学力が高い。暇があればよく本を読むし、教科書の類も読み自分から進んで学習をしている。

「この間見たら何か難しそうな本読んでたし、理解不能だったよ」

 レイフォンからしたらあの学習意欲がどこから湧いてくるのか不思議だ。なにか駆り立てる理由でもあるのだろうか。
 
「頭良くっていいなあ。僕もそうだったらこんなに苦しまなくって済んだのに」
「レイフォンはそれ以前に勉強してないからよ。……それに私のが苦しいって言うならそっちに頼んだらいいじゃない」

 リーリンがぶっきらぼうに言う。
 そんなリーリンに戸惑いつつレイフォンは言う。
 
「それがさ、この間頼んでみたんだよ。簡単に点が取れるような方法ないかって」
「頼んだんだ……ふうん、そうなんだ」
「でさ、そしたら次の日小さい紙くれたんだ。なんだと思う?」
「……何よ」

 その時を思い出すようにレイフォンは言う。

「カンニングペーパー。細かい字で要点が書いてあった。袖に入れる用とか消しゴムに仕込む用とかで数枚」
「……それは、その」
「何か、ちょっと悲しかったよ」
「多分、誤解しただけなのよそれは。あの子そういうところあるから。だからレイフォンがどうとかってわけじゃ……ね?」

 確かに言い方で誤解されただけの気もする。
 ズルでもしない限りお前には無理だ、と暗に宣言されたと思うよりはマシだ。もしそうだったら悲しすぎる。

「まあそんな話はともかく。どうする? 場所変えたほうがいい気もするけれど」

 リーリンのその言葉にレイフォンは少し考える。

「図書館とか?」
「ダメよ。人目が多いとこは避けたほうがいいわ。移る意味がないもの」

 身内の目が、大多数の他人の目に変わるだけだ。今より拒絶的な感情をぶつけられる可能性も高いだろう。

「あるとしたら姉さん達の家をちょっと使わせてもらうとかどう?」
「迷惑かからないかな」

 自分が行くことで院を出た家族が周囲から避難の目で見られるようなことがあれば嫌だ。
 レイフォンの考え過ぎかもしれないが、それでもあの日からの事が払拭しきれず考えてしまう。
 それに、今の自分の立場を思えば暫く院から身を離した方がいいとも思う。
 養父は院の責任者の立場を降り道場へと移ることを考えているという。自分もここから離れたほうがいいかもしれない。

「なら、どうするのよ?」

 リーリンの言葉に合わせたようにタイミングよくノックの音が響く。
 
「こんにちは。様子見に来ました」

 扉を開けクラリーベルが部屋に入ってくる。そしてそれに続いてアイシャも中に入ってくる。

「そこで会ったから、一緒に来た」

 アイシャがレイフォンたちに向かって言う。

「勉強進んでる? 余り時間ないよ」
「アイシャさんから聞きましたが酷いらしいですね。手止めなくていいですよ」

 クラリーベルは机の上の教科書に手を伸ばし軽く目を通す。

「あー、この辺りですか。ですがまあ復習として重点的にやるなら他のところの方が……」

 何も理解していないそのセリフに思わずリーリンが顔を背ける。

「……復習じゃ……ないのよクララ」
「はい?」

 理解できていないクラリーベルに後ろからアイシャが告げる。

「そこ、まだ終わってないよ。今覚えてる途中だと思う」
「あーそういうことで……あ?」

 思わずといったふうな声がクラリーベルの口から出る。
 クラリーベルは顔を背け続けるレイフォンから手元のノートを取り上げ素早く目を通す。
 そしてそれを丸めレイフォンの頬に押し付ける。グイグイと跡がついてめり込みそうなほど押し付ける。

「あの、真面目に勉強する気あります?」
「すみません!!」

 レイフォンは謝る。
 やる気はある。だがやりたいかと聞かれれば否と答えたい。そんな思いからか「やりたいです!」などと言えない結果だ。
 ずっとやってこなかったんです。馬鹿なんです。ちょっと休んでいいですか? 
 脳裏に過ぎるそれらを言うわけにもいかない。

「あのですね、私たちは他都市に留学に行かなければいけないんですよ。そこ分かってます?」
「……はい」

 グイグイ。

「それには少なくともこの教科書の範囲の基礎は覚えておかないと危ないんですよ。他都市だと下駄はかせるわけにもいきませんので」
「……はい」

 グリグリ。

「立場的にも、余りお金を使わない特待で受かることが好ましいんですよね」
「……分かっております」

 グリッグリッ。グググ……

「あの、クラリーベル様。ちょっと痛……」
「ですから、早くやって下さい。ほんと基礎だけでいいので。何で手を止めてるんですか?」
「すみません……」

 言い返すことができずレイフォンは頷くしか出来無い。
 ふとアイシャが動きクラリーベルが持っているノートの動きを止める。

「これ、止めて。レイフォンが勉強できない」
「……まあ、それもそうですね」

 アイシャを一瞥しクラリーベルはノートから手を離す。
 リーリンが声を上げる。

「あの、ちょっといい?」
「何ですか?」
「ちょっと手を止めてたのは事情があって……」

 家族の目のことなど、場所を変えようかと言っていたことをリーリンは話す。
 それを聞いてクラリーベルは少し考えて口を開く。

「場所ですか。なら家に来ますか?」
「家って、ロンスマイアの家のこと?」

 リーリンの言葉にクラリーベルが頷く。

「ええ。書斎とかありますし。いざとなれば王宮の図書館の一室を借りることも多分出来ます」
「いや、そこまでいかなくていいわよ」

 そうですか? とクラリーベルは首をかしげる。

「バス使えば三十分程で行けますよ。陛下に言えばフリーパスとか貰えると思います。屋根の上走れば三分掛かりませんけど」
「いや、私までそれはちょっと」
「あ、領収書はユートノールで切るんで大丈夫です」
「いや、そっちじゃないしおかしいから」

 一般人のリーリンが呆れた声を出す。

「それ、私も行っていい?」

 アイシャが参加希望の意を示す。

「ああ、どうぞどうぞ。受験生どうし勉強でもしますかね」
「色々、読みたいものがある」

三人が話し合うのを見てレイフォンは思う。
 あ、これ行くの決定してるな。と。
 そして反対しても意味ないんだろうな。と。
 まあ、反対する理由も特にない。聞かれたら頷いてついていこうとレイフォンは思う。
 その予想を裏付けるかのようにクラリーベルがレイフォンを見る。

「あ、用意終わりました?」

 聞いてすらくれなかった。








「ここが書斎です」

 クラリーベルの案内で中に入る。
 ロンスマイア家の書斎。幾多の書架が並べられた書庫の片隅の空間だ。簡易的ながら書庫の方と区切られたそこ自体にも書架がいくつか有り、ソファに椅子やデスクがいくつか置いてある。
 他に誰もいないからもあるが本がある空間独特の時が止まったような枯れた静謐さがある。
 余り読書が得意ではないレイフォンだが不思議と本を手に取りたくなる魅力を感じてしまう。

「一応今日が初ということで私の案内が要りましたが次からは自由に来て貰って結構です。他の者にも言っておきますので」
「ありがとうございます」
 
 リーリンがデスクの上にドサドサっと教科書を積み上げる。
 ここに置いてあった教材までプラスされている。

「じゃあレイフォン始めましょうか」
「……うん」

 その言葉に感じていた思いが根こそぎ奪われる。一度中断したからか余計忌避感が強い。
 逃げようか。
 そう思うがここまで連れてきてくれたクラリーベルに申し訳がない。
 
「向こうの本、読んでいい? ロンスマイアさん」

 アイシャが教材のあった区画の辺りを示す。

「本は自由に読んでもらって結構です。見られて困るものはここには無いので」

 了承の言葉にアイシャは一つ適当な本を掴みソファに座る。

「受験生どうし、私も勉強でもしましょうかねぇ」

 クラリーベルが呟いて本棚へと動く。
 二人のその姿勢に自分だけ逃げるのもバツが悪い。レイフォンは重く息を吐きデスクに座る。

「じゃ、続きね」

 リーリンがタワーの一部を崩しレイフォンの前に置く。
 湧き上がる恐怖。目を背けたい現実。手が薬物中毒者のごとく震えそうになるが気合で止め心を決める。

「頑張ってくださいね」

 クラリーベルが言う。
 その言葉に一抹の勇気を貰い、決心がつく。手から強ばった力が抜ける。

「はい。ありがとうございま……」

 感謝を言おうとした先、ソファに寝転がっているクラリーベルにレイフォンは言葉が止まる。
 傍らには明らかに勉強に関係のない本に飲み物まで置いてある。

「あの、クラリーベル様。それは何を」
「推理小説です。『肉の鼓動』シリーズって知りません? 筋肉信者の探偵がトリックを力技で解決してく話です。飲み物ならあっちにサーバーがありますのでご自由に」

 あっち、と本から目を離さず隅の方を指差す。

「いやあの、勉強するってさっき……」
「え? ああ。する、じゃなく「しよっかな」って思っただけですよ。そもそもそ私は勉強とっくに終わってます。試験の日寝坊でもしない限り落ちることありませんので」

 頑張ってくださいね、と笑顔でヒラヒラと手が振られる。
 その笑顔が妙に柔らかく、寝たままのその姿にレイフォンは世の不条理さを嘆きながらペンを動かした。


 その後は眠ったクラリーベルの気持ちよさそうな寝息にやるせなさを感じたり、アイシャは用があると言って途中で帰ったり。
 ロンスマイア家に行く日もあったし行かない日もあった。
 自分の身のことでクラリーベルに相談し、人目の離れる低所得者帯の安アパートを勧められたり。そこで見た目チンピラのニコチン中毒数字マニアにガンつけられたり。アイシャが押しかけてきたり。
 それからの日々、レイフォンはそんな環境の中で勉強を続けていった。













―――――■■―■―■■■―――

『あの人は誰ですか?』
――あの方はサヴァリス・ルッケンス様だ

 自分の質問に対し返ってきたのは“踏み込まず”の敬意の念だった。

 十年以上前のことだ。
 武芸者である父によってルッケンスの門を叩いた。
 基礎鍛錬をある程度積んだ自分に流派を持たせるためだ。そうしてルッケンスに入門した。
 自分を高められる、知らぬ技を己が物と出来る。そうして高まる心で向かった道場の先にその少年はいた。
 第一印象は苛烈。その場にいた誰よりも鋭く、獰猛に技を放つその姿に一瞬息が止まる程魅入られたのを覚えている。
 第二の印象は剛と流。少年には相手がいなかった。けれど空に技を放ち道場の空気を震わせ、節目の止まりを感じさせぬその動きは確かに見えぬ敵を意識し、道場内の誰よりも洗練されていた。
 見たところ同年代のその少年が誰なのか。湧いた興味に近くの大人に聞きその正体を知った。
 その答えに自分は納得し心躍らし、そして同時に小さな疑問を抱いた。
 その大人の声が、目が、純粋すぎた。境が有りどこか遠くを見るようだったからだ。
 だがその疑問も、あの少年のいる場で学べるのだと、あの技を身につけられるという喜びの前に消えていった。

 鍛錬はきつかった。父親からのとは違う甘えの入らぬそれに諦めかけたこともあった。だがその度に……いや、息を整える間に、体を休める間に自然と視線は少年の方を向いていた。その度に諦めの念は自然と消えた。
 
『……何か用でも?』

そんな度重なる自分の視線に気づいた少年が話しかけてきたこともあった。

『あ、いえ! 用などではなくただその、えと、すみません! 凄くてつい見てました!!』
『……ああ。そういえば見たことない顔ですね。いえ、もしかしたら興味がなく忘れてるだけかもしれませんが』
『自分は―――』

 つまらさそうにする少年に名乗り、どうでもよさそうに聞かれたこともあった。
 そんな事もあったのにその後も見る視線は変わらなかった。

 そんな自分への周りの声も不思議だった。父親のように奮起させるでもなく、よそ見を諌めるわけでもなく、ただ「ああ、またか」とでも言う様に見ていた。
 けれど“いつかあそこまで”。その思いのままに、少年が使う技を憧れにひたすらに鍛錬を続けた。
 
 短い間であったが共に戦場に立ちことも出来た。
 血の滲む様な鍛錬を経て覚えた技が嬉しくそれを使って皆と協力して立ち向かった。
 そんな自分と違い少年は一人で戦っていた。一撃一撃と汚染獣を屠り、死骸を築き上げる。
 その強さに自分は憧れ、勇み足をしかけて周りに諫められもした。
 いつもつまらなそうに笑って見えた少年が、汚染獣を相手にしている時だけは楽しそうに笑って見えた。
 その場に立ちたいと、横にありたいと思ったのはその時が切っ掛けなのだろう。

 数年後、少年は最年少の天剣授受者となった。ルッケンスは更に大きくなり少年は「若先生」と敬意を込めて呼ばれた。
 自分も順調に鍛錬を積み強くなっていった。
 そして、あの日の大人への疑問も理解していった。
 少年は強すぎたのだ。だから皆「あれは違う」と。「才能」が「生まれ」が「存在」が違う。自分たちでは届かない場所にいる。

――――アレならしょうがない

 そんな思いが自然と少年と自分たちとの対比をやめ敬意のみ。同じ世界に“踏み込もう”としない。焦りも競い合う気持ちもなく違う世界を見るように見ていた。
 自分の視線を放置していたのもいずれ「それ」を理解するだろうというそんな周りの予想。
 無論皆上を目指してはいた。鍛錬を積みいつか天剣に、という思いはあれど心の底からではない。
 自分もそれは薄々理解していった。だが、嫌だった。
 それを実感し切る前に、心が折れる前にきっと、きっと折れずにたどり着ける。その思いでただひたすらに、自分を虐めるかのように鍛錬を積み続けた。
 その御蔭か月日が過ぎるごとに道場の中で頭角を表すようになった。だが実力が上がるというのは力を知ること。少年との差を理解していった。

 更に数年。現実への理解を拒むような過密で過剰な鍛錬は師範代候補になる迄に自分を成長させた。
 食糧危機もあったが同門どうしで協力し合い、こんな時だからこそ強くあろうと語り合った。暴動が起これば都市警の力になりに走った事もあった。
 だがその頃には自分の才を理解し青年となった相手との差をより一層理解し「昔の大人」と同じになりかけた。
 そんな時、一人の少年の指導を指名された。彼は青年の弟だった。
 何故自分が指導をするのか。それを彼の父親に――青年の父親である流派の長に訊ねたらこう返ってきた。

『誰にするか決める際にな、あいつにも聞いてみた。そうしたらお前の名を言った』

 後で本人に聞いたところたまたま覚えていた名で他の者の名前をロクに覚えていなかったからだという。
 自分の名を上げてくれたというその言葉が嬉しく、引き受けることを決めた。
 
 引き受け少年を指導した。自分をよく慕ってくれた。そして思った。
 ああ、これは“自分”だと。
 兄弟として長く共にいたからだろう。少年の心は「昔の大人」とほぼ同じだった。それだけでなく青年に対し“それ”以上の何かを感じているようだった。
 少年には流派に対する確かな筋があった。それこそ自分よりずっと。向上心もあった。だが兄への諦観の念は周り以上だった。
 それがたまらず悔しく、哀しく、これが自分なのかと動揺し、決めた。諦めないと。
 同情心だったのかもしれない。だがそれでも自分が青年の横に並べばこの少年はまた希望を持ってくれる。その思いで止まりかけていた自分をまた鍛える決心をした。何としてでもあの場所に立ってみせると。
 才などなくとも、自分たちでも掴めるのだと証明し見せたかった。

――――■■―■―――ッッ……

『頑張っているね。――そう言えばこんなことを知っているかい』

 ああ! そう言えばその頃だ。青年に言われた事がある。

『天剣授受者っていう存在はさ、まるで運命で決められているかのように成るべくして成るんだよ。歳なんて関係なく、生まれた時から決まっているんだ』

 気まぐれか、もしかしたら欠片ほどの優しさか。天剣になって以来いつも楽しそうに笑う青年にそう言われた。
 だがそんな事は知らないとひたすらに己の体を虐めた。度が過ぎたそれを諌める周りを押し切り修練に励んだ。
 そうしている内に自分は同世代の中でも最速で師範代になり、少年は学園都市に行った。
 師範代の中でも認められ秘奥とされた秘伝書の閲覧も許された。都市でも名うての武芸者になった。
 ああ、ここまで来たのだと。ここまで来れたのだと喜びに震えそう思った。

――そんな時だ。レイフォン・アルセイフと言う存在を知ったのは。

 ッ―――g、―――■k―ッ

 
 アルセイフという子供はまるで冗談のような存在だった。
 己の半分ほど、自分なら戦場に出られなかった頃だ。その子供は歳に合わぬほどの莫大な剄で青年と戦えた。
 否、渡り合えた。
 その話が信じられず鼻で笑うために今は顔も思い出せない相手に誘われ実際に見に行きもした。
 結果、話は本当だった。そして信じたくなかった。
 その時青年が放った、かつての日に自分が最初に目にした技。己が血の滲む様な思いで覚えた技。
 それを子供がその場で覚え使ったことを。

 一緒に見に来た仲間がはやし立てる声がどうでもよかった。見たことがないほど愉しそうな青年がいた。
 きっと気づかぬ内に、その時自分は何かが折れてしまったのだろう。

 現実から目を背けるように体を鍛えた。
 子供の素性が知りたくて調べ、賭け試合の関与を知った。”これ”に負けたのだと一層何かが折れ、逃げるように鍛える量を増やした。ただ漠然といつか使えるかもと賭け試合の写真も撮った。
 子供が大会を荒らしまわっていると知り会うのが嫌で参加をやめた。結局試合の映像を見てその夜は寝ずに道場に篭った。
 気がついたら子供の周りには青年だけでなく王家の人間もいた。
 ただただ、子供がかつての大会で認められていないこと事が、「天(せい)剣(ねん)」には至らぬのだという思いだけが己の救いだった。
 そんな日々を過ごしているうちにある日子供は「外」へと消えていった。

―――■k、s、■s、ッ―――い――

 あの子供がいない。天上の席は残り一つ。追い立てられるように大会に出て勝利を飾った。
 何が足りないのだと考え、子供と同じになれば分かるのではと賭け試合にも身を投じた。
 気づけば表でも裏でも勝ちを重ね、裏では賭け試合のチャンプになった。

 ある日賭け試合の運営側の男に言われた。

『お前さんはありがたい。勝ち続けても前の坊主とは違い「もしかしたら」ってたまに客に思わせる。これからも頼むよ』

 憤りのままに一層体を鍛え技を磨いた。

 そうして勝ちを重ね、大会でも優勝を重ねルッケンスでは二人目が出るのではと噂にまでなった。

『頑張れよ!』『もしかしたらいけるかもな』『夢を見させてくれや坊主』

 届くかも知れない。そう思った。いつの間にか自分の力はそこまで上がっていたと。
 「昔の大人」たちが希望の目で見てくれた。それが嬉しくて、弟弟子である青年の弟に手紙も送った。

 だがそれを打ち壊すように、まるで何かに仕組まれたかのように子供は「外」から帰ってきた。
 子供は幾多もの大会に出て優勝をもぎ取っていった。賭け試合にもまた出始めた。まだそんなことをするのか。そう思った。
 そして子供の戦歴が積み上がる頃、図ったように天剣を決める大会が開かれることになった。
 そして青年の口から出たまるで決定事項の様な言葉。とうとう最後まで保っていたものが折れた。
 「ああ」「そうか」「そうなのか畜生」
 鍛錬に捧げた年月は倍以上。だがそれを踏みにじる才。だから、最後の一線で堪えてきたものが溢れた。思ったのだ。
 
そこまで邪魔をするのか。ああ――こいつは消さなきゃならない。

―――わk、■nッ、s―――い――

 昔撮った写真を出した。賭け試合に出て知った裏の情報から口の固い者を数人金で雇った。
 時間を置き、子供本人にも直接写真をネタに脅した。
 脅迫に屈し子供が負けたとしても雇った者たちが噂を流し潰す予定だった。
 棄権などさせず、自分と戦わせたのはせめてもの矜持だったかもしれない。その力に一度はぶつかろうと。
 問題はなかったはずだ。子供が「外」に出て行った間にも鍛え続けた自分は腕が格段に上がっていた。
 実際に試合でぶつかり合い、これなら十二分に渡り合えると思った。
 もしかしたら。そう思った。夢が見えた気がした。
 
―――わか、s、n――ッ、せ、い――――

 そうして自分は鍛え続けた腕と足をいとも容易く切り落とされたのだ。
 
――わ、か、せん、せ――い――

 思う。ああ、一体自分はどこで間違えたのだろうか。叶うなら、

――――若先生―――

 どうか教えて下さ――――

 思考を遮るように剄の塊がガハルド・バレーンの体を叩いた。

「があ……ッ、ぁ……」

 意識が今に戻る。
 押し殺された悲鳴が喉から絞り出される。だがそんな事関係ないとばかりに絶え間なく衝撃が体を走り続ける。
 吹き飛ばされ道場の壁に背中から激突。倒れ、未だ動く左腕で痛む上体を何とか持ち上げる。

「何故……です、か。若、せんせ―――ッか、ぁ」

 最後まで言うことも許されずガハルドはサヴァリスに蹴り飛ばされる。

 件の事件で右腕と左足を切り落とされガハルドは入院していた。素早い処置に命に別状はなく、腕と足も比較的早く接合された。
 だが当事者として事件のことが少し収まるまで入院は少しばかり延期され、そして今日退院することになった。
 そんなガハルドの前に現れたのがサヴァリスだ。「稽古をつけてあげよう」と有無を言わせずガハルドを道場まで連れ、稽古と呼べない一方的な虐殺が行われた。
 そうして今に至る。

「何故?」

 サヴァリスが言い、拳を振るう。
 立ち上がれず蹲るガハルドに化練の糸を通じた衝撃が伝わる。
 何とか打ち消そうと思うも、ガハルドにはサヴァリスが拳を振るうモーションすらロクに見えない。それでもリズムを先読みしようとするが、それを読んだかのように衝撃の伝わる部分が絶えず変わっていく。

「まあ、罰みたいなものですよ。あなたの方にはおおっぴらに処罰を与えられないのでね。これはあくまで稽古ですよ」

 ガハルドの腹部に衝撃が走る。痛みに丸く蹲っていたガハルドはその衝撃に弾かれ僅かに宙に浮き、そこを横殴りの剄に襲われゴミのように吹き飛ばされる。

「それと、僕自身の怒りもある」

 ガハルドのすぐそばで声がする。
 吹き飛ばされた先にサヴァリスは一瞬の間に現れ、転がるガハルドをお手玉でもするかのように蹴り上げ宙に浮いたところを殴り飛ばす。

「……ッ、あ……」

 殴られ続けガハルドはもはや悲鳴もロク出ない。
 力量差が違いすぎるとガハルドは思う。昔から比べれば格段と縮まったのは理解できる。背さえ見えなかったのが、足元に小指をかけられる程度にはなったとガハルドは思う。昔なら何をされたかもわからなかった。確かに近づけたと。―――それがまやかしでも。
 だが、それでもサヴァリスとの間には未だ確然とした差が横たわっている。
 
「そもそも、レイフォンに敵うとでも思ってたのかい?」

 壁に飛ばされ、そこを不可視の風が殴り続ける。
 一度、二度、三度、四度、五度……。
 ガハルドは膝を折ることすら許されず暴風を受け続ける。
 
「知ってたはずだよね。レイフォンは僕と戦えるって。君程度が適うわけ無いだろう。何を勘違いしたんだか」

 貫くような衝撃がガハルドの腹部に走る。耐え切れず、嘔吐してしまう。

「お、あ。うえ、ッぅぷ。……はぁ、はぁ……」
「汚いな」

 サヴァリスは言い、ガハルドの脇腹を蹴り飛ばす。ガハルドはもはや起きる力さえない。

「試合で、すこ……し、は……」
「手加減されて戦って、勝てるとでも思ってしまったのかい? なら、なんて愚かなんだろうね。身の程を知ったほうがいい。どの程度手加減されているかも理解できないくせに。まったく、馬鹿なことしてくたよ。そもそもは何だ? 何がしたかったんだい」

 転がったガハルドの元へもう一人サヴァリスが現れる。

「千人衝だよ。今は一人分だから名に偽りありだけどね」
「これ、……が……」

 呻くガハルドの頭を現れたサヴァリスが爪先で小突く。

「ああ、そう言えば君は秘伝書の閲覧を許されてたね。――君と違ってレイフォンはこれが出来るよ」
「な――――ッ」

 “いつか”と夢に見て修行していた秘奥。サヴァリスの言葉にガハルドは絶句する。
 驚きの声を上げるガハルドをサヴァリスはもう一人の方へと蹴り飛ばす。剄の分身が消える。
 呻くガハルドを見て「つまらないな」とサヴァリスが呟く。

「あん、な……あんな子供、が。若、せんせいと、並んでなん、て……」

 息をするだけで痛む喉で、それでも、とガハルドは言う。

「俺が……倒し、て。消さ、ないと……って。“踏み込め”、無い……って。「大人」が、諦め……て。賭け、なんて。あんな、やつ……が」
「君がしたことは既に天剣の人たちは知っているよ。その口で何を言う。同じ穴の狢に過ぎない。否定できる何がある」

 言い、サヴァリスがガハルドの首元を片手で掴み持ち上げる。

「悪だと断罪したければもっと自分から大衆に言えばよかったろう? ああ、それとも自分も賭け試合に関わっていたから表立って言いたくなかったのかい。少なくとも脅した時点で君の言い分なんて何もないよ」

 少しずつ、少しずつガハルドの首を絞める力は強くなっていく。

「――――だが、僕としてはそんな事どうでもいいんだ」

 サヴァリスはそのままガハルドを背後の壁に思い切り叩きつける。

「下らない。なんて下らないことをしてくれたんだ君は!!」

 首を捕まれ悲鳴さえ挙げられず、ただ口を開くガハルドに向かってサヴァリスは言う。

「後少しでレイフォンは天剣を手にした! 全力を出せる武器を手に入れた!! 余計なしがらみもない!! ”被害を気にせず全力で殺し合える場所”があった!!! クラリーベル様とも仲が良かった!!」

 サヴァリスが叫び続ける。
 ガハルドには何のことだか理解できない。
 怒りをぶつける様にサヴァリスは手に込める力を強めていく。武芸者用に拵えられたハズの頑丈な壁が余りに過剰な剄に撓み、罅割れていく。
 
「そんな僕の愉しみを、そんな下らない理由で!!」

 朦朧とする意識の中、ガハルドはサヴァリスを見る。
 共に並びたいと。拳をぶつからせたいと思った相手がそこにいた。
 そんな相手が言う。お前がしたことは、抱いた思いは下らない。自分の楽しみを邪魔するなと。
 憧れていた。その背に追いつきたいと願いを抱いていた。
 お前の矜持なんて下らないもので自分の愉しみを潰すな。そう言われた。
 かつてつまらそうに拳を振るっていたサヴァリスが浮かぶ。振るう技に見惚れ、皆と見ていた若先生の姿が浮かぶ。
 “憧れ”が脳裏に浮かぶ。

――――ああ

 とうに力など入っていなかったハズの自分の体。なのに何故か力が抜けていくのをガハルドは感じた。

 ガハルドを壁から引き剥がしサヴァリスは振りかぶる。そのまま投げ、一直線に壁に投擲する。
 凄まじい音と共にガハルドが壁に衝突し、床に崩れ落ちる。

「父からの……ルッケンス本家からの処罰を言い渡します」

 指一つ動かせないガハルドの右腕をサヴァリスは踏みつける。
 つまらなそうに。路肩の石でも見るようにサヴァリスが告げる。

「『チャンピオンとして賭け試合へ加担、並びに授受決定戦対戦相手への脅迫。これらはルッケンスの流派に対する侮辱と、武芸者としての矜持を故意に犯したと見なす。今まで流派に対する貢献はあれど、此度派生した事件性の大きさから見ても看過することは不可能。よって、ガハルド・バレーンを破門する』、だそうです。表向きは被害者扱いに近いので門下生などには伝えませんし公然とは破門ではありません。暫くは札も残すそうです。ですが、もうこなくとも結構ですので」

 サヴァリスは踏みつけたガハルドの右腕を軽く蹴り上げる。そうして上がった右腕(ききうで)をサヴァリスは蹴り抜き砕く。
 ガハルドが全てを賭けて積み上げてきたそれが、ゴミのように砕かれる。
 もう、お前に入らないだろう? とでもばかりに。

「かつて言ったはずです。天剣になるものは、そう生まれた時から決まっていると。身の程を知るんでしたね」

 そのままサヴァリスは踵を返し道場の出口へと向かう。
 出る寸前「ああ、そうそう」と吐瀉物に汚れた床を示しサヴァリスは言う。

「そこの床、掃除してから帰って下さいね。後「稽古」でしたので治療費はこちらで持ちます」

 動けないガハルドにそれだけ言いサヴァリスは去っていった。
 広い道場にただ一人。ガハルドは体に走る痛みと、何に対してか分からない空虚に震え続けた。








 ガハルドが何とか動けるなったのは数時間。空も暗くなってからのことだった。
 引きずるように体を動かし何とか掃除を終えそのままの足で街に出た。顔には傷とハレがあるが別に良かった。感覚からして「稽古」で全身の骨がいくらか折れているはずだが医者に向かおうとは思えなかった。昔自分で稽古していた時に近いこともあった。
 ふと街に出たくなった。
 歩くだけで全身に痛みが走る。剄を走らせると酷使された経脈が千切そうな程の痛みを訴える。こらえきれず、倒れそうになる度に街灯や店の壁に寄りかかり息を整えてまた歩き出す。暫く経脈は大人しくさせておいたほうがいいだろう。
 荒れた息が白く目に映る。冬季帯に入った空気は冷たく、そこにいるだけで全身の傷に響き鈍い痛みを感じる。

「……ッ」

 ふと走った痛みに右腕を抑える。
 レイフォンに切り落とされた右腕は確かにつながった。だが、まだ本当の意味での完治には早かったのだろう。サヴァリスの「稽古」によって少し傷が開いた痛みだ。いや、もしかしたら幻肢痛や「古傷が痛む」類かもしれない。
 意識してみれば確かに左足も違和感があるようにも思える。
 だが、別にいい、とガハルドは歩き続ける。
 
 人ごみにまぎれ、痛みを感じつつガハルドは思う。自分は一体どこへ行こうとしているのか。
 自分は間違った。してはならないことをした。
 ルッケンスを破門され、憧れに否定されどうしようもないほどに身が軽くなった。だからこそ柵を無視し思える。
 どこから間違えたのか。きっと、同じになろうとしてしまったことだろう。
 盲目だった。ともに並ぶことと天剣。目的と手段が逆転してしまった。
 
 何故だか視界に映る街が広く見えた。ふと、ガハルドは空を見上げる。
 武芸者としての矜持。それをどこで捨ててしまったのか。冷えた空気に澄んだ空を見れば思い出せる気がした。
 ずっと、頑張ってきたはずだ。友と競い、弟弟子を育て、時には都市警に協力もした。前を見ていたはずだ。
 見なくなったのはいつだろう。武芸者としての思いを忘れたのは。
 諦め、に囚われかけた時だ。
 世界が違うのだと納得したくなかった。子供の頃思い描いたように「天剣」になろうとした夢を諦めたくなかった。
 「昔の大人」の様に笑って世界を違えたくなかった。近くにいたはずの“憧れ”と同じものを見たかった。
 
 「光」が強すぎたのだろう。そしてそれに気づくには幼すぎた。諦めがつこうとした時にゴルネオという鏡を見せられ、ちっぽけなプライドに屈した。弟弟子のためなのだと、捻れをそう思い込んで正当化してしまった。
 走り続けてしまった。息を付けと、少し休めと周りに言われたのに。
 ああ、まったく

「馬鹿だな、俺は……」

 鏡があったなら冷静に見るべきだった。一旦足を止めて息を付けば今見たいに視界は広くなったはずだ。
 大事にしていた武芸者の矜持を持ち続けるべきだった。自分は自分だと割り切るべきだった。
 
 ガハルドの吐いた白い息が空へと登っていく。直ぐに見えなくなったそれはまるで空に吸い込まれたようで妙におかしかった。 
 何となくだが無くしたものを取り戻せる気がした。

「きゃ!」
「……ッぁ!!」

 考え事をしていたせいだろう。ガハルドは右側から向かってきていた人物とぶつかる。痛んだ体が揺れる。
 その瞬間体を貫くような衝撃が全身に走る。内側から溢れそうになる何かを必死で押し留め激痛の悲鳴を何とか咬み殺す。
 こんな程度の衝撃さえ耐えられないのかとガハルドは自嘲する。
 突然の痛みに眉をひそめながらガハルドは尻餅を付いた相手を見る。
 枯茶色の綺麗な髪をした少女だ。フードをかぶり鼻までマフラーで隠しているからよくわからないがそれでも整った容姿をしている事が何となくわかる。髪と同じ色の瞳がガハルドを見ている。
 
「済まない。大丈夫か」
「大丈夫です」
 
 ガハルドは少女を立ち上がらせる為に手を伸ばし、出された手を掴み力を入れる。
 瞬間、再び手に鋭い痛みが走る。

「―――ッ」

 だが一瞬で消える。
 何だったのかと疑問に思うが、ガハルドは自分の体の現状を思い出し直ぐに忘れる。

「……よそ見をしていた。済まない。怪我はないか」
「平気です。私の方も悪かったので気にしないで下さい」

 体を叩きながら少女が言う。

「確かに急いでいるようだったな。何か用でもあるのか」
「探し物です。ずっと探していましたので」

 目の近くを指で掻きながら少女は言う。
 それを聞き、不躾だとは思いながらもついガハルドは言う。

「そうか。これも何かの縁だ。よければ手伝おうか? 何もすることがないんだ」

 言い方からしてどうしても見つけたいものだろう。何故だろう。困っているのなら手伝いたかった。
 
「いえ、いいです。大丈夫ですので」

 だが少女は首を振ってガハルドの申し出を断る。
 それも別にいいとガハルドは思う。あったばかりの相手だ。そう言われて少女も困るはずだ。
 よくよく思えば、こんな自分の体で何ができるのだとガハルドは自嘲する。
 そう思っていると、ふと、異変に気づく。
 目の近くを掻く少女の指の力が強くなっている。そこから血が流れ始めているのだ。
 そしてまるでそこが痒いかのように少女は閉じた右目を掻き毟る。

「ッ。余り掻かない方が良い。血が出ている」
「え? ああ、平気です」

 何が大丈夫なのかガハルドには分からない。
 それでも掻き毟り続ける少女の手を掴んで止める。そして気づく。

「傷、か?」

 右目に一本の傷が走っている。よく見れば右目の周辺の皮膚の色が少し違う。
 
「この傷は……」

 言いつつガハルドには分かる。汚染獣の爪痕か刃物傷。周りは火傷だろう。
 
「前に負った怪我です。痛みももうないので。気にせずどうぞ」
「……そうか」

 言いつつどうしようもない怒りが自分の中に湧いてくるのをガハルドは感じる。
 この少女がいつこの傷を負ったのかは知らない。けれど、どうしようもなく切羽詰った状況だったのだろう。
 それこそ、今にも死にそうなほどに。虐待か、汚染獣か。そのどちらかといったところ。
 そんな状況に少女が置かれた事が悲しい。自分に何が出来たわけでもないのに憤りを感じる。
 何故、そんなことになってしまったのか。そうなる前に助け出されなかったのか。
 武芸者は――――

「―――――っ」

 今頃になって思い出す。
 ああ、そうだ。そうじゃないか。初めはそうだったじゃないか。
 強くなりたい、というのも天剣になりたかったのも、そうして都市を、民を守りたかったから。その力を手に入れたかった。
 初めはそこからだったはずだ。
 何度となく父から教えられ、叩き込まれた自分の始まり。
 強くなろうとし、掠れていった思い。
 ああ、思い出した。

「離して下さい」
「――っああ、悪い」

 振り払われ、掴んだままだった少女の手を離す。
 つい、何か言いたくてガハルドは口を開く。

「ありがとう」
「何が?」

 怪訝そうな目で少女に見られるがただ笑ってガハルドは返す。
 さっきの言い方からして少女は既に危機は脱したのだ。なら、自分に出来ることはない。だから感謝を返す。
 
「色々思い出せたよ。助かった」

 時間にして一分に満たないだろう短い邂逅。偶然だろうそれは、ガハルドにとっては必然のように思えた。

「そうですか。では、私はもう行きますので」

 右目を閉じたままの少女がどうでもよさそうに言う。 
 それがガハルドには不思議とおかしかった。
 ああ、体が、心が軽い。飛べそうだ。痛みさえ無視できそうで、力が充満しているのを感じる。
これからどうしようかとガハルドは思う。
 強くなろうとした理由は思い出した。色々間違えてしまったが既に自分は強くなった。天剣には届かなくてもそのすぐ次くらいには。
 なら、また始めればいい。まずは親に頭を下げ、そっからは一人でやっていくか、それとも適当に仲間でも見つけるか。
 これからすることを見つけ、ガハルドは小さく笑う。

 最後にと、歩き出した少女へガハルドは振り返る。

「探し物、見つかるといいな」

 少女が振り返る。

「もう見つかったんでいいです」

 簡潔な答え。
 それは良かった、とガハルドは思う。自分も少女も探し物を見つけられたのだ。
 それを見送りながらふと気になってガハルドは零す。

「何を探していたんだろうな……」

 聞こえたかは知らない。だが、離れた場所で少女は微かに振り返りマフラーを下げる。右目は、開いていた。
 




 血に塗れた酷く鮮やかな紫紺の瞳。そして一瞬口元を釣り上げた嗤い顔をして口を動かした。

『■』
『■』
『■』
『■』
『■』



 その小声は街の喧騒にかき消されてほとんどの人には聞こえなかった。聞こえた人などいなかっただろう。
 だが、武芸者であるガハルドは、都市有数の武芸者であるガハルドは咄嗟に活剄をしてしまいその口の動きが見えてしまった。それが聞き取れてしまった。
 だから、その意味がわからなかった。
 少女が振り返ったのは一瞬で、気づいた時にはマフラーを戻しフードを目深にして既に歩き出し人波に消えていた。
 
 暫くして止まっていた思考が動き出す。
 考えても分かるものではないとガハルドは割り切る。いつかまた会った時にでも意味は聞けばいい。
 そう思い、さて帰るかと決める。
 用は終わった。早く帰ってやるべきことをやらねば。
 清々しい気持ちでそう思いガハルドは一歩を踏み出す。



 否、踏み出したはずだった。



 体が地面へずれた。

 何が起きた? そう思う間に斜めに地面に倒れこむ。
 そして気づく。
 足が進んでいない。いや、動いていない。左足の感覚がない。
 今の倒れ方は、足はそのままに上体だけが進もうとして倒れたように思えた。

 ピチャリ。

 水の音がする。転んだ際に濡れたらしい。直ぐに立ち上がろうと右腕を支えにし――――今度は右肩から倒れこむ。

 ドサッ。

 何かが倒れる音がした。重さがあり、適度な柔らかさと硬さがある物の音だ。
 不意にバランスが取れないことに気づく。正確には体が軽くなっている様に感じる。
 視界の端に何かあった。それは地面に転がっていて、肌色をしていた。
 理解できずによく見る。
 筋肉質な太い筒、その先から伸びる五本の枝。
 ガハルドには自分の右腕によく似ているように見えた。

「――――――――――!!!!」

 自体を理解したガハルドが口を開けて叫ぶ。だが声が出ない。右腕がない。体が支えられなかったのも当然だ。
 理解すると同時に走った激痛に体をよじらせる。全身の経脈が何千本もの針で貫かれたような激痛を放っている。
 見えた視界の中、自分の左足に似ている物が落ちているのが見えた。
 理解できないままそれらがあった場所を見る。
 右腕と左足がない。肉と骨とぶよぶよした黄色い脂肪が断面図を晒している。

「――――~~~!!!」

 契れている部分にふと思いつく。この間切り落とされた接合面だ。だが、それだから何なんのだと理解できない。
 まるで内側から破裂したかのような傷跡に理解が追いつかず痛みのままに転げる。
 ピチャリピチャリとその度に音が鳴る。見える水の色はドス黒い赤。流れでた血の中でガハルドは転げまわっている。
 落ち着かない頭で止血を試みようと活剄で血管を締め――られない。剄が、使えない。
 
 何故何故何故何故何故何故何故なぜなぜなぜなぜなぜ―――――
 その言葉がガハルドの脳裏を支配する。ずっと鍛錬を積んできた剄が感じられない。
 このままでは死んでしまう。
 やならなきゃいけないことがある。やっと思い出せた取り戻せた。死にたくない。
 理解不能の恐怖がガハルドを襲う。だが、声も出せず血も止まらない。

 周囲の人間が救急を呼び、ガハルドを中心に悲鳴が伝播する。
 意識を失う寸前、ガハルドは何故だかあの少女のこと思い出す。
 最初に触れたときの激痛と最期の言葉。
 痛みの時、大きな「何か」が自分に入ったような気がした。
 ガハルドは薄れいく意識の中、彼女の言葉を思い出す。歪んだ笑みから出された口の動きが思い浮かぶ。
 最期の時、彼女は、確かに、言った。





――――お・ま・え・だ・よ


と。

 狐耳を生やす青い輝く少女が見えた気がした。













 
 レイフォンとクラリーベルとアイシャ、そしてリーリンはある建物の前にいた。
 比較的高さのと広さのある灰色の建物。
 学園都市に行くための試験場だ。
 今日、これまでの成果を出す試験があるのだ。

「頑張ってきてね」

 リーリンが言う。彼女はこの中で唯一試験を受けない。

「まあ、ちゃちゃっと終わらせてきます」
「大丈夫。ありがとう」

 クラリーベルとアイシャが軽く言う。この二人はいつもどおりだ。

「大丈夫……大丈夫のはず。昨日だってちゃんとやって早く寝た。大丈夫……のはず」

 対照的にぶつぶつとレイフォンはせわしない。緊張が傍からも見て取れる。

「大丈夫ですよ。結構なんとかなるものですから」
「クラリーベル様に言われても……その、はい」

 余裕な人から平気だと言われても低空飛行をするこっちの気持ちはわかるまい。

「やっぱり、使う?」

 アイシャがカンペを出す。
 なぜ今も持っているのか。

「いや、流石にそれはいら……いらない。うん、いらないから大丈夫」
「そう……」

 クラリーベルが一歩建物に向かう。

「まあ、頑張ったんですからどっか引っかかりますよ。ここまで来て気に病む方が悪影響です。さ、行きましょう」

 そんなものだろうかとレイフォンは思う。 
 リーリンに軽く手を振ってからクラリーベルについて建物に向かう。
 
 入口の受付で受験票を見せ、会場に入る。
 思ったよりも広い部屋だ。自分たちと同じ目的だろう相手がちらほらと見える。二人も同室だ。
 レイフォンの席は後ろから三列目のやや左側。クラリーベルは二列左端でアイシャは一列前右斜め。比較的近い位置だ。
 揺れる心を落ち着けるようレイフォンは深呼吸をする。ここまで来た以上することはもうない。

 暫くして電子音が流れ、そうして試験は始まった。


 
 試験の流れは簡単だ。問題用紙と回答用の紙が配られ教科毎の簡単な注意事項が連絡され問題を解く。
 問題の構成は教科ごとにさほど差はなく大体同じ。大問が三~五つに大問一つに付き小問が三つ前後。そして小問が一~三に分けられている。
 問題の難易度もさほど高くない。全体的な平均としては基礎の基礎が二、基礎が三、基礎を踏まえて一歩進んだ問が二、応用が二、応用の発展が一。平均的学力があれば大体の者が六割~七割はとれる構成だ。
 それを時間以内に解くという酷くシンプルなものがこの試験だ。

 

 ペンが、止まった。
 己が役目に反逆せんとでも言わんばかりに不動。黒の軌跡を描かず、白の大地を前に足を止めていた。
 
(わから……ない)

 レイフォンは心の中で叫んだ。
 まったく問題に書かれている事が分からない。
 最初の三割ほどは書けた。書けた、というよりも指が答えを覚えていて流れで書けた。だが、その先に行こうとして指が止まっている。
 目を皿の様にして問題を読む。だが分からず次に飛ばす。他の問題で解けるのがあるのか探すためだ。分からないところで止まり続けるのは愚策だとリーリンに教わった。
 最後まで目を通し、一つ二つ程ずっと何度も繰り返しやらされた問題に似たのがあったのでそれを解く。完答、とはいかなくとも半分近く小問を埋められ全体的に四割半ほど埋められた。
 だがそこから一歩も進まず既に残り時間は三割を切った。

(パターン分けってどうやるんだっけ……判別式って何だっけ。確か縦に並べて最後を下ろして……最後だっけ……? ああああ)

 こんがらがって思い出せない。他を捲っても分かりそうなところが見当たらない。
 そもそも、何故先に走って出た者より追いかけて歩く側の方が速いのか。塩水作りたければ作り直せばいいだろうこの野郎。
 気を落ち着けようとレイフォンは二人の方を見る。
 アイシャはペンを置き紙を最初から捲っている。丁度終わって見直しの最中なのだろう。早いことだ。
 クラリーベルは……

(……ッッ寝てる!?)

 クラリーベルは机に突っ伏し、自分の腕を枕にどう見ても寝ていた。
 いつから寝ていたのだろう。微かに見える寝顔は気持ちよさそうで、呼吸の旅に小さくだが規則正しく体が動いている。
 集中して耳をすませば穏やかな寝息が聞こえてきそうだ。

 レイフォンは知らぬことだが、他の二人は時間が半分を過ぎる頃には全部解き終えていた。
 一度目の見直しだと思ったアイシャのそれは実は二度目の見直しであり、念を入れてしていたに過ぎない。
 クラリーベルは解き終わった後解答で読めない字が無いかだけを確認し見直しすらせず即効で寝た。自信の産物である。
 
 だがそれを知らないレイフォンは二人との差に悲しくなり、ひいこらこきながら自分の用紙へと視線を戻した。
 



 一つ試験が終わっての小休憩。何とか全体の五割近く解けたレイフォンは机にもたれていた。
 そんなレイフォンの耳に他の受験者の声が聞こえてくる。

「結構簡単だったなアル」
「八割くらい行けたよね。リック、問二の三番さー、あれAでいいんだよね?」
「Bじゃね? 間違えちゃったかも。まいっか! 四番はCだよね。あれ、判別式が0以上だけど二番を考慮するとパターン一つに定まるからさ、aが3以上の場合考えなくていいんだろ。引っ掛けだよねー」
「こっちもCって書いた書いた! まあこの調子なら大丈夫だろ」

 ちなみにレイフォンは三番はCだったし四番はBだ。計算用紙は細かい字で埋まった。
 聞こえるようにそんな話をしないで欲しいと心からレイフォンは思う。良く分からない波動に目覚めそうだ。
 部屋の外の空気でも吸おうと思いレイフォンは席から立つ。
 クラリーベルとアイシャが歩いてくる。

「外行くなら一緒に行きましょう」
「私も行く」

 三人で廊下に出る。篭った空気から出たのを感じ、やや冷たい風が心地良い。

「結構簡単でしたね」
「……あ、はい」
「あれくらいなら、問題ないと思う」
「……うん、そうだね」
「基本的でしたよね。まあ、試験の形式上当然ですが」
「……でしたね」
「一番最後の問、少し迷った。5:3:7、でいいのかな」
「文章紛らわしかったですよね。私は6:3:7でした。試験範囲から先行ってましたねアレ」
「面積分までいかなくてよかった」
「流石に出ませんよ。単なる二変数の積分ですし。注釈で例ついてたから知らない人でも出来たでしょうね」
「図を描くの、時間かかる。紙小さかったし」
「座標は擬似的なベクトルでしたよね。まあ、普通に解いても解けますけど時間かかるからワザと使ったんですけど」
「……あ、そうなんだ。へー……」

 ベクトルってなんだ。技か、技なのか。
 会話に全く加われてない気がする。
 ああ、何だか風が寒い。変だ、中の空気と変わらない気がする。
 寧ろ悪化したような気がレイフォンにはする。

「そろそろ戻りましょうか」
「……そうですね。僕もそう思います」

 とぼとぼとレイフォンは部屋に戻っていった。
 
 それからの時間が、レイフォンにはやけに長く感じた。





「終わっ……た……ぁ……」

 今にも死にそうな声でレイフォンは呟いた。
 ここはロンスマイア家の客室だ。実家である院からは身を離しているし、アパートは遠い。勉強しによく通っていたからかもはや気楽な場所である。
 精神的に疲れた体を癒すためにレイフォンはソファにダイブする。安アパートでは考えられないフワッフワの感触が心地いい。
 今日ここに来たのは勉強ではない。アパートが少し遠かったので休みに来たのと、何か食べでもしようということになっているのだ。
 ドアが開きクラリーベルとアイシャ、それと連絡を入れておいたリーリンが入ってくる。

「それ、何ですかぁ?」
 
 クラリーベルが持ってきた紙袋を見てソファに埋まったままレイフォンは聞く。

「試験の解答です。自己採点するなら使えって渡されました。使った問題要しもありますし今します?」
「嫌です」

 レイフォンはきっぱりと断る。

「一応自分の点を見ておいた方がいいと思うけわよ」
「僕に死ねというのかリーリン」

 何故やっと解放されたのにまた苦しめというのか。恨みがましい目でレイフォンはリーリンを見る。

「もう終わったことだから、結果は変わらない。見なくてもいいと思う」
「僕のことを分かってくれるのは君だけだよアイシャ……」

 優しい言葉についレイフォンは言ってしまう。
 残酷な結果がわかっているんだから少し位さっして欲しいと思う。するにしてもせめて今日は辞めて欲しい。
 
「なら、気が向いたときにでもしましょうか」
「それでお願いします」
 
 気が向いた時でいい。ずっと気が向かないままの気がするが。

「で、どうします。どっか食べに行きます? 行くならお爺さまが出してくれるらしいです」
 
 何故だか「フォフォフォ、小遣いをあげよう」と笑うティグリスがレイフォンは思い浮かんだ。
 実際、クラリーベルに絡まれたことで昔に何度か貰ったことがある。そうしてクラリーベルの行動への苦情を言い忘れたものだ。それにほいほいのった自分も自分だが。

「今更だけど、私も参加していいの?」
「レイフォンに勉強教えていたんですからリーリンは気にしないでいいですよ」

 さてどうしたものかとレイフォンは考える。
 正直、試験で疲れたからこのまま寝ていてもいいのだがそういうわけにもいかないだろう。
 
「クラリーベル様はどこかいい店とか心当たりあります?」
「何度か行ったことある店がいくつか。レイフォンはどうですか」
「高い店行ったことないんで知りません。量が多くて安い店なら知ってますが味は微妙です」

 こういった時に行くような店でないことは確かだ。

「家で食べてもいいんですけど私からしたら自宅ですからねー。他のお二方はどこか知ってます?」
「名前くらいなら知ってるところはあるけど、行ったことはレイフォンと同じかな」
「いつも院で食べてるから、あんまり知らない」

 リーリンとアイシャからも案が出ない。

「面倒ですし適当に出前でも頼みます? で、部屋で食べて飲みましょう。家の者にも何か作らせますので」
「それが一番簡単かしらね。いいんじゃない?」
「ですね。じゃあ、ここも部屋行きましょう」

 クラリーベルが立ち上がる。

「私は家の者に言ってきますのでリーリンたちは先行ってて下さい」
「わかったわ。ほら、レイフォン行くわよ」
「ふぁい」

 レイフォンは小さく答えソファから起き上がりリーリンについていった。
 




 トイレから出てリーリンは軽くあくびをした。
 ロンスマイア家の廊下を歩き部屋へと向かう。
 既にあれから時間も経ち夜遅い。この調子では今日は他の二人も含めこのまま泊まっていくことになるだろう。
 
「ちょっと食べ過ぎたかしら」

 出された料理を思ったよりも食べてしまいリーリンはお腹の肉が気になる。軽くつまみ溜息を履く。カロリーの高そうなものが多かったことが余計追い討ちをかける。
 他の二人の腰の細さを思い出す。
 武芸者だからかクラリーベルはたくさん食べていた。だが直ぐに運動で消費するのだろう。レイフォンと同じだ。羨ましい。
 アイシャは見た目こそ小食だが実際はかなり食べる。無ければないで抑え食べられる時はどこに入るのかというほどに。そして今日もたくさん食べていたが、それでも太くはならないだろう。今までのことから予想できる。
 食べても太らない二人のことを思い浮かべリーリンはゲンナリとする。

 クラリーベルの部屋の扉を開ける。と、言っても厳密には違う。
 この部屋は三つの部分から構成されている。今リーリンがいる部屋とそこの左側から続く部屋、そして奥の部屋。左側が皆がいる部屋で奥がクラリーベルの私室だ。レイフォンはないがリーリンは一度入ったことがる。
 まだ戻る気にもなれずリーリンは近くのソファに座る。
 手持ち無沙汰で周囲に視線を移すと紙袋が視界に入る。解答の入った袋だ。
 ふと思いつきリーリンはそれに手を伸ばす。

「レイフォンどのくらい出来たのかしら?」

 あの時は断られてしまったがせっかくだから採点してみようとリーリンは決める。あんなことを言っていたがどうせレイフォンは自分からは採点しないだろうし。
 取り出した紙にペンで○と×をつけていく。そして点を足していく。
 取り敢えず出来上がった一枚を見る。

「うわぁ……」

 とても低い。つい声が出てしまう。
 言うならば「やだ、私の幼馴染の点数低すぎ……」状態。空欄の多いそれにリーリンは言葉が出ない。
 他のも採点してみるが同様だ。五割を超えているものがない。四割り切っているものもある。これで大丈夫なのだろうか。

「まあ、今更よね……」

 終わったことを考えてもしょうがない。
 そう思いリーリンはそれらを紙袋にしまい直しレイフォンたちのいる部屋へと向かっていった。
 レイフォンの留学、悪いことじゃないかもしれないと改めて思いながら。







 それから暫く月日も経ったある日レイフォンとクラリーベルは王宮の執務室にいた。
 アルシェイラに招集を受けたのだ。

「これから発表を行いまーす」

 ジャジャーンと口で効果音を出してアルシェイラが言う。
 その手には二つの封筒がある。

「分かっていると思うけど試験の合格内容をまとめたものが入ったものよ」
「で、どうだったんですか?」

 クラリーベルが聞く。

「まあまあ、そんな急かさないの。百聞は一見に如かずよ」
「今関係なくないですか?」
「まあね。そんなことだからとりあえず自分の目で見てみなさい。私はもう見たから」

 はい、と封筒が渡される。
 渡された封筒を受け取り、二人共それぞれ自分の物に目を通す。

「面白かったわよ」

 アルシェイラがニヤリと言う。
 
「クララは流石ね。軒並み受かって特待も高待遇」
「受かってて良かったですよ」
「そんな事言っちゃってもう」

 アルシェイラの目がレイフォンを捉える。

「で、レイフォン。あんたも凄いわ。逆に」

 レイフォンは自分の結果の紙を前に何も言えない。

「軒並み不合格。受かったのが三つ、内特待は二つで待遇は最低。よくそんなの取れるわね逆に感心するわ」
「あ、受かったんですね。良かったじゃないですか」

 クラリーベルの言葉が褒めているのか貶しているのか分からずレイフォンの胸に刺さる。
 だがまあ、確かに合格は合格だ。隣の芝が青すぎただけだ。

「あ、そうそう。一緒に受けたっていうもう一人の子、その子も最高レベルだったらしいわよ」

 グフッ。
 レイフォンの心にダイレクトな一撃が突き刺さる。

「あ、そ、そうですか」
「くじけてんじゃないわよ。とりあえず受かったんだから特待あるどっちにするか決めなさい」

 言われ、少し考えた後レイフォンは片方の名前を言う。

「そっちね。じゃ、そういうことで書類送っておくから。出てく準備しとくなさいよ」
「了解しました」

 何を揃えるべきかレイフォンは考える。まあ、それほど荷物は持ってない。大して時間はかからないだろう。

「今日はこれで終わり。帰りなさい。今後は何か来たらそっちに封筒贈るから」
「分かりました」

 段取りを決めながらレイフォンはアパートへ帰っていった。













 旅立ちの日はいつも少し風が強い。
 宙に浮いた放浪バスが小さく揺れその身の不安定さを表しているようでつい視界に映してしまう。
 都市の足が規則的に動くのが視界の端に映る。中心部から遠く、都市の足の振動が強く現れるここは地面が震え改めて自分の世界の怖さを思い出されそうになる。自分たちの住む地が人工物なのだと。
 次にここに帰ってくるのはいつになるだろう。いや、帰れるのだろうか。ふとそんな思いにまで囚われる。
 そんな事を思いながらレイフォンはバスの停留所にいた。
 用意した荷物は大きめのカバン一つと小さいカバン一つ。腰元に錬金鋼。それで全てだ。
 近くにいるクラリーベルとアイシャも似たようなものだ。見送りのリーリンとデルクだけが何も持っていない。

「グレンダンから出るのは初めてです。ちょっと楽しみですね」

 クラリーベルが楽しそうに言う。

「バスってどんな感じなんですか?」
「どんな感じって……割り当てられた簡単なスペースがあってそこで寝ます。長期滞在用の機能はあるので慣れるとまあ、ちょっと窮屈だけどそこそこ普通ですよ」

 何度も乗った経験と、シンラたちの放浪バスでの経験を踏まえ言う。

「二度目ねこれ。戻って一年経たずにまたレイフォン出て行っちゃうなんて……」

 リーリンが淋しげに言う。

「ゴメンねリーリン」
「今度は数年よね。手紙ちゃんと送りなさいよ」
「分かってる」
「変なことしないように勉強してきなさい。あなた馬鹿なんだから」
「酷いなそれ。……ゴメン、謝ることしかできないけど」

 何も言えず、それしか言えない。言える言葉がレイフォンには思いつかない。
 はあ、とリーリンが溜息をつく。

「……そんな顔しないの。確かにしたことは馬鹿だったけど、あれ、私たちのためにしてくれたんでしょ。ずっとさ」
「……」
「私は、その思いには感謝してる。ありがとね」

 でも、とリーリンは続ける。

「それでレイフォンが悲しむのなら、私は嫌だな。これからはさ、私たちだけじゃなくてもう少し自分のことも大切にして欲しい。色々頑張って、ちゃんと帰ってきてね」
「……うん。ありがとうリーリン」

 放浪バスが下ろされ人が乗り始める。

「レイフォン、行こう。私たちで最後」

 アイシャに呼ばれる。既に二人はクラリーベルとアイシャはバスの入り口近くにいる。
 そちらに行こうと足を向けたレイフォンに今まで無口を貫いていたデルクが声をかける。

「レイフォン」
「……何、養父さん」

 レイフォンは振り返る。

「かつて……」

 デルクは何を言うべきか迷うように暫し口を閉ざし、言う。

「かつていた私の兄弟子は都市の外に出た。先代王が命じたサリンバン教導傭兵団。兄弟子はその一員であり、団員の多くはサイハーデンを使うという」
 
 続きを待つように、レイフォンは耳を澄ませる。

「サイハーデンの者は、外に流れるように出来ているのかもしれん。留まった私は知らずの内に理を忘れていた」
「理?」

 デルクが何を言っているのかレイフォンには理解できない。

「知らぬを知り、学ぶを学べ。行ってくるといい」
「……」
 
 その言葉が何を意味するのかレイフォンには分からない。だがデルクはそれ以上何も言おうとしない。
 だが少なくとも、確かな見送りの言葉を貰えた。それがレイフォンには嬉しい。

「……行ってきます」

 その言葉を最後に家族二人に背を向ける。
レイフォンは共に行く二人のもとへ向かいバスに乗る。
 
「遅かったですね。何か話してたんですか?」
「見送りの言葉を」

 クラリーベルに簡潔に答える。
 席はクラリーベルの希望によりクラリーベルが窓側、一つ横がレイフォンでその一つ横がアイシャだ。
 荷物を置き、暫くするとエンジンがかかりかすかに揺れる。
 そして景色が変わっていく。


 
 大地を進み揺れる車体の中、外を見ていたクラリーベルがふと振り返る。

「学園都市、そういえば何て名前でしたっけあそこ」

 その問いにレイフォンは視線を横に向け答える。
 確かに共に在るクラリーベルを見るように、その先にある大地の先の到達点を見据えるように。





「――――学園都市ツェルニです」





 
 

 
後書き
 
 ガチリ、ガチリと歯車が回る。回り次の歯車が回る。
 大から小に、小から大に。奇から偶に、偶から奇に。
 迷いなく狂い無く、力が伝わる。一が十に、百へと繋がっていく。
 それは流れだ。渦を巻く大きな流れ。一つの流れが他の流れを回し、廻し、全てを廻すのです。
 
 渦には衝突点があった。他の渦との境、力の潮目。
 糸があった。まるでそうあるかの如く決められた意味を紡ぐ、潮目の糸。
 全てを放棄し、放棄させられ、そのことに気づかず自らの意思だとばかりに動く道化の糸です。
 
 大きな渦があった。どうしようもないほどに大きな渦が。小さな渦などものともしない、莫大な渦。
 境がなく、潮目を飲み込む。
 残酷なまでの力の前に抗いは成されない。
 さあ、糸は気づけるのだろうか。

 その在り方が失われたことに。
 
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