SNOW ROSE
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兄弟の章
Ⅵ
ケインの訃報がジョージの下へ届いたのは、葬儀から六日後の九日になってからのことであった。
その日もジョージ目当ての客で店はごった返していたため、その訃報を知ったのは深夜になってのことだった。
サンドランドがジョージが部屋に戻る際、その薄い封筒を渡したのである。
その封筒は簡素なもので、筆跡はアインガンのものであることも分かった。
部屋に戻ったジョージは、その字に違和感を感じて直ぐに封を破いて中を確かめた。
手紙を読んだジョージは愕然とし、力なくその場に座りこんだ。その拍子に、近くの椅子を倒してしまい、その音を聞いたサンドランドは何かあったのではないかとジョージの所へやってきた。
「ジョージ、一体どうしたんだ。」
部屋に入ったサンドランドはジョージの異変に気付き、彼の手にしている手紙を取って目を通したのであった。
「これは…!」
それは彼の弟、ケインの死を報せるものであったのだ。
「ジョージ、何をしてるんだ!直ぐに発ちなさい。埋葬が済んでるとは言え、かけがえのない者が亡くなったのだ。ここは気にすることはない。直ぐに支度を整えなさい。さあっ!」
半ば放心状態のジョージを、サンドランドは叱咤しながら此方へと呼び戻した。それから残っている従業員に伝えるべく、ジョージの部屋を後にした。
ジョージは衰えた気力を振り絞り、身仕度を整えた頃には既に馬車も到着していた。
「ジョージ、暫しの別れだ。村には居たいだけ居て構わん。こちらは皆でお前の居場所を守ってやるから、気にすることはないからな。」
そう言うサンドランドの後ろには、従業員の大半が顔を揃えていた。
「みなさん…。」
旅立つジョージを、残っていた皆が見送りに出てきていたのだ。
そして徐にジョージの前に出てきて弔辞を述べ、銅貨を一枚ずつ渡し始めた。
これはこの土地に伝わる風習であるが、本来は親しい者へ行なう行為でもある。
それは、ジョージが皆に認められている証でもあった。
「ありがとうございます。ケインの弔いが済みましたら、必ず帰ってきます。」
ジョージは皆に挨拶をすると、そのまま馬車に乗り込んで扉を閉じようとしたその時…。
「ジョージ、これを持って行きなさい。」
そう言ってサンドランドがジョージへと差し出したものは、ホールに飾ってあったあのリュートであった。
「そんな…こんな高価なもの…。」
ジョージは躊躇した。
だが、そんなジョージを見てサンドランドは優しく微笑んだ。
「これはもう君のものだ。弟のために音楽を奏でてやってこい。」
そう言われたジョージは、涙を見せながら「はい。」と返答し、そのリュートを受け取ったのであった。
その後、店の人々に見送られながらジョージは出立した。
最愛の弟、ケインの待つメルテの村へ…。
ジョージが村に到着したのは、三月十五日のことである。
彼が村に入った時、大勢の村人が出迎えてくれていた。
「これは一体どういう…。」
ジョージは戸惑った。帰る日時を伝える手紙も出せぬまま、ここへ向かったのだから。どうして自分がこの日に到着すると知ったのだろうか。
「お帰り、ジョージ。」
祖父母が彼の前に歩み出た。何年も会っていないような感じがするのは、きっと…。
「ただ今戻りました。遅くなってすみません。ケインのこと、本当にありがとうございました。」
「何を言ってるんだよ。兄弟そろって同じようなことを…。」
ジョージの言葉に、祖母は涙目になって答えた。それから、この日に到着することを何故知ったのかを話した。
「実はね、昨日の夕方に手紙が届いたんだよ。お店のオーナーさんから。」
「サンドランドさんから!?」
ジョージは驚いた。この日に間に合わせるためには、高額の速達馬車を雇わなくてはならない。
― サンドランドさんには、いくら感謝しても足りないな。 ―
ジョージはサンドランドの細やかな気遣いに、心の底から感謝していた。
そんなジョージに、祖父が話し掛けた。
「良い御方に巡り合えたのも、きっとケインのお陰かも知れんな。さぁ、早く行っておやり。楽師の音を聞かせてやってくれ。」
「何故僕が楽師になったことを…。」
「なに、手紙に全て書いてあったわい。お前がどれ程頑張っていたのかものぅ。ケインも、さぞ喜んどるだろうて…。さぁ、みんなで行こう。」
「はい…。」
そうして彼は、サンドランドから頂戴したリュートを携え、ケインの真新しい墓の前に行ったのである。
その墓は簡素なものであったが、周囲は花で飾られ、素朴な良い墓であった。
「ケイン、帰ってきたよ。遅くなって、ごめんな。結局、お前には何もしてやれなかった。せめて…逝く時だけでも、傍に居てやりたかったよ…。」
ジョージはそう呟くとリュートを取り出し、男爵の前で歌ったあの歌曲を歌い始めた。
あまりにも切ないその歌声に、老夫婦のみならず、周囲の村人達も涙したのであった。
― この歌は、ケインにも届くだろうか… ―
あまりにも早すぎた弟の死。それとは反対に手に入れた幸運。
ジョージは心の中で葛藤していた。
今まではケインのために生きて行くことが目的だった。二人で暮らせる日を夢見ていたのだ。
しかし、ケインが逝ってしまった今、新たに訪れた夢を追い掛けても良いのかと…。
その答えを持つ者はいない。それは解っている。自ら決断せねばならないことであるのだから。
やがてリュートの響きが止み、辺りには春の日の閑かな静けさだけが残った。
暫らくは静かだった。風が草木を揺らす音や小鳥の囀りだけが聞こえていたが、そんな中、祖父が一冊のノートをジョージに渡した。
それはノートとは言っても、端を紐で結わえてあるだけの簡素な紙束であった。
「これは…?」
「見てみなさい。」
祖父は寂しげな笑みを見せてそう告げたので、ジョージは表紙をめくった。
「…!」
それは楽譜帳であった。作者はケイン・レヴィンと記されている。
「ケインの…。」
その中を見てみると、一曲目に<親愛なる兄に捧げる序曲>との記載があった。
ここで言う「序曲」とは、簡単に言えば「組曲」を示す。曲の冒頭に長大な序曲を置くため、このように言われているのだ。
一通りそれに目を通したジョージは、静かにリュートを奏で始めた。
雄大な序曲に始まり、アルマンド、クーラント、サラバンド、ガヴォット、ブーレ、そしてジーグ。そこまでは伝統的な組曲の形だが、終曲だけが違っていたのだ。
“ファンタジア”と記された終曲は、例外中の例外だった。
だが…理由は理解できていた。その曲は、父マルクス作の編曲だったからである。
マルクスが短調で作曲したものを長調に転調し、かなり手を加えてあった。
― ケインらしいや… ―
この春の陽気を音楽にしたら、きっとこんな風になるのではないかとジョージは感じた。
― ケイン…。お前が父さんから作曲の手解きを受けられたのは、たった二年程だったのに…。 ―
兄も弟も、未来のために勉強に励んでいたのだ。それも、心配掛けまいと隠しながら。
ケインは、兄がリュートを練習していることに気付いていた。その指先が父のそれにそっくりになっていたからだ。
残念なことにケインには、兄と共に演奏する程の力は無かった。そのため、父から学んだ作曲法を独自に発展させ、兄のために曲集を編纂していたのであった。
序曲(組曲)が六曲、協奏曲が四曲、ソナタが二曲。そして歌曲が十二曲纏めてある。
ずっとベッドの上で、見つからぬ様に書いていたのであろう。その厚みのある楽譜帳は、ケインの人生そのものであるかのように思われた。
浄書もされぬままであったが、ケインの筆跡は美しく直ぐに演奏出来る状態であったのは、彼の才能を示すものに他ならない。
― どうして…こんなに早く逝ってしまったんだ…! ―
何も出来なかった悔しさと、最愛の弟を失った淋しさや哀しみ。それから未来を見つめている自分への腹立たしさ。
ジョージの胸の中には今、いろいろな感情が交錯していた。
それでも、ケインが書き残してくれたこの曲集を、後世へ残したいとジョージは思った。それが今の自分に出来る精一杯のことであると考えたからだ。
― 奏で続けよう。神がこの命を召されるまで…。 ―
それは、亡き弟への一番の手向けでもあった。
その後、ジョージは約二ヵ月間村へ留まり、演奏活動と作曲を平行して行なった。
時には隣村からの依頼で演奏に出掛けたり、恩ある子爵への感謝として演奏会を催したりもし、目の回る様な忙しい日々を送っていた。
作曲では弟ケインを偲ぶ葬送モテットを書き、村の教会で初演した。
無論、演奏会ではケインの曲も演奏され、その人気は高かったと言われている。
ジョージがそうやって活動していた時、老夫婦は彼のサポートをしていた。
ケインの曲を演奏するためには、パートごとの楽譜を作らねばならない。そういった細やかな仕事を、この老夫婦は行なっていたのだ。そうやって、少しでもジョージの支えになれればと思っていたのである。
そうして月日は足早に過ぎ、ジョージはサッハルへ帰還することになった。
「ジョージや。お前はこの二月、休む間もなく働き続けた。まるでケインの死を思い出さぬ様しとるみたいに…。わしゃ心配じゃて。見ててこっちが辛いようじゃ。あまり無理はせんでくれ。」
「そうだよ。ケインだってもしお前が倒れでもしたら、心配でゆっくり眠れないじゃないのさ。自分のことをちゃんと考えるんだよ。ケインのお墓は、私たちがしっかり守ってるから心配はいらなからね。」
この老夫婦が心配するのも無理はない。
この二ヵ月、ジョージの働きぶりは尋常を逸していた。殆ど睡眠も食事も摂らずに演奏と作曲に明け暮れて、傍から見れば、それは死に逝くものが必死で何かを残そうとしている風にも見えた。
「大丈夫ですよ。まだ駆け出しですから、このくらいしないと認めてもらえないし、それに男爵様やサンドランドさんの顔に泥を塗るようなことは出来ないから。男爵様へ献呈する曲集は出来てますし、街へ帰ったら暫らく休みますよ。」
心配顔の老夫婦に、ジョージは微笑みながら答えた。
「お前がそう言うんだったら心配も要らんじゃろう。疲れたらいつでも帰ってくるんじゃぞ。ここがお前の帰る場所じゃからな。待っておるからのぅ。」
「分かってます。ありがとうお爺さん、お婆さん。じゃ、行ってきます。」
馬車には、もう荷物は積んであった。浄書されたジョージの楽譜だけは、一足先に街へ送ってあるため手元にはなかった。
その理由は、献呈用に製本するためにサンドランドへ頼んだためである。
ジョージは祖父母に挨拶を済ませると、呼んであった馬車へと乗り込んだ。
ジョージが乗り込んだことを確認すると、馭者は出発のラッパを鳴らし、そうして馬車はゆっくりと走りだした。
その時、走りだした馬車の周りに、多くの村人達が集まってきた。
「また帰っておいでよ。」
「街へ行っても元気でね。」
「いつでも戻って来るんだよ。」
「あの素晴らしい演奏を、また聴かせとくれね。」
色とりどりのバラの花びらを散らしながら、村人達はジョージの出発を祝福してくれたのであった。
ジョージは馬車からその光景を眺め、感動のあまり涙ぐんでしまった。
温かな人達に見送られながら、馬車はジョージを乗せて、この小さな村を後にしたのであった。
旅程は小さな村を二つと、中程に発展した街を三つ経由する本道を通るのが一般的である。
しかし、今回ジョージは道を少し変更し、街を迂回する山道を使うことにした。
名前が知られていると厄介だからである。
二日も旅程が延びてしまうが、物好きな貴族に呼び出されるよりはましと言うものであった。
メルテの村を出てから三日間は、何事もなく平穏に過ぎて行った。
「このまま無事に行けば、後六日程でサッハルに戻れるな。」
雪は残るものの、春も半ばの朗らかな陽気の中、彼は馬車の中で一人呟いた。
まるで目の前にケインが居るかのように…。
馬車はドナという街の外郭にあたる脇道に入った。
辺りの景色は緑に覆われ、近くには谷川があるようである。
「今日は小さな村に厄介になるとしよう。前のコバイユの村では、音楽を大層気に入ってくれた。この村もそうであると良いのだけどな…。」
暖かな陽射しを見上げ、そう呟いた刹那…。
― ガタッ!ゴゥッ!! ―
馬のいななきと共に、大きな衝撃がジョージを襲った。
「な…っ!」
彼はどうすることも出来ずにバランスを崩した。そして浮遊感に包まれたかと思った一瞬、彼の意識は闇に葬られたのであった…。
ジョージの乗っていた馬車は、予定通り山道に入っていた。だが山道に入って少しすると、こともあろうに馭者が居眠りをしていたのである。
馬は弛んだ手綱のお陰で道を誤り、そのまま谷へと落下してしまったのであった。
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