SAO外伝 血の盟約の下に【試し読み版】
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【空拳編】 でーじすっごいよ
忘れもしない。
僕がそのゲームのことを知ったのは、僕の空手が終わろうとしていたころだ。
2022年、10月の半ば。
地元の体育系大学を卒業し、いくつかの空手の大会でそこそこの成績を収めていた僕は、結局空手とはなんの関係もない、大手ショッピングモールに出店している服飾のチェーン店で、スタッフとして働いていた。空手は、簡単な筋トレと型稽古を続けるだけで、もう、誰かと拳を交えることはなくなっていた。最後に試合をしてから二年が経過していて、じゃあ、その間なにをしていたかというと、特になにもしていなかった。先輩の女性にいわせると、僕は割合仕事熱心らしいけれど、特に頑張っているという自覚はなかった。
僕は空手を諦めたわけではなかったが、このまま大会に臨み続けても、僕の望む強さには届かない気がしていた。高校を出るまで通っていた古巣の道場の師範代に、跡を継いでくれないかともいわれていたが、それも違う気がした。なにが違うのかわからなかったけれど、なにか、やり残していることがある気がしたのだ。
僕もそろそろいい歳だった。24歳。小柄と童顔のせいで、下に見られがちだけれど。
肉体的には最も恵まれた時期を通り過ぎて、これから緩やかな斜陽を迎える。
そんなとき、内地の友人から手紙が来た。ゲームのプログラマーを目指していたあの男は、ずばりゲームのプログラマーになっていた。それも、アーガスの。
アーガスといえば、俗世に疎い僕でも何度も名前は耳にしている。今、世界中の注目を集める業界最大手ではなかったか。
ゲーム業界は、ひとりの天才の手によって、僕が子供のころからはまったく想像もつかないような凄まじい進化を遂げていた。天才の名は茅場晶彦。世界を一変させたその技術の名は、フルダイブ。ヘルメット型のゲーム機が発する高密度の信号素子を通じて、あろうことか脳に直接アクセスし、大脳に五感情報をブチ込み、普段体を動かす運動命令は延髄でぶった切って電子情報に変換して、仮想世界の仮の肉体へ出力するという変態な、もとい、大変な技術だ。これによってプレイヤーは完全なる仮想世界を見て、聞いて、感じて、その中で自由に冒険できる。このとんでもない技術は現在、茅場晶彦を有するアーガスとその関連企業の独占状態らしい。
僕はこのフルダイブ体験というやつが非常に気になってはいたのだけれど、脳に多重電界でダイレクトに、とか、大脳接続、とか、マイクロヴェーブで云々、とかいったSFめいた単語に恐怖を煽られて、購入を尻込みしていた。え、これ危なくないの? だいじょうぶ?
それに体を実際に動かせるといっても、当然のことながら動くのはバーチャル世界の架空の身体で、生身の肉体じゃない。ゲームで遊んでいる間リアルの身体は寝たきりである。身体、鈍るだろ。
だが手紙によれば、僕の友人はこの、夢のフルダイブ型ゲーム機、ナーヴギア最新作の開発に携わったそうだ。なんてこった。
タイトルの名を、ソードアート・オンライン。
略称は、SAO。
これはバーチャルリアルゲームでは初のMMORPG、つまり大規模オンラインのロールプレイングゲームだ。日本中の、ゆくゆくは世界中のプレイヤーが同時にアクセスし、時に争い、時に協力しながら、広大なフィールドを駆け巡り暴れ回るのだ。
舞台は、全百層からなる空飛ぶ鉄の城、アインクラッド。
草原があり、森があり、湖があり、山があり、町があり村がある。
プレイヤーたちは、各層を上下に繋ぐ唯一の通り道である強敵待ち受ける迷宮区を突破し、己の剣を頼りにこの城の頂点を目指す。
そう、剣だ。
このゲームに魔法はない。
代わりにあるのは、多種多様な無数の得物と、それを扱うソードスキル。
どうしてこんな設定にしたかというと、五体を存分に暴れさせてフルダイブ環境を最大限に体感させるためで、このコンセプトを発案したのもやはり茅場晶彦で、ひとつひとつのソードスキルを丁寧にデザインしたのもほとんど茅場晶彦だがしかし、友人は開発スタッフにリアルの格闘技経験を買われて、この一部をデザインさせてもらったそうだ。
曰く、是非ともこれをお前に体感して欲しい。
自分は開発者としてのコネで一か月のβテストを存分に楽しんだ。だからテストプレイヤーに贈られる正式サービスの優先購入権をお前に譲る。次のロットが出たら一緒に戦おう。
待ってろ。せいぜい腕を磨け。
手紙にはなんと、ナーヴギア本体と、SAOのソフトの優先購入権プロダクトコードが同封されていた。恐ろしく気前がいい。このゲームの初期ロットはたったの一万本で、手に入れようと思ったら何日も徹夜してショップに並ぶか、凄まじい倍率の抽選を突破してテストプレイヤーとならなければならない。ナーヴギア本体は高価だし。
そしてもう一つ、奇妙なものが同封されていた。B5版の紙が一枚。ほとんど白紙だ。中身が真っ白いスカスカの円形が、用紙いっぱいにそっけなく描かれているだけ。
いっぱいに描かれた円形にはしかし、東端に近い一点に×印がひとつある。
上部に一文だけ記された但し書きにはこうあった。
【Second Floor】
第二層の、ここに来い、ということだろうか。
もう僕は、ここまでされたらこの世界に行かないわけにはいかなかった。これは彼からの、極めて明確な挑戦状だ。どうだ、やってみろ、という無言の挑発。
別れ際の喧嘩組手の、リターンマッチ。
上等。
受けて立とう。
そしてついに、その時。運命の瞬間、という表現はちっとも大げさではない。
SAO正式サービスが開始される、2022年11月6日、日曜日。13時ジャスト。
玄関のルーターに近く、電波状況の一番いいリビングに陣取ることに決めた。
電源コードを部屋の隅のコンセントから引っ張る。
ナーヴギアは、フルコン空手の試合で被ったスーパーセーフに似ていた。いかにもこれから戦いに赴く、という感じ。その首元近くのスロットに、SAOのROMカードが差し込まれていることをしっかりと確認する。
籐製の椅子にぎしりと腰かける。正面にはテレビがあるが、今日はくつろぎに来たわけではない。戦いに出るのだ。僕は真っ黒い流線型のヘッドギアを被り、顎の下でしっかりロックした。そして、
「……ケンジ兄ィニィ?」
耳慣れない声を聞いた。か細い、女の子の声。
我ながら兄としてどうなんだと思うけれど、振り返ってこの目で見るまで、本気で誰だかわからなかった。
淡い茶髪をふわふわと遊ばせて、よそ行きの、ウール地のコートに身を包んだ少女が、台所から顔を覗かせて、怪訝そうにこちらを見ていた。
しばらく疎遠になっていた実の妹だ。
僕の記憶が確かなら、今、19歳。大学生。
別に仲が悪いわけではないのだけれど、部屋も歳も生活リズムも離れているし、いつもは話す用もない。
もう半年くらい、まともに口をきいていない気がする。
今日に限って、どうして。
「あー……」と、僕は唸った。
彼女は黙ってこちらを見ている。どうしてしまったのか。
「ごめん、ここ座る? ……テレビ見る?」
ひとまずそう訊いてみると、彼女はふるふると首を横に振って、柔い茶髪を揺らした。
そして僕の正面に回り込むと、足元に屈んで僕の顔を覗いてきた。
感情の読み取りにくい、ボリュームのあるマスカラ越しの上目遣い。
「それ、ナーヴギア?」
「う、うん……」
「高いんでしょ……、どうしたの?」
か細く、抑揚に乏しい声で訊いてくる。無駄遣いを咎められているのだろうか。
僕はやや慌てて応じた。
「えっと、友達に貰ったんだ。コネで。開発スタッフなんだって」
「そう……、いまから入るの? ゲームの中」
「うん、そのつもり……」
僕が躊躇いがちに答えると、彼女は立ち上がり、こちらを見下ろした。
「剣で戦うヤツでしょ」
「……よく知ってるね」
「友達がいってた。それにケンジ兄ィニィ、戦うの好きでしょ……」
彼女は首を傾げて、ふわりと髪を揺らめかす。
そんな風に改めて訊かれると、ちょっと困る。
「ん……」と、僕は曖昧に唸ってしまう。
彼女もさしたる答えを期待した訳ではなかったのか、微笑んで続ける。
「しょうがないね、ケンジ兄ィニィは。……でもよかった」
「……うん? なにが?」
「ゲームなら、怪我しないし死なないもんね」
「うん、まあ……」
「もう心配しなくていいんだよね、ウチら。昔は兄ィニィ、いつか死んじゃうんじゃないかってずっとみんなで心配してたから」
「大袈裟だよ」
「大げさじゃないモン」
眉をひそめて睨まれた。なまじ美人なので怖い。
僕の妹はこんな顔をする子だったかな、と思う。
「……ごめん」謝る。
申し訳ないとは、思っていた。僕が今、空手を休んでいる一因でもある。
もう僕はこれから、家族に心配をかけず、穏やかに老いてゆくべきなのかもしれなかった。
「……まあ、もういいや。じゃあ、気の済むまで暴れてくるといいよ。ログインするとこ、見てていい?」
「……なんか恥ずかしいな」
「いいでしょ。あのセリフ生で聞きたいの。CMでやってたやつ。ほら、いってらっしゃい」
「……しょうがないな。いってきます」
こんなに妹と話し込んだのは本当に久しぶりだった。
これからは、もっと家族を大事にしようかな、と思う。今度なにか贈ろうか。そういえば年末が近い。
クリスマスに、プレゼントでもしてみようか。
そんなふうに心に決めて、けれどもそれは結局、口には出さずに、僕は異世界へ飛び込むための魔法の言葉、そして自らを電子の牢獄に縛りつける呪いの言葉でもある一言を唱えてしまった。
「リンク、スタート!」
瞬間、あらゆる音と色と匂いが消える。背にもたれた椅子が遠ざかる。
海の底を揺蕩うように、無感。
暗い、と思ったのはしかし一瞬、前方からいくつもの光が突っ込んでくる。眩く流れる星々が後ろへ突き抜けていく。気分は宇宙船の乗組員だ。ワアァーーーーーーープッ!
目の前に矩形のウィンドウが咲いた。
極薄で透明で宙に浮いているホロ・キーボードを、ガラス細工みたいに透き通っていて肘から上がない架空の手を使って打つ。IDとパスワードを入力。
【どちらのアカウントでログインしますか?】という質問に、僕はテストプレイ時の友人のアカウントではなく、事前に自分で作成したそれを選択した。これから異世界を戦い抜くための、僕の分身。身長体格は現実そのままで、顔は……、眼光鋭い、戦士然としたイケメンにした。
再び、ワープ。
虹色のリングをいくつも通り抜ける。
途端、降りていたエレベータが下階に到達したように、足元に圧力を感じた。立っている。自分の足で。さっきまでソファに座ってたのに。
世界が開けた。
聞こえてきた深く重い唸り声のようなものが、歓声の形に整っていく。
光。あやふやな色と輪郭に、徐々に焦点が合ってゆく。
一面石畳の、巨大な円形の広場だった。
人、人、人が多い。
髪と瞳の色をとりどりにカスタマイズし、古代の戦士めいた簡素な服装に身を包んだ眉目秀麗な男女の群れが、まだ増える。次々に青白い光と共に現れる。恐らく一万人近いであろう、凄まじい密度の群衆が、拳を突き上げて歓声を上げている。
目の前にシステムメッセージが開いた。
【Welcome to Sword Art Online!!】
手を上にかざして、眺めてみる。デフォルメされたそれには、毛穴も産毛も血管も、指紋も掌紋も見当たらず、当然拳頭が異様に膨らんでいたり、皮がゴツゴツと厚くなったりもしていない。けれど、確かに自分の意志で動いた。小指から順番に丁寧に関節を折り曲げ、爪を指のつけ根に食い込ませ、最後に親指の腹でがっちりと中指と人差し指をホールドしてみる。
拳を、突き上げた。
「このゲームでーじすっごいよぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
―――さて。
恥ずかしげもなく地元の訛り丸出しで叫んでしまってから、二時間ほどが経過していた。
場所は同じく、はじまりの町、中央広場。
五メートルほどの距離を挟んで、ひとりの男性と向かい合っている。
深い青の衣服に身を包み、艶めいた長髪を腰まで垂らした細身の男。頬から顎への鋭い輪郭に縁どられた顔面の中央を、シュッと美しく徹った鼻筋が突き抜ける。けれど鋭く吊り上った目は落ち窪んでもいて、イカれた感じに光ってらっしゃる。
ペロリ、と舌なめずり。舌なめずりしたよこの人! でーじ怖いんですけど!!
なにを思ってあんなアバターを使っているのだろう。せっかく好きにデザインできるのだからもっと実直な美形にすればいいのに。かくいう僕も、体格は現実そのままに、現実の僕よりもちょっとだけ眼光鋭くて鼻が高いイケメンアバターを使用している。あれはもしかすると、オリジナリティを追求した結果なのか。それとも対戦相手を威圧する意味合いが含まれているのか。だとすれば僕は完全に彼の術中にハマっているといっていい。ビビりまくり。
目の前にはシステムメッセージ。内容はこうだ。
【Diavel から 1vs1 デュエルを申し込まれました。 受諾しますか?】
いや、でも……、逃げるわけにはいかない、よね。
後書き
全文はハーメルン様で公開しております。m(__)m
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