義愛
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5部分:第五章
第五章
「俺みたいなのでも」
「勿論だとも」
それに対する森川の返事もまた彼にとっては信じられないものであった。森川にとっては当然のことであってもである。
「わしもな。しがない農家の出だったのか」
「俺達みたいにですか?」
「そうだな。同じかな」
昔を懐かしむ目をして語る。
「子供の頃からな。何かと泥に塗れていたさ」
「そうだったんですか」
「だがわしでもこうして昔ならその武士がやる職務に就いている。だからな」
「俺達も」
「そう、武士になれる」
そう言って少年を見る。
「だから頑張るんだ」
「はい」
まるで雷に撃たれたかのような衝撃だった。彼にとっては信じられない言葉であった。
「駐在さん、俺やります」
森川の顔を見て言う。余り背の高くない森川を見上げるということはなかった。
「立派な武士になります」
「そうか、頑張れ」
森川はそんな彼に声をかける。
「そしてな」
「ええ」
「立派な人間になるんだ」
「わかりました」
こうしたこともあった。森川は村民達と共に生き、共に笑っていた。そうして彼等の為に尽くしていた。だがそれは不幸な形で幕を降ろすこととなった。
旱魃が起こったのだ。それも類を見ない程の。貧しい村はこれで忽ちのうちに窮することとなった。
「大変なことになってしまった」
森川はその事態を見て深刻な顔になった。
「人々は餓え、しかも匪賊まで出るとは」
食べるものもなく安全まで脅かされている。この村に来て依頼の危機であった。
「どうすればよいものか」
「私達は大丈夫です」
長老は心配してやまない彼にそう言って安心させようとした。
「ですから」
「いや、そうではありますまい」
だが森川は村民達のことは誰よりも知っている。それが嘘であるのはすぐにわかった。
「このままでは村は」
「ですが旱魃ですし。どうしようも」
「いや」
だが彼には考えがあった。
「何とかなります」
「その何とかとは」
「まずは私の家に餅や礼物があります。それを皆さんにあげましょう」
「しかしそれだと駐在さんが」
「何、大丈夫です」
長老を安心させる為に微笑んだ。
「私は国から給与を頂いておりますので」
それはかなり少なく、しかもそれから教師を雇っているのだ。生きていくのに本当にギリギリであったが彼はそれは口にはしなかった。
「御安心下さい」
「はあ」
長老もまた森川のことはわかっていた。だが彼の心を察し何も言えなかったのである。
「ですから」
「わかりました。では」
長老は彼の贈り物を受けることにした。
「有難く頂きます」
「ええ、どうかこれで窮を凌いで下さい」
森川は餅等を村民に贈った。これで何とか糊口を凌いだ。しかし。今度は別の問題が起こったのである。
総督府が漁場に対して税をかけることを決めたのである。これは貧しい村にとっては一大事であった。今でも生きるか死ぬかであったのにこのままでは生きるころが出来ない。森川をまた苦悩が襲ったのであった。
森川は村民達の声を聞き、そして辺りの村が何処も大変な窮状にあることを調べた。そしてそれを持って上司のところに向かったのであった。
彼は暑に入った。そこで園部という警部と会った。彼の上司である。
「税を免じて欲しいというのか?」
「はい」
森川は答えた。二人は今園部の部屋で向かい合っていた。森川が立ち、園部は座って話を聞いていた。
「旱魃もあり今のままでも生きるか死ぬかなのです。それで今税を増やされると」
「村が立ち行かなくなるというのだな」
「その通りです」
森川はその言葉にこくりと頷いた。
「ですからここは」
「森川巡査」
園部は彼の顔を見上げてその名を呼んだ。
「今我が国がどういう時なのかわかっているのか?」
「それは」
「わかっているだろう。下手をすれば露西亜との戦争だ」
園部は深刻な顔で森川に語った。
「露西亜は強い」
「はい」
「勝てると思うか?思わないだろう」
「それはそうですが」
両国の力の差は圧倒的だ。正直に言えば誰も勝てるとは思えないものがある。それは誰もがわかっていた。当時の指導者達ですら。あの山県有朋ですら。最後の最後まで迷っていたのだ。そうした相手だったのだ。だがやらなければならなかった。それもまた事実であった。
「今は少しでも力が必要だ」
「その為ですか」
「そうだ。だからこそだ」
「それはわかります」
森川は一旦はそれに頷いた。
「ですがそれでも」
彼は村民達の為に。あえて言ったのである。
「お願いできませんか」
「無理だ」
園部は首を横に振った。
「これは台湾全体のことなのだ」
「しかし」
「では森川」
園部は森川の顔を見据えた。
「では君は。ロシアに敗れてもいいのか」
「それは・・・・・・」
「負ければどうなるか。わかっているだろう」
「・・・・・・はい」
苦渋に満ちた顔で頷いた。
「この前の北京の騒動で奴等は相当なことをしたのは聞いております」
「奴等は鬼だ」
園部は言った。
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