牡丹
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1部分:第一章
第一章
牡丹
中国後漢の末期の話である。この時代の中国は大いに乱れていた。
黄布賊からの兵乱はやがて群雄割拠の状態となり天下はどうなるかわからない有様であった。その中で都を制圧したのが董卓という男であった。
字を仲穎という。とてつもない大男でありその力は素手で牛を倒せる程であった。しかも両利きであり左右交互に弓を放つことができた。彼は北の異民族の血を引いていて馬を操ることもそれを使った戦いも得意であった。
親分肌の人物であり部下には気前のいい男であった。だが同時に強欲で敵に対しては残忍であり目的の為には手段を選ばない。肥満した身体に濃い髭、彫のある顔には燃え上がるような二つの目があった。よく言えば豪壮な、悪く言えば粗野な、そうした男であった。簡単に言うと漢民族とはまた別の考えの男であった。
彼は都洛陽に入るとそのまま権力を掌握し若い皇帝を廃して新たな皇帝を立てた。そこからさらに先の皇帝や自らに反対する者を次々と粛清して実質的に漢王朝を乗っ取ってしまった。彼の横には様子である呂布がおり、また彼自身の力もあり誰も逆らうことはできなかった。
この呂布という男もまた厄介な存在であった。字を奉先といい西方の生まれであった。その身体はやはり大きく力も技も他の者の追随を許さなかった。その顔は西方の血か彫が深く端整であった。吊り上った眉は雄々しくまるで鬼神のようであった。猛々しい美貌であった。
馬も弓も人の技を遥かに越え力は董卓さえ凌いでいた。とりわけ得意としていたのが方天画戟であり槍の片方に三日月形の刃があるこの武器を自由自在に操ってみせた。そうした男であった。
その彼が董卓の横にいる限りは誰も何もできはしなかった。董卓は彼を養子としており絆も深い。そんな彼等を見て人々はただ溜息をつくだけであった。
多くの者は彼等の専横と横暴に嫌気がさし朝廷を去っていった。その中で僅かに残り皇帝に忠誠を誓う者達は董卓の顔色を伺いながらも彼を取り除こうと考えていた。しかしそれは到底為し得るものではなく誰もが溜息をつくばかりであった。
司徒にあった王允もまたその一人であった。彼はある夜自分の屋敷において一人溜息をついていた。
自分の部屋の窓から夜空を見ている。杯を手にただただ溜息をつくばかりである。
「もし」
そこに一人の美しい女が入ってきた。身体は細く触れば折れそうである。黒い髪は長く絹のようである。その切れ長の目は流麗でありその奥に静かな黒い光をたたえている。顔は細くそれでいてまるで絵のように整っている。肌は白くきめ細かい。唇は小さく紅の色をしている。白と桃の柔らかい服に身を包んだその女が一人部屋で溜息をつく王允に気付いて彼に声をかけてきたのだ。
「どうされたのですか?」
「貂蝉か」
「はい」
この女の名を任紅昌という。貂蝉は字だ。王允の養女であり彼は本来名前で呼んでもいいのであるがあえて字で呼んでいるのである。孤児であった彼女を引き取り育ててきた。今ではその美貌と機知、芸への才能で彼の自慢の娘となっているのである。その彼女がやって来たのだ。
「お悩みのようですが」
「何もないと言えば嘘になる」
王允は娘に顔を向けて答えてきた。
「わしの悩みは他でもない」
「やはりお悩みでしたか」
「この歳になるまで漢にお仕えしてきた」
彼は溜息をつくのを止めて答える。
「しかし。今は」
「相国様のことですね」
「うむ」
董卓のことである。彼はこの位にいて専横を極めている。言うならば国の宰相であり皇帝に匹敵する権限を彼は持っていたのだ。それもまた彼の横暴を支えるものであった。
「このまま専横が続けばどうなるのか。わしはそれが心配でならんのだ」
「相国様が身を慎まれることは」
「有り得ぬ」
首を横に振って述べる。暗い部屋の中でその首が幾つかに見えた。
「間違ってもな。それにどうにかしようにも」
「無理なのですか」
「到底無理じゃ。相国の力はあまりにも強い」
腕もたつ。伊達に長い間戦場に生きてきたわけではない。肥満してしまったがそれでも董卓の力も技も卓越したものであり既に刺客をその手で幾人も倒している。また用心深い性格であり服の下に鎧を着込んでもいるのだ。食事の毒見役も幾人もいる。
「しかも。その隣には」
「中郎将様ですか」
「そうじゃ」
呂布のことである。
「あの男には誰も勝てぬ。あの男がいる限りはどうしようもないのじゃ」
「そんなにですか」
「董卓はあの男を常に側に置き養子とすらしている。あの男だけはどうしようもない」
「それでは義父様」
「何じゃ」
娘の言葉に顔を向けてきた。
「相国様をどうにかできるのは中朗将様だけですね」
「そうじゃな」
その言葉に頷く。
「では御二人の仲を裂かれてはどうでしょうか」
「二人を争わせるというのか」
「はい」
貂蝉は答える。答えながら父の顔を見る。
「如何でしょうか」
「それはよいかも知れぬな」
王允はその言葉に思うものがあった。彼等、特に董卓は強欲な男だ。それを使えばどうかなるかと思ったのだ。
「しかしじゃ」
彼はここで言う。
「そう易々とは。わしの持っている宝でもどうにかなるとは」
「では女性ではどうでしょうか」
貂蝉は言ってきた。
「宜しければ私が」
「何っ」
王允はその言葉に息を呑む。娘の美しさは知っている。しかし。彼女を差し出すのは義理とはいえ親として耐えられぬことであった。彼は非情な男ではない。それはできなかった。
「しかしそれは」
「義父様」
貂蝉はここで言葉を強くさせる。
「御心配には及びません。これまでの御恩を思えば」
「いや、ならん」
娘の言葉を退ける。
「それだけはならんぞ」
「ではこうしましょう」
それを聞いた貂蝉は父に言ってきた。顔を窓の方へやる。
「庭に牡丹がありますね。その牡丹の花を持って来ましょう」
「牡丹でどうするのじゃ?」
「花びらが白ならば私は義父様の仰る通りにします。ですが赤ならば」
「行くのじゃな」
「そうです」
彼女は答える。
「それで如何でしょうか」
「うむ、わかった」
王允はそれを聞いて聞き入れてくれたかと思った。彼の家にある牡丹は白いものしかないからだ。
「それではな」
「はい。では」
父に応えて一旦部屋を後にする。王允は娘のその姿を見て内心胸を撫で下ろしていた。これで彼女の早まった気持ちが抑えられたのだと思ったからだ。しかしそれは甘い見通しであった。
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