韓蛾
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1部分:第一章
第一章
韓蛾
中国戦国時代の話だ。
韓の国に韓蛾という女がいた。歌を歌ってそれを生業として生きており時折旅にも出た。旅賃は当然その歌で稼いで旅をしていた。
この時もそうであり東の斉の国に行っていた。彼女はふと斉のある城の門のところで座ると楽器を手に歌を歌い出した。するとそこに立ち止まらぬ者はいなかった。
「ほう、これは」
「いい歌だ」
声もその音感もよく誰の耳にも心地よく残る歌であった。皆その歌に聞き惚れ彼女の前に次々と金や食べ物を差し出していった。とりわけ金を差し出す者が多く彼女の座っている前は銭で土が見えなくなってしまう程であった。
「いや、素晴らしい」
「これ程の歌は今まで聴いたことがない」
「全くだ」
口々にこう述べて金を置いていくのであった。皆彼女の歌に満足していた。
しかしこれで終わりではなかった。歌声の余韻は彼女が門から去った後も門や家の梁、棟木の辺りに残り三日間消えはしなかった。殺風景な門がそれにより全く別の賑やかささえ感じさせられるものになってしまっていた。人々はこれを見てまた彼女が只者ではないことを悟るのだった。
「これが真の歌であるというのか」
「ただ美味いだけではない」
こう言い合い既に何処かへと去ってしまった彼女を懐かしむのであった。やがて彼女は斉の都にまで辿り着いた。ここでも歌い人々の心を打った。しかしその彼女に思わぬ不幸が訪れることになった。
宿に泊めてもらおうとしたその時だった。不幸にもこの時斉と韓は戦の最中であった。彼女が韓の生まれだと知る宿屋の主が彼女を泊めようとしなかったのだ。
「韓の国の人間は駄目だ」
「何故でございますか」
「理由は決まっている」
怒った声で彼女に対して答える。宿の前に立ち彼女を一歩も入れようとはしない。
「今我が国と韓は戦をしているな」
「はい、それは」
このことは韓蛾も知っていた。旅をしている間に聞いているのだ。
「存じていますが」
「ならわかる筈だ」
怒った声でまた韓蛾に告げる。
「あんたを泊めない理由がな」
「お金ならありますが」
「お金の問題じゃない」
主も引かない。
「韓の人間は駄目なんだ。あんたが韓の人間だってことはわかってるんだ」
「それはそうですが」
「これでわかるな。だから駄目だ」
「どうしてもですか」
「そうだ、どうしてもだ」
またしても強い声で語るのだった。
「わかったら帰った還った。いいな」
「そんな・・・・・・」
韓蛾はこう言われて泣くばかりだった。だがその泣き声が自然と歌声になる。それは実に美しくそれと共にもの悲しい歌であった。
その歌を聞いた人々は。誰もが立ち止まった。そして悲しみの中に落ち老いも若きもも涙を流すのだった。流さずにはいられなかった。
「悲しい・・・・・・」
「何という歌だ」
その歌は一度聴くと忘れられないものだった。皆涙を流し食事さえも喉が通らない。寝ても覚めても悲しみに心を支配され胸が張り裂けそうだった。いたたまれなくなった彼等はここで遂に動くのだった。動かなくてはもういてもたってもいられなかったのだ。
「これはかなわん」
「韓蛾だ」
自然と言い合うのだった。
「韓蛾を呼ぶんだ」
「まずは彼女に謝ろう」
「そうだ、まずはそれだ」
その悲しさの前に自分達の狭量さを恥ずかしく思ったのだ。そうしてその中で今彼女に謝罪することを決意するのだった。
すぐに彼女を探して呼び止めた。そのうえで頭を垂れる。
「すまなかった」
「わし等が悪かった」
まずはこう言って謝罪するのだった。
「韓の者だと言って」
「申し訳ないことをした」
「それでじゃ」
謝罪したうえでさらに言葉を続ける。
「宿もあるし」
「金もある」
この場合の金は謝罪のものである。
「そしてじゃ。歌ってくれんか」
「歌を」
こう韓蛾に頼み込むのであった。
「今のままではあまりにもの悲しくて」
「何も食えはしない」
「寝ても覚めても悲しい」
「だから。それで」
そしてまた彼女に乞う。
「何か楽しい歌を歌ってくれ」
「頼む」
「楽しい歌をですか」
それまで黙って話を聞いているだけだった韓蛾が歌と聞いてこの場でははじめて口を開いたのだ。普段はあまり話さない性分であるらしい。
「楽しい歌を歌って欲しいのですね」
「そうじゃ。あんなことをして申し訳ないが」
「それでもじゃ」
「頼めるか?」
こう韓蛾に問うのであった。
「まあ駄目じゃったらいいが」
「あんなことを言ったわし等じゃからのう」
自然と視線が逸れてしまう。罪の意識がそうさせていた。
「けれど。よかったら」
「頼めるか」
「ええ」
だが大方の予想に反して韓蛾は。静かに頷くのであった。
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