| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

ダンジョンに出会いを求めるのは間違っていた。

作者:デュースL
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
 

閑話 第三話

『努力しても天才は超えられない』

 クレアは、それらに類似する言葉全て嫌いだった。努力を頑なに信じているから、という訳ではない。単純に、それらの言葉は言い訳だからだ。

 天才とは何も経験していなくとも玄人、それ以上の技量を持った人たちのことを言う。だが、クレアに言わせれば天才とは凡才よりアドバンテージを得ているだけである。もちろんそのアドバンテージの差が絶対的だから天才と呼ばれているのは理解している。だけど、努力でその差を埋められないというのは理解できなかった。

 努力しても天才は超えられない。当たり前だ、天才だって努力をしているのだから。並大抵の努力をしていても一生差は縮まらない。当然の理屈だ。

 つまり、クレアはこう言いたい。「限界まで努力したことあるの?」と。

 クレアの言葉に万人は否定はしないが、肯定もしない。なぜなら、限界まで努力した人間なんて人類史上存在するはずがないからだ。
 
 努力とは無窮である。限界なんて存在しない。だから限界まで努力することはできない。
 逆に言えば、天才が努力する分を更に上回って努力をすれば超えられる道理だ。努力に限界なんてないのだから、いくらでも努力のしようはある。ならば、天才を超えられるほど努力すれば、超えられる。

 簡単な話なのに、誰もが天才は超えられないと言う。それは甘えだ。努力することから逃げて、天才は超えられないなんて知ったかぶった体でのたまうのは傲慢だ。努力から逃げたような奴が努力を語るな。死ぬまで限りなく努力して、それでも超えられなかったら、そう言え。努力してない奴が言える言葉じゃない。

 超えられない壁があるのなら、壁を掘り進め。掘れないなら足がかりを作ってよじ登れ。それでもダメなら地面を掘って抜けろ。万策尽きるまで考えろ。限界なんて無い、限界だと感じてるうちは限界じゃない。無理なんて言ってる暇があれば考えろ。

 天才も努力するなら二倍三倍の努力をしろ。限界なんて無いのだから。

 努力は裏切らない。努力は報われる。努力は無窮だ。ならば、死ぬまで努力しよう。それで超えられなかったら、私が責任持って『努力しても天才は超えられない』と言おう。

 ゆえに、クレア・パールスは努力する。



 迷宮の弧王(モンスターレックス)。階層主と呼ばれるそれは、名に恥じずその階層に出現するどのモンスターより遥かに上回る力を有しているモンスターだ。一番弱い迷宮の弧王でもLv.2相当の力を持つ正真正銘の化け物(モンスター)が、私の目の前にいる。

 そう言えば昨日の朝、ギルドの看板に『七層階層主出現まで』とかいうカウントダウンカレンダーがあったような……、と半ば他人事のように脳内で呟かれたことに対し、《クルセイド・アント》は再び強烈な彷徨を迸らせた。

「いっ、いやぁっ!!??」

 さっき咄嗟に出た悲鳴とは比べ物にならないくらい小さなものだった。あまりに身分不相応の相手を前に、全身が硬直してしまったのだ。喉からひくっと奇妙な音が漏れ、本能がけたましく警鐘を打ち鳴らす。
 ギチギチと顎の噛み合わせを確かめるたびに、足を地に縫い付けていた見えない根っこが解けいき、蟻の脚が一歩踏み出たところでようやく私の両足が動いた。

『ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!』
「いやっ、来ないでええええ!!!」

 私の全身全霊のお願いを嘲笑うように蟻は私が背を向けて走り出すのと同期させ、その六本の脚で地を揺るがし突進を開始した。その巨体に加え見るからに堅牢そうな甲殻を纏うクルセイド・アントの体重は推して知るべし、あれに踏まれるだけで簡単に潰れてしまうだろう。
 鋸状に切り立った巨大な顎、あれだけの体重を容易に支える脚、刃から身を守る堅牢な甲殻。どれをとっても七層で出現するのはおかしいくらいだ。それが今、私の背後から追ってきている。そう考えただけで両足を(もつ)れさせそうだ。

 Lv.2相当のステイタスも備えているクルセイド・アントと、Lv.1の中堅より少し上くらいのステイタスしか持っていない私が追いかけっこすれば、どちらが勝つか一目瞭然だ。一直線の徒競走に持ち込まれた瞬間、私の負けは確定してしまう。とにかく曲がり角へ逃げ込まなくてはならない。

(まさか初めて来る七層で鬼ごっことか最悪にもほどがあるわよっ!?)

 地の利は向こうに奪われているというだけでも不利極まりないのに、こちらはマップすら解らない即ち逃走経路が解らない。雑魚キャラVS最強キャラの戦いで雑魚キャラに大量のハンデを掛けた試合のようなものだ。むしろ私が勝つ可能性はゼロ───。

「ここで死ぬわけにはいかないのよッッ!!!!」

 負に思考が走りかけた自分に叱咤を、追いかけてくる蟻に強烈な宣戦布告を叩き付けた。まあ、すでに襲われた状態で宣戦布告というのはおかしな話だけれども。

 勝てる可能性がゼロ? なら作れ。無理なんて考えてる暇があれば勝機を見出す方に思考を回せ。恨んでも現状は変わらない、なら現状を変える術を探せ。

 よし!! パニクった頭が調子を取り戻せてきた!! 現実逃避なんざしてる暇があるなんて、私はずいぶんと余裕だな! それを全部思考に回せってんだよこんちくしょう!!

 まずはバックパックだ。こんなもの背負っていたら逃げれるものも逃げれない。中に幾つか回復薬(ポーション)が入っているけど、嵩張るだけ邪魔だ。両肩を広げて腕を後ろに伸ばすだけで簡単にバックパックは私の背から離れ地面に投げ出された。直後にクルセイド・アントの脚に踏みつけられ、幾つもの物資が一瞬で粉砕された音がくぐもってバックパックの中から発せられた。多少の魔石が入っていたけど、知るかそんなもん。まずは身軽になることが先決だ。

 次に逃走経路だ。蟻が出現したポイントの関係上、六層へ引き返すことはできないと考えていい。丁度蟻の肩越しに六階層との連絡路が見えるのが現状だ。無策で巨体の下をくぐるくらいなら未踏の道を選ぶ他ない。
 逃走開始から五秒後に、右手に曲がり角が見えた。ここしかない!

『ギィッィイィィィ!!!』
「うわぁっ!!??」

 あと少しで追いつかれそうになった瞬間、巨大な顎は閉まった状態で私の脇腹目掛けて振りぬかれた。咆哮につられて振り向いた私が見たものはすでに振りかぶっている状態で、私は反射的に転ぶように身を投げ出した。

 ブゥゥゥン!! と皮一枚のところまで顎によって空気が抉られた。背面の服が僅かに引っ掛かったけど、あまりの勢いだったせいで一瞬で千切られただけに留まった。もし勢いがなければ釣られてしまい壁に叩きつけられたことだろう。
 ガンッ! と壁に顎が激突した隙を突いて、僅かな痛みを訴えてくる体を地面から引き剥がして角を曲がった。

 そして、飛び込んできた光景は、三人の冒険者の後姿。

「いぃっっ!!??」

 最悪だ。私が怪物進呈(デス・パレード)を仕掛けようとしているようなものじゃないか。
 私の悲鳴になっていない悲鳴に気づいた三人は鋭く翻ったけど、今は私の背後にクルセイド・アントはいない。丁度曲がり角のせいで姿が隠れてしまっているのだ。

「逃げてくださいっ!!!!」
「あぁ? 何事だ?」
「か、階層主、階層主が私を追いかけています!! 早く逃げ───」
「階層主だぁ? 丁度良いじゃねぇか、俺たちも探していたところだ。おいお前ら、準備しろ」
『おう!!』

 な、まさかあの階層主をたった三人で倒せるとでも言うのか!? いくらなんでもそれは無茶だ! 本来階層主は複数集団(レイド)戦で処理するレベルのモンスターだ。あんな少人数で退けられるはずがない! 
 だけど、もしかしたら彼らはLv.2の冒険者なのかもしれない。そう考えれば、Lv.2相当のモンスターであるクルセイド・アントと交戦する分には問題ない。

「お、お願いします!」
「おうよ、任せな」

 背中に吊っていた得物を手に取ったリーダー格の冒険者の隣を走り抜き、止まることなくそのまま私は逃げ続ける。階層主と戦うとなればどれほどの範囲まで及ぶのか皆目検討つかない。ならとにかく遠くへ逃げるに限る。

『ギィイイイイ!!!』

 遂に迷宮の弧王が曲がり角から姿を現した! 肩越しに振り返った私の目線と蟻の複眼がぶつかるが、ふと複眼が逸れた気がした。私と蟻の間に仁王立ちする三人の冒険者が目に留まったのだろう。

「てめぇら!! やっちま───」

 彼の鬨の声は最後まで続くことはなかった。とんでもないスピードで突進を再開したクルセイド・アントが有無を言わさず三人の冒険者を壁に叩き付けたからだ。あまりの呆気なさに私が呆気に取られていると、蟻の複眼がギロリと私に向いた。「邪魔する奴がいなくなったな」そう言っているように思えた。
 叩きつけられた冒険者三人は壁に減り込んでぴくりとも動かない。気絶しているのか、はたまた───いや、考えるのはよそう。一応相手の合意を得た上で行われた怪物進呈(デス・パレード)だ。下級冒険者がたまたま通りすがった上級冒険者に助けを請うようなものだったのだから、違反ではない。

 生死は不明だが、ひとまず心の中で全力で謝り、右手に握る槍に汗ばむのを感じながら彼らに背を向けて走り出す。
 彼らの犠牲を無駄にしてはならない。それが合法か否かは関係ない、結果として生きながられる道に繋がったのなら、それを全力で活用しなければ彼らに対して失礼だ。

 私と蟻の死の鬼ごっこは、まだ続く。



「はぁっ、はぁっ、はっ」

 口の中に血の味が広がる。喉の奥がひりつくのを誤魔化すようにせり上がってきた唾を飲み下す。

『ギャアアアア!!!』

 背を壁に軽く預けて肩で息をする。曲がり角のすぐ向こうに悪魔の蟻が苛立ちの叫びを迸らせる中、私は少しでも気を抜いた瞬間狂い出しそうな思考を必死に制御し続ける。

 現状は、追い詰められたと言った方がいいだろう。楽観的観測は無駄だ。逃げ道は無いと考えた方が良い。
 今私がいる座標は解らないけど、逃げ込んだ先が『回』という形の部屋なのは確かだ。そして、それが罠だったのだ。逃げ込んだときにはあったはずの通路が、一周回って戻ってきたときには塞がってしまっていたのだ。我が目を疑ったけど、他の壁と色が明らかに違ったから、入った者を閉じ込める罠だったと考えるのが妥当。最悪なのが、一緒にクルセイド・アントも閉じ込められている、ということだ。もしかしたら冒険者とモンスターが踏み込んだ時に発動する罠なのかもしれない。凶悪極まりない罠である。

 一辺約25mの直方体の部屋の中央に、一辺約20mの正方形を底面とした柱がある構造だ。つまり曲がり角が四つ、直線の道が四つある密閉空間だ。そこが私とクルセイド・アントの決戦のリングだ。
 正直言って、これ以上無いほど追い詰められた状況だが、同時にこれ以上無いほど私にアドバンテージが与えられた状態だ。なぜなら、未知の空間を逃げ続けるより把握している空間内で逃げ続けたほうが余程安全だし、曲がり角が四つもあるという性質上一直線上の徒競走に持ち込まれる可能性はぐっと減った。また部屋の真ん中を柱がぶち抜いている構造上、蟻は私が今どこにいるのか瞬時に把握できない。それは私にも言えることだが、向こうはやたらめったら叫ぶし、走るたびに地鳴りが凄まじい、これだけの判断材料があれば大よその現在位置を抽出するのは難しいことではない。

 それにしても、疲労困憊前門の虎後門の狼絶体絶命の状態に陥っても、これだけまともな思考をはたらかせられるのは日々の努力の成果だ。私は常に不利を背負って戦わないといけない身だから、どうしても相手の弱点を突き続けるしかない。相手の弱点を知るには冷静な現状分析をする必要があり、興奮と緊張が強いられる戦闘中に冷静な思考を保ち続けるのは困難を極める。もちろんそれは私が物覚えの悪い人だから、というのもあるけど、六層に足を踏み入れて《ウォーシャドウ》と初めて戦った時に習得した技術だ。

 とにかく冷静になること。少しでも無理だとか、ヤバイとか考えないこと。現状を理解して、どうすれば勝てるか頭の隅で考えられること。常に建設的な心構えを持つこと。これらの要件を頭と体に刷り込んでようやく出来た。刷り込むまでに二年と半年掛かりましたけどね。
 最初は大変だった。考えてれば体がお留守になってぶん殴られるし、相手の攻撃を避けるのにいっぱいいっぱいで考えてる暇なんて無かったし、囲まれるだけで「どうしようどうしよう」の文字が脳内をハイジャックするし……。毎日十五時間ダンジョンに潜って戦い続けてようやく出来るようになった……。それがまさか階層主と1on1の戦闘に活用されるなんて思わなかったよ……。階層主なんて私から見れば仮想上の敵に等しい。一生までとは言わないけど、少なくともLv.2になるまで見ることはないと思っていた。

 閑話休題として、骨の髄まで染み込んだ思考回路によって、密閉空間に閉じ込められた利点を頭の中に並べて、ここから更に勝ち筋を模索していく。

『アアアアアアアアアア!!!』

 閉じ込められたことにか、はたまた雑魚がちょこちょこ逃げ回るせいで攻撃することができないことにか、これほど憤怒と憎悪に満ち溢れた咆哮は聞いたこと無い。鼓膜を叩くたびに本能が体を竦め、いかに自分が矮小かであることを思い知らされ、相手との絶望的なまでの力量を鮮明に理解する。

 だが、それが即ち不可能という訳ではない。私は常に不利を背負って戦っている。背負う不利が少し増えただけ、勝機が潰えたわけじゃない。人は考えることが出来るから、どの生物よりも上に立てるのだ。唯一の武器とも言える思考をフル活用すれば、勝つことは出来る。

 部屋中に反響する咆哮により、蟻が私が身を潜める角を作る通路を爆走しているのが解った。すぐさま私は蟻のいる通路とは逆の通路に駆け出し、再び角へ身を押し込む。蟻の視界に入る前に移動することで、蟻に私の現在位置を知られることなく逃げ続けることが可能だ。それだけで多大なアドバンテージであるのは言うまでもないだろう。

 さて、ここからだ。いつまで逃げていたって密閉空間から逃げ出せるわけじゃない。おそらく、この罠は一緒に閉じ込めたモンスターを全滅させるまで、今回に限って言えばクルセイド・アントを倒すまで出口が復活しないものだろう。というか、そうであってほしい。倒しても出口が戻ってこないとか、それマジ鬼畜だからやめてね? 

 つまり、私が生きて地上に戻るためには、クルセイド・アントを単独で撃破するしかない。文だけ見ると無謀極まりないが、先述の通りこちらに有利な状況である以上、勝機は十分に見込める。

 となると、体格でもステイタスでも負けている以上、クルセイド・アントの弱点を正確に把握するしかない。次に弱点を突ける隙を探し出し、発見次第攻撃だ。何てことはない、敵があまりに強大なだけで、今までと同じ状況だ。楽観的ではないが、精神的にゆとりが出来た。
 弱点を見つけるためにはクルセイド・アントを観察するしかない。私は角からこっそり顔を出し、通路の真ん中で立ち止まっている蟻を凝視する。

 およそ1mの顎は鋏と言い換えて良いだろう。内側に鋸状の牙を生やし、挟んだものを粉砕ないし切断することができるはずだ。顎の力は逃げる途中で確認した通り、ダンジョンの壁を破砕することが出来るほどだ。私が挟まれれば死以外ありえない。
 六本の脚は爪先以外黒い甲殻に覆われており、刃をいとも容易く弾くことだろう。私の攻撃が通る見込みがあるのは爪先だが、これはあまり現実的ではない。蟻は常に足踏みをするため非常に狙いづらい上に、攻撃できても相手の反撃をモロに食らう位置だ。しかし一本でも損傷させることが出来ればこちらに一気に戦局が傾くはずだ。
 全身を覆う黒い甲殻は恐ろしく硬いと聞いたことがある。超有名な刀匠が打ったような業物であれば通るだろうが、私が今持つ槍は一般的な穂先だ。貫けることはないだろう。だが蟻の腹に浮き彫りになっている赤い十字架のような部位にはその甲殻は無い。金属質のような輝きは無いし、僅かな弾力性を感じられる膨らみが見て取れる。一度赤い十字架のような部位に攻撃をしてみて弱点か否か試す価値は十分ある。

 蟻がこちらに振り向く気配を感じ、すぐさま視線を引き剥がし顔を引っ込め、奥の通路へ足音を殺しながら移動する。Lv.2と認定されるモンスターはステイタスの高さだけでなく、僅かな思考力を持つことが最大の危険だと言われている。Lv.2に認定されているクルセイド・アントもその例に漏れていなかったのだろう、先ほどの発狂したような行為を慎み静かになった。しかし足音だけは殺しきれないようで、耳を澄ませば拾うことは出来る。厄介極まりない相手だ。

 再び近寄ってくる気配を感じ取った私は移動しながら思考し続ける。弱点らいき部位を見出せたのなら、今度はその弱点へ至るための切り口たる隙を探さなければならない。蟻の腹は対面した状態だと一番奥へ隠れてしまう。腹を攻撃するためにはまず鋏の攻撃を回避して、六本の脚による阻害を切り抜け、加え蟻の体位の入れ替えをなされる前に辿り着かなければならない。現実的じゃないな。
 となると、蟻の背後から迫るのがベストだろう。体勢の変化以外の問題は解消できる。しかし、背後を取るためには私は通路を迂回しなければならない。その間に蟻が方向転換すればおじゃんになる。これもあまり現実的じゃない。

 どうすれば隙が生まれるか。これがポイントになってくるね。隙を見出す方向から作り出す方向へシフトした方が良さそうだ。

 私が黙考している最中、突如として背筋に絶対零度のような悪寒が走った。

「っ!?!?」

 悪寒の押されたように、私は反射的に体を曲がり角から放り出した。しかし、私の左腕と左脇腹に強烈な熱が迸る。

「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!!!」

 私の絶叫の直前に、バチン! という音が背後から発生した。堪らず脇腹を押さえながら即座に振り向けば、そこには顎を噛み合わせた状態で止まっている蟻。

 バカな!? 確かに思考に集中していたとは言え、足音を聞き漏らしたはずはない! 一体どうやって背後へ!?

 私の驚愕をよそに、鋏の先から私の血を滴らせる蟻は顎を開き、再び襲い掛かってきた。

『ギイイイイイイイ!!!』

 ようやく獲物を食い千切ることができる喜びか、潜めていた咆哮を惜しげもなく轟かせ、必殺の挟撃を敢行した。

「うぅっ!?」

 己の体に鞭打ち曲がり角を挟んだ通路へ転がった。そして鋏が情け容赦なく動いた───が。

 ガガガガガガッッ!! と、片方の顎が壁面を盛大に削り、片方の顎はぶつかる相方を失い丁度90°のところで停止していた。
 不可解な現状に痛みを忘れて見入っていたが、直後に脳裏に閃きが走った。

 そうか! 曲がり角で鋏で挟撃しようにも、片方は壁が邪魔になって挟みきれず、相対的にもう片方も挟むことが出来ないんだ! しかも動かせる範囲が90°までだから、片方だけで攻撃するということも出来ない! 加えて壁に食い込んだ片顎を外すのに時間が掛かる、その時クルセイド・アントは身動きが取れない!

 隙を見つけた私の行動は速かった。床に零した槍をすぐさま引っ掴み思い切って蟻の目の前に踊り出す。予想通り蟻は顎を十分に動かすことは出来ず、私を攻撃することは叶わない。
 迅速に蟻の頭部を通り過ぎ、胸部の真下を走りぬけ、ドス黒い赤の十字架目掛けて渾身の刺突を放った。

『ギャアアアアアアアアアアアアア!?!?』

 入った。穂先が全部突き刺さった。コボルトよりも刃の通りが良い。蟻も思わぬ激痛に断末魔を迸らせ、ビクンと体を痙攣させた。確かな手ごたえに自覚なしの笑みが零れる。
 だが深追いは禁物だ。「これいけるんじゃね?」という予感こそ自身の隙になるのだ。身を以って知っている私はずっと穂先を引き抜いて、素早く奥の通路へ駆け込んだ。

 ブシャアアア、と少なくない血が地面に吐瀉される音が聞こえる中、私も左脇を見て絶句する。
 痛みを忘れていたのではなく、傷が深かったせいで痛覚が正常にはたらいていないだけだった。傷口は黒くなっており、見るも無残な有様だった。幸い左腕は浅く切っただけのようで、出血量は少ない。
 悲しいことに、私は傷を見慣れている。伊達に体で覚えてきたわけじゃない。それだけ私は怪我を負っている。今だって右脇には大きい青痣が出来ている。

 腰に巻きつけてあるポーチのポケットから回復薬(ポーション)を取り出し、蓋を弾いて中身を一気に飲み下す。仄かな柑橘系の風味が口の中で広がるが、血の味が充満する口内では気持ちの悪い味にしか感じない。
 今更になって再び激痛が浮き彫りになり、飲み込んだばかりの回復薬を戻しそうになるが、必死に口を押さえて我慢する。

 びっしりと額に汗を掻き、インナーは体に貼りつく。蟻の絶叫を聞きながら自身の脇腹を確認すると、回復薬の効果が早くも表れ傷口が目に見えて塞がっていく。これで血の跡で私を辿られることは無くなるはずだ。
 少し動くだけで鋭い痛みが突き抜ける体を槍を杖代わりにして起こし、壁に手を付けて立ち上がる。膝が笑っているけど、走れないわけじゃない。左腕も回復しつつあり槍を握れる。体力は尽きかけているはずだけど、アドレナリンが分泌しているせいか実感することはない。

 さあ、どっちが蟻地獄に嵌ったのか、確かめようか。



 今まで生きてきた中で、これほど走ったことは無い。(セレーネ)は息も絶え絶えになりながら、神殿のような造りをするバベルに到着した。

 アパートからバベルまでこんなに距離があるなんて知らなかった……。私の足が遅いのもあるけど、走ってもかなり時間が掛かっちゃった……。こんな距離を、あの子は毎日行き来してるなんて知らなかったよ……。

 やっぱりクレアはえらい子なんだと強く再認識しながら入り口に続く階段に崩れ落ちるように手を付く。まだ日が落ちていないから冒険者の行き来が激しく、通路の端で疲労困憊の体でいるだけで目立つのに、神威のせいで余計に目立っている。

『おい、あれ汗で透けてねぇか?』
『マジかよ!?』
『うおおお!! あと少し、あと少しで見えるのに……ッ!!』

 何やら不埒な囁き声が聞こえるけど、今はそんなことに構っていられるような状況じゃない。いつ家を出たのか解らないけど、クレアがダンジョンに潜ろうとしているんだ。それも迷宮の弧王(モンスターレックス)が出現する七階層へ。

 疲労で悲鳴を上げる両膝を無視して一気に階段を駆け上り、冒険者たちが吐き出される通路へ走る。

「クレアっ! クレアっ!!」

 私の呼びかけに、一斉に冒険者たちが目を剥き振り向いてくる。神はダンジョンに立ち入ることを禁止されている。それはダンジョンが神の■■■■■だからなのだが、ともかくダンジョンへ続く通路に神がいるだけで異常事態だ。

『ちょ、ちょっと待ってください、神セレーネ!? これ以上の侵入は……!?』
「クレアがっ! クレアが危ない!」

 入り口の両脇に立っていた衛兵に羽交い絞めにされても、私は足を止めることは出来なかった。
 クレアが死んでしまうかもしれない。そう思っただけで狂おしい。私の大切な娘が心配で堪らない。このままでは私も心を潰されてしまいそうだ。

 涙が視界を滲ませてきて、何度も声を張る喉が痺れてくる。周囲から奇異な目線が集中し、冒険者たちも皆揃って足を止めて近くにいる者に『クレアって誰だ?』と囁きあっている。

 しかし、私の声に返事をする、あの可愛らしい声は一向に聞こえない。愛おしい姿は見えない。
 まさか、もう時は遅かったのか。背筋がぞっと凍てついた、その時。

「セレーネ……さま……?」
「クレアっ!? 良かった、まだダンジョンには───!?」

 たった今、《大穴》から姿を現したクレアに、憲兵の拘束を振り払って駆け寄った。だけど、最愛の娘の姿は満身創痍と言うべきものだった。

 装備はレグス以外全部ひしゃげて、インナーは肌を隠す面積より晒している面積の方が大きく、空気に触れる肌は全て完膚なきまでに傷が刻み込まれていて、インナーの至る所が赤黒い染みを作っていた。
 上半分が強引に引き裂かれているバックパックを背負っていて、中から黒光りする大きな甲殻と二対の刃のようなもの、鮮やかな紅に輝く巨大な魔石が覗いている。
 杖代わりにされている槍の穂先は完全に無くなっており、残った柄の先端もモンスターの血で汚れている。
 艶やかな藍掛かった黒髪はボサボサに跳ねまくって、可愛い顔も付着している血と埃で台無しになっている。

 地上の床を踏むことが最終目標だったかのように、私が駆け寄ってきたと同時に体を前傾させて、小さな体が力なく私に寄りかかった。いつも抱き寄せている時よりもずっと重く、体にろくな力が入っていないことがすぐに解った。

 こんな状態でいつもダンジョンから帰還しているのか。いや、回復薬を飲んでもこれだけの疲労と怪我は回復しきれない。
 まさかと思ってクレアの顔を覗き込めば、クレアもまた私を見上げていて、力なく笑った。けれど、その笑顔は達成感に満ち溢れていた。

「セレーネ様……私、やりました……。階層主……倒し、ましたよ……」

 囁く程度の音量だけど、周りがあまりにも静かになっているせいで大きく聞こえた。きっと、それはクレアの怪我のことを忘れて、彼女の偉業を誇らしく思ったからだろう。
 クレアの声は取り囲む冒険者たちの耳にも入り、波状にどよめきが走る。クレア自身がバックパックを背負っていて、彼女の傍には私以外の人は誰もいない。つまり、クレアは階層主を一人で倒したということがはっきり解ったからだ。

 胸いっぱいに広がる嬉しさと、堪りに堪っていた心配が遂にはち切れて、私の両目からぼろぼろと涙が零れてクレアの髪を濡らした。

「よくやったね……っ、本当に、よく頑張ったよ……っ!」
「え、えへへ……」

 へにゃんと笑ったクレアは、とうとうぽとんと頭を私の肩に預けた。それっきり動かなくなったけど、クレアの胸が打つ鼓動と耳をくすぐるような小さく規則的な息から、彼女が文字通り全力を尽くしきったことが解った。

「本当に、親不孝な子だよ……」

 だらしのない笑みのまま意識を手放したクレアの頭をぽんぽんと叩き、バックパックを下ろさせておんぶする。脱力している分クレアは重かったけど、それがクレアの中で含蓄していた努力だったなら、私は喜んで背負う。それがクレアの支えになるなら、喜んで。
 気を利かせた衛兵がクレアが持っていたバックパックと槍だった残骸を持ってくれて、私の後をついて来る。

 それから思い出したように、その場にいた冒険者たちはまばらに拍手をし始めた。一秒重なるごとに倍になっていき、最終的にはよく頑張ったと賞賛と歓声を上げる者も加わり、バベルからあふれるほどの拍手喝采が一人の少女に送られた。

 その少女は小さな寝息を立てながらも、ほんの少しだけ口角を更に緩めたのだった。



 後日、ギルドの掲示板にランクアップした者の名前がリストアップされていた。そこに記載されていた名は唯一つ。

 【セレーネ・ファミリア】クレア・パールス Lv.1→Lv.2 二つ名【不屈の奉仕者/セミヨン】
 
 

 
後書き
人物
【クレア・パールス】
努力に関して熱心な以外ただの少女。何の才能もなく、特筆すべき長所もない凡才。
「努力は無窮なのだから、どこまでも進んでいけばいずれ天才を超えられる」という持論を胸に刻み込み日々努力をする。実際その努力は並の人ならば一週間と持たず逃げ出すレベルの過酷さで、しかし本人はそれが当然と考えているせいで努力すること自体は辛いと感じず、むしろまだまだ努力できる余地があると日を重ねるごとに過酷を極めていく。さながら止まることを忘れた車のようである。
因みにクレアの今際の言葉はセレーネとの再会を望むもので、天才は超えられないというものではない。つまり、クレアは『努力すれば天才を超えられる』と己の体験を通して確信している。しかし同時に自分はまだまだ努力できたはずだと嘆いていた。それが思わぬ形で叶ったのは後の話である。
常人ならば一週間で発狂するハードスケジュールをこなし続けているクレアは、窮地において自身の状況と敵の能力を冷静に把握し、 その場で残された活路を導き出すことが出来るようになった。かっこつけて言えば『戦闘論理』の習得である。二年と半年、死と隣り合わせで練習し続けた成果が実り、格上とやり合う術を手に入れた。これによりクレアの今後の冒険者としての実力を大幅に上げることとなる。

クレア曰く私は努力から逃げた奴です。実体験ではないのでご安心を(当たり前 
ページ上へ戻る
ツイートする
 

全て感想を見る:感想一覧