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夜なき蕎麦

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2部分:第二章


第二章

「安心せよ」
「そりゃあなたを倒せる人なんて滅多にいませんけれど」
「何人いようが倒せるからのう」
「やれやれ。相変わらずなんですから」
 そんな夫に困った苦笑いを浮かべるおこわだった。だがそれでもそんな彼を見送ることになったのであった。
 その夜早速家を出る彼だった。しかも一人である。夜の玄関で一人向かおうとする。おこわはその彼を見送るのだった。
 真冬の夜は暗いだけでなく極めて寒い。正芳は綿を入れた服を上に着てそのうえで向かおうとする。おこわはその彼に対して告げた。
「御一人で大丈夫ですか?」
「化け物が出ようとも案ずることはない」
 この場でも妻にこう返すだけである。
「成敗してやるだけだ。何もなければ」
「何もなければ?」
「蕎麦が食えるではないか」
 こんなことも言うのである。実は彼は蕎麦が好物なのである。
「いいことだ」
「お蕎麦もですか」
「左様。それならそれでいいことじゃ」
 こう言ってやはり平然としている。
「それでは。言って来るぞ」
「はい。御気をつけて」
「うむ」
 見送りの後で家を出てその屋台が出るという場所に向かう。右手には提灯があるが火は点けていなかった。江戸の夜は吉原だけでなく結構屋台が多くそれなりに明るいのである。
 それでその灯りを頼りに提灯は持っていても火を点けることなく道を進む。江戸の夜道は寒く冷たい風が吹く。しかし彼はそれをものともせず先を進む。
 遠くに吉原の灯りが見える。彼はそれを見て呟いた。
「あそこはいつも消えることがないのう」
 吉原は江戸で最も華やかな場所である。その明るさはある意味江戸の繁栄の証である。それを見ながら今は左右に商家が並ぶ道を進んでいた。そこには誰もおらず時折犬や猫が見える位である。他には誰もいなかったり冷たい風が相変わらず吹いているだけだった。
 道を進みんでいるとやがて屋台の一つが目に入ってきた。そこは丁度橋の手前にあった。橋は少し上に曲がっている。そして川のせせらぎが闇の中に微かに聞こえていた。
「ふむ」
 まずはその屋台を見た。彼が探しているそこではないかと思ったのは確かだ。実際にその店の提灯を見て見るとだった。そこにはこう書かれていた。
『ニ八手打ちそば切りうどん』
 と。彼はそれを見て頷くのであった。
「ここだ」
 間違いなかった。それを確かめてにんまりと笑い店の中に入った。
「かけを貰おうか」
 こう言って中に入るが店には誰もいない。客もいないがそれと一緒に店の人間もいない。ただ提灯の灯りがそこにあるだけである。
 他には何もなく正芳にしても首を傾げるしかない状況だった。や対は全て木であり席は三人程度が一度に座れる程度の広さだ。そして店からは確かにそばつゆの香りが漂い湯気さえ闇の中に見える。しかしその他は何もなく誰もいないのであった。
「ふむ。こうなっているのか」
 彼はその店の席に座って頷くのだった。
「誰もおらんのか」
 とりあえずそれはわかった。しかしそれで納得したわけではなかった。
 暫く待っていたが誰も来ない。彼はそれに少し苛立ちを覚えて一旦席を立って店の周りを見回した。しかしそこでも誰も見当たらなかった。音一つなく暗闇だけがあるのだった。風に吹かれて川の傍にある柳の葉の揺れる音が聞こえるだけであった。 
 それに首を傾げさせていたがまた席に戻ることにした。しかし待てども待てども誰も来ない。いい加減業を煮やして帰ろうと思った。
「何だ。こういうことか」
 誰もいないということが真相だと考えた。誰かが遠くから見て他人の反応を楽しんでいる、つまり単なる悪戯だと考えたのである。
 それで再び席を立ち提灯に向かった。そうして息でその中の火を消した。
 辺りは暗闇に戻る。彼はそれを見届けたうえで去ろうとした。しかしその時だった。
「どってんとっと」
「どってんとっと」
 不意に何処からか奇妙な声が聞こえてきた。
「どってんとっと」
「どってんとっと」
「何じゃこの声は」
 声を聞いてまずは怪訝な顔になる正芳だった。その顔で周囲を見回す。
 
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