ソードアート・オンライン ~無刀の冒険者~
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epilogue
one day
4畳半の寝室に響く、軽快な電子音。
「んっ……っう……」
決して大きくないその音は、しかし彼女の意識を確実に覚ましていく。お世辞にも朝に強いとは言えない彼女は実に数多くの目覚まし音を試してみたのだが、最終的にはこの電子音が最も効果的であるという結論に達していた。
「彼」、の、勧めてくれた、この電子音。
「……むぅ。……んぅ……ふふっ」
叙述に困るような声を上げて、彼女は起き上がり、大きく伸びをする。その言葉というよりは鳴き声のような音。そこに込めた思いは、彼女だけが知るのだろう。
「さってとっ……ちゃっちゃっ、とやっちゃいましょーっ!」
にやり、と笑って、ベッドから飛び起きる。と同時に、廊下の奥で玄関の開く音がする。―――泥棒、ではない。毎朝計ったように自分の起床と同時に来訪するのは。
「牡丹さんっ! おはようございますっ!」
「おはようございます。今朝もお元気なようで、何よりです」
濃紺の和服にエプロンをかけた、彼女と同い年くらいの女性……牡丹だった。
◆
弾むような挨拶に、牡丹は深々と腰を折る。
「おはようございます。今朝もお元気なようで、何よりです」
「うんっ!」
何でもないことのように頷き、白い歯を見せて笑う、彼女。
それだけで、牡丹の胸は詰まりそうになる。
(本当に、お元気なようで、何よりなのですよ……)
彼女は、誇張でもなんでもなく、生死の淵を彷徨った。牡丹の属する『神月』、そして仕える『四神守』の……そして何より、「彼」の力がなければ、その淵からあっさりと奈落へと落ちていただろうことは、想像に難くない。
そんな彼女が、こんなにも。こんなにも、元気に。
(では、なく。平常心、平常心)
詰まりそうになる声を、なんとかねじ伏せて、挨拶を紡ぐ。彼女にとって今日は別になんの変哲もない朝に過ぎないのだ。いちいち涙ぐまれては彼女も困るだろう。更には自分は別に彼女の無事を確認しに来た、というわけではないのだ。
「……では、早速朝餉の支度を致しましょう」
「はいっ! よろしくご指導ご鞭撻のほどお願いいたしますっ!」
笑顔で敬礼する彼女。眩しすぎるその笑顔に、鉄面皮を自負する牡丹ですら頬が熱くなるのを感じる。それを気取られまいと僅かに顔を伏せて、玄関から廊下へと歩き出す。歩き出す一歩が弾みそうになるのが、自分でも気恥しかった。
◆
「うー……2勝1敗、だーっ……」
「料理に対して、「敗北」という評価はいかがなものかと」
それなりに広い、二人がたっても邪魔にならないほどには余裕のあるキッチンで、ため息をつく、彼女。彼女が「彼のために朝食を作りたい」と言い出してからさほど時間がたっていないことと……何より彼女自身の「背景」を考慮すればそれは驚異的と言っていい上達速度なのだが、牡丹はそれには触れずに当たり障りのない返答を返す。
彼女は、「あたりまえ」であろうとしているのだ。
「いやぁ、失敗、よりもなんというかっ、敗北、のほうがっ!」
「敗北の方が?」
「一層惨めだねっ!」
「そうですね」
「ああっ!? ボケ殺しっ!!?」
当たり障りのない会話をしながら、その真意に思いを馳せる。
―――料理を、教えて欲しいんだっ!
―――やっぱりっ、ここは普通にっ、カノジョとしてさっ!
(……「普通に」、ですか……)
彼女は、「普通」ではない。牡丹も自分が普通だとは思わないが、それと比しても彼女はよく言えば波乱万丈、悪く言えば……過酷な人生を送ってきた。それこそ料理どころかあらゆる「普通」を奪われるような。
(その生活は……「悲劇のお姫様」は、嫌なのですね)
―――えへへっ、やっぱり牡丹さんとはっ、友達ですしっ!
―――なんでも任せちゃうのはこころぐるしーわけですよこれがっ!
彼女は、自分のような従者の仕える「お姫様」ではなく、「友人」を望んだ。
ならばあくまで、「友人」である。
「そろそろ火加減くらいは覚えて欲しいものですね。焦げた分は自分が」
「いやいやいやっ! 私が食べるよ焦げ目玉焼きっ!」
「……しかし、」
「そこははんせーの意を示すわけですよっ!」
自分も、彼女を「友人」と見る。
「使えるべき人の客」ではない、一人の「友人」として。
「病み上がりの病人」ではない、並び立つ「仲間」として。
そして「悲劇のヒロイン」ではなく、「一人の女の子」として。
「では、そのように。早く普通の目玉焼きが食べられるように頑張ってください」
「はーいっ! 了解でございますっ、お師匠さまっ!」
彼女と、軽口を叩き合うのである。
◆
「……ったく……」
そんな二人の会話が、俺には丸聞こえだった。
「まーたアイツは……」
寝起きの頭を抑えながら、深々とため息を一つ。アイツはどうにも自分の体を軽視する傾向がある。今でこそある程度……いや、昔のごとく有り余ってるほど元気はあるものの、一応は病み上がり、になるのだ。
「飯くらいちゃんとしたものを……って、これが牡丹さんの気持ちか……」
ずいぶん前に、己が受けた仕打ちを思い出す。女性にあそこまで無理強いして食え、というのも若干アレだが、それでも焦げたものを食わしていいわけはあるまい。そして牡丹さんもそれはわかっているはずなのだが。
「牡丹さん、アイツには甘いんだよな……」
どうにも彼女は俺に対する対応と違って、彼女にはこのあたり問答無用の押しの強さがないのだ。まあ食事栄養睡眠全部完全管理される俺を「甘やかしている」とするのであれば、牡丹さんは彼女には厳しいとも言えるかも知れない。その辺にどのようなやりとりがあったかは俺は知らされていない。
だが。
―――アタシはっ、牡丹さんと友達だもんねーっ!
―――ええ。友人なのです。
嬉しそうに満面の笑みで言う彼女と、無表情の中に僅かに目尻を緩ませた牡丹さん顔を見るに、それは決して悪いものではないのだろう。俺たちは三人とも、まあ、いわゆる「普通」とは違うわけだし、そのあたりは女同士の通じるものもあるのだろうし。
まあ、悪いものじゃない。
「やれやれ、っと!」
「シドっ! おっきろーっ、って、あーっ!」
「もう起きてるわ、アホ」
「えーっ! 寝起きのボディプレスはどうするのさーっ! 今日こそはと思ってたのにっ!」
「いい加減にそれは諦めろっ!」
「朝餉の用意は済んでいます」
「あーっ! それも私がーっ!」
この賑やかな日常は、悪くない。
悪くないくらいに、幸せなのだろう。
ふとした思考に涙腺が緩みかけて、慌ててあくびにごまかす。
―――悪くない、か。
「……いや、違うか」
「って、ううぅ? シド、どうしたの?」
「なに、ちょっとね」
―――最高に幸せだ、って、思ってさ。
その一言を飲み込んで、俺は寝床から立ち上がり、歩き出す。
勇者ではない。
英雄でもない。
ただのひとりの脇役の、けれども確かな「幸せな日常」ってやつを。
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