メフィストの杖~願叶師・鈴野夜雄弥
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第二話
Ⅳ
「メフィスト、急に呼び出して悪かったな。」
「いや…お前が力を行使して僕を呼び寄せるなんて、滅多にあることじゃないからな。で、どうしたんだい?」
ここは月明かりに照らされた真夜中の浜辺だ。波間から潮風が吹き、近くの茂みをカサカサと揺らしている。
その中で、鈴野夜はメフィストに今日あった出来事を話すと、メフィストは眉を顰めて返した。
「恐らく…レラージュが絡んでんだろうな。」
その名に鈴野夜は顔を顰めて言った。
「レラージュ…確かソロモン七十ニ柱の第十四位だったな。」
「そう。地獄の大侯爵の一柱だ。サルガタナスの支配下にあるが、僕はサルガタナスに貸しがあるからね。ま、取敢えず奴のとこに行ってくるは。」
メフィストがそう軽く言ったため、鈴野夜は些か驚いて返した。
「おい、大丈夫なのか?」
「平気だ。でも、明日の夜迄は戻れない。それまでに司を確保しとけよ。逃げられたままだと面倒だからな。後…分かってんだよな?」
メフィストは真っ直ぐに鈴野夜を見て言った。そこにはいつものおちゃらけた彼は無かった。
それに鈴野夜は、少し寂しそうに目を細めて返した。
「分かってるよ…。」
「それなら良いんだ。いかな僕でも、何でも出来る訳じゃないからね。」
そう言うや、メフィストは霞みの如く消え去ったのだった。
鈴野夜はメフィストを見送った後、不意に茂みへと声を掛けた。
「居るんだろ?出てこいよ。」
そうすると、茂みから一人の男性から姿を見せた。大崎だ。
「雄…気付いてたのか。」
「当たり前だ。メフィストも気付いてた筈だよ。私だったらいざ知らず、君はこんな夜更けに出歩くな。」
「すまん。でも…」
「分かってる。それは私がどうにかするから、君は皆を心配させないように元気付けるんだ。僅かな希望でも、人は強くなれるから。」
「そうだな…。で、司の居場所は掴めそうなのか?」
大崎がそう問うと、鈴野夜は腕を組んで溜め息を洩らした。
「気配が完全に跡絶えてるんだよ。」
その答えに、大崎も察しがついた。
生きている人間なら、悪魔にさえ悟られずに完全に気配を消すなどという芸当は出来ない。それこそ数時間前にあった人物の気配が完全に跡絶えてるということは、その人物に何かあったということなのだ。
「雄が探せないってことは…もう…。」
「その可能性を否定はしない。しかし、単に利用されているだけということも考えられるからね。だから、君はもう戻るんだ。私は数日眠らなくても平気だけど、君は違う。」
「でも…」
「杉ちゃん。言うこときかないとダメだぞ?」
何か言い掛けた大崎に、鈴野夜は笑ってそう言った。
大崎はもう自分の手に余ることだと自覚し、鈴野夜に後を託して立ち去ったのだった。
「さて…行くかな。」
鈴野夜がそう呟いたかと思った時、彼の姿もまた夜の闇に溶けたのだった。
翌日、大崎が目を覚ますと、既に八時を回っていた。
「やっぱり雄の奴…帰ってねぇな。」
隣に敷かれた布団には、人が眠った形跡は無い。
大崎は布団から出て着替えを済ませると、そのまま一階へと下りた。
台所には朝食が用意されており、それと一緒に書き置きがあった。それは孝と瑶子から二人に宛ててのものだった。
瑶子は「今日も来るから、ちゃんと居るように!」と書かれていて、大崎は思わず苦笑した。孝からは「ゆっくりしてろ。」とだけある。しかし、充分思いの伝わるものだった。そして近くには家の鍵まで置いてあった。
「相変わらず…か。」
大崎はそう呟いて少し淋しげな笑みを溢し、鍵をポケットに入れて朝食を食べたのだった。
目の前にはもう一人分あるが、大崎は朝食を食べ終えた後でそれを冷蔵庫へと入れた。
「ま、昼までに戻らなけりゃ、俺の昼飯にすりゃいいか…。」
そう一人呟くと、そのまま二階へと戻った。そしてケータイを取り出して見ると、釘宮と小野田からメールが入っていた。
大崎は何かあったかとメールを開くと、二人とも同じことを書いていたのだった。
「お土産宜しくって…。」
大崎は深い溜め息を吐いた。
「ってか…ここの土産ねぇ…。」
ここは単なる田舎町だ。これといって有名なものはなく、必然的に土産と称せるものなど一つもないのだ。まさか港で魚を…と言う訳にはいかない。
しかし、大崎はそう考えて閃いた。
「そっか、送っとけば良いのか。」
そう言うや早いか、彼は支度を整えて直ぐに港へと向かったのだった。
彼には良い気晴らしだろう。快晴の青空の下、何を送ろうかと考えるのは楽しいものだ。
確かに、司や彼を取り巻く環境など気にすれば切りがないが、ここでそれを考えても埒が明かないのだ。
大崎が潮風と緑の中をニ十分程歩くと、小さいながら活気のある漁港へと着いた。この港へ来るのも、勿論ながら十年振りだ。
ここには市場だけでなく幾つか食堂などの店もあるが、それらも変わらず賑わっていた。
「ありゃまぁ、杉ちゃんじゃないかい?」
ふと見ると、食堂から六十代後半の女性が顔を出していた。
「竹子さん!お久し振りです!」
「まぁまぁ、立派んなって。今どこ居んね。」
「埼玉ですよ。」
大崎はそう言って苦笑した。
この竹子はシズの姉であるマツヱの娘で、姉妹して未だ現役で働いている。家計が苦しい訳でなく、これが生き甲斐なのだ。
「杉ちゃん、良いとこ見付かったかい?」
「いやぁ、働いてはいますがパートで…。」
「いやいや、こんなご時世だし、働けるだけめっけもんさね。ほれ、入ってお茶でも飲んでけて。」
そう言われるがまま、大崎は店の中へと入った。
中もまた、昔と変わらずそのままだった。そのためか、大崎はここへ彼女…直美と来ていたあの頃を思い出し、少し胸の奥がチクリとした。
「若いのは珈琲が良いかねぇ。」
「いや、何でも良いですよ。」
大崎が苦笑混じりにそう返すや、竹子は何かを思い付いたように裏へと向かった。
「…?」
大崎は何事かと見ていると、竹子はその手に白ワインを持って戻って来たため、大崎は些か面食らった。
「ちょ…竹子さん?」
「どうせ歩きだろ?あんただったら、こんなんじゃ酔いもせんだろうしねぇ。これ、姪っこが嫁いだ先で造ってるもんなんだよ。試してやっとくれよ。」
「へぇ…。」
そう呟いて大崎は注がれたワインを見た。コップに注がれたそれは美しい程に澄んでいて、芳醇な香りが広がっていた。
「それじゃ…頂かせてもらいます。」
「そうしとくれ。さて、私も一杯頂くかねぇ。」
そうして二人はコップを傾けるや、二人とも目を見開いた。
「これ…凄く美味いですね。」
「ほんと…こりゃ上等だね。」
そう言って二人はまたコップを傾け、その合間に他愛ない話を肴にした。
大崎はそんな他愛ない話をするうち、十年もこの町に居なかったことを実感した。そして、楽しかったあの日々を冷静に思い返すことが出来た。
彼は今まで、そんなことは一度もなかった。辛い思い出が先行し、とても思い出す気にもならなかった。
だから…大崎はそれを口に出した。いや、しなくてはならなかったと思ったのだ。
「直美…ここに来るの好きでしたね。」
「…そうだねぇ。直ちゃん、いつもあんたにくっついて…。私らはさ、そんな杉ちゃん達をよく冷やかしたもんさね。直ちゃんは幸せもんさね。」
「幸せ…ですか?」
大崎は不思議に思った。自分が運転する車で事故に遇い、彼女は死んだのだ。それを幸せなぞと呼べるのか…。
竹子は大崎の思いに気付いてか、過去を振り返りながら静かに口を開いた。
「杉ちゃん。確かに、直ちゃんは死んじまったよ。だけど忘れちゃならないよ?直ちゃん、杉ちゃんと一緒の時が一番楽しそうで…幸せそうだったんだよ。それに、あんた未だ女の人居ないんじゃないかい?」
「ええ…作る気にはなれないっつぅか…。」
「今でも直ちゃんのこと好きなんだね?」
「はい。」
竹子はその言葉に笑みを溢し、再びコップを傾けてから返した。
「そんじゃ、直ちゃんは幸せもんさね。想った男が忘れることなく覚えていてくれる…そんだけで万々歳ってもんさ。だからね…」
ここで竹子は言葉を切り、大崎の目を見て言った。
「もう、自分を許しておやり。」
その一言で大崎の目から涙が溢れた。
それは、彼が過去の呪縛から解き放たれた瞬間であった。
彼は…大崎は直美の死をずっと自分のせいだと考えて苦しみ続けていた。誰かに「君のせいじゃない。」と言われても、自分を許すことなぞ到底出来なかった。
だから…十年越しとも言えるこの竹子の言葉は、大崎の心に掛かる暗雲を吹き飛ばすには充分だった。そして、この白ワイン…。
白ワインは直美が好きだった。大崎は赤の方を好んで飲んでいたのだ。
実を言えば、竹子は態と白ワインを出した。奥には赤があったにも拘わらず、直美の好きだった白を出したのだ。
それは…大崎が未だに直美を想っていることに気付いていたからだ。
「女冥利に尽きるってもんだねぇ。」
竹子もその目に涙を浮かべ、涙を流す大崎を優しく見つめていたのだった。
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