夜の住人
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1部分:第一章
第一章
夜の住人
ボヘミアの深い森の中にその城はあった。誰も知らないような場所にその城があった。
ルネサンスの息吹もここには届いてはいない。中世そのままの古い、苔むした姿がそこにあった。
その城もまた。その中に残っていた。まるで時の流れを知らないかのようにだ。
「まさか本当にあったなんてな」
「ええ」
一人の若い金色の髪と青い目を持つ凛々しい騎士とそれに従う茶色の髪に緑の目のこれまた端整な従者がそこにいた。彼等は遠くウィーンからやって来たのである。目的はただの旅だった。その途中でここに辿り着いたのだ。
この騎士の名をヴィーラント=フォン=シュバルツツィングという。神聖ローマ帝国皇帝に仕える騎士である。従者の名はゴッドフリートという。代々彼に仕えている従者だ。気心の知れた男である。幼い頃から共にいて主従というよりは友人関係に近い。今回の旅もそうした友人同士の旅という感覚でやって来たのであった。
「なあゴッドフリート」
ヴィーラントは馬の上からゴッドフリートに声をかけた。
「何でしょうか」
「この辺りの領主は誰だったかな」
「確かここはヘルトブルグ伯爵の領地でしたが」
「ヘルトベルグ伯爵」
「御存知ですか?」
「名前だけはな。だがあの伯爵の領地はここにまであったのか」
「ええ、そうですよ」
ゴッドフリートはその言葉に応えた。
「あの伯爵は資産家ですから。ここもまたそうなのです」
「まずは羨ましい限りだが」
ヴィーラントはそれを聞いてまずは言った。
「だがな」
「何でしょうか」
「おかしいとは思わないか」
彼はそのヘルトベルク伯爵の城を見上げてゴッドフリートにそう述べた。
「おかしいとは」
「静かだ」
それがヴィーラントの感想であった。
「城だけでなく村も」
「村も」
「見てみろ、人一人いない」
彼は村を指差してこう言った。
「畑はあるのにそこにも人は一人もいない。まだ日は高いというのに」
「そういえばそうですな」
主に言われてみてようやくそれに気付いた。
「何か。妙な感じです」
「妙などころではないぞ」
ヴィーラントはこうも言った。
「村に行ってみるか。やはりおかしい」
「はい」
こうして二人は村の中へと入っていった。彼等の前には誰もおらず声も全くしなかった。家々はそのままに。誰もいなかったのである。
「・・・・・・やはりな」
見れば家は古ぼけてはいない。まるで今まで人がいたような感じである。ただそこに人がいないだけなのである。そう、生きている者がいないだけであった。
「犬もいませんね」
「牛もな。村だというのに」
農作業で使う筈の牛まで。そこには一匹もいなかったのだ。
「それどころか鼠さえも」
「妙だ。生きている者が一人もいない」
二人は村を見回りながらそう言い合った。彼等はここでふと気付いた。
「黒死病でしょうか」
最初にそれを口にしたのはゴッドフリートであった。所謂ペストのことである。欧州で何度か大流行しその度に多くの者の命を奪ってきた。その病を脳裏に浮かべたのであった。この時この病は欧州にいる全ての者にとっておぞましい恐怖そのものであった。村や町が一つなくなったことも珍しくはない。それが魔女によるものだとかユダヤ人やジプシーによるものだというデマにより多くの陰惨な事件も起こっている。そうした意味でもこの病は欧州を黒く覆う魔物だったのである。ゴッドフリートはその名に恐怖すら感じていた。
「村から誰もいなくなるとは」
「いや、待て」
だがヴィーラントはふと気付いた。
「それにしてはおかしいぞ」
「家が古ぼけてはいないと」
「それだけじゃない。他のものも」
「そういえば畑も」
今日耕されたような。そうした様子であった。
「水車も動いたままだ。どうやら黒死病でいなくなったわけではない」
そもそも鼠すらいないのだ。ペストの原因は鼠である。この時代はそれは知られてはいない。だがその鼠がいないというのがペストではない証拠であった。
「では一体」
「わからないな。突然失踪したような」
「戦争があり徴用されたとか」
「村人全員をか?老人や子供まで」
それもまた有り得ない話である。
「ましてや。今帝国は平和であるのに。ましてやここでは戦火は絶えて久しい」
「ではそちらでもないですか」
「山賊も。ここにはいない」
「ええ」
彼等はここまで二人で旅してきてそうしたものの話は噂ですら聞かなかった。実に平和なものであったのだ。それもやはり可能性はなかった。
「消える理由はない」
ヴィーラントは戸惑ってそう述べた。
「どうして村から人がいなくなったのだ」
「旦那様」
ここでゴッドフリートがヴィーラントに声をかけてきた。
「何だ?」
「城に行ってみませんか」
「城にか」
「はい、そこには誰かいるかも」
「そうだな。兵士の一人でも詰めているかも知れない」
守りの為の城である。備えで兵士はある程度置いているのが普通だからだ。
「では行ってみるか」
「はい」
「そして詳しい話を聞くとしよう」
今度は城に向かった。城門も城の橋も開き、下ろされていた。だがやはりそこには人の気配はなかった。
「やはり妙だな」
「ですね」
ゴッドフリートは主の言葉に頷いた。
「は入ってみるか」
「そうしますか」
馬を門のところでつなぎ中に入る。やはり城の中にも誰もいなかった。
「誰かいないのか」
ヴィーラントは城の中で声をあげる。
「いたら返事をしろ」
だが返事はない。城の中は静まり返ったままである。
「ここもか」
「旦那様、ここもやはり妙です」
ゴッドフリートが城内を眺めながら囁いてきた。
「城の中は奇麗なものです」
見ればその通りであった。奇麗に掃除されチリ一つ落ちてはいない。装飾も簡素ながら清潔なものであり手入れが行き届いているのがわかる。
だがそれでも人が一人もいないのだ。そのことがやけに不自然であった。彼等はそのこともとてつもない不気味なものを感じていたのである。
「城の中も同じとはな」
「まさか城の中もとは」
「村にも。誰もいなかった」
「ここに何かあったのでしょう」
「なければこうなる筈がない」
ヴィーラントは強張った顔で述べた。
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