払われる迷い
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5部分:第五章
第五章
「ここに」
「はい、それではその時はまた」
「何時でもいますので」
「定休日と臨時休日の日以外はですね」
「はい、いますので」
「わかりました。では何かあればまた」
「いらして下さい」
こう話してだった。彼女は幸せに包まれて事務所を後にした。
そしてである。その夜だ。彼はある場所で飲んでいた。
そこはバーだった。古風な、十九世紀のフランスのそれを思わせる趣のバーであり中は暗くカウンターのところにワインのラベルが並べられている。
ステンドガラスは宗教的な絵画になっており黄色と青、そして赤と緑の輝きをそこに見せている。そうして店の端には樽が並べられている。
そこのカウンターで一人飲んでいるとだ。女が来た。
黒いスーツにズボン、赤いネクタイと白いブラウスである。
長い黒髪を頭の後ろで束ねうなじを見せている。切れ長の奥二重の目に透き通る様な白い肌、面長の顔に高い鼻、それと紅の小さな唇を持っている。
その女が来てだ。速水に声をかけてきたのである。
「満足した顔ね」
「今日はこちらですか」
「ワインを飲みたくなってね」
それでだというのだ。この美女松本沙耶香はこう彼に言うのだった。
「それでなのよ」
「ワインはどのお店でも飲めるのでは?」
「いえ、違うわ」
「違うとは」
「このお店のワインが飲みたくなったのよ」
沙耶香はその切れ長の目を少しだけ細めさせて述べた。
「それでなのよ」
「成程、それでなのですね」
「そうよ。それでね」
「はい」
「隣。いいかしら」
今度はこう彼に言ったのだった。
「隣の席ね。いいかしら」
「ええ、どうぞ」
速水は微笑んで沙耶香に告げた。
「貴女ならば喜んで」
「私ならですね」
「はい」
またこう答える速水だった。
「ですから」
「わかったわ。では好意に甘えさせてもらうわ」
「それでは」
こうして沙耶香は速水の隣に座った。そうしてであった。
二人でワインを飲む。そこで沙耶香は速水にこう言ってきた。
「仕事が上手くいったのね」
「いえ、上手くいったのではなく」
「そうではなくてなのね」
「はい、それとは違います」
こう沙耶香に述べるのだった。
「幸せな物語を見たからです」
「物語ね」
「現実の中の物語を」
それをだというのだ。
「見たので」
「恋のお話ね」
沙耶香はワイングラスを右手に述べた。そこには赤いワインがある。そしてその他にはだ。チーズが数切れその前にあった。
そのチーズを横目に見たうえで。沙耶香はまた言うのだった。
「それね」
「そうです」
「幸せな結末を迎えたのね」
「迎えてそれでなのね」
「はい、そうです」
また言う速水だった。
「それからのこともです」
「話したのね」
「そうです。全てはこれからだと」
「そうね。恋は成就するだけではないからね」
「はじまりと。終わりです」
この二つを話すのだった。
「それをです」
「女同士であっても恋は恋だからね」
「それは成就されて然るべきものですから」
「その通りよ。貴方はいいものを見たわ」
「ええ。本当に」
「そして今それを喜んで。一人で乾杯していたのね」
「貴女が来られることは予想外でした」
それはだというのだ。速水は己のワインを一口含んだうえで述べた。
そしてだった。目の前の皿の上にあるナッツを見た。それを見ての言葉だった。
「それはです」
「あら、そうなの」
「そうです。まさかここに来られるとは」
「気が向いてよ。だからよ」
こう話してだった。そうしてだった。
沙耶香も一杯飲む。それからだった。また話すのだった。
「来たのだけれどね」
「そうですか」
「ええ、それに」
「それにですね」
「いい話を見させてもらって。それで」
「乾杯ですね」
速水から沙耶香に話した。
「そういうことですね」
「そうよ。それじゃあね」
「ええ、それでは」
速水は杯を出してきた。そしてだった。
沙耶香もそうしてきた。それを二人で打ち合わせてだ。
二人でそのワインを飲む。それから二人で祝うのだった。幸せな恋の成就とこれからの幸せをだ。その二つを祝うのであった。
払われる迷い 完
2010・10・27
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