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猫の憂鬱

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第3章
  ―2―

「なんか最近、雨多くないか?」
出勤した龍太郎は少し濡れた額を指でなぞり、井上から渡されたタオルで肩を拭いた。
たった数百メートルを、豪雨でも無いのに傘は差さない。
「課長の機嫌に比例してんじゃねぇの。」
「又何かあったのか?菅原さんと…」
「いや、何も。」
其れならいいに越した事はないが、天気が悪い時決まって課長の機嫌が悪い。課長の機嫌が最高に良いと、天気も阿保みたく良い。雲一つないのだ。
天気が悪いから課長の機嫌が悪くなるのか、課長の機嫌が悪いから天気が悪いのか。
此の方なら、機嫌一つで天気を操れそうだから怖い。
機嫌は、良い。と、思う…。
くるくると毛先を指に巻き付け、床に這い蹲る木島を蹴っている。
此れは何時もの事だ。機嫌良かろうが悪かろうが、木島は課長に何かしら暴力を受けている。勿論、愛情で…。
「何時ものプレイか。」
「打つかって書類落としてる。」
床に散らかる書類を集める木島の頭を足で小突く、というかなり屈辱的な行為だが、木島も其れを見る龍太郎達ももう慣れてしまっている。
此れは機嫌が良い。
本気で機嫌が悪い課長は、理不尽な罵声と共に木島をリンチする。止めたいのだが、止めると今度は此方が二次被害に遭う、余りの怖さに足が動かない、まるでヤクザである。
本気で五階の此の部屋から、御前なんか死んでしまえ、生きる価値のないクズがと罵倒し乍ら、木島を突き落とそうとした事もある。其れで一度、部下への過剰な暴力で一ヶ月謹慎を受けているのだ。暴力所か、殺人未遂なのだが。此の時は一課全員で止めにも入ったし、他の課の刑事迄止めに入った、大人しくなったのは署長の「木島を突き落としたら解雇だよ、其の年で」の一言だった。
まあ、其処迄の機嫌の悪さは、一年に一回あるかないか、ではあるが。
今思い出しても恐ろしく、足に力が入らなくなる。
兎に角木島に腹が立って仕方無く、見るのも嫌になった。更年期障害かな…、と自分を哀れんではいた。
実際更年期障害に依る自律神経失調症と鬱病だった。其処で初めて龍太郎達は、男もなるんだ、と知った。薬を処方されたらしいのだが、酒を控えろと云われたので、飲んでいたかは怪しい。謹慎明けてから暫く、二ヶ月位だったろうか、木島に愛情表現を見せる事もせずノイローゼ状態だったのは覚えているので、矢張り飲んでいなかったのだろう。
課長も課長で、医者の云う事は聞かないのである。医者は碌でも無いから関わらない事にしている、が自論である。だから課長は井上同様、自律神経が乱れている為頭痛持ちなのだ。
男の更年期障害は、老いた肉体に鞭打つような拷問級のストレスでテストステロンが減少し発症する。
木島の顔も見たくないとはっきり自覚している所を見ると、如何考えたって拷問級のストレスを与えたのは木島だ。突き落とされても文句は云えなかっただろう。
科捜研が関わると聞いた時の機嫌が此れに近い。だから皆、言出屁の宗一迄も課長の機嫌を取ったのだ。
「カーズ、カズカズ。」
「課長、今日機嫌良いね。」
床に座った儘笑顔で書類を渡す木島の頭をホルホルと撫で、木島も木島で満更では無さそうである。大きく素早く動く尻尾が見える。
機嫌が最上級の時は木島の事を“カズ”と呼ぶ。判り易いので有難い。木島も判り易い。
木島は獣の臭覚で課長の機嫌を嗅ぎ取り、其れに依って態度を変える。
機嫌が最下級の時にこんな態度を取ってみろ、なんだ其の媚び入った笑顔と逆鱗に触れ、バイクで轢かれるか、シボレーをボコボコにされる。
課長の機嫌が良いのは一課にとって大変有難い話なのだが、愛犬と化する木島が気持ち悪過ぎて仕方がない。余りの気持ち悪さに龍太郎の胃も痛む。
其れを軽蔑の眼差しで見る加納。一体何リットル入るんだよと聞きたくなる馬鹿でかいタンブラーを傾けている。聞いたら一・五リットルだった。中身は勿論、厳選された茶葉で作ったミルクティー(無糖)である。
重くないのか…?
加納馨、紅茶以外の水分は摂取しないのである。しない事にしている。誰がなんと云おうと、珈琲では無い、紅茶である。焼酎ですら紅茶で割る男である。
然し、なんでったって、今日の課長はこんなに機嫌が良いのだろう。なのに、何故小雨が降っているのだろう。
「課長、何かありました?」
「んー?別に何も無いが。」
「そ…う…で、す、か。」
此の後ハリケーンが直撃しないよな?課長に、と井上に聞いた。井上は笑い、ガムを灰皿に捨てた。
井上の机にあるボトルガムを二三個無言で失敬した龍太郎は、大人しくしてろよ、と煙草を消した。
「え、何処行くの。」
「雪村邸。猫の世話して来る。」
流れるように木島を見たのだが、課長の足にしがみつき、行きたくない、と家鴨口を尖らせた。
「行って来い。」
「嫌、行かない!課長と一緒に居るの!」
こんな機嫌の良い課長に今媚びを売らずして何時売るというのだ。倒産覚悟の叩き売りだ。
「…判りましたよ…」
精々主人に媚び売ってな、今の内にな…と胃の痛い思いをせず済んだ龍太郎は心の中で毒付いた。
「あの、本郷さん。」
「はい?」
「ワタクシでは、駄目でしょうか。」
首を傾げ聞く加納に、そうだそうだ御前邪魔だから行って来い、と木島が云った。
忘れていたが…と云うか、今回で知ったのだが、加納は大の猫好きだ。
「良いですけど…」
「はぁあ、やった!」
両拳を握る姿に、加納さんも人間臭いな、と人間なのだから人間臭くて当然だが、そんな感想を持った。
そんな加納に木島は当然、きも…、と吐き捨てた。
御前の方が気持ち悪いよ。
其の顔面、姿、動画で撮影してやろうか。プリントアウトして此処からばら撒いてやろうか。
電話が壊れそうなので止めたが。其れで無くとも最近良くシャットダウンするのに。
「大人しくな、拓也。」
「やー、お兄行っちゃやだーぁ。」
「気持ち悪い、井上。」
「御宅の真似しただけだけど。」
云った側から喧嘩を始める。
眉間を掻いた龍太郎は加納を一瞥し、部屋を出た。


*****


助手席から降りた龍太郎に傘を差す加納は雪村邸を見上げ、妙に熱を持った太腿を龍太郎は触った。
「なんで、シートヒーター入れてたんです…?」
「熱かったですか?」
「此処に着く迄に、焼き殺す気なのかと疑っていた。」
「仰って下されば良かったのに。」
11月も半ばを過ぎ、確かに寒いとは思うのだが、シートヒーターを入れる季節では未だ無いと思う。加納と木島は今から此れを使い、冬になったら一体如何する気なのだろうと他人事乍ら考えた。
署から此処迄、二十分無い程の時間だが、加納は一度だって“熱く御座いませんか?”とは聞かなかった。
聞かなかった詰まり、木島との感覚で運転して居たのだ。
おい熱いぞと云えば良かったのだが、そんなに仲良い訳でも教育している訳でもない為、じっと耐えた。
耐えて、今太腿が感覚麻痺を起こしている。
車から降りた加納は傘を持った儘じっと本郷を見上げ、其の視線の気持ち悪さに龍太郎は少し離れた。
「なんです?」
「本郷さん、ベンツ似合いますね、元から身長がおありなのに、小顔でらっしゃるので、以上に高く見えます。羨ましい。」
あのチビが此の車から降りたら、唯の虚栄心の塊で滑稽ですよ、と加納は笑う。
チビ程、でかい車に乗りたがる。
とは云わないが(木島の車はそんなに大きくは無い)、助手席だから良いもの、所有者だったら少し笑ってしまうかも知れない。身の丈に合った物に乗れよ、となる。例えば、BMWに吸収される前のMINIとか、ミニとか、後MINIとか。なんでミニが5ドアーになってる、ミニの癖に。
「そんなに高いか?俺。一八〇しか無いですけど。五センチか変わらないでしょう。」
「ワタクシは小さいので…、正直、こんなチビがロングに乗るのも滑稽かな、と…。然し、ロングしか無かったのですよ…」
「好きなのに乗れば良いんじゃないでしょうか。」
自分が若い時なら長身だと思うが、今はそう思わない。高校時代は其れを自覚して居た、然し干支が一周した頃からか、そう、年号が代わり生まれた所謂“新世代”、其れに囲まれると自分の身長が普通に思えて来た。
なんだ、やっぱり俺は普通じゃないか。誰だ、巨人とか貶した奴。如何せ木島さんだろう。
龍太郎が人生で初めて此の人高いなと思ったのは他でもない課長、其れは今でも変わりはせず、日本で課長以上の長身に会った事が無い。北欧やアメリカに行けばわんさか居るが、日本で一九〇センチ越えはそうそう見ない。見ないから、課長が一番高く思える。
自分より長身は見渡せば何処にでも居る、現に八雲が純血新世代の其れなのだ。なのに、生まれたのギリ昭和だよ、で驚いた。其れはもう新世代扱いで良い。
そうか、二十八歳は昭和なのか…。
龍太郎自身が、自分は普通、そういう感覚だからだろう、一八〇センチ位で長身自慢する阿保を見ると鼻で笑ってしまう。御前が長身?何かの冗談だろう、課長クラスとは云わない、せめて八雲クラスになってから出直せ、そしたらなんとなく不本意乍ら長身だと認めてやる、と。
そう考えたら平成生まれの加納は、新世代の癖に小さい。なんだか可哀想。禿げても居るし。
「聞いた時驚いたんです。物凄く高く見えましたので。」
「課長見慣れてるからかな…、全くそう思いません…」
「本郷さんから見て、ワタクシや井上さん、小さく感じません?」
「まあ、其れは。」
「本郷さんも、八雲君から見たら、ちっさいなぁ、なのでしょうね。はっきりとワタクシ、馨ちゃんで案外細(コマ)いのな、と云われましたので。」
「五センチって、大きいなぁ。」
「木島さんは論外ですね。」
木島の時には下げる腕、龍太郎の時には上がる。傘一つでもこんなに違うのかと驚く。
冷たい湿った空気が鼻を取り巻く。二日前来た時感じたあの不快な臭いは消え、唯々雨の湿気を感じた。
「窓が開いてるのか。」
レースカーテンが揺れている。床が少し濡れていた。
「何故…」
「斎藤さんかな。」
ネェ…。
龍太郎を待って居たかのように聞こえた声。階段の上から聞こえた。
「出なかったのか?」
幾ら猫でも流石に雨の日に散歩はしない。加納は笑い、猫は濡れるのが嫌いですよ、と教えた。
「嗚呼、そう云えばそうだな。聞いた事あります。」
「いらっしゃい。なんて可愛いお嬢さんだ。」
木島の時には龍太郎に媚びた、然し今は龍太郎を無視し加納だけを見詰め、寄った。
「ふふ、可愛い。」
もっと触るのよ、と云わんばかりに猫は小さな顔を加納の掌に擦り、オルオルと喉を鳴らし乍らスラックスに爪を立てた。
確定した。
木島は女に言い寄られもしなければ、猫からも言い寄られない。此の猫に喉さえ鳴らして貰えなかったのだ。
「加納さんって、猫にもてますね。」
「女性に好かれるより嬉しいものです。」
猫は矢鱈加納の肩元を嗅ぎ、思い切り首を擦り付けた。
マーキングである。
「なんで其処を重点的に…」
「さあ…、あ。」
猫を逆方向に乗せた加納は、少し肩の臭いを嗅いだ。
「若しかして、琥珀の匂いかな…」
「琥珀…?」
「いえ、何でもありません。」
だったら君はこっちね、と左腕で猫を固定した。
「ううん…抱き難い…」
「右で持てば良いじゃないですか。」
「ううん…」
矢張り如何やっても違和感あるのか、結局右で持ち直し、左手で身体を撫でた。猫もそう抱かれた方が良いのか、左腕で支えた時より落ち着いた様子だった。
「あ…?」
「何か…」
「いや…」
何か、おかしくないか…?
加納が右腕で支える、左手で撫でる、動作を全て左手でするから、右腕で抱える。
木島には懐かなかった。でも自分には懐いた。そして加納にも。
「え…?」
此れは、偶然なのか?
右手を差し出した木島、左手を差し出した龍太郎と加納。
加納が左手で腹を撫で、猫が満足見せる程、龍太郎の違和感と疑問は膨らんだ。
「おかしくないか?やっぱり。」
「え、何がです?」
「なんで此の猫、右腕で抱えられる事に慣れてるんだ?」
「え…?」
「雪村涼子は右利きだぞ。」
思い出した、自分の母親を。
龍太郎の母親は何時も右腕で龍太郎を抱え、左手で哺乳瓶を持っていた、そして周りに、貴女左利きなの?と勘違いされていた。
自分が左利きだから加納の猫の持ち方を何とも思わなかった、実際自分も右腕で持った。
こういう事だったのか…。
右利きの人間からしたら母親の持ち方は違和感を覚える、自分達が左腕で持ち、右手で作業をするから。
「此の猫は、本当に雪村涼子が育てていたのか?」
娘に何を見せてるんだ――。
二日前の木島の言葉が頭の中で響いた。 
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