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パープルレイン

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第一章


第一章

                          パープルレイン
 その日は朝から雨だった。そして夜になっても続いていた。
「嫌になるわね」
 ビルから出て来た一人の女性が顔を顰めて言う。
「仕方ないじゃない」
 その横のスーツの男がそれに応える。
「梅雨なんだし」
「それを言ったらおしまいだけれどね」
 女はバッグから赤い折り畳み傘を出しながらそれに応じた。そして傘を組み立てる。
「朝も夜も。本当に雨ばかりだと」
「洗濯物が乾かないとか?」
「おあいにくさま。うちには乾燥機って便利なものがあるのよ」
「これはまた」
 スーツの男はそれを聞いて軽い調子で返す。
「便利なものをお持ちで」
「今じゃ常識よ」
 傘を組み立て終わってこう述べる。
「乾燥機つきの洗濯機なんてね。結構値が張るけれど」
「お金をかけているのはスーツだけじゃなかったんだ」
 男はそう言いながら女のスーツを見た。ぴっしりとしたクリーム色の上着に同じ色の膝までのタイトスカートである。ガードの固そうな外見であるが物腰はそうではなかった。
「女は一つのことにだけお金をかけるわけにはいかないのよ」
 男を見上げてこう言う。その顔はやや鼻が高く、癖のある鉤の他は整っていると言ってよいものであった。形よくカーブしている眉とアーモンドを少し細くした様な目に黒くソバージュにした長い髪。胸は小さいがプロポーションも全体的によかった。背は高く、スーツの男と比べてもひけを取らない程であった。
「何かとね。大変なのよ」
「あまり説得力のある言葉には聞こえないけれどね」
 男の方は背は高く、すらりとしているが顔自体はわりかし平凡な顔であった。可もなく、不可もなく。特徴のない顔と言ってしまえばそれまでか。人によってはいいと言われるだろうが人によってはまあそうかな、で済む顔である。今隣にいるスーツの女性と比べるとやはり見劣りしてしまう。
「我が社きっての才媛平井真砂子女史の御言葉とは思えませんね」
「何か言ったかしら、我が社のホープ西村丈主任」
「ホープなどとはとんでもない」
「三十になるかならないで主任になってホープじゃないって言わせないわよ」
 真砂子は丈にこう返した。
「幾らうちが駆け出しのベンチャーだっていってもね」
「そのベンチャーを支えているのが君じゃないかな」
「褒めたって何も出ないわよ」
「乾燥機を買ったから?」
「シャネルの化粧品を買ったからよ。この前奮発してね」
「やっぱりお金をかけるのは一つじゃないんだ」
「そういうこと」
 真砂子は目を閉じて頷いた。
「スーツにもヘアにも。美容にもお金をかけているんだから」
「女は大変だね」
「学生の時は違ったけれどね。今はね」
 少し残念そうな笑みになった。
「色々とお金をかけないと。何かと保てないものがあるのよ」
「花の命は結構長いとは聞くけれど?」
「その花もお水がないと枯れてしまうでしょ」
 真砂子はこう返した。
「長くてもね、栄養がなければ駄目なのよ」
「栄養なしじゃもう駄目になったってこと?」
「意地悪なこと言うわね」
「おやおや」
「若い子が羨ましいわよ」
 そしてふとこう溜息混じりに言った。
「手入れとか気にしないでいられるんだから」
「もう一度なりたい?」
「なれたらね」
 出来る筈もないことではあるが。
「若返れたらいいのだけれど」
「その為にすることは?」
「恋なんて野暮なことは言わないでよ」
「おっと、じゃあ言うことがなくなってしまったな」
「雨が降ってるのに。寒くなるわ」
「涼しくなっていいじゃないか」
「そう。だったら傘はいらないわね」
 そう言って丈の傘を取り上げた。
「おい、何するんだよ」
「涼しいのが好きなんでしょ?雨に濡れてみたら?」
「そんなことしたら風邪ひくじゃないか」
「そうしたら減らず口もなおるかもね」
「わかったよ、謝るよ」
「本当に?」
「だから。傘を返してくれよ」
「どうしようかしら」
 まるで学生の様にふざけ合っていた。気持ちはまだ若かった。しかしそれも少しの間だけで真砂子はやはり歳がとったのを感じずにはいられなかった。一人になるとそれを実感する。
「はしゃいだ後が辛くなってきたわね」
 苦笑いをしながら夜道を進む。
「もう歳なのね、本当に」
 そしてそれを実感せずにはいられなかった。
「ついこの前まで学生だったのに。月日が経つのも・・・・・・ってこう思えるようになるから駄目なのね」
 苦笑いが出た。出ずにはいられない。それに気付いてやはり疲れを感じる。
「あの頃は何もしなくてもよかったけれど」
 その化粧や肌の手入れのことを思う。
「今はそうはいかないわね。難儀なことね」
 そんなことを呟きながら雨の夜道を一人歩く。アスファルトに出来た水溜りが灯りを照らす。そして街の赤い光や青い光がそれに映ってさらに街を照らす。まるで下に鏡でもあり、それが光を反射させているかの様であった。
 その道をハイヒールで歩く。道行く人々は擦れ違うだけの人であり誰なのか知らない。向こうもそれは同じだ。周りに人はいても彼女は今一人であった。
「家に帰ったら洗濯して」
 さっき丈と話していたことをそのまま言う。
「あっ、その前にシャワーを浴びて」
 順番を思い出した。いつも家に帰るとまずシャワーを浴びるのである。美容の為に朝起きてランニングをしてからもシャワーを浴びている。これも美容にいいと聞いたからである。冷水シャワーだ。ただし冬はしない。
「それからね。それから夕食」
 これにも気を遣っている。出来るだけ太らないようにしている。気にすることは多い。若い時は本当に何も気にしていなかったというのに。何か陰鬱な気持ちになろうとしていた。
「何か、こんなのばかりね」
 そしてこう思った。
「あれは駄目、これならいいかも、それはやらなくちゃいけない。歳をとるとこんなのばかり」
 心の中で呟く。
「学生の頃はこんなことはなかったのに」
 ここで後ろから声がしてきた。
「なあ、何食う?」
 学生達であろうか。少年の声だった。
「コンビニでお握りでも買うか?」
「そんなのじゃ腹がふくれないよ。もっといいの買おうぜ」
「つっても今の時間何処も開いてねえよ」
「テストが長引いたからな」
「熟の帰りかしら」
 真砂子は声を聞きながらそう思った。振り返りはしない。
「ったく、何であんなに長引くんだよ。テスト一枚で」
「仕方ないだろ、模試の前の事前のテストだったんだから」
 彼等は不満を交えて言っていた。
「文句を言ってもはじまらないぜ」
「ちぇっ」
「で、何食うんだよ」
 また食べ物に話が戻った。
「コンビニが嫌ならファミレスでも行くか?」
「あっ、いいな」
 その中の一人がそれに頷いたようである。
「じゃあカツ丼食おうぜ、カツ丼」
「カツ丼」
 それを聞いた真砂子の顔色が変わった。
「こんな夜遅くにそんなカロリーの高いものを」
 真砂子の考えの基準ではそうである。だが彼等は違うようである。
「ラーメンがいいんじゃないのか、パーコー麺な」
 どうやらロイヤルホストに行くつもりのようだ。豚カツを乗せた麺でありこのファミリーレストランの人気メニューである。実際に学生等に好評だ。
「いいな、それも」
「何なら両方頼むか?腹減ってるし」
「まあ行ってから決めようぜ」
 そんな話をしながら真砂子の横を通り過ぎていく。この時真砂子はその中の一人の顔をちらりと見た。
「あっ」
 その少年の顔を見て思わず声をあげた。今まで見たこともないような整った顔立ちの少年だったからだ。
 見惚れてしまった。そして呆然となる。こんなことは久し振りであった。
「何て綺麗な」
 心の中で思った。そして後ろを振り返る。何処から来たのか見たいと思ったのだ。
 ここはいつもの帰り道である。塾や予備校が多く並んでいる。その中の一つであるらしい。真砂子はあの少年はこの中の一つにいると思った。だが何処にいるかまではわからなかった。
「何処なんだろう」
 けれどここを通るのは間違いないのだ。それだけわかっただけでもよかった。とりあえず明日もここを通る。また会えることを願うのであった。そして雨の中を歩いて行った。雨は弱まることなく降り続いている。道は相変わらず街の灯りを照らし返している。それまではその光を見ても何とも思わなかったが今は何処か弾んだ気持ちになっていた。
 そして次の日の帰りである。雨は降ってはいない。やはりその少年に会った。後ろから声が聞こえてきたのだ。
「来たわね」
 心の中で呟く。ちらりと後ろを振り返る。
 そこにいた。茶色の髪で華奢な身体の少年が。中性的な外見で女の子にすら見える。そんな頼りなげなところが彼女の心をさらに刺激するのであった。
 前に向き直る。あまり見ていては変に思われると思ったからだ。そして彼が通り過ぎるのを待った。
「今日はコンビニでいいか」
 また食べ物の話をしていた。
「軽くお握りでな」
「御前お握り好きだな」
「あれが一番食べ易いからな。美味しいし」
「じゃあ俺はサンドイッチにするか」
「メロンパンでもいいんじゃねえか?」
「あれ牛乳がないと食べにくいからな」
「パン自体がそうだけれどな」
 こうした何の気兼ねもなく食べられる若さがやはり羨ましかった。そしてそのままの美しさが。真砂子はそれに嫉妬めいたものを感じながらも少年が自分の横を通り過ぎるのを待っていた。
「通って」
 またしても心の中で呟いた。自分の側を通り過ぎてくれることを祈った。
 そして通った。あの少年が自分の真横を通った。
「やった」
 これも心の中の言葉であった。自分の側を通ってくれた。そしてその横顔を間近で見られた。やはり若く、綺麗な顔であった。
「それじゃあ行くか」
「ああ」
 だが彼はそれには気付かない。そのまま友達と話をしながら前に消えて行く。そしてそれっきりこの日は姿を見ることはなかった。だが真砂子はそれで満足だった。
 それから真砂子は気分的にも乗り気になった。服にも化粧にも肌にも一層気を遣うようになり仕事にも張りが出て来た。丈はそんな彼女を見てからかいの言葉をかけてきた。
「何かいいことでもあったのかい?」
「少しね」
 仕事の合間に。真砂子はパソコンのデータを入力しながら丈に応えた。
「楽しみができたの」
「新しい香水を買ったとか?」
「そんなのじゃないわよ」
「じゃあスーツ」
「両方共いいのを揃えたけれどね」
 それだけではないと言った。
「けれどそんなのじゃ楽しくはならないわよ」
「お金が出たからかい?」
「何か貴方ってお金の話が好きね」
「それがないと結局何もはじまらないからね」
 彼は笑ってこう返した。
「お金がないのは命がないのと同じってね」
「夢がないわね」
「夢は確かに大事さ、けれどお金はそれと同じ位大事なんだよ」
「現実と理想をバランスよくとっていうつもり?」
「自分としてはね」
 そのつもりなのであった。
「夢がない男って嫌われるからね」
「女には好かれないわね」
 真砂子も笑みを浮かべてこう述べた。
「打算や計算だけの男なんてね。何の魅力もないわ」
「話がわかる」
「女ってのはねえ、見ているのよ」
 そして言う。
「男の魅力ってやつをね。外見だけじゃなくて」
「そうなんだ」
「顔とかそんなのは二の次なのよ。まずは魅力」
「魅力」
 丈はここでネクタイを締めなおしてきた。まるで格好をつけるように。
「それよ。それがないと幾つになっても駄目。幾ら顔がよくても駄目」
「逆に言えばそれがあると幾ら若くても大丈夫と」
「ま、まあね」
 ここで答える時何故か頬を赤くさせた。
「そこに顔が加われば完璧、かしらね」
「さっき二の次って言ったのに?」
「ステーキだけじゃ足りないでしょ」
 これに対する真砂子の返事はこうであった。
「サラダもないと」
「贅沢なことで」
「そういうことなのよ。容姿もあるとなおよし」
「あくまで添え物だと強弁すると」
「そう取ってもらってもいいわよ。どうせ変わらないのだし」
「まあね。けれど平井女史はよく見ていらっしゃる」
「何を?」
「男を。どうやらその御眼鏡に適う紳士が現われたようで」
「紳士って呼べる程じゃないけれどね」
「応援してるよ」
「有り難うと言って欲しいのかしら」
「お望みとあらば。人の恋路は邪魔しないよ」
「恋路とは限らないわよ」
「とぼけてるのかい?」
「さてね。それじゃあ仕事を再開して」
「楽しいお喋りはこの位にして」
「それじゃあね」
 こうして彼等はまた仕事に戻った。真砂子は少年に会ってから心まで楽しくなっていた。仕事にも張りが出ていた。何をしても元気が出るようになっていたのだ。そしてそれは彼女の気にしている部分にも現われてきた。
「!?」
 また少年を見た。そして家に帰ってシャワーを浴びて浴室から出るとあることに気付いたのだ。
「お肌が」
 そうであった。何故か顔や身体の肌の艶がよくなっているのだ。
「ハリも」
 弾力も返っていた。水を弾いてすらいた。まるで学生の頃の様に。

 
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