ストライク・ザ・ブラッド 〜神なる名を持つ吸血鬼〜
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錬金術師の帰還篇
33.錬金術師の帰還
制服姿の凪沙の目の前。互いの息が触れ合うほどの至近距離に少女の顔があった。
肩にかかる黒髪を真っ直ぐ切り揃えた、真面目そうな顔立ちの少女だった。眼鏡のレンズ越しの瞳は閉じている。
彼女のその唇が、同じように目を閉じている凪沙に近づいてくる。
そして二人の唇が重なり合う寸前で──
「も、もうダメ……限界!」
凪沙が叫んで顔を上げた。
ポッキリといい音を立てて、二人の口にくわえていたスティック菓子が折れた。
それを見ていた友人たちが、おおっ、と落胆混じりの声を洩らす。
中等部の宿泊研修一日目。東京湾に向けて移動中のフェリーの中で、凪沙たちはポッキーゲームをしていたのだ。
「はーっ……危なかった。ファーストキスを委員長に奪われちゃうところだったよ」
「お互いさまよ」
脱力して床に転がる凪沙を見下ろして、黒髪眼鏡の少女がクールに告げる。
「それにしても雪菜は強いね。今まで負けたことないんじゃない?」
トランプを回収していた同じくクラスメイトのシンディが言う。
シンディといっても彼女は秋田出身の日本人。単に苗字が進藤で、自己紹介のときに緊張のあまり噛んでしまい、それ以来シンディと呼ばれ続けている。彼女と委員長、そして雪菜を加えた四名が凪沙の班のメンバーだ。
再び始まった過酷な罰ゲーム付きのババ抜き。
「そういえば雪菜さ、凪沙んとこのお兄さんとは最近どうなの?」
何気ない口調で訊いてきたシンディの言葉に不覚にも動揺してしまう。
「お、動揺したね」
「いただき」
雪菜のペースが狂った隙にシンディが雪菜の安全なカードを奪っていく。
「暁先輩って、最近ちょっと雰囲気変わったよね」
シンディがさらに古城の話題で動揺させようとする。しかし、その話題は雪菜は無視できない。彼女は中学時代の古城の後輩なのだ。つまり雪菜の知らない古城のことを知っている。
「ど、どんなふうに?」
「うーん、バスケやってたころの雰囲気に戻ってきたかも。少し前まであの人恐かったから」
「暁先輩が……恐い?」
真面目な口調のシンディの言葉に雪菜は疑問を持つ。
雪菜が知る限り、古城はだらだらとした怠惰な生活を送ってるイメージしかない。
「あまり想像つかないけど」
「ああ、グレてたとかってことじゃなくて、なんだろ。殺気立ってるっていうか、話しかけづらい感じ? あと、たまにすごい怪我してたし」
「それって……いつ頃の話?」
雪菜が眉を寄せて訊いた。
「うーん。春休みとか、GWとか、それくらい。ほら、ちょうど凪沙の検査入院があったりしたから、そのせいかなって思ったんだけど」
「春休み……」
雪菜が重い息を吐く。
その時期といえばちょうど、古城が第四真祖の力を手に入れた時期と一致していた。
「あとそのころからだったっけな。あの、よく暁先輩と一緒にいるいつも眠そうな先輩と行動しだしたの」
「それって緒河先輩のこと?」
思いがけない言葉に雪菜は眉を寄せる。
「そう。緒河先輩。あの人も最初の雰囲気はすごかったからね」
雪菜のカードに手を伸ばしながら、シンディが呟いた。
「そうだね。凪沙も最初に彩斗君に会ったときはビックリしたもん」
「そうなの?」
「うん。なんか恐いっていうか。なんか誰とも関わり合いを持ちたくないみたいな雰囲気があったんだよね。それでもなぜか古城君には普通に話してたんだよね。なんでだろうね」
不思議そうに凪沙は語る。
彩斗と古城が一緒に行動していたのは、彼が第四真祖の力を手に入れる前からだった。そして彩斗は最初から古城が第四真祖だということ知っていながら普通に生活している。彼に対してだけ謎が深まるだけなのだ。
そんなことを考えているうちに時刻は間もなく午前九時。午前七時に絃神観光港を出港したフェリーは、十一時間半をかけて東京湾に到着する予定だ。
「このあとの予定ってどうなってるんだっけ?」
「十時半にホールに集合。教材映画観て、それから昼食」
シンディの質問に、委員長がすらすらと答える。
「お昼ご飯なんだろうねえ。カレーかなあ。カレー食べたいなあ。あ、夏音ちゃんだ」
窓際に立っていた叶瀬夏音が、銀髪を揺らして振り返る。
「あ、凪沙ちゃん。皆さんもおはようございます」
恭しく挨拶する夏音の胸元には、大きな黒い双眼鏡がぶら下げられている。
「なにしてるの?」
「このあたりで野生のイルカが見られるって聞いたので」
そう言って夏音は碧い瞳を輝かせる。夏音は筋金入りの動物マニアだ。
「え、イルカ? わ、いいな、見たい!」
凪沙が表情を明るくして立ち上がる。雪菜たちも窓側に移動した。
そのとき夏音と雪菜の二人は何かに気づいた。フェリーが海面に残す白い航跡の隙間に、銀色に輝くなにかが浮かんでいる。
金属質のそれは──
倒壊した建物が撒き散らす粉塵と煙が、不吉な朝靄のように港を包んでいた。傾いた灯台の屋根に座り込んで、矢瀬はぐったりとしている。
矢瀬が寸前まで乗っていた巨大なクレーンは、土台近くから斜めに切断されており、埠頭に横たわっている。本来なら矢瀬は死んでいただろう。
それを救ったのは、黒い日傘をさした小柄な影だった。
「生きてるか、矢瀬?」
場違いなフリルまみれのドレスを着た、南宮那月だ。
空間跳躍で現れた彼女が、矢瀬を間一髪で救ってくれたのだ。
「まあ、なんとか」
矢瀬はのろのろと顔をあげる。
「今回はさすがに死んだと思ったぜ、助かったわ、那月ちゃん。ありがとな」
「担任教師をちゃん付けで呼ぶな」
那月が不機嫌そうに唸って、矢瀬の背中をヒールで蹴った。
「まったく貴様といい、吸血鬼どもといい、担任をなんだと思っている……!」
「ちょ……痛い、俺、怪我人なんスけど! 血ィ出てるし! ドバドバ出てるし!」
血まみれの両腕を頭上に掲げて、矢瀬は必死で訴える。
そんな教え子を無視して、那月は埠頭の様子を見回す。
「あのバカはなにをしている」
那月は目に映った光景に深い溜息を漏らすしかなかった。
空から黄金の翼を持つ巨大な梟がこちらへと飛んでくる。そんなバカな真似をするやつなどひとりしかいない。
巨大な梟の上に乗っている制服姿の少年はこちらを見つけて手を振って向かってくる。
「那月ちゃん! なにがあったんだ?」
那月と矢瀬がいる灯台の屋根の上に少年が着地する。
それと同時に那月は彼の腹めがけて鉄拳を加える。
ぐぅお、と声にならない声を出して傾く灯台の屋根から転がり落ちていく。危うく地面に叩きつけられるというところでギリギリで持ちこたえる。
「いきなりなにすんだよ!」
自らの眷獣に乗ってきた吸血鬼の緒河彩斗が叫ぶ。
「貴様がバカな登場をしてくるからだ」
那月はもう一度、彩斗を殴ろうとしたが辞める。
這い上がってきた彩斗が埠頭の様子を見回す。
「これを天塚の野郎がやったのか」
無言で那月は頷く。
彩斗はとても悔しそうな顔をしている。
「とりあえず、緒河。貴様は“賢者の霊血”は知っているか?」
「“賢者の霊血”……?」
彩斗は目を細める。どうやら知らないようだ。
「知らずにここまで来たのかよ」
「知らねぇからここに来たんだよ。てか、なんで死にかけてんだ、矢瀬?」
ぐったりとしている矢瀬を見下ろして彩斗は不思議そうに見ている。
「まぁいい。で、その“賢者”ってのはなんだ?」
矢瀬がある程度彼に説明をする。
「とりあえずなんとなくは理解した」
「貴様にしては呑み込みが早いじゃないか。このぐらい授業もなってくれればいいのだがな」
那月が悪態をつく。
「それとこれは別だ。天塚がどこに向かったんだ?」
彩斗が矢瀬に問う。
それは彼の能力。“音響結界”によって結界内の音響の動きを観ることができる。それによって不定型の金属生命体である“賢者の霊血”の動きすら、感知できるからだ。
「いや、“音響結界《サウンドスケープ》”の再起動にはまだ時間がかかるぜ」
「肝心なところで使えない男だな。そんなことだから、閑が手も握らせてくれないのだろうに」
那月が落胆したように言い放つ。
「うるせえよ! ていうか、なんで知ってんだよそんなこと!」
「これだから矢瀬は」
「おまえにだけは言われたくねえよ、彩斗」
打ちひしがれたように落ち込む矢瀬。那月は無造作に指を鳴らして、目の前の空間を歪ませる。
「いや、こいつはおまえよりもすごいぞ。なんといっても毎日、叶瀬夏音と一緒に寝て──」
「あーあー! 早く行くぞ、那月ちゃん!?」
那月の言葉を遮って彩斗は叫んだ。
彼女の背中を無理やり押して空間跳躍のゲートの中へと二人揃って虚空へと消え去る。
矢瀬は途方に暮れたように地面を見下ろして頭を抱える。
「どうやって降りろってんだよ、これ……」
傾いた灯台の上に一人取り残された矢瀬。
「──雪菜ちゃん、どこ行くの?」
こっそり船室に戻ろうとした雪菜を凪沙が不思議そうな表情で呼び止める。
彩海学園の宿泊研修たちは、フェリー内のホールに移動中。昼食の時間になるまで、そこで教材を観る予定だった。
「ちょっと忘れ物。先に行ってて」
雪菜は早口にそう言い残すと、凪沙の返事も聞かずに走り出す。
無人の船室に戻った雪菜は、旅行カバンの底から細長い布包みを取り出した。包みの中身はナイフだった。刃渡りは二十五センチほど。
それが二本。制服の背中に突っ込んで、目立たないように上からコートを羽織る。
雪菜はそのまま船室から、真っ直ぐに船橋のほうへ向かった。
特に何か異変を感じたわけではない。
だが、胸騒ぎがした。剣巫のカンが危険を訴えている。
「──え!?」
そして階段を駆け上がっていた雪菜は、自分の前に歩く人影に気づいて驚愕する。
「叶瀬さん?」
「あ……」
雪菜に呼び止められて夏音が怯えたように振り返る。
「もしかして、あなたも?」
弱々しく彼女はうなずいて、碧い瞳で雪菜を見返す。
「この船をなにかよくないものが取り巻いてるみたい、だから──」
自分がどうにかする、と言いかけた夏音を、雪菜が微笑んで制した。
「大丈夫。ここから先はわたしが行くから、笹崎先生に知らせてもらえる?」
雪菜が背中から引き抜いたナイフを見て、夏音が驚いたように瞬きする。
「あ、待って」
走り出そうとする雪菜の背中を呼び止める。
立ち止まって心配そうに見上げて、夏音が静かに言葉を続ける。
「私はこの感覚を知ってる気がしました。たぶん前にもどこかで」
「……叶瀬さん、もしかしてあの錬金術師のことを知っているの?」
雪菜が困惑しながら訊き返す。
「錬金術師……」
しかし夏音はゆっくりと首を振った。
「いえ、あれはもっと恐いものでした。大切なお友達がたくさんいなくなりました。だから、もう二度と、あんなことは……雪菜さんも、どうか……」
夏音は雪菜のことを心配してくれているのだ。いなくならないで欲しい、といってくれたのだ。
「ありがとう。叶瀬さん──いえ、夏音ちゃんも気をつけて」
お互いに力強くうなずき合って、雪菜と夏音は、それぞれ違う方向へと駆け出した。
立ち入り禁止のロープを越えて、雪菜は船橋の中へと入る。
辿り着いた操舵室の光景は絶望的だった。
金属製の彫像と化して床に転がった船員たち。そして火花を噴き上げる船法装置。
すぐにこの状況を誰かに知らせなければ、と雪菜が思った瞬間、ゾッとするような悪意が背後から襲ってきた。鞭のように液体金属が雪菜のナイフを撃ち落とす。
「やあ。きみか、剣巫。ご自慢の槍はどうしたのさ?」
エアコンのダクトから融けた上半身を露出させていたのは、白いコートを着た錬金術師だ。
「天塚汞……!? どうして……あなたは死んだはず……!?」
「そうだよ。あの吸血鬼に殺されたよ」
驚愕する雪菜を見て、天塚は愉快そうに笑った。
「天塚汞……あなたは……」
「さすがにカンがいいね。そうさ、ここにいる僕は分身だよ。船の中をうろつくには、こっちの身体のほうが便利だからね──!」
天塚の輪郭がグニャリと崩れた。彼の胴体から突き破って現れた新たな触手が、雪菜に絡みつく。その瞬間、雪菜の視界が霧に包まれた。
「大丈夫、雪菜」
晴れた視界に映ったのは、銀色の輝きを放つ刀を持った少女だった。
「友妃さん……!」
ここにいるはずのない逢崎友妃が現れたのだ。
「またきみか。つくづく僕の邪魔をしたいようだね」
不愉快そうなに天塚が顔を歪める。
「きみが夏音ちゃんを狙う限り、ボクは何度でも邪魔するよ」
銀の輝きを放つ刀を天塚へと向ける。
「さすがに分身を何度も壊されるわけにはいかないからね」
全身をドロドロの液体状にして天塚が排水用のスリットに吸い込まれていく。
「天塚汞──!」
「逃がすか──!」
“夢幻龍”の刃をスリットに差し込むがもういなくなっているようだ。
友妃が刀を握ったまま操舵室を飛び出す。
「雪菜行くよ! あいつの狙いは夏音ちゃんだよ!」
そうだ。この船には、剣巫である雪菜よりも、剣帝である友妃よりも強力な霊媒を持つ少女がいる。
大切な人を失うかもしれない恐怖が背筋が凍る。
こんなとき、いつも助けてくれる少年たちはいない。
「どうして友妃さんがここにいるんですか?」
天塚を追いかけながら雪菜が訊いた。
「那月ちゃんに夏音ちゃんの護衛を任されたんだ」
早口で友妃が答える。
今は最低限の情報だけでいい。あとでまた説明すればいい。
従業員通路の扉を蹴り破って船内の広い通路に出る。
そこには赤白チェックの錬金術師と長い髪をショートカット風に結い上げた少女がいた。
そして錬金術師は無造作に手を振り下ろす。
「凪沙ちゃん! 伏せて──!」
「え!?」
雪菜の絶叫めいた声につられて、凪沙がその場に屈みこんだ。
その頭上に銀色の光が散った。凪沙を目がけて飛来した触手を、雪菜がナイフで弾き返した。
「ゆ、雪菜ちゃん!?」
なにが起きたかわからぬまま、凪沙は、雪菜が握っていたナイフに驚いている。
そして雪菜と睨み合う男の姿に絶句する。男の輪郭がぐずぐずと崩れ、怪物へと変貌していく。
「な、なに、この人!?」
「雪菜! 凪沙ちゃんを連れて逃げて!」
怯える凪沙の前に友妃が出る。友妃がいるのは広い通路の中央だ。怪物から逃げるのは難しくはない。しかし凪沙は青ざめた顔で首を振り、その場に力なく座りこんだ。
「魔族……なの?」
「凪沙ちゃん……!?」
身動きもできないほど取り乱す凪沙に気づいて、友妃と雪菜が驚愕する。
凪沙は魔族恐怖症。絃神島に来る前にある程度の情報収集している中でそれを知ってしまった。
だから、彼女はその場から逃げ出すこともできないのだ。
「失礼だな。僕は人間だよ。傷つくなぁ……」
恐怖におののく凪沙をいたぶるように、天塚がゆっくりと近づいていく。
「い……いや、来ないで!」
凪沙が声を震わせながら、必死で後ずさろうとした。しかし硬直しきっている腕に力が入らずに床を滑っている。
雪菜が必死に凪沙を離脱させようとするが、無理のようだ。この場で戦う選択肢もあるがこの狭い空間では、“夢幻龍”の真の力は発揮できない。
しかし新たに現れた天塚が逃げ道を塞いだ。
同時に二体を相手し、雪菜と凪沙を護りながら戦うのは不可能だ。
“夢幻龍”の幻影を使えばなんとか回避できるかもしれない。しかしあれは相手の目にそこに無いものを有るように見せ、有るものを無いものに見せているだけで、実態は確実のそこにある。それに二体いる時点で即座にそれが幻影だということもばれてしまう。
その間にも二体の天塚はさらに距離を詰める。
「い、嫌っ! 助けて、古城君! 古城君────!」
凪沙がうずくまって絶叫した。その瞬間、彼女の全身から放たれたのは、桁外れに凄まじい魔力だった。大気が凍てつき、凪沙の周囲が白く煙る。花弁のように雪の結晶が荒れ狂う。
「なにっ!?」
冷気を浴びた二体目の天塚が、身体中を白く凍らせながら転倒した。
「なんだよ、こいつ……!? この魔力はいったい……!? くそっ!」
一体目の天塚も怯えたように後ずさって逃走を始めた。
友妃と雪菜はそれを見送るしかなかった。天塚を追いかける前に凪沙を止めなければならない。
「凪沙ちゃん──!」
“夢幻龍”の魔力結界によって友妃は雪菜を冷気の渦から防ぐ。
純白の冷気をまとった凪沙が立ち上がる。
しかしそれは凪沙ではない。完全に意識を失っており、何者かに憑依されている。
このままではいずれ船ごと破壊されてしまう。しかし今の凪沙は意思をもって攻撃をしているわけではない。ただ彼女の中に眠るなにかが窮地を救うために現れただけだ。
そこに存在するだけで、破壊を撒き散らす。
それは二人の最強の吸血鬼のそれに酷似していた。
そんなことを考えているうちにも船の破壊は進んでいく。
息を整えて、銀の刀を今一度強く握りしめ、凪沙へと飛び込む。
「──獅子の御門たる高神の剣帝が崇め奉る」
神々しい黄金の翼が銀の輝きを放つ刀から展開される。
全てを無力化する“夢幻龍”の刃ならこの状況も抑えられるはずだ。
「虚栄の魔刀、夢幻の真龍、神域の翼膜を──っ!」
友妃の祝詞が止まる。
身体が床から引っ張られるように動かなくなる。その理由は、一瞬で理解できた。
通路の床と友妃の足が氷塊で凍りついている。
「……慌てるでない、獅子王の帝よ」
凪沙に憑依している者が、凪沙の声で友妃を制止させるように言う。
「そんなことをすればこの娘もただではすまんぞ。それでもよいのか?」
確かにその通りだ。強制的に憑依状態からの魔力を無力化されたら、肉体へのダメージの量など計り知れない。
「それでもこのままあなたを放置すれば船が沈むことになる」
すると不意に魔力の波動が消滅する。
「そうだな……貴様たちに少しだけ時間をくれてやる……」
そう言って凪沙が目を閉じる。糸の切れた操り人形のように、彼女がその場に倒れていく。
床と接着さているように凍りついている氷塊を銀の刃で砕く。
「友妃さん……今のはいったい……」
雪菜が白い吐息を吐きながら、友妃に訊く。
「わからない。でも、あの感覚……」
そこで言葉を濁す。この先の言葉を言ってはいけない気がした。それに言わずとも雪菜もわかっているだろう。
凪沙のことも気になるが、今は天塚のほうが気がかりだ。
「早く夏音ちゃんと合流しないと」
凪沙を抱きかかえながら友妃が立ち上がる。
そのとき背後から穏やかな声がした。
「あの人の目的はたぶん私でした」
「……夏音ちゃん!?」
雪菜が驚きの声を上げる。
「あの人が修道院のみんなを襲ったときのことを思い出しました。彼は供物になる強い霊能者が必要だと言いました。あの修道院には、たくさんの霊能力者が保護されていましたから」
「供物!?」
雪菜の言葉に全身の血の気が引く。
「まさか彼は錬金術師の材料にするつもりで、あなたを──」
「はい。だから私さえ近くにいなければ、みんなはきっと大丈夫です」
夏音は、覚悟を決めた者の優しげな表情でそう言った。そして彼女は避難した生徒とは逆方向に走り出した。
「夏音ちゃん!」
夏音の狙いに気づいたが凪沙を抱きかかえているせいで引き止めることができない。
代わりに動いたのは雪菜だった。
「友妃さんは、凪沙ちゃんをお願いします。夏音ちゃんはわたしが!」
「わかった。頼んだよ」
雪菜は夏音を追っていく。
友妃も急いで凪沙を避難所に送り届け、夏音たちと合流しなければならない。
「ほう。お前がニーナ・アデラードか」
那月の転移門をくぐった先にいたのは、第四真祖の少年と褐色の肌の色の色違いの浅葱だった。
「……那月ちゃん!? それに彩斗!」
那月は無言で古城を殴りつけた。畳んだ日傘の直撃を受けて、古城は仰け反った。
「その古の大錬金術師サマが、なぜ藍羽の顔をして偽乳を盛っているのかは気になるところだが……おまえの趣味か、暁古城?」
確かに偽物の浅葱の胸は異常に膨らんでいた。もともと浅葱もスタイルは良いほうだが、それ以上だ。
「違ェよ。つか、そんなことを言ってる場合じゃなくて──」
「慌ててんのはおまえだけじゃねぇんだ。少し、落ち着け」
彩斗は静かに呟いた。
那月から先ほど訊いたが、天塚が現在いる場所は彩海学園の宿泊研修生を乗せた定期便と予想されている。
彩斗の口調に天塚の位置を古城は理解した。
「嘘……だろ。だってあの船には凪沙や姫柊たちが……」
「だからなのかもしれんな」
ニーナが不機嫌そうに呟いた。
「“賢者”を創り出す際に使われたのは大量の貴金属。そして供物となる霊能力者だ。復活直後の“賢者”が力を取り戻すために、それと同じものを欲しても不思議ではあるまい?」
「そうか……あのフェリーには叶瀬が……!」
古城の声が震えている。天塚が知る中では、夏音は絃神島でも最高クラスの霊能力者だ。
そしてニーナは重々しくうなずく。
「天塚の狙いが夏音だけとは限らぬ。あの雪菜という娘も優れた霊媒であろう?」
「まずい……姫柊は“雪霞狼”を持ってないんだ!」
古城が焦る。
「せめてもの救いは、あそこに逢崎がいるっつうことだな」
あのフェリーには、友妃がいる。彼女は“神意の暁”の監視の任を解かれてはいるが“夢幻龍”を所持している。真祖さえも殺せる力を持つ獅子王機関の兵器なら天塚に対抗ができる。
「那月ちゃん、フェリーまで跳べないのか?」
「助けにいくのか」
「当然だろ。あの船には姫柊が乗ってるんだぞ! 凪沙や、他の知り合いだって、大勢!」
「無理だな。私には遠すぎる。空間制御の本質は距離をゼロにするのではなく、移動にかかる時間をゼロにする魔術だ。一瞬で移動できるというだけで、肉体には同じ距離を徒歩で移動したのと同じだけの負荷がかかる。跳ぶのは数キロが限界だ」
「魔術も万能じゃないってことか……」
古城は苦悶するように低くうめいた。
「だったら彩斗の眷獣なら──」
「できるならやってるっつうの」
彩斗は頭を掻いた。
「よくわかんねぇけど暴走したときから上手いこと眷獣が制御できねぇんだよ」
天塚の偽物と戦い暴走したときから眷獣がなぜか操作できないのだ。先ほども埠頭に向かう際に“真実を語る梟”を顕現させたが、その形はなぜか不鮮明だった。こんな状態で他の眷獣を出せば暴走していたかもしれない。
「だったらどうすりゃいいんだよ!」
古城がやり場のない怒りを露わにする。
「だから慌てんなっつうの。なんとために俺たちがここに来たと思ってんだ。な、那月ちゃん」
「そうだな。航空機はもう手配済みだ。都合よく機体を提供してくれた親切な連中がいてな」
那月は無感情に説明しながら、彩斗の腹をノーモーションから殴った。本日二回目の鉄拳制裁に悶える。
「妾も同行させてもらうぞ。文句ないな、南宮那月?」
ニーナが強引に古城たちの会話に割り込んでくる。
「そうしてもらおう、偽乳。この吸血鬼どもでは不安だからな」
「あれ、那月ちゃんは一緒に来ないのか?」
訝しげに訊き返す古城を見上げ、那月が素っ気なくうなずいた。
「私たちはあとからヘリで追いかける。不本意だが、おまえたち以外にあれに耐えられそうなやつらの心当たりがなくてな」
「耐えられるってなんのことだ……?」
「もう嫌な予感しかしねぇな」
どこか不安になる言葉を残して、那月は空間を歪めてその中に古城と立ち上がったばかりの彩斗を突き飛ばす。
浮遊間の後に見慣れない場所に出現する。
見渡す限り広がっているのは巨大浮遊体式構造物の上に建設された滑走路。そして待機中のヘリや旅客機の群れだ。絃神島の中央空港のど真ん中だ。
「え……!?」
「マジかよ……」
駐機スポットに停まっている航空機を見て、彩斗は頬を引き攣らせる。
恐ろしく巨大な乗り物だ。
紡錘形のバルーンで構造された船体は優に百五十メートル以上。大型旅客機の二倍近い巨体に、無数の機関砲が搭載されている。
分厚い装甲に覆われた船体は、要塞のようだ。
氷河の煌めきにも似たペールブルーの装甲は、黄金の装飾に縁取られている。
そして船体に刻まれているのは、大剣を握る戦乙女──その紋章を、彩斗は嫌という程知っている。
北欧アルディギア王家の紋章だ。
後書き
諸事情により主人公の眷獣の力を消失させました。
誤字脱字などがありましたらまた感想などで知らせてください。
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