相棒は妹
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
志乃「私としては――」
その言葉に、俺は息が詰まった。最初は何を意味しているのか、思考が停滞して理解に苦しんだが、事態は硬直したまま動かず、逆にそれが嫌な現実感を滲ませていた。
転んだ時、バッグが地面に直撃した。つまり、中に入っている機材に大きな衝撃が加わったということ。そして、志乃が持っていたバッグの中に入れていた機具の中で一番幅を取っていたのは、パソコン。
それらを全て認識した時、俺は目の前が真っ暗になるような錯覚を味わった。だが、ここで諦めちゃダメだ。何も、パソコンが完全にブラックアウトしたわけじゃない筈。悪い方向だけ見ちゃダメなんだ。
悲愴的な顔をしながら茫然としている志乃に、俺はなるべく明るい声で話しかけた。
「そんな顔すんなって。とりあえず、中身確認しようぜ。そう簡単にパソコンぶっ壊れたらおしまいだって」
「……うん」
なんとか声を出してくれた志乃に、少し安心した。だが、顔は依然として強張ったままだ。
「まぁ、ここはまだ外だから、家帰ってからな」
「そう、だね」
今ここでパソコンの状態を見て、仮に悲惨な結果を迎えた時にどう対応すればいいのか分からない。あくまでそう考えた上での行動だった。
俺だって、そんな結末は願ってもいない。あんなに頑張ってきたのに、あんなに苦難を乗り越えてきたのに、それが全部無駄になるだなんて、俺は嫌だ。
隣でトボトボ歩いている志乃から空になった缶コーヒーを取り、それを近くのゴミ箱に捨て、俺達は再び帰路を歩き出した。
心の中で、モヤモヤした何かを揺らめかせながら。
*****
家に着いた途端にバッグを開けようとした志乃を押さえ、風呂に入って飯食ってからにする事を勧める。志乃は静かに頷き、ふらふらした足取りで風呂場に向かって行った。その姿に、つい先程までの意志と力は感じられなかった。
俺は自分の荷物と志乃の荷物を持ちながら二階に上り、それらをまとめて俺の部屋に置いておく事にした。無論、中は確認していない。あれは志乃と一緒に状態を確かめなきゃならないものだからな。
そうして一階へ戻り、リビングへ行くと、母さんに話しかけられた。どこか心配そうな表情を浮かべている。
「ねえ、志乃と何かあったの?なんかすごいやる気が抜けたような顔してるんだけど」
「きっと今までの疲れが溜まってんだろ」
俺はそう適当に返したが、母さんは納得していないようだった。でも、それ以上は俺の口からは聞けないと判断したのか、以降は食器洗いに集中していた。恐らく本人にも聞いたんだろうけど、曖昧な返事をされて逃げられたんだと思う。
次に、右斜め前に座ってカップヌードルを食べていた父さんも、同じ問いを掛けてきた。つか、何であんただけ違う飯食ってんだよ。母さんに失礼だろうが。
「で、志乃はどうしたんだ。疲れには見えないんだが」
「節穴なんじゃないの?」
「一理あるな」
この父は、ノリが良くてバカだ。
三秒ぐらいで終了した俺達の会話に、台所から母さんの溜息が聞こえてきた。いや、あんたも普段は十分変わってる人だからね?この家族に常識人なんて、俺ぐらいのものだろう。
それからしばらくして、志乃が風呂から出てきた。その時も志乃の顔はどこか切羽詰まった感じで、目がうろうろしていた。全ての塊であるパソコンの行方が気になって仕方ないんだろう。
俺はそれを察知して、志乃に声を掛けておいた。
「上にある機材、まだ見るなよ。俺が風呂から出て飯食った後だぞ」
「分かってる」
俺とは目を合わせなかったが、俺はそれを信じた。正直に言えば不安満載なんだけど、俺がいきなり風呂場から出て様子を確認するわけにもいかない。
不安が抜けない嫌な感じを背負いながら、仕方なく風呂に入る事にした。風呂は、俺の一日の中でも一番落ち着くであろう時間なのだが、今はそれを十分に満喫する事は出来なさそうだ。
*****
……とか言っておきながら、やっぱり風呂は風呂だった。剣道をやっていた時もそうだったが、どれだけ苛立ちが募っていようが、風呂に入ると少しでも必ず和らぐのだ。それを意識している事こそが要因なのかもしれないけど、そこまでは考えない。とにかく、気分が良くなるのだ。
ジャージの袖に手を通し服を着る。髪はタオルでちゃちゃっと拭いただけだ。ぶっちゃけた話をすると、明日も休みなので髪の毛なんざどうだっていいのだ。スーパーサ●ヤ人ヘアに変身しようが気にしない。
リビングに戻ると、志乃は俺の席の隣にちょこんと座っていた。そして、バラエティー番組をじっと見ていた。のだが、俺にはそれが感情を抑えるためにやっているのだと思えた。
「志乃、飯は?」
「食べた」
「そっか」
どうやら完全に俺待ちのようだ。あまり待たせすぎるのも悪い気がしたので、俺は夜飯の準備をしてから、すぐに夜飯を頂いた。その際、父さんに、ただの無駄話という事でカップヌードルを食っていた理由について聞いてみたら、父さんは少し照れた顔で、
「母さん怒らせちゃった」
と、母さんのいる前で呟いた。
それを聞いた母さんは不満そうな顔で俺に文句を言ってくる。
「あの人ったらね、『お前、ちょっと胸萎んだんじゃね?』なんていうセクハラ発言してきたのよ?いくら妻に対してでも、それは女として許せないの!だから今日の夜ご飯抜きにして、カップヌードル食べさせたの」
そういう話を息子にするのもどうかと思うぞ。つか、あんたらホント仲良いな。平和すぎて戦争の影すら見えないよ。
それらに適当な相槌を打ち、俺は夜飯にありついていたのだが――
そこで、隣でテレビを見ていた志乃がいつのまにか姿を消していた事に気付いた。
最初はトイレにでも行ったのかと考えたのだが、いつまで経っても帰って来ない。部屋に戻ったのかもとも予測したのだが、それにしては階段の音があまりにも聞こえなさすぎた。俺は両親のウザったい会話を確かに聞いていたが、その中に階段の板を叩く音は聞こえてこなかった。まるで、誰にも気付かれないように忍び足で上ったかのような……。
そこまで考えて、俺は一つの嫌な予感にぶち当たった。それは、あまりに単純であまりに理屈の合いすぎた予感だった。
それを確認すべく、残った夜飯を口にかきこみ、急いで二階に向かった。背中が無意識にブルリと震えた。まさか、そんな事ある筈が無い。だって、約束しただろうが……!
そして階段を上り切って目の前の自室のドアを静かに開けた。なお、俺は最後に入った時、ドアを閉めていなかった……。
俺はその先に広がる光景を見て、やはりな、と意外に冷静な感想を抱いていた。それは、大体予想がついていたからこその反応だったのかもしれない。表向きはそんな筈ないと思い込んでいながら、やはり分かっていたのだ。
案の定、俺の部屋には来客がいた。電気が点けられた部屋の中で、空気に溶け込むように静かな志乃が、一つのバッグの中を覗いたまま沈黙していた。
「……志乃」
とりあえず、そう声を掛けてみる。俺は別に怒っていない。志乃がずっと気にしていてそわそわしている事には気付いていた。でも、バッドエンドを迎えた時の対処が分からず、後回しにしてしまっていた。故に、志乃にこうした行動を取らせてしまったのだ。俺にも非があるのは間違いない。
「志乃」
もう一度呼び掛けてみる。応答は無い。目の前で、バッグの中を見た態勢で固まっている。
そこで、志乃の顔を見るべく身体を志乃と同じように丸め、静かにその顔を覗き込んだのだが――それを見て、俺は息を殺した。
志乃が、泣いていた。
肩を微妙に震わせながら、静かに泣いていた。
俺はそんな妹に対しどう対処すればいいか分からず、ただ呼びかける事しか出来なかった。
でも、志乃は一切こちらに目を向けず、目から大粒の涙を溢れさせながら、口をわなわなさせていた。意識が一点に集中していて、俺の声も届いていない。
そんな志乃を見て、俺は結論を出す。
俺達の作った作品が、壊れてしまったのだと。
そこで、俺はただただ涙を流す志乃の先にあるバッグの中を覗いてみた。志乃はそれでも反応を見せず、固まったままだったが。
そして、見た瞬間、頭がツーンという謎の感覚に押し寄せられた。
志乃が持っていたバッグの中に入れられたパソコンの液晶が割れていた。部屋の明かりが志乃の影を作り出して、バッグの中が暗くなっていたが、なんとか確認出来た。他にもマイクやヘッドフォンなどの小さい物も入っていたが、そちらは問題無さそうだった。
でも、現実は容赦なく、俺に事実を突き付けてくる。
パソコンが壊れた。それはつまり、これまでの成果が破壊されたという事だ。
それを頭の中で繰り返し繰り返し唱えたところで――
俺は、静かに泣き続ける志乃を、横からゆっくりと抱擁した。
志乃が突然息を飲んだのが伝わる。だが、それ以降は声を潜め、しかし少しずつ嗚咽が混じってきた。それに合わせ肩が揺れるのが直に分かる。
「……ごめん」
俺は、そんな志乃に対し謝った。志乃が掠り声で「え?」と言ったのが聞こえた。
「俺も、これは予想してた。だからこそ、志乃が悲しむの、見たくなかった。ずっと後回しにし続けたんだ。どうせ、最後には結末が待ってるって、分かってたのに……」
単語のようなカタコトになってしまったが、声を震わせずに言う事が出来た。ここで弱いところを見せちゃダメだ。これは兄貴としてでは無い。同じ目線で戦ってきた相棒としての、覚悟だ。
志乃を優しく抱くものの、志乃に力は入っていない。手はダラリと下がり、足も崩れ正座で猫背になっている。俺の右肩に志乃の頬が来る位置だったので、口が動いたのはすぐに分かった。直後、志乃が啜り泣きの混ざった言葉を吐き出した。
「兄貴は、悪くない。私が、私が悪いの。私があの時、簡単に転ばなきゃ……私、弱いから。強いようで、もっとずっと、弱いから」
「え……?」
「いつも、兄貴に偉そうにしてても、心の中では、それがダメだって……もっと、素直にならなくちゃって、思ってるのに。どうしても、それが出来なくて……。ピアノだって、そう。どんなに頑張ったって、どんなに好きだったって、私が弱いんじゃ、多利間さんに勝てるわけ無い」
「……」
何で、だよ。
何で、志乃はそこまで自分を否定するんだよ。そんなの――
「そんなの、間違ってる」
俺は、大きくないがはっきりと、志乃の言葉を否定する。それ以外の返答を許さないかのように、ゆっくりと言い聞かせる。
「それは間違ってる。間違ってるよ。お前が転んでなくても、もしかしたらあいつは別の事でお前を襲ったかもしれない」
あったかもしれない展開を話す。
「強いようで弱い?そんな人間、どこにだっている。それは、自分を相手に表現するのが苦手なだけだ。だから、ちょっと刺々しくなっちまったり、遠回りな表現になったりしちまうんだ。でもさ、お前は数年ぶりに話した時、俺に平手打ちして目を覚ましてくれたじゃんかよ」
狭い知識の中で得た人間のタイプを話す。
「お前はピアノが上手い。それに、俺とは違って好きであり続けられるんだ。頑張れるんだ。そこに、物理的な力ってのは必要な事なのか?むしろ、あいつの方がピアノを弾くに相応しく無いだろ。こっちは八つ当たりされたんだから」
そこまで話して、志乃を抱く力を少し強めた。こうでもしないと、落ち込み続けた志乃がそのまま空気と一体化してしまうような気がして……。
だが、その時志乃が口を開いた。そして、不満の含まれた言葉を吐き出した。
「……兄貴に、何が分かるの」
「……」
「前に言ったでしょ。私は、兄貴を『復活』させるだけで、何かしてもらうつもりは無いの」
「その『復活』って何なんだ?俺はまだ、退学の尾を引き続けてるって事か?」
全てが静止したような俺の部屋。物音の一切無い空間で、俺達の声だけが空気を微振動させる。
「俺はまだ、志乃から見たら堕落した人間で、上から見られたくは無いって、そういう話だよな」
「……」
俺は特に何の戸惑いも無く、そう問うた。あくまで志乃を落ち着かせようと小さく言葉を発する。
志乃は少しして、再び小さな声で呟いた。
「……そう」
「……」
「私の中に、やっぱりそう思う自分がいた。それが嫌だった。殺したかった。でも、まだ私の中で踏ん切りが付いてなかった。私は、まだ兄貴を今までの兄貴だと思えてないの」
ものすごく申し訳なさそうに呟く志乃に、俺は少し悲しくなったが、それでも志乃の本心を知る事が出来て良かったと思った。そう思えたからこそ、次の言葉を瞬時に選び出す事が出来た。
「……素直でよろしい」
「……え?」
「ここで『兄貴めっちゃ大好き』なんて言われても疑問が残るだけだったからな。でも、そっか。お前、ホントに俺のためにここまでやってくれたんだな」
「……ッ」
ハッとしたような志乃の息遣いに内心で苦笑しながら、俺は言葉を紡ぎ出す。
「俺、嬉しいよ。どんだけ俺をバカにしようが何しようが構わない。俺をどう思ってたとしても。でも、本当に嬉しい。ありがとう、志乃」
「……」
「これから、もっと兄貴らしくなるから、これからも仲良くしてほしい。頼む」
何故、最初に謝った人間が最終的に礼を言う立場になっているのだろうか。自分でもそれが不自然に思えて仕方ない。でも、流れが流れだから、しょうがないと言える。俺は、自分勝手なまでに想いを伝えただけだ。
そして、ゆっくりと志乃の身体から離れていき、そこで再び時が止まった。俺も、今何故動きを止めてしまったのか理解出来なかった。
気まずい。俺は別に下心があって志乃を抱きしめたわけじゃ無い。ただ、あの場で自然と体が動いたのだ。このままだといけない、どうにかして志乃を何とかしたいと思ってたら、いつの間にか密着していたのだ。
今その流れでバッグの中から無事な機材取り出して「また作らないか?」って聞けば良かったのに。ああもう、自分の不器用さに笑えない。
だが、俺はそこで一つ言い忘れた事を思い出した。それは、今自分が考えていた内容に付随する事なので、ここで素直に明かす方が良いだろう。
「あのさ」
「?」
「俺、こんな事言うのも不謹慎なんだけど、実はバッグが衝撃受けたって聞いた時、少しだけ思っちゃったんだよ。ああ、これでまた志乃と作業が出来る、って」
「……」
「なんか安心しちゃったんだ。志乃がこれで辞めるなら俺は尊重するつもりだった。最初で最後になるって思ってたから、余計に考えちまった」
言い出して、志乃が顔を小さく伏せたのを見て、失敗したと思った。俺は無知すぎた。これはもっと後になって言うべき話だった。直後にそんな話をしたら刺激してしまうのに。俺はなんて自己中なんだよ。
自己嫌悪に陥りながら、次の言葉を見つけ出せずにいると、志乃の方から微かな呟きが聞こえてきた。
「……いじゃん」
「え?」
それは普段以上に小さく、もはや何を言っているのかさっぱり分からなかった。それに対して短い疑問で返したのだが――次に見た志乃の表情に、俺の頭の中が真っ白になった。
志乃は、今まで見せた事の無いような満面の笑みで――今度は聞こえる声で言い放った。
「こんな楽しい事、辞めるわけないじゃん」
その笑顔は、比喩なんかじゃなく、太陽のように眩しく、素敵だった。そして、何故か俺の脳裏に小学生だった頃の志乃が浮かんだ。ああ、似ている。こいつは、こんな感情豊かな奴だった。妹だという事も忘れて、俺は少し見惚れてしまっていた。
二人で無事な機材を整理し、破損した志乃のパソコンは捨てる運びとなった。投稿する作品は、俺のパソコンを使って、後日改めて録り直す事にした。ピアノの件はゆっくり考えると志乃は言った。ただ、すぐ答えを出せるような問題じゃないのは確かな事だ。
でも、志乃はいつも通りに不敵な笑みを顔に貼り付けながら、最後にこう言って俺の部屋を後にした。
「まぁ、私としては多利間さんを叩くより大事な事があるんだけどね」
後書き
次回が最終話となります。最後まで見送っていただけたらなと思っていますのでよろしくお願いします。
ページ上へ戻る