Shangri-La...
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第一部 学園都市篇
第2章 幻想御手事件
22.Jury・Night:『Howler in the Dark』Ⅱ
闇だ。一面の闇だ、見渡す限り。光は、一切。在るのは闇と、不快な湿度。そして……噎せ返るような腐敗臭。何か小さなモノが這い回る、嫌いな者であれば堪えられない音。
正に下水道の只中、しかしそこは、有り得ない。有り得ないのだ、そんな。
「――――じゃ、じゃあ、着けますよ?」
「ああ、中程の縦向きのホイールを回したら着くから」
声、少女の。続き、金属の擦れる音と共に――――焔が灯る。嚆矢の、オイルタンクライターの火が。
橙色の輝きに、嚆矢と飾利が浮かび上がる。同時に、足元のゴキブリや鼠といった生き物が、負の光走性により逃げていく。『ふひゃあ』と飾利が情けない声を上げて、ライターを持ったまま嚆矢の背中で竦み上がった。
汚水の淀みに浮かぶ黴の塊、得体の知れない鍾乳石。おおよそ人には最悪の環境が、其処には在る。
「はうぅ……あの、先輩……その、重くないですか……?」
「ん~? いやいや、女の子に下水なんて歩かせらんないし、四十キロくらいなら部活の勧誘で背負ってるからへーきへーき」
ハンカチ越しに盛大に溜め息を吐き、彼女は汚水を物ともせずにザブザブと歩く嚆矢を見やる。
成る程、学園名物の心臓破りの門前を四十キロの重りを付けてロードワークするという莫迦な新入生勧誘ショーで培った足腰が、こんな時に役に立っていた。
「でも、よかった……もうダメかと思いましたから……嚆矢先輩に会えて、なんだか安心しました」
「そりゃあ、どうも。こんな奴でも役に立てて、嬉しいよ」
そんな風に、背中で安堵してくれるのならば――――『制空権域』で、最小の被害……『右足の捻挫』くらいで済ませた甲斐があると言うもの。
――ま、問題は……此処が本当に、只の下水道かって事かな。
暗部での経験上、こう言う時はどうにも百分の一が重なるもんだ。
そんな考えを臆面にも出さず、にこりと微笑みを右側から覗く少女の顔を向ける。それを受けて、少し前まで只々、闇を恐れ、怯えていた少女は健気に微笑みを返してくれる。
「あ、先輩知ってますか、『下水道には、買えなくなって捨てられた白い鰐がいる』って都市伝説……もし本当にいたら、食べられちゃいますね」
「そうなんだ? 俺が知ってるのは、油臭い白鰐ちゃん達だけだけど。何にしても、飾利ちゃんが都市伝説に興味あるなんて意外だな」
「違いますよぅ、わたしじゃなくて、佐天さんが……」
聞き出せた情報は、『突然、化け物に追われた』、『何故だか分からない』という事だけ。それ以上は、彼女の精神衛生を考えて不問に。否――――それだけで、十分だ。
――良く、生きていたものだ。魔術の域に足を踏み入れて。いや、望んでそうしたのではなくとも……良く、生きていてくれたと思う。
だから……殺す。この子を狙ったあの、化け物を。正体が何でも、関係ねェ……ブチ殺す、何がなンでも。
決意し、そして感謝する。そんな彼女に向けてしまっていた拳銃の引金を引く前に……『自らの右手で悲劇の幕を上げる』前に止めてくれた――――『二つの右手』に。
例えそれが幻想でも、実在でも。
「感謝、だな」
「何がですか?」
「いいや、此方の話」
小首を傾げる彼女を余所に、汚水の中を歩く。ぬめつく底で滑らぬよう、痛む足首に意識を集中して。
――白井ちゃんの『空間移動』なら、上手く脱出出来たか? いや、あれは確か、移動先の座標が分からないと駄目なんだっけ……。
やっぱ、地道にマンホールを探すしかないか。携帯も通じないし。
この、地の底からの脱出孔を探して歩く――――
『_____________!』
「「――――!?」」
その、眼前に現れ出でる異形。吼えるように、闇の底でも。人の、当たり前に生きる人ならば、当たり前に凍りつかせる絶叫で。
だから瞬時に、ガバメントを構える。今、唯一の力を。魔力、神刻文字すらも籠めた『呪殺弾』で。『魔術使い』は、凍りつかされる事無く。
「チッ――――!」
「ひっ……」
異形、よろめくように這いずって。黒い、腐乱死体染みたそれ。グズグズに弛んだ表皮、円錐形の頭には、顔の半分もある歯の無い口腔。ぽっかりと。
忌まわしい。吐き気がする。生理的に、人が嫌悪を催すモのばかりで構成された、その存在。
最早、迷いはない。引金を引く、迷わず眉間と心臓に向けて。そこが、急所であると願いながら。
銃声は二発、それより早く閃光も二回。受けた魔弾も、二個の筈。神刻文字を刻まれて強化された、音速を越える銃弾だ。常人ならば、即死は免れまい。
『イイイイ______ィィィィ!』
常人ならば。先読みしたかのように崩れかけの腕を振るい、魔弾を叩き落とした、あからさまな異形に常識などは通じない。
咆哮に、空間が軋む。汚水の水面が泡立ち、黴塗れのコンクリートの壁面にヒビが走る。物理的な破壊力すら持つ吠え声は、雄々しくなど無く。卑劣で、悪意に満ちていて。
「クソッタレが――――第二位かっての!」
物理的に脳髄を揺らす声に悪態を吐き捨て、思考する。拳銃が駄目ならどうすれば良いか、思考する。
今、手の内に在る対抗策足り得るものは……ただ、一つ。
――『賢人バルザイの偃月刀』……だな。でも、飾利ちゃんの目の前だ。こだわりッて訳じゃねェが、魔術を一般人に晒すのは、今までしてこなかった。
目線を、背中の方に。僅かに横を見遣れば、嚆矢の右手を見詰める彼女。驚いた顔で。
だから、普通なら気の触れる声に意識を向けずに済んだのか。
「銃……先輩、なんで銃なんて持って……」
「あ」
そうだった。『拳銃』も、十分に一般人には異質なもの。警察官や警備員ならば別だが、風紀委員が持つようなものではない。
しくじったかな、と思う。だが、それ以上に――――吹っ切れた。
「今更だ、なぁ――――」
取り出す。懐から、『断罪の書・断篇』を。其処に在る内容は、頭に入っている。本来は青銅の剣、だが此処にはそんな気の利いた物はない。
在るのは、黒鉄。右手の先、材料はコレくらい。
――――だが、知らない。お前は魔術は刻めても、刀の鍛ち方なんて物は。意志の籠め方などは。
そう、知りはしない。諭されたように、思ったように。飾利の頭があるのとは反対の耳、闇に満たされた……『虚空』が在る方から。
――――そう、無理だ。お前には、無理だ。お前には、分かっている筈だ。
『諦めろ』と。『諦めて、悲劇を受け入れろ』と。
燃え立つ三つの眼差しは闇に満たされた虚空から、嘲笑いながら囁き掛けて――――
「――――あァ……」
頷く。それ以外にはない。確かに、知らない。魔術は刻めても、想いを刻む方法など。
認めるしかない、それは。事実なのだから。
「関係ねェよ」
だから、だから。再度、右腕を伸ばす。異形に向けて、紙片を手に。詩編を手に。
ただ一つの、約束を果たすために。
「何しろこいつは……飾利ちゃんを泣かしたからな」
だから、その唯一の戦意の根元を示す。彼の誓約『女の子に優しくする』という、その自戒を。赤枝の騎士団の、誇りを掲げる。
口角を吊り上げて、敵を睨む。『正体不明の怪物』が牙を剥く。
『――――やれやれ』
その時、唐突に脳内に声が響く。呆れ果てるように、背後の闇に融けて消える。『やってみろ』と、『そんな事でこの闇を払えると思うのなら』と。影色の鋼鉄、軋むように嘲笑いながら。
『全ての影は不滅、死など無い。そう、無いのだから――――“闇に吠えるもの”もまた、再生不可能なレベルの致命傷を与えなければ鏖せはしない』
それでも、虚空からじっと、じっと。面白そうに、眺め続けながら。
言われなくても、と。『生命力』を『魔力』へと昇華する。再び満ちた魔力、それを……全て『断罪の書・断篇』に流し込む。
感じたのは、死の痛み。頭痛程度だが、確実に脳細胞の幾らかが死滅した。そんな目に遭うのも、その程度で済んだのも、その『能力』の為。
「――――飢える」
そして、記述されている『召喚方法』の全てを無視する。何故なら、師父は言っていた。
『君の求めるものは、ここに在る』と。『書いてある』ではなく、だ。
「――――飢える……」
詩編が意味を為す。紙片が意味を為す。それは、さながら神刻文字のように。
「――――飢える!」
錬金術による骸殻など無くても、『召喚術』によって――――幻想にしかない筈の『賢人バルザイの偃月刀』は、鋼を得る!
「これが……」
現れた、玉虫色のダマスク剣。第四代カリフの愛刀ズー・アル・フィカールにも似た形。拳銃の比ではない、その重量感。その存在感、その威圧感。正に、時空の神の祭具だ。
目の前の異形、切り裂けと囁くように。意思でも持つかのように、圧倒的な質感。
『__バルザイ__の__偃月刀____ォォォ!』
その時、異形は初めて明確に声を上げた。聞き取れる声で、この偃月刀の銘を。
それは、衝撃だ。闇を震わせて、あらゆる全ての分子結合を融解させる音の波。絶叫が埃の浮く大気を激震させ、汚水の水面が沸騰し、黴塗れのコンクリートの壁面が砕ける。
躱せはしまい。只の人間には。魔術による加護か、科学による防護の為されていない一般人には。
「ハッ――――耳障りなンだよ、テメェの濁声は!」
だが、だが。だが――――その二つを、この男は持つ。祭具剣『バルザイの偃月刀』に刻まれた、『古き印』の加護。そして、その身には『確率の支配』を可能とする科学技術による防護が。
故に、傷一つ無く。背中の少女を護り立つ嚆矢の黄金酒の瞳が、異形を睨む!
『__何故__……__お前____だけが____ァァァァ!』
それに異形は刹那、怯んで。そして、怯ませた事を許さないとばかりに、二度目の咆哮の構えを。
しかし、既に彼の瞳は捉えている。目の前の異形、倒すべき敵。最早、微風ほどの恐怖もない。恐ろしいと言うのならば、この偃月刀の方が、余程。余程。
「チッ――――無駄飯喰らいが」
吐き捨て、再度命を削る。命のみ、それを全て偃月刀に。魔力は、偃月刀の内で形作られる。だから、反動はない。
「目障りだ……消えろ!」
だが、快さなどは皆無だ。命を蝕む喜悦に沸騰する、禍々しい玉虫色。その不快感に、表情を歪める。其処に息衝くもの、此方を覗き見る存在に。
命を削って感じたモノ、その痛み、その不快。その怒り、その理不尽を……全て。鋒先の向く彼方、全てをぶつけるのは――――目の前の異形!
「――――『ヨグ・ソトースの時空輪廻』」
一声。それだけで、十全。鋒の向く先、其処に在る全てが捩じ斬れる。刀、振るわずとも。刃、触れずとも。『門の神』の眼差しに晒された、時空自体が。
『ギ__がァ____ァァ____ァァァァ!』
縦に、横に、斜めに。点に、線に、平面に、立体に。戻り、止まり、進み、時間すら、空間すらも斬り裂かれた時空に。其処に在った異形もまた、同じ運命を辿るのみ。
最期に断末魔さえ斬り裂かれて、虚空の継ぎ目に呑み込まれるように消えていった。
「倒した……ん、ですか……? これで、終わり……?」
惚けたように、ただ、理解を越えている目の前の幾つもの超常。それが終わった事を察して、飾利が辛うじて口を開いた。
「…………」
「先輩……?」
だが、嚆矢は答えない。無視した訳ではない、ただ、考えている事があるだけ。
暗部での経験から、百分の一の状況を。
「ブラフ、か――――コイツは」
そう、口にする。理解したのだ、本能的に。『これは、紛い物だ』と、あの時、足下から感じたモノと競べれば――――雲と泥の差がある。。
「――――そう、その通りだよ」
「「ッっ――――!?」」
その二人に向けて、声が響いた。下水道、闇の満ちた地底を揺らして?
「流石は、我が女王のお気に入りの玩具か……具現程度で、顕在たるこの俺の分身を滅ぼすとは。あの“時計人間”や“黒い仏”が見込むだけはある……」
否、鼓膜だけを揺らして。革靴の音、響かせて――――。
「参ったね、まさか、昨日の今日でとはな……『突貫熱杭』、だっけ?」
「おや、ご存じに在らせられましたか、陛下、これは恐悦至極……」
天井を歩く、逆さまの人影が現れ出る。称えるように、蔑んで。見上げるように、見下して。微笑むように、嘲笑して。
つい先程。見た覚えのある、初対面のその人物。大学生くらいの年齢か、目付きの鋭い眼鏡の、オールバックの青年は――――その左手に、一冊の『本』を携えて。
「だが、認めない。俺は貴様など……絶対に!」
その嘲笑も、塗り潰される。嫉妬と憎しみ。色濃く、漆黒に。
「末期の祈りは十分でしょう? 一人で死ぬのではないのですから! 連れ添いならば、其処に態々、用意して差し上げたのですからねぇ!」
哄笑を浮かべていた。左手の一冊、突き出して。メリメリと、裂け始めた口蓋に。
『ひっ』とまたも、背中の少女が竦み上がる。それに、目の前の男を嚆矢は睨む。
「さぁ、『ドール讃歌』よ……疾く来たれ!」
気でも触れたかのように震える彼女、然もありなん、先程までとは空気が違う。
見るに耐えない。そう思うより早く、飾利の視界を塞いでいた。自身は、目の前の冒涜の羽化から目を背けずに。
「飢える――――飢える、飢える、飢える!」
その時、臨界を越えて。蛹の殻を破り捨てるように、人の骸殻が脱ぎ捨てられる。
嗚呼、なんたる不浄。なんたる汚穢。救いはない、救いはない。『主よ、何処に行かれたのですか』?
『飢える――――星を喰らうものよ!』
現れたもの。余りの異形に、嚆矢ですら膝が笑う。前の異形など、孵化したコレに競べれば可愛いものだ。自然、足が笑う。正気が霞む。瘴気に霞む。耐えられたのは、元から世界が地獄だと知っていたがために。
蠢き這いずる、山のように大きな蚯蚓。青白い粘液に塗れ、のたうちながら。見ようと目を凝らせば透き通り、見たくないと目を背ければ色濃く。それは、幻の如き現実として、其処に顕在する。
下水道を覆わんほどに巨大な口蓋を持つ、その異形は、表情など形作れる筈もないのに。
『汝――――地を穿つ魔!』
明確に、明白に。目の前の命二つを喰らい啜る、嗜虐に満ちた笑顔を浮かべていた。
………………
…………
……
『禍福は糾える縄の如し』等とは、幸福しか知らない者の戯言だと。随分と昔から知ってはいたが、此処までとは。
在りもしない事を、願ってしまう。目の前に蠢く、精神を蝕む異形を臨んで。そう――――
――こう、都合よく……無敵のヒーローでも助けに来てくンねェかなァ、いや、割とガチでさ。
そんな、不甲斐ない事を思う。だが、そんな事はない。現実では、有り得ない。
無辜のピンチに颯爽と現れ、悪を挫いて誰かを助けるスーパーヒーロー。あれは、創作だからこそ。助けなど、予定調和でなければ来はしない。
だからこそ、屈してはならない膝が。だからこそ、離してはならない手が。だからこそ、挫けてはいけない思いがある。
「……先輩……っ」
「――――大丈夫……」
この手は、離してはいけない。そうだ、もう、二度と――――
『■■■……』
「過去にも、言ったけど……さッ」
覚えはない。なのに、知っている。その絶望、その悔恨。合わない歯の根を、無理矢理に喰い縛って。
在りもしない揮発油の臭い、犇めく鉄の刃の檻、焼けつく真紅の焔に――――腕の中で、冷たく消え行くその命は。
「――――ボクが……護る、って」
「先輩……」
精一杯の強がりで。『虚空爆破事件』の時に、成し遂げられなかった誓い。それを今、ここで果たそうと?
無様に笑う膝を叱咤し、偃月刀を構える。命を蝕ませ、再び――――時空の連続を、滅茶苦茶に繋ぎ直す!
「――――『ヨグ=ソトースの時空輪廻』!」
断つ。無数に玉虫色の泡、弾けて。縦に、横に、斜めに。点に、線に、平面に、立体に。戻り、止まり、進み、時間も、空間すらも斬り裂いて。
『ハッ――――この程度ですかな、閣下……期待外れも甚だしい!』
「チッ――――図体ばかりの木偶の坊が……!」
だが――――小さい、小さ過ぎる。あれ程の力と感じたこの偃月刀も、この怪物と競べれば――――本来の格は『門の神』の方が遥かに上とはいえ、たかだかこの程度の規模での顕現程度。鍵穴から覗いた程度の力では、再生可能な傷しか与えられない。
では、もっと顕現の幅を広げる? 何を莫迦な、このサイズでも限界に近いと言うのに。これ以上、広げれば――――間違いなく、呑み込まれるのは自分の方。
『足掻くな……幾ら、ヨグ=ソトースの欠片の欠片と言えど、ドールとシュド=メルの融合体と化した俺には無意味――――』
それをも嘲笑って、確かな未来にヤディス星を喰らい滅ぼす怪物『ドール』と地球の地殻すら貫く穴を穿つ旧きものクトーニアン族の首領にして旧支配者シュド=メルの融合体。即ち、怪物の中の怪物たるその異形。
嘲るような声は、耳を揺らさずに心の中へ。クトーニアンのテレパシー能力だ、人の心すら操ると言う。そしてその隧道の如き口蓋を開けば、中から競うように――――
「おいおい……マジかよ!」
競うように、『闇に吠える者』が――――その、『触腕の先端部分』が這い出す。
その数、優に……十体。それら全てが、一斉に咆哮する――――!
「クッ……ソッタレ、がァァァッ!」
辛うじて、右足で床面を錬金術にて『盾』とする。迫り出したコンクリート、刻まれた『消沈』の三大神刻文字。果たして、いつまで持つか。
その爆轟に『三種の印』の加護が、軋む。確率0%では、『制空権域』でも防護できない。振動により沸騰・気化した溶解液、その輻射熱により全てを溶かす――――摂氏数千度もの、魔窟の主の絶叫は。
『ハハハハハハハ! 見たか、これこそが我が“星を穿つ二つの魔叫”! ああ、ああ! 我が女王の“重なり合う二つの太陽”には遠く及ばねど……地殻をも融かし穿ち、星の核すら喰らう力だ!』
埃ごと大気が燃え、汚れごと水が蒸発し、黴ごとコンクリートが融解する。魔術と科学の融合たる咆哮が、魔術と科学の融合たる防御を削る。赤熱し、融解を始めた盾を次々に更新するが、文字通り『焼け石に水』。
単に、今も此処に立っていられるのは――――辛うじて、『盾』に添えた右掌が焼ける『熱』を防げたのは。
「っ……大丈夫です、先輩――――」
「飾利……ちゃん――――!?」
柔らかな、華奢な掌が重なる。その掌が、彼に触れていたから。どんな状況でも、離しも見捨てもしないで、彼女を背負い続けていたから。
『何だと……有り得ぬ、そんな筈は! この一撃を耐えられるなど、超能力者でもなければ!』
「良く、分かりませんけど――――熱、なのなら。私の『定温保存』で、護れますから――――!」
震えていた筈の掌。それが、確りと触れている。情けなくも震えているのは、寧ろ、己の体の方。
それは、適温のまま。触れられた、三十七度の体温のまま、その身は火傷一つすらもなく。
『小娘、貴様――――学園都市の大量生産品の分際で……この俺の“星を穿つ二つの魔叫”を! 何なんだ、貴様はァァァァァァッ!!!!!!!』
怒り狂う怪物の絶叫にも、怯まずに。その腕、強く嚆矢の体を抱いて。震え、止めようとするかのように。
意想外とは言え、嚆矢の『制空権域』により、限界までの性能を発揮しつつある彼女の能力が異形の力を防ぐ――――!
「……大丈夫です、私は。もう大丈夫です、先輩が護ってくれって分かってるから……だから!」
震えているのは、唯一、声だけ。それだけは、いつもの……『初春 飾利』のまま。
覚悟を決めた、女の強さを思い知る。成る程、これは大したものだ。
「だから、先輩は――――先輩の、戦いを……!」
朗らかに、笑いながら。けれど、歯を喰い縛って。それは、そう、覚えてはいないけれども――――間違いなく、見た事がある筈の。
――強いな、君は。風に吹かれる葦のように、折れそうだった俺なんかより、ずっと。
ああ、本当に――――初春飾利、君は。強い、女の子だ。
気付く。漸く。自分は、何の事はない。昔からそうだったように、『主人公』などではなく――――倒されるべき、『怪物』だった。
そんな、物心以来からの友を。何故忘れていたのか……今や、それすらも忘却の内だが。そう、護るのではなく。共に歩く、それだけが。
「ああ……」
息を吐く。知らず、詰めていた息。安らかに吐いて。最早、膝の震えは無く。
「そうだ――――そうだった」
気付けば、何の事はない。後は、手足は軽く。何をすれば良いかは、明白で。遺恨の代償にしようなどと、甚だ浅ましい。
その右手の刃、杖? 祭具など、何の事もない。こんなものは――――
「有り難う、飾利ちゃん。いやぁ、惚れ直しちまったぜ」
腕にでも、|し《》てしまおうと。
『魔術使い』の顔を、何時ものようにへらへらと棄てて。全てに接する、この祭具を、未来に向けて――――
「だから、その能力……貸してくれ!」
『克つ為』に。その意思のまま、得体の知れない刃金を右腕と一体にする。文字通り、『錬金術』で、原子レベルで一体に代える。
禍々しい刃金、右腕に。沸き立つ禍々しい奇怪にも機械に似る、確固たる密集した鎧にも群を為した剣にも、唯一生まれ持った拳にも見える追加された複合装甲を纏う、右腕の鉤爪の拳へ。
『うん――――うん。こうじ、やっぱり貴方は、真っ直ぐに貫いてくれる……未来に、向けて』
その刹那、幻視したもの。右目の視界の端から、黄金の右腕。その右腕、この刃金の右腕に重なって。
口角、吊り上げて睨む。這いずる威容、遂に隧道の如き口蓋その物に力を蓄え始めたモノを。ずっと、絶やさずに焔を灯していた彼女の、ライターを持っていてくれた右手に、重ねるように。
『ク ソ 忌 々 し い 塵 芥 の 分 際 で !』
大元の口蓋、其処から迸った絶叫――――地の底を揺らす、地震のように。射線にある全て、問答無用に揮発させながら。
迫る、“星を穿つ二つの魔叫”。一点に集中された、熱による掘削機関。それは、先程までとは、規模も出力も段違い――――!
「煩せェんだよ、塵芥――――!」
その地獄の咆哮、斬り裂いて。命の大半を削りながら、僅かに一人分、だからこそ、二人が生き残れるだけの空間を揺らして――――怪物を、焔の右腕が撃つ!
『ハッハハハハ! 無駄だ――――焔など! 確かに、生半可なクトーニアンは焔で滅せるが、シュド=メルは違う! 彼には、最早核兵器すら効かない! そして何より、星を喰らうドールの粘液はマントル、地殻の圧すら通じない!』
確かに、確かに。全く、効果はない。嘲笑うテレパシー、心に響くだけ。
『 無 駄 な ん だ よ ! 全 て ! 』
無慈悲なる、嘲笑する神が笑うように。何の、何の意味もない。
「ああ――――知ってるさ、怪物」
それでも尚、右腕、虚空を掴んで離さない。もう、息の根を掴んだとばかりに――――
「確かに、焔で貴様は殺せない。だが――――所詮、星の核の熱など、一過性。殺せば、消える」
『そうだ――――ああ、そうだとも! それが、何だ!?』
勝ち誇る声は、蔑んで。再度の声、装填を終えていて――――
「――――だが。だが、この焔は永遠だ、怪物。この、定温保存は」
『定温保存――――そんな、在り来たりな能力が、何、だと……』
刹那、違和感が。ミシリ、と、軋んで――――その口蓋、鮫のように立ち並ぶ牙、また牙。その一本が……溶け落ちた。
『何だと……何だ、此れは?! そんな、莫迦な事が!』
消えぬ熱量が、『魔術』のバックアップを得た『定温保存』――――学園都市にはありふれた、彼女の低能力が、怪物に。
『触れているもの』の、温度を操る。即ち、『全てに接する』彼の右腕に触れた彼女の掌は――――怪物すら。
「永遠の焦熱は、貴様が燃え尽きるまで消えない。この俺の命を灯火に。燃え上がる松明は、お前だ――――」
『ば――――』
『莫迦な』、か? 声は、最後までは届かない。自ら発した熱まで、“星を穿つ二つの魔叫”まで――――その身を襲う、熱と化したのだから。
『がァァ__ァァァァあ__ァァァァ____ァァ――――餓鬼__どもがァァァ?!』
咆哮、否、絶叫か。高まり続け、星の熱を越えてプラズマと化した焔に乾き、ひび割れた体が軋み、崩れ始める。所詮、旧きものに毛の生えた存在ではこの程度?
いや、奮戦した方だろう。矮小とは言え、他ならぬ『副魔王の顕現』を前に。
『な ら ば ! そ の 身 を 磨 り 潰 せ ば 良 い だ け だ ろ う !』
だから、その唯一の突破口を。確かに、確かにその通りだ。能力こそ、旧きものを滅せる程でも――――その身は、多寡が人間だ。旧きものの体躯なら、造作もなく殺せる!
蠢き、迫る。這いずり、押し潰す。それだけだ、それだけで嚆矢も、飾利も死ぬ。正に、造作もなく。
「惨め、だな。結局、最後は力押しかよ、怪物」
『可哀想……可哀想だわ。お願い、こうじ――――』
それは、飾利の声? それとも、幻聴しているのか? ああ、視界の端に、黄金が煌めく。悲しげに、薄紅色の瞳を潤ませて。
良く、分からない。だが、それは、その声だけは、聞き逃せないもの。
『助けて、あげて』
聞き逃せないもの、だから――――
『な――――』
巨体、自らの咆哮で掘り広げた大空洞に浮いて。突進の力、全て、己に返る。驚愕、全て、己に帰る。捻り潰されるように体、天井を削って。遍く、それすら、彼本人すら殺し得る力が。
一体、何が起きたのかと。怪物、人の思考に還る。理解不能、理解不能。最期まで、理解不能――――。
「莫迦が――――一方通行の力なんて、合気道には」
潰れる。叩き付けられたのは自らの重さで。在るのなら、頭からぐしゃり、と。壊れかけの体に、最後の人押しが加えられて。
「俺の理合には、無意味だよ」
乾きかけの青白い腐汁、撒き散らして。飾利の持つライターで火を灯した煙草、銜えた嚆矢の背後に。
人の技術、怪物を殺す技能が――――!
………………
…………
……
「嘘、だ――――」
その全てを察し、風の申し子は声を荒げる。カタカタと震えるマンホールの蓋の上で、彼女は――――
「嘘だ、『金の時代』の人間が死力を尽くしたものなら兎も角――――この時代の人間が、旧きものを討つなんて! 有り得ない、ヒューペルボリアの時代ならまだしも、『鉄の時代』の猿風情が!」
取り零した『獲物』を追い続けて、地下にまで風の目と耳を張り巡らせていた彼女は、激情のままに風を震わせて叫ぶ――――
「対馬、嚆矢――――お前は!」
………………
…………
……
ごう、と。最後に一度、下水道が揺れる。それは、主を失った家屋が風に吹かれるかのように。後は、崩れ去った瓦礫が残るのみ。そこは、彼が掘り抜いた隧道であれば。
最早、背後には――――何の意味もない腐汁と腐肉、その水溜まりのみ。ごぽりと青白く泡立ちながら、それも後、数秒で朽ちる。
一度、天を仰ぐ。穿たれた地底の穴から見える空、青みがかった、群青に染まりつつある夜明け。黄金の月が、眠りに就くように白く染まっている。
丁度登りやすくなった所を選び、歩き出す。
「終わったよ、飾利ちゃん」
「ふえ……」
「ゴメンな、こんな事に巻き込んで。全部、俺の所為だ」
背後に、声を掛ける。黙って待ち続ける少女に、嘲笑いながら苛立ちを向ける鋼の影に。
「……ほんとです、もう、これっきりにしてくださいね」
「ああ、肝に銘じる」
「ダメです、許しません……だから、明日、パフェを奢ってください」
「はは、御安い御用さ」
力なく笑い、軽口で返してくれた彼女に苦笑を。
優先する方など、考えるまでもなく。初めから、決まっている。
「目を、瞑って。後は、俺が何とかするから」
にこりと、笑って告げる。それは、どちらに? 決まっている、瞼を震わせ、泪を湛える少女に。
「先輩……?」
強がりすら、今は真実か。僅かな寂寥、胸に抱いて。
「――――『空白』」
『空白』の神刻文字、忘却をもたらす魔術を口遊んだ――――
………………
…………
……
――燃える。燃え尽きる。有り得ない、多寡が『人』の操る焔で……莫迦な、俺の『ドール讃歌』が。
のたうつように、地中から這い出した――――『闇に吠える者』。焦げた魔導書を左手に、焼けた体が崩れるように剥げ落ちて中から青年の姿が現れた。
しかし、勿論無傷ではない。全身、至るところに見える酷い火傷の痕。そして右腕は肩からだらりと、指先すら動かせもしない。
「ぐっ……あァァ……クソッ、餓鬼どもめ!」
右足を引き摺り、何とか大通りへ。明け方とは言え、先程の放棄区画とは違って人通りの絶えない其処に。
当然、その姿は人目を引く。しかし、今は人の目が在るところに居なくては。暗部の追っ手にでも見付かれば、今の状態では逃げる事すら儘ならない。
「早く……逃げないと……未元物質に、見付かる前に」
何より恐れるのは、その男。『スクール』のリーダーであるその男、学園都市の第二位。魔導書の力を持ってして、勝てるかは分からない。
何度か、救急車を呼ぼうかと声を掛けてきた人物も居たが、彼はそれを押し退けて歩き続ける。
――逃げる? 何処に?
「逃げる……都市から、出ないと」
今更、受け入れてくれる場所はない。学園都市最大級の暗部組織を脱走した時点で、もう――――安息など、この都市の中には。
――逃げて、どうする?
「逃げて、生きる……俺は、まだ死にたくない」
這いずる。学園都市の外に向けて。今までなら、地下を穿孔すれば良かった。だが最早『ドール讃歌』は機能の大半を失い沈黙、肉体のダメージのせいで演算もままならず、『突貫熱杭』も使えない。
出口は、ただ、外壁のみ。辿り着いても、出られるかどうかは怪しいが。『暗部に粛清命令が下っている』彼が、外に。
――無駄な足掻きだよ、そんな事。もう、君は終わりさ。
「誰――――だ」
気付く。頭の中で、嘲笑う者に。けらけらと、その『女』は。
「憐れで愚かな、三流の道化~。君に、アンコールはないよ~?」
虚空から、能面の如き笑顔。豪奢な赤地に炎の模様のサリー、アラビアックな黄金の装飾品。右手に掲げるランプには、風もないのに息づくように揺らめく焔。
見るだけで、心が高鳴る。まるで、断崖絶壁の先を望むように。命の危機に、震えるように。
「我が、女王……」
いつの間にか、愛していた『女』……『女』? こんな、こんなものが?
「あはは~、漸く気付いたんだ~? 彼は、逢って五分くらいで気づいたってのにさ~」
「あ……」
「そういうところからさ~、もう、君と彼とは役者が違うのさ~」
そう、こんな……こんな『怪物』が。
「あぁ……あああ」
「逃げる、逃げる~? どこまで逃げても、『結社』から逃れる事は誰にも出来ないよ~? そして、敗者には~」
体、俄に震え始める。痛みではない、恐怖から。目の前の、確実なる『狂気』を目の当たりに。
「――――死が、在るのみだよ~」
笑顔の仮面の奥に渦巻くもの。赤く、赤く。燃え盛るように赫い、三つの――――
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
絶叫、響く。通行人の全てが、一斉に振り向く。それは、平穏に生きる為には決して見るべきではないものだと言うのに。
『كنت وما ني الخام للموتى التي تقع إلى الأبد』
恐らくは一生涯、夢に見続けよう。そして、居合わせた不運を呪うだろう。全ては、遅すぎるが。
『تحت دهور أجبرت هائلة، حتى الموت يوي فضفاض――――』
「い、ぎィィィィ! 待って、止め――――!」
ただ一人、路上でのたうち回る男の姿。まるで、『見えない猛獣達』にでも襲われているかのように。
『あはは――――』
その体が、徐々に消える。貪り喰われるかのように。腕が、足が、脇腹が――――惨たらしい音、獣達の息づかい。
空腹を、嗜虐を満たす事を許可された『不可視の獣達』が肉を裂き、骨を砕き、血液を舐め、臓物を啜る音が響く。
『あはははははははははははははは、あはははははははははははははは、あはははははははははははははは!!!!!!!!!』
パニックに陥る事もできず、ただ凍り付いて、その悪夢を眺める事しか人には出来ない。
そんな静寂をあどけなく、狂ったような哄笑。『彼』以外の誰にも聞こえる事無く、虚空のみを揺らして。
「た――――」
最後に残った左腕、伸ばしたのは――――虚空。誰もいない、何もない。
しかし、そう、届くのだ。今、この時だけは、無慈悲にも。
ぶつり、と。軽くその腕を食い千切った――――『獣の顎』が。
「たす、け」
言葉、最後までは届かない。そうして、全て。『彼』が存在した証拠の全ては、虚空に貪り食われて。
漸く、思い出したように誰かの悲鳴。群衆の阿鼻叫喚、尻目に。
「後始末は完了、と~。あ~あ、やっぱり、ちゃんと選ばないとこんなゴミしか出来ないか~」
携えた、魔導書を。『ドール讃歌』を、能面の笑顔で見詰めて。
「では、次はワタシの出番ね」
傍らのベンチに腰掛けていた、青地に波の模様のチャイナドレスの妖艶なる娘が語り掛ける。
エキゾチックな黒髪をシニョンで纏め、黒い扇で口許を隠して。流し目、涼やかに。
「ちぇ~、まぁ、私は失敗したからね~。大人しく、次の出番は譲るのさ~」
「ええ、待ち侘びたもの。最初は時計人間、次に貴女。本当、待ったわ」
赤い占い師の間延びした軽口にも、怜悧に真面目に。狂気の笑顔を前に、青い舞姫――――水死体の如く潮の香りを纏う彼女、事も無げに。
「死者的大邪神祭司……」
口遊む。その、冒涜の詩。捧ぐように、虚空へと。
見えはしないが、その『唇』は恐らく、歓喜に歪んでいる事であろう。
「你不能等待離開的夢想在螺湮城寶座――――」
太平洋の遥か海底に沈んだ都で、今も星辰が揃う日を死の微睡みに夢見る『旧支配者の大司祭』と共に。
………………
…………
……
漸く、終わった。後始末も、全て。飾利を寮に帰し、部屋まで誰にも見付からないように、『隠蔽』の神刻文字を自らに刻んで運んだり。出入管理の記録を改竄したり。
後は、放棄区画の崩落を匿名として『警備員』に通報したり。したらしたで逆探知された挙げ句に犯人扱い、上層部に掛け合って揉み消したり。本当に、忙しく暗躍して。
「――――イヤッホォォォウ! 御同僚の皆々様、おはようございー!」
「……また、この男は朝から」
「やあ、みーちゃん、今日も朝から、眉を寄せた憂える表情がクールビューティーだね!」
「あ・な・た・の・せ・い・よ!」
貫徹のハイ状態で風紀委員の支部に行き、朝礼中に乱入してやはり美偉にこっぴどく叱られて。
「――――では、今日も別行動をさせていただきますの」
「あ、うん……その、気を付けてね?」
ハイテンションが切れた頃、完全に軽蔑した瞳でそう言い残して空間移動していった黒子を為す術無く見送って。
「……こりゃあ、完全に無理ゲーって奴だな。詰んだわ」
ちょっと昨今、他に無いレベルで見下されていた事に、膝が笑っていた。ちょっとだけ、癖になりそうな視線だったのは内緒。
「はぁ……眠い」
ぬべーっ、と、テーブルに突っ伏す。冷やっこい天板は、実に心地よい眠気を運んできてくれる。
天にアルクトゥルスが瞬いても、起きるのは至難であろう。
「――――先輩、嚆矢先輩」
「んあ~、寝かせてくれよ……飾利ちゃん……」
「もう、先輩! 今、出てきたばっかりじゃないですか!」
ゆさゆさと揺られ、仕方無く頭を上げる。目の前には、飾利の顔。少し怒ったような、いつもと変わらない表情。
「夜更かしなんてするからですよ、何をしてたのかは知りませんけど……風紀委員の活動に支障を来すような事は、慎んでくださいね」
真顔で、本当に、『何も知らない』顔で。苦言を呈した彼女。
――『忘却』は、上手く機能してるみたいだな。ああ、そう。少し、空しいけれども。彼女の心の平穏の為だ。
「うぐぅ……ぐうの音も出ない」
おどけながら、胸を押さえる。微かに感じた痛み、それを紛らわせる為に。
『忘れられた』痛み、その空虚。最早、取り戻しようもないモノを。
「それじゃあ、昨日はデスクワークだったから、今日は外回りですね」
「うい、行きますか」
言われるより早く支度を整え、扉に向かう。勿論、扉を開けて待つ為に。レディーファーストは嚆矢の基本概念。今更、違える事はない。
「ありがとうございます、先輩」
「なんの、これしき。しかし、暑いな。今日も」
「そうですね。何だか――――」
日盛りに歩き出し、振り返って笑う彼女。朗らかに、何も知らない笑顔で。彼の見たかった、笑顔のままで。
「――――何だか、駅前のベニーズのパフェでも食べたくなっちゃいますね」
今日も今日で、最高気温更新。茹だるように暑く、辟易する程に蒸した、降水なし、夜まで真夏日のその日。
「ハハ……御安い、御用さ」
予定調和のように、一日が過ぎるのか――――…………
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