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SAO編
旨い飯は元気の源
「…………」
「…………」
「…………」
無言。ただひたすらに沈黙が部屋を支配していた。俺たちは皆、夢中で目の前のブラウンシチューを頬張っていた。ごろごろと入れられた肉は口に入れた瞬間とろりととけだし、デミグラスソースにも似た濃厚な味がその食感を追うように口の中に広がる。それは、俺がこの世界に来て初めての美味しさだった。
「ああ……いままでがんばって生き残っててよかった……」
アスナがスプーンをおくと、軽いポリゴンの破砕音を鳴らしてシチューが消滅する。後片付けいらず。おお、なんて画期的。
「不思議ね……。なんだか、この世界で生まれて今までずっと暮らしてきたみたいな、そんな気がする」
感慨深げに呟くアスナに、茶を啜っていたキリトが顔をあげた。ランプの明かりによって橙に染まるアスナの顔をじっと見つめるキリトの黒い瞳は、どこか物思いにふけっているようでもあった。
「……俺も最近、あっちのことをまるで思い出さない日がある。俺だけじゃないな……この頃は、クリアだ脱出だって血眼になる奴が少なくなった」
「攻略のペースも、最初ほど早くないしな」
キリトがアスナから俺に視線を流して、すぐに手に持った茶色の水面に視線を落とした。たぷん、と聞こえた水音は現実のものと比べても遜色ないくらいのリアリティ。あの日、茅場はこの世界をもう一つの現実だと言った。ならばこの世界と、向こうの世界と。その差異は一体どこにあるのだろう。
「……俺は」
もし帰れたとして、帰ったとして。俺はじいちゃんに胸を張って顔を見せられるのだろうか。それができないのなら、いっそ、このまま立ち止まるのも悪くないんじゃないかとさえ思ってしまう。それが弱さだと、分かってはいるけれど。
「でも、わたしは帰りたい」
凛とした声に、はっとして顔をあげた。隣でキリトも驚いたように彼女を見たのが分かる。キリトをみて微笑んだアスナは、迷いのない声で言った。
「だって、あっちでやり残したこと、いっぱいあるから」
「そうだな。俺たちががんばらなきゃ、サポートしてくれる職人クラスの連中に申し訳が立たないもんな……」
ぐいっと残った茶を飲み干したキリトが、いつになく真剣な目でアスナを見やる。それにアスナは何を感じたのか、顔をしかめて言いかけたキリトの言葉を遮った。
「今までそういうカオした男プレイヤーから、何度か結婚を申し込まれたわ」
「え?アスナは願ったり叶っ――何でもないです」
驚きに言葉を詰まらせるキリトに、さっきの事をすっかり失念していた俺はまた性懲りもなく余計な事を言いそうになる。しまったと気づいた瞬間、すでにぎらりと光を反射するナイフが銀色の軌跡を引いて、俺の鼻先数センチに添えられていた。おそらく細剣術の基本技である《リニア―》だろう。鍛え上げられた敏捷度パラメーターに後押しされたそれは、決して侮れないスピードだ。
「ポート君?」
「こればっかりはまじですみません」
「何の話だよ」
「なんでもない!」
俺たちの様子に疑問の声をあげるキリトに、わずかに顔を赤くしたアスナが詰め寄る。一難去った俺は、ふう、と息をついて茶を啜った。ううん、何度飲んでも不思議な味だ。
「うっ……」
ぼーっと机上にきれいに飾られた花を見ていると、視界の端でまた銀色の光が瞬いたのが見えた。同時に聞こえたキリトの驚いた声と、指の上でくるくるとナイフを回すアスナにいろいろと察する。面倒に巻き込まれてはたまらんと、傍観を決め込んだ。
「なら、しばらくわたしとコンビ組みなさい。ボス攻略パーティーの編成責任者として、君が噂ほど強いヒトなのか確かめたいと思っていたとこだし。わたしの実力もちゃんと教えて差し上げたいし。あと今週のラッキーカラー黒だし」
「な、なんだそりゃ!」
あまりの理不尽さにキリトが大袈裟に仰け反った。恋する乙女って怖い。何がってエネルギーが。思わず苦笑しながらふたりの会話の行く末を見守っていると、見事にアスナに丸め込まれたキリトがこくこくと頷いた。
「わ、解った。じゃあ……明日朝九時、七十四層のゲートで待ってる」
わずか二分に満たないキリトの抵抗は、アスナの強気な笑みに屈することになった。
「じゃあ、俺はそろそろ帰るな」
椅子から立ち上がって、二人に軽く手を振った。キリトがはっと俺を思い出したように見る。忘れてやがったな、この野郎。
「ぽ、ポートもどうだ?明日!」
「馬に蹴られる趣味はねーよ」
「わたしとしてはあなたの実力も見ておきたいとこではあるけど」
「悪いな。明日は先約があんだ」
「そ。ならいいけど」
「おう。夕飯、ご馳走さま」
「お粗末様でした」
アスナの部屋を出て、階段を下りる。こつりこつりとなる硬質な音は、冷たい感触ばかりを俺の中に残していく。胸に響くそれを意識の端にとめながら、帰りたいと言った彼女のまっすぐな瞳を思い出した。
「強さ、か……」
ぽつりとした呟きは、誰の耳にも入ることなく夜闇に染まった街に溶けていく。ふと、転移門広場から歩いてくる二人の青年に目がいった。友達なのだろう二人は、親しげにふざけ合いながら歩いている。どん、とふざけ半分で右側に立っていた青年が左の青年にかるく体をぶつけると、よろめいた彼が俺の肩にぶつかった。ふ、とこげ茶色の瞳と目が合う。どこか幼さの残るその顔に、いつかの景色が重なった。
「あ、すみません」
「あ、ああ……こっちこそ」
軽く会釈をした青年は面白がって笑っていたもう一人を軽く蹴ると、また二人で笑いながら歩いていく。その後ろ姿を思わず目で追いかける。瞬間、ざあっと強めな風が吹いて目の前にばあっと懐かしい景色が広がった気がして、心臓がどくりと跳ねる。
『みぃ!』
フラッシュバックのように聞こえたその声に唇を噛んで、俺は彼らから目をそらした。
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