一人だけのアイドル
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第三章
第三章
「それでいいって」
「だから。芸能界にいなくてもいいじゃないですか」
孝司はそれに応えてまた言ってきた。
「別にそれでも」
「いいって。あの、やっぱり」
「別に芸能界にいてもいなくてもいいんです」
孝司は今度はそれをはっきりと告げてきた。
「ただ。そこにいてくれれば」
「私がいるだけでですか」
「それじゃあ駄目ですか?」
あらためてそれを彼女に尋ねるのであった。
「僕のアイドルで」
「そうですね」
奈月はそれを言われてまた微妙な顔を彼に見せてきた。その顔もまたガラスに映っている。だが孝司はガラスに映る顔ではなく彼女の顔を直接見ていた。
「あの、お答えすることは」
「勿論ですよ」
孝司はまた言う。
「誰にも言いませんよ。山田さんがアイドルだったってことは」
「それは有り難うございます」
正直なところ自分が元アイドルだったと周りに言われるのは避けたいと思っていたのだ。だからここでの孝司の言葉は有り難かった。
「それは」
「ええ。それで」
それを話したうえで彼はまた言ってきた。
「アルバイトしているお店ですけれど」
「はい」
話はそこに移るのであった。
「またお邪魔していいですか」
「お店にですか」
「駄目だったらいいです」
もう渋谷の駅が見えてきていた。ハチ公やモアイの像が見える。それ等を見ていると本当に渋谷に来ているという気持ちになるのであった。
「それはそれで」
「いいですよ」
だがここでの奈月の返事は。にこりと笑ったうえでの言葉であった。
「えっ!?」
今の奈月の言葉は孝司にとっては意外なものだった。従って今度は彼が驚く番であった。また店のショーウィンドゥーのガラスに彼の顔が映っていた。だが彼はその顔を見てはいなかった。彼は奈月の顔をじっと見ていたのだ。そのうえで声をあげたのである。
「今何て」
「ですから。どうぞ」
またにこりと笑って告げるのであった。
「何時でもいらして下さい」
「わかりました。それじゃあ」
彼は慌てたような笑顔でその言葉に応えるのであった。
「明日にでも」
「はい。どうぞです」
こうして二人は何時でも会えるようになったのであった。それから孝司は変わった。学校からの帰りはいつもうきうきとしていて渋谷に向かうのであった。
「何か最近の御前な」
「いつもと全然違うよな」
「ちょっとな。いいことがあったんだ」
彼は笑いながらクラスメイト達の問いに応える。その下校時間に。
「それでね」
「いいことって何だよ」
「彼女でもできたのかよ」
「そうも言うかもな」
笑いながらそれを否定しないのであった。
「まあ言うならあれだよな」
「あれって?」
「何なんだよ」
「アイドルだよな」
また笑いながらの言葉であった。
「あえて言うのなら」
「おいおい、まさかそれって」
「浮気ってやつかい?」
彼等はそれを聞いてからかって言葉を返す。まさか奈月と会うのだとは夢にも思っていない。真相は孝司だけが知っていることであった。
「まあそうかもね。強いて言うなら」
「強いて言うなら?」
「僕だけのアイドルかな」
格好のいい言葉になっていた。
「彼女は」
「何か羨ましいな、今の言葉は」
「ああ」
「それじゃあ。そういうことでね」
ここまで言うと鞄を手に取った。後は帰るだけであった。
「今からちょっと。行って来るから」
「ああ、それじゃあな」
「嫉妬しちまうがな」
彼等のやっかみ半分の言葉を聞きながら渋谷に向かう。彼だけのアイドルがいる場所に。まさか彼女が本当に元アイドルだとは誰も思わないが彼にとってはそれはどうでもいいことになっていた。それは何故か。言うまでもなかった。そのままの彼女が最も好きだったからだ。
一人だけのアイドル 完
2008・1・14
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