Shangri-La...
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第一部 学園都市篇
第2章 幻想御手事件
七月二十二日:『待てば海路の日和あり』
明けやらぬ未明の学園都市、その闇の帳の中。過密なるこの都市の、数えきれない空隙の一つ。
「――――ハァッ、ハアッ!」
開発が放棄された一区画、路地の裏側。普段は落第者の学生や、犯罪に身を染めたならず者。或いは浮浪者の溜まり場となっている地区の、その片隅。
「――――ハァッ、ハアッ、ハァッ!」
息を急き切って、男が走っていた。如何にもと言った風体の、年若い彼。ほんの数十分前まで、十人ほどの不良仲間と共に『無能力者狩り』にて小銭と小さな自尊心を満たしていた浅はかな彼は、頻りに足元を気にしながら。『アレ』を、決して踏まぬように。
同時に、ガコン、ガコンと定期的に、しかし不規則に。足下の金属質な音が、軋むように追ってくる。
「――――ハァッ、ハアッ、ハァッ、ハアッ!!」
そう、浅はかであった。上手く行き過ぎていた事もある。『警備員』すらも、『レベルが上がった』彼らにとっては敵ではなかったから。実質、大能力者クラスの『念動能力』を得た、彼には。
だから今宵、三人目として『彼』に目を着けたのが――――その、悪運の尽き。
「助けてくれ! 俺が! 俺が悪かったから――――」
悲鳴を上げる。狂ったように、同じ言葉を上げ続ける。今まで嘲笑ってきた『無能力者』と同じ台詞を。
それが何の解決にもならない事は、自分がそうしてきた事と、仲間の全員が同じように悲鳴を上げて、そして『消えた』事から判っている。
「お願いします、お願いします! 許して、許して! 殺さないで下さいぃぃぃ!」
それでも、悲鳴が止まらない。それでも、まだ狂えない。
彼の能力を持ってしても、捻り潰す事も引き離す事も出来はしない。この『ゲーム』はただ、定められたその一瞬まで。
「ッあ――――」
そして、遂にその一瞬。『しまった』と思った時には、もう遅い。今、命運も尽きた。
彼の足音と足下の音、それが重なってしまったのは――――
「――――ぎ」
悲鳴は、断ち切られた。くぐもるように、ほんの少しだけ軋む音。
水っぽいモノを引き裂く音と、硬く乾いた木の棒を滅茶苦茶に圧し折ったような音が、夜を揺らして。
「――――ハハッ」
最後に、笑い声。人の気配の消えた、路地裏に。
色濃い狂気を孕んだ、その嘲笑は。黒い影は、恐らく人ではない。かつてはそうだったのだろうが、少なくとも今は。
「……飢える。飢える、飢える、飢える――――!」
満足のいく食事を終えた獣のように、闇に吠えるかのように――――その『右手』の一冊の『本』を、ヌメつく夜闇に掲げた。
………………
…………
……
瞼を開く。狂気の混沌の底からの帰還に、散大していた瞳孔が鈍い痛みすら感じる勢いで引き絞られる。
涙に霞んだ視界の先には、自室の天井。そこには、渦を巻く混沌の銀河などはない。喧しい蝉の鳴き声こそあれ、躍り狂う蕃神も居ない。極めて健常な、夏の朝だ。
「……ッたく、途中までは最高だったのに。最終的には、やっぱり悪夢かよ」
寝汗を拭い、悪態を吐き――――右腕を見遣る。握り締めて強張っていた掌を、ゆっくりと解いていく。
まだ、あの柔らかな温もりと冷たさ。そして嘲笑する虚空の如き、硬く鋭い漆黒の鉤爪の感触が残る掌を。
「ッ……ああ、ヤベェ。完璧に遅刻だな、コリャ」
携帯で日付と時刻を確認すれば、七月二十二日の……朝と昼の境。既に、風紀委員の活動は始まって久しいだろう。
どうやら、また美偉に小言を言われて黒子の顰蹙を買うだろうと、溜め息を吐きながら。体に、怠さや痛みの無い事を確認して。
「ん……?」
すんすん、とばかりに鼻を鳴らす。男臭く汗臭い『だけ』である筈の、己の部屋にふわりと漂う――――甘く、芳しい……有り体に言えば、腹の減る臭いに。
近所の部屋から流れ込んだのだろうか、嚆矢には料理などする習慣はない。第一、昨夜は風呂から上がるなり布団に倒れ込んで前後不覚。泥のように眠った筈である。
「……そういや、撫子さんの好意、無駄にしちまったな」
思い出したのは、『後で温かい物を持っていく』と言っていた撫子の言葉を忘れていた事。
取り敢えずは腹拵えだ、とリビングに繋がる戸を開き――――
「――――う~ん……やっぱりお米と調味料だけじゃ、お粥が限界ですね」
「そうね。でも、病み上がりならお粥くらいで丁度良いと思うわよ?」
自室の簡素な台所に人影。片方は毎朝見る、藤色の和服に割烹着の撫子と……柵川中の制服に、同じく割烹着を着けた花束の少女。
「あら、嚆矢くん」
「あっ――――こ、こんにちはです、嚆矢先輩」
「ああ……どうもこんにちは、撫子さん、飾利ちゃん」
振り向き、淑やかに微笑んだ撫子。振り向き、慌てて頭を下げた飾利。状況を呑み込むのに、少々の時間を掛かった。『風紀委員』の方には、撫子さんから『病欠』する旨を連絡してくれたらしい。その後、見舞いとして――――
「――――ふぅ。今、戻りましたわ、初春……あら、目が覚めましたの、対馬先輩?」
「ああ、白井ちゃん。つい今、ね」
「そうですか。丁度良かったですわ、食材も無駄にならなくて済みます
」
コンビニの小さな袋、それを持って空間移動して来た常盤台の制服にツインテールに……不機嫌さを覗かせた黒子。
「あら、やっぱり空間移動って凄いわね。普通に歩いたら、一番近くのコンビニでも五分は掛かるのに」
「そう便利でもありませんの。何せ、少しでも集中を乱すと誤差で大変な思いをしますのよ」
そう間を置かずに、この二人がやって来たそうだ。因みに、住所は『書庫』に載せているのだから、アクセスする権限がある人間や同僚ならば誰でも知れる。
――まぁ、十中八九、みーちゃんに『本当かどうか確かめてこい』って言われたんだろうけどさ。良いけどさ、それでも別に。
ことことと、ガスコンロに掛けられている小型の土鍋を見る。それに気付き、撫子はにこりと。黒子からビニール袋を受け取った飾利は、照れて俯く。
「あの、具合はどうですか? もし、食欲があったら」
「頂きます。一粒残さず、頂きます」
聞かれるまでもなく、昨日の昼から何も食べていない。迷う事など一切無く、頭を縦に振った。
「そ、即答ですか……じゃあ、味付けは塩と梅干し、卵のどれにしますか?」
がさがさと、ビニール袋から取り出されたもの。梅干し、卵。そして、元々それだけは備えていた瓶入りの塩が並べられる。
迷うところである。米本来の甘味を味わえる塩か、さっぱりとした果肉の酸味を織り混ぜた梅干しか。はたまた、濃厚な蛋白質の滋味と満足感の卵か。
「き……究極の選択過ぎる……! くっ、飾利ちゃんの鬼! 悪魔! 人でなし!」
「ええ~?! お、お粥の具でそこまで言われるなんて……っていうか先輩、冷蔵庫にお米とミネラルウォーター以外入って無いじゃないですか。もう、やっぱり栄養片寄りまくりですよぅ」
等と、飾利とほんわか戯れるように笑い合えば――――
「それで? もう病気は治りましたの、対馬先輩。昨日の夜の風邪が、今朝には?」
「…………」
物凄く、冷たい眼差しで見詰めながら問い掛けた黒子。ほとんど、路上に落ちていた汚物を見るような。
そっち側の業界人ならば、礼を言わなければいけないくらい、完成した蔑みの眼差しで。
「いや、うん。あの、昨夜は本気で具合悪くて。ほとんど、記憶無いくらい。熱とかは計ってないけど……」
「ふぅん……そうですか。分かりました、固法先輩にはそう報告しておきますの。『半日で治ったみたいです』って。本当に対馬先輩は体だけは頑丈ですのねぇ、わたくしの怪我もそれくらい早く治ってくれればと思いますわ。本当に、かえすがえす、う・ら・や・ま・し・いですの」
と、居住まいを正して答えた嚆矢に対してそんな言葉で絞めた彼女だが、ちっとも納得している風はない。にこやかに笑っているが、額に青筋が見える。寧ろ、猛り狂っている。
――あぁもう、昨日の俺の莫迦! 熱くらい根性で計っとけよな!
地団駄を踏みたくなったのを何とか堪え、応えるように頬をひくつかせて笑う。
それに、ジト目で腕を組み、なんなら怒気すら孕んでいた当の黒子は。
「では、わたくしはこれで。お邪魔いたしましたわ。では、また明日ですの」
「あっ――――白井ちゃ」
用件は済んだと、呼び止める暇もなく消える。『これだから空間移動能力者は』と内心、肩を竦めて。
「じゃあ、卵で頼むよ、飾利ちゃん。梅干しは梅干しで食べるからさ」
「あ、は、はい……じゃあ、用意しますね」
そんな黒子へと、悲し気な眼差しを送った飾利だったが……すぐにほんのり笑って卵を溶き始めた。
「あ、そうだ。ご免なさい、二人とも。私、ちょっと用事があったの」
そこで、軽く掌を叩いた撫子が申し訳なさそうに扉に向かう。『表面的には』、申し訳なさそうに。
すれ違い様――――耳元に、微かな囁き。
「良い子達ね、嚆矢くんの後輩さん達は。泣かしちゃダメよ?」
「え~と?」
「ふふ。ダメよ、失望させちゃ?」
『既に失望させちゃってる娘も居るんですが』の言葉は、唇に当てられた右人差し指。白魚のようなそれに、止められていて。
「失望してるなら、構いも、怒りもしないわよ。よく言うでしょ、『好きの反対は嫌いじゃなくて、無関心』だって」
その言葉だけを残し、楽しげに去っていく背中を見送るしかなく。
「……まぁ、そりゃあ。年上の男ですからね、これでも」
屋外の熱気にもう、汗をかく。今日も今日とて、真夏日だ。
気合いを入れて欠伸をすると、支度しに自室に帰る。その後は、腹拵えだ。
「――――飾利ちゃん、幻想御手事件の途中経過、聞かせてくれ」
「えっ? でも先輩、今日は……」
食卓に着くや、開口一番そんな事を口にした彼に、『病欠』と聞いていた彼女は、面食らうように。
「休みは返上、第一、後輩が二人とも頑張ってるのにおちおち寝てる訳にゃいかないって。タダ働きも、たまにはね」
いつの間にか――――学ランに『風紀委員』の腕章を通した、飾利と黒子と同じく委員会活動中の姿で現れた嚆矢に。
「……はい! それじゃあ、ご飯を食べてから支部にあるデータを洗い直しましょう!」
右腕を曲げて、日頃の部活動で拵えた力瘤を作って見せたその姿に……お粥を持ったまま、くすりと。
「そういう事を白井さんの前で言えば、見直してくれるのに」
「ハハッ、言ったろ? 『可愛い娘ほど、苛めたくなる』んだってさ」
そんな軽口に、まるで蕾が綻ぶように――――前に言った通り、『妹』に何処か似た、見覚えがある笑顔で微笑んだ。
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