| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

聖女

しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
< 前ページ 目次
 

第一章


第一章

                    聖女 
 ジョバンニ=ダラゴーナは悩んでいた。悩んでいる理由は自分でもはっきりとわかっていた。
「駄目だ」
 彼はキャンバスを前にして呻いていた。
「こんなものでは駄目だ、全く駄目だ」
「駄目だ駄目だって先生」
 彼の横にいる少年がその言葉を聞いて彼に怪訝な顔で声をかけてきた。
「何が駄目なんですか?」
「何かが違うんだよミショネ君」
 その少年ミショネ=パブリチーニに対して告げた。
「わしが今描きたいものは。違うんだよ」
「風景画じゃないんですか?」
「最初はそうだと思っていた」
 見れば今描いているのは風景画だ。大海原を描いている。かなり写実的な絵である。
「だがそれは違うようなのだ」
「風景画じゃないんですか」
「そう、他のものだ」
 難しい顔でその大海原を見ていた。赤茶色の髪がボサボサになっていていつも端整に切り揃えられている顔一面にある髭も乱れている。黒い目は充血している。
「どうもな」
「じゃあ何なんですか?」
 癖のある、鳥の巣を思わせる黒髪に黒い瞳の美少年であるミショネは首を傾げつつ師匠に尋ねた。大柄な師匠と比べてかなり小さい。
「その描きたいものは」
「わからない」
 それがわかれば苦労しないといった感じの言葉であった。
「それが何なのかさえわからないのだ」
「そうなんですか」
「しかしだ」
 それでも彼は言うのだった。
「何かを描きたいというのは事実だ」
「描きたいんですか」
「しかしそれが何かは全くわからない」
 青く荒れ狂う波涛の絵を前にして述べる。
「少なくとも今ここにいても何にもならない」
「外に出られますか」
「ミショネ君」
 彼に顔を向けてまたその名前を呼んできた。
「悪いが来てくれるか」
「ええ、勿論ですよ」
 素直で屈託のない笑みを浮かべて師匠に応える。
「先生の行かれるところなら何処までもですよ」
「有り難い。やはりこの世には欠かせないものが二つある」
「二つですか」
「まずは美人と美酒」
 いきなり二つ埋まってしまったがそれでも言葉を続けるジョバンニであった。
「それに美食と家族、自分を助けてくれる立派な人間だ」
「全部で五つですけれど」
「では五つだ」
 すぐに己の言葉を訂正する羽目になったが全く気にしてはいなかった。
「この世には欠かせないものは五つあるのだ。その五つだな」
「そのうちの何処に行かれるんですか?」
「家族はな。今は」
 難しい顔になるジョバンニであった。
「帰りにくいものだ。困ったことだ」
「奥さんと娘さん今でも怒っていますかね」
「あれは存外嫉妬深い女だからな」
 腕を組み難しい顔をして首を捻っている。
「そう簡単には怒りは解けない。君も知っている通りな」
「一週間は無理ですかね」
「そんなところだ。今は」
「五日目です」
「まだ二日時間がある」
 深刻な顔で語る。
「その間家に戻ることはできない」
「だからずっとここに泊まりっぱなしですしね」
 実は今二人はジョバンニの自宅にいないのである。彼の仕事場であるアパートに泊まりっぱなしなのだ。これはジョバンニの夫婦喧嘩の結果である。
「仕方ないですね」
「若い女の子に少し声をかけただけなのだがな」
「奥さんの目の前でですよね」
「ほんの出来心だ」
 随分と反省のない言葉である。
「それであんなに怒るなんてな」
「今年これで何度目でしたっけ」
「三度目だ」
 つまりもう今年で三回もここに逃げてきているのだ。
「この七月の時点でな」
「結構ハイペースじゃないんですか?」
「去年はもっと凄かった筈だぞ」
 やはり反省はあまり見られないジョバンニだった。
「確か十回だったからな」
「去年はまた異常でしたね」
「男は浮気をするものだ」
 こんなことを言えば妻が起こるのも当然であった。
「刺激もまた芸術家には必要だろいうのにあいつときたら」
「まあ愚痴は止めましょう」
 さりげなく彼の言葉を遮った。
「それよりも先生」
「ああ」
「問題は絵ですよ」
 そして仕事に関心を戻させるのであった。
「絵ですけれど。とにかくここにいてもどうしようもないのは確かです」
「そうだ。では外に出るか」
「それでどうされるんですか?」
「ミショネ君」
 何故かここでまた彼に声をかけてきた。
「君はもう飲める歳だったな」
「ええ、まあ」
 イタリアでは少年でも酒を飲むことができる。これはドイツやフランスでも同じだが理由はこの辺りの国々は元々水があまりよくないせいである。
 
< 前ページ 目次
ページ上へ戻る
ツイートする
 

全て感想を見る:感想一覧