トワノクウ
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トワノクウ
第二十六夜 芹摘み、露分け衣 (二)
前書き
迷信、盲信、執心
その日もくうは、露草に付き添われて菖蒲の学校に行って帰って来た。ちなみに当の菖蒲は昨日も笑顔ながら頑なだった。
帰り道。前を歩いていた露草が不意に声を上げた。
「なあ」
「あの程度でへこたれません。くうは、へっちゃらです」
先回りして答えれば、ふり返られて、痛ましいものを見る目をされた。くうは、へらっと苦笑した。
そんなくうの頬を、一滴のしずくが伝った。別に泣いたわけではない。雨だ。
露草がくうの手を取った。
「雨宿りするぞ」
「はいっ」
露草に引っ張られるまま、くうたちは大きな樹の下に避難した。
空を見上げて、つい声を上げた。晴れ空なのに雨が降っている。
「狐の嫁入りですね」
「よく分かったな」
え、と露草を見返した。露草は落ちる雨粒を手の平に受けながら。
「婚礼が執り行われてるんだろう。この分ならすぐに止む」
本当に狐が嫁入りしていると思いもしなかったくうは、しかしそれを表情に出さず、相槌を打つに留めた。
(ただのお天気雨だと思ってたことは、言わないでおきましょう、うん)
密かに気まずさから縮こまっていると、露草がくうの顔を覗き込んできた。両目の綺麗な花色に、どきりとした。
「どうかしたか?」
「え?」
「何か考え込んでたろ」
「え、ええと、ええっとですね」
ここで知ったかぶりをしたと露草に知られたくなかったくうは、思い切って全く別の話題を口にした。
「お父さんとお母さん、どうしてるかなあ、って」
言った瞬間、場の空気が変わった。
くうはおそるおそる露草を覗き込む。露草は硬い面持ちのまま沈黙している。
待てど暮らせど露草が口を開かないので、くうのほうから話題を振ろうとした。だが寸前、露草がついに、ためらいがちに口を開いた。
「彼岸に……帰りたいか?」
予想しなかった問いにくうは呆けた。問いの意味を理解すれば、答えに迷ってしまった。
帰らなければ、と思ったことがあったのは事実だ。
学校もあるし、留年でもしてしまえば学歴に傷がつき、将来に困る。
娘が失踪したとあれば親が世間を渡るのも難しくなる。マスコミに報道されたら父も母も、ひいては東雲コーポレーションそのものも立場を悪くする。
「帰れなければ不都合な事柄」を列挙し終えたくうは、自身に愕然とした。
「……いいえ。帰りたいと切望してはいません。ただ、急に怖くなっただけです」
「何が」
「天座にいて、私、とっても楽しいです。毎日いやなこともなくて、皆さん良くしてくださって。本当にとても幸せなんです。でも」
「でも?」
「何の努力もしないで、こんなに幸せな毎日を送ってるから、それがこわくて。私、いるだけで、天座のお役にも立ててませんし、仕事らしい仕事もしてなくて……自由すぎてこわいんです。だから、勉強や部活の練習に追われてた彼岸なら、こんなこわい思いしなくてすむんじゃないかって。考えたとたんに、急に、あそこのことを思い出して……ほんとは、か、帰りたいなんて、思ってないくせに」
くうはそこで大きく深呼吸した。
「ごめん、なさい。変なこと言ってますよね。気にしないでくださ」
「帰りたくないのか?」
見上げた花色の両目は、嘘やごまかしを許さないまっすぐさで。
幾重にもくるんだくうの本音を、容易く剥ぎ出してしまう。
「帰りたくないわけ、ないじゃないですか」
くうはいささか乱暴に、露草の胸板におでこをぶつけた。今の表情を見られたくなかった。
「おうち、かえりたい。おとうさんとおかあさんに、あいたい」
背中に大きな掌が回った感触がした。恐々と、という感じだ。なんだか、笑えた。
雨の中、木の下、異性に抱き寄せられるというシチュエーションなのに、くうが考えていたのは、父と母がいる我が家のことばかりだった。
雨がやみ、落ち着いたくうは、露草と共に山の上の学校へ到着した。
校庭には誰もいない。この時間なら学童が遊び回っているはずなのに。代わりに、農民らしき男が三人ほど、校庭の隅からじろりとこちらを見た。
くうは露草と顔を見合わせて首を傾げた。
校舎に向かい、玄関前に立つ。戸には鍵がかかっていた。
「いるか、不良教師ー!!」
くうももう慣れた、露草のいつもの呼びかけ。
しばらくして戸が開いた。出て来たのは平八だった。
「露草、くう! ちょうどよかった。ちいと上がってくれ。芹がまた面倒なことになったんだよ!」
「芹ちゃん……?」
くうは露草と共に平八に招かれるまま校舎に上がり、現代で言う宿直室のような和室に通された。
和室にいたのは、菖蒲と芹。
当の芹は部屋の角で膝を抱えて座っていた。
芹は平八が戻って近づくや、平八の服の袖を掴んだ。
「いらっしゃいませ、篠ノ女さん。ですがご覧の通り、今日は貴女の相手をする暇がありません」
「何があった。外にいた人間、関係あるのか」
「芹が前にいた村の人間が来ました。ここに芹がいるはずだから出せ、とね」
くうは、はっとする。芹は村を脱走した身だと話のついでに聞いたことがある。
「わざわざ芹ちゃんを迎えに来た……ですか? それっておかしくありませんか?」
近くに逃げたならともかく、ここは芹のいた村から遠く離れた寒村の山の上。そんな手間をかけてまで、村娘一人を連れに来る労力を農民が割くものだろうか。
これには菖蒲が、溜息一つを前置きに、説明してくれた。
「ありがちな風習で、芹の村では村人から選び出した一つの血統を選んで奉り上げることで信仰としたのです。その奉られるお役目を当代で負ったのが芹でした。芹が理解していたか分かりませんが、芹はその役目を捨てて村から逃げ出し、江戸に来ました」
続きは芹を膝に抱え上げた平八が答えた。
「そこを俺が拾ったんだ。んで、江戸でも追われて、逃げて来て、今に至ると」
「え、江戸まで追っかけてきたですか!? しつこいですね!」
執念とは恐ろしい。それとも芹の「お役目」はそれほど村人にとって重く、ただならないものなのか。
「No! Io non voglio andare!」
「落ち着けよ、芹。誰もお前を追い出すなんてしねえから」
言語は異なれど、想い合っていれば意思は通じるのか。芹は涙目で平八を見上げ、彼の胸に飛びついた。離さないで、とでも言うように。
「――菖蒲先生。外にいるのがその村の人達なんですよね」
「ええ。芹を出すまで帰らないと居座っています」
くうはすっくと立ち上がった。
「追い返して来ます。二度と芹ちゃんを返せなんて言えないくらい、こてんぱんに。任せてください。これでも私、説得とか得意なんですよ?」
こればかりは父母譲りの口達者。現実の篠ノ女空のスキルだ。
くうはにっこり笑って和室を出た。
誰もいない木造の廊下は、学童がいないだけでひんやりと暗い。その廊下を抜けて玄関を出れば、対照的な夏の太陽の眩しさ。
校庭の隅で話し合っている男たちを認め、くうは彼らに歩み寄った。
「こんにちは」
男たちが飛び上がらんばかりに驚いた。
(そりゃあ髪白くて西洋ドレスの女なんかに声かけられたら、私でもびっくりするしねえ)
男たちのくうを見る目には怪しさと恐ろしさが等分に含まれていた。
「あ、大丈夫ですよ。日本語分かりますから。異人さんとかじゃないですよ」
これが親しい相手であれば緊張で言葉はつっかえるが、一面識の人間が相手ならばすらすら言葉を紡げる。今後会うことがないのだから。
「先生から聞きました。貴方達、ここにいる異人さんの娘さんを迎えに来たんですって? あの子にまた嫌なこと押しつけるために」
「ひでぇことなもんか! 大事なお役目だ!」
「そのお役目があの子にとっては辛いことなんでしょう。そんなことも分からないんですか? 酷い大人もいたものです。残念ですが、そんな大人にあの子を渡す気は――」
その時、ばき、と。後頭部にひどい痛みが起こった。殴られたのだ。
くうは意識を失って倒れ伏した。
………
……
…
次にくうが意識を取り戻した時、くうは両手を木に縛りつけられていた。
痛む頭を巡らせる。――いた。例の村人たちだ。何やら揉めているのが聴こえる。
(私を人質に芹ちゃんと交換するつもりですか。そう決めたはいいけど誰がそれを言いに菖蒲先生たちのとこに行くかで揉めてる)
辺りを見回し、位置確認。ここはどこかの森の中だ。木々が生い茂って鬱蒼としている。学校の裏山か、あるいは長い階段を降りて別の山へ逃げ込んだか。
自分の状況を確認。座った状態で、蔓で両手をぐるぐる巻きにされている。鳳の力を使えば逃げ出せないことはない。
(もうここで翼出して脅したほうが速い気がしてきましたが、人間相手ですし、やめといてあげましょう。うん。となるともっかい説得コマンドですがどこから攻めればいいか……)
その時、近くの茂みが大きな音を立てて割れた。
「露草さんっ」
まさか彼が助けに来るとは思わなかった。メンバーを考えれば確かに露草が妥当だが、まず助けが来るという事態を想定していなかった。
村人たちも狼狽していたが、怖い目を見て交渉に行かずにすんで安心したのか、一斉に口を開いた。
「あ、あの娘っ子さ返せ! でねと、こいつがどうなってもいいのか!」
縛られた手を引っ張られ、蔓によって手首に擦り傷が出来た。小さな痛みに顔を歪めた。
「お前ら、どうしてそこまで芹――あの異人娘に拘るんだ」
露草の声は静かだ。その静けさが逆に、くうをぞっとさせた。
「あの娘がおらんなってから村はおかしくなっていっただ! 米も取れんし川が涸れただ」
「最後は山津波で家も田もみーんな流れてしもうた。もう村はねえ。おらたちが最後の生き残りだ」
「みんなあの娘っ子のせいだ! あの娘がお役目捨てて逃げよったのが悪いだ!」
めまいがした。
重なった不運を全て芹に押しつけて、自分たちは被害者だと嘯き、それが無知蒙昧と気づきもしない。挙句、ただ芹に責任をなすりつけるために、故郷を捨ててきた。その気概があれば村の再興とてできただろうに。
「それがてめえらの言い分か」
露草は近くの木の枝を折ると、それを錫杖に変じさせた。殺意が迸っている。臨戦態勢だ。
「やめてください!!」
くうはとっさに叫んだ。
「庇うのか」
「違います! こんな人達、露草さんの手にかかる価値もありません! だからやめてください!」
露草は妖だが、平八と友達をするくらいには人間寄りだ。ここで露草が村人を手にかければ、傷つきはせずとも蟠りは残る。
(そんなのいや。せっかく人と妖でも友達でいられるって希望を見たばかりなのに、私のせいで壊れるなんていやよ)
「黙れ! ええからあの娘っ子さ返せ!」
村人の一人が棒切れでくうの頭を叩いた。視界が回って思考が乱れた。
村人の要求に、露草は――従わなかった。
武器を取って、歩いて来る。花色の目に、慈悲はなかった。
あっというまに始まって終わった殲滅を見て、くうは歯の根がかみ合わないほど震えていた。
周りに転がるのは、露草によって一撃で急所を穿たれ、絶命した村人たちの死体。
妖は殺ししかしない、と菖蒲は言った。逆に言えば、妖とて人を殺すのだ。
血肉は妖に穢れとなる。逆に言えば、それらに触れずに殺害できる妖が人間と殺し合ってきた歴史があるのだ。
(露草さんが人間を殺した……妖祓いでも何でもないただの村人を)
人を殺して何とも思わない人など大勢いる。だが、今の露草はそれとは異なる次元で村人を殺していた。
許された、相手への絶対的な、敵意。
ざっ。露草がこちらを向いた。くうは肩を跳ねさせる。露草はそんなくうの様子に首を傾げ、こちらに歩み寄ってくる。
露草の錫杖の刃が頭上に向けられた瞬間、くうは本能のまま叫んでいた。
「いやぁ!!」
しゃきん! 高い音がして、腕が重くなり、地面に落ちた。くうはその場に両手を突いて俯いていた。
すると、露草の手が頭に置かれる感触があり、これにも悲鳴が出かけた。
「安心しろ。もうお前を傷つける奴はいなくなった」
顔を上げる。露草はすぐ前にしゃがんでいた。くうをまっすぐ見つめる花色の目。凶暴さも悪意もなく、ただ、まっすぐ。
「あ、あり、がとう、ござい、ます」
それっきりくうは露草から顔を背けた。
Continue…
後書き
人と妖の闘争の縮図でした。
原作10巻で露草は「いちいち倒した人間の面なんざ覚えちゃいねえよ」と言いました。これを字面通りに受け取って、露草は人間を殺したことがある、あるいは殺せることを前提に今回の話を書きました。
露草としては、くうを助けるために、当たり前の感覚でやったこと。
けれど、ちょっと前まで人間だったくうには、すぐ受け入れられないことです。前段の露草が優しかったから、特に。
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