あさきゆめみし―テニスの王子様―
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7月7日、涙… その三 賭け
「ただいま…」
鍵を閉めたのを確認してから玄関に背凭れ、天井を見上げると次第にそれが遠退いて行くのをぼうっと眺めていた。
東京に住んでいた時は白かったそれは今では木目の床と同じ茶色で、数ヶ月経ってもまだ慣れない。
突然両親が離婚して、文字通り逃げるように大阪に越してきた。
それまで気づいてはいたが、当日になってみると実にあっけらかんとしていて、父親に手を引かれるまま新幹線に乗ってしまったから当然友達やクラスメートたちに別れの挨拶もしていない。
きっと、驚いたことだろう。
彼女たちにはメールで事情を伝えたとは言え、やはり実際会って話したかった。
固い地面にお尻が着いて初めて遠退いたのは自分の方だと気づく。
『………………冗談であないなこと言わん』
…彼のあんな声は今まで一度も聞いたことがない。
脳裏には約四時間前の記憶が蘇って、胸が苦しくなる。
一体、何時から?
いや、…その前にそもそもアレは本気なのだろうか?
だが、あの真剣な顔は今まで見たことはない。
しかし…と、見事に坩堝に嵌まっている。
………………未だ嘗て忍足侑士のことをこんなに考えたことがあっただろうか?
『………………冗談であないなこと言わん』
たった一言でこの威力だ、面と向かったらどうなってしまうか解ったものではない。
「忍足君、何であんなことを言ったんだろ?」
ひたすら堂々巡りを繰り返した末に大きな独り言が口を吐く。
父は夜遅くならなければ家に帰って来ない。
どうせならば、この場で答えを出してしまいたい。
彼のことは嫌いではない。
……いや、寧ろ意識をしていると言った方が正しいだろう。
ただ、この感情が侑士の「好き」とは全く別のような気がするのだ。
『………………冗談であないなこと言わん』
それでもあの声色が、あの真剣な眼差しが、何よりも多くのことを物語っているような気がするのは自分の願望だろうか?
「えっ…」
そこまで考えてからあまりのことに驚愕して思わず声に出してしまい、慌てて口元を両手で押さえるが無論、聞き耳を立てる不躾な者は誰もいない。
(…そんな訳はない)
そうは解っていても青から赤く染まる果実の如く、思春期の真っ只中であるなの花の心は先程過ぎった答えに大きく揺れている。
けれど、一方になかなか傾ききれないのは彼女の弱さだった。
父と自分を捨てて他の男の人と一緒に家を出て行った母。
その一人娘である自分にまともな恋愛ができるとは到底思えない。
だから……。
「ごめんなさいっ」
翌日、放課後を待って彼に声を掛けた。
「…理由を聞いてもええか?」
「……私には人を好きになる資格はないの」
黒のズボンから伸びる足は寒い訳でもないのに先程からガクガクと震えている。
体育館裏にあるテニスコートは授業の他、クラブ活動に使用するくらいで通常人気はない。
「…それは答えになっとらん」
「そんなの判ってるっ!」
「じゃあ…」
侑士が次の言葉を選ぶ前にその場から走り去ろうとするが今度は手首を掴まれ、逃してはくれなかった。
「じゃあ、賭けでもしよか」
「賭け?」
「そうや。俺と自分の気の長い賭けや。勝負しようやないか」
「……」
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