臥薪嘗胆
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第一章
第一章
臥薪嘗胆
「臥薪嘗胆というのはだ」
学校の授業で先生が話していた。
「中国の昔の話でだ、恥や恨みを忍んで忘れずそれを晴らすことだ」
それだというのである。教壇からそう話していた。
「そうした話もあるということだな」
そんな話をしていた。それを前原八誠は教室の机から聞いていた。
そして話を聞いてから。クラスメイトと話した。黒い髪を伸ばし前で真ん中から分けている。小さく細めの黒い目をしていて眉は細く黒い。口元は下にやや弓なりになっている。鼻はそれなりに高い。背は一八〇近い。その身体を学校の制服の青い詰襟で包んでいる。
その彼がだ。臥薪嘗胆について友人に尋ねるのだった。
「そうした経験はあるものか」
「ないんじゃないのか?」
「だよな」
皆それを言われると顔を見合わせて言い合った。今彼等は教室の後ろに立ってそこで顔を見合わせて話をしているのである。
「滅多にな」
「恨みとか恥を忍んで何かをするってのはな」
「そうはないだろ」
「そういうものか」
「前原、御前にもそういうことないだろ」
「そういう経験は」
友人達は八誠に対して尋ね返した。
「そこまでして何かやるってな」
「ないだろ」
「ない」
やはりそれはないというのである。
「そこまでの経験はない」
「普通はそうなんだよ」
「そうしてやることってな」
「だよな」
そしてこんな話にもなるのだった。
「相当なものだしな」
「そのこと自体がな」
「あの話だとだ」
その臥薪嘗胆の逸話そのものについても話される。この逸話自体はその中国の古典である司馬遷の史記に由来するものである。
「相手の国を倒してるな」
「ああ、痛い薪の上に寝てな」
「苦い肝を嘗める」
実際にそうしたのである。史記にある話ではだ。
「そうして恨みを忘れないでな」
「ことを成したんだよ」
そうしたというのである。これが臥薪嘗胆である。
「御前もそこまですることってないよな」
「俺もないしな」
「なあ」
彼等はないというのだった。とてもそこまではだ。
「そういうのはな」
「そうそうな」
「そうだな」
まさにそうだという八誠だった。
「俺にもない」
「まあそうだよ」
「人生案外気楽だからな」
そういうものだというのだ。
「別にどうこうないしな」
「そこまでっていうのはな」
「そうだな」
八誠もその言葉に頷いた。
「俺にもない」
この時はそう思えた。これは彼が高校の時の話だ。しかし彼が高校を卒業して大学に入り社会人になった時だ。こんなことがあった。
会社の中でだ。上司である部長にこう言われた。
「君が今進めているプロジェクトだが」
「はい」
「あれは中止になった」
こう彼に対して告げるのだった。
「申し訳ないがな」
「中止ですか」
「状況が変わったんだ」
部長は自分の席の前に立つ彼に対してまた告げた。今の彼はスーツである。それを端整に着こなして立っている姿は如何にも有能そうである。
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