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名犬駄犬

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第四章


第四章

「なあ」
 ある日のお昼のことだった。昼食を終えた真美子に賢一が声をかけてきた。
「何かしら」
「いや、最近御前な」
「ええ」
 彼は妻の顔を見て言う。
「優しい感じになったな」
「そうかしら」
「ああ、何処となくな。コロが家に来て暫くしてからかな」
「少しね」 
 その理由は彼女が一番よくわかっていた。
「コロを見てると。そうだったの」
「御前最初はコロ嫌いだったのにな」
「わかってたの?」
「そりゃわかるさ。あそこまで露骨だと」
「そうだったの」
 夫にも息子と同じようなことを言われまた顔を伏せてしまった。
「確かにソーニャとは全然違うからな」
「ええ」
「ソーニャは素晴らしい犬さ、本当に」
 これは彼もわかっていた。
「けれどな。コロもソーニャと同じ位素晴らしい犬なんだよ」
「そうね。それがずっとわからなかったわ」
 自分がどれだけ馬鹿で視野が狭いのかよくわかった。
「コロはな、優しいんだ」
「そうね」
「他のどんな犬よりもな。心が優しいんだ」
「それにずっと気付かなかったわ」
「けれど今は違うよな」
「そうね」
 その言葉にゆっくりと頷いた。
「本当に。変わったわ」
「コロのおかげか」
「ええ。ソーニャとはまた違った素晴らしい子だってわかったから」
「そのソーニャだって本当は色々とあるんだ」
「えっ!?」
「その名前だよ」
 賢一は妻に対して言った。
「名前って?」
 実はソーニャの名付け親は真美子ではないのだ。賢一だ。彼が名付けた名前なのである。
「ソーニャって何の名前だ?」
「確か小説のヒロインだったかしら」
「そう、ドストエフスキーの小説のな」
 罪と罰のヒロインである。殺人への偏執とその後の罪への意識に囚われる青年ラスコーリニコフを救う少女である。実は彼女は娼婦だ。その時の暗い帝政ロシアを舞台とするに相応しい立場のヒロインであった。汚れているとされる立場にありながらその心は清らかだったのである。これは小デュマが書き、ヴェルディがオペラにした椿姫においても同じである。人は決して仕事で汚れるのではなく、心が問題だということなのである。
「あの名前を付けたのは。正解だったな」
「名前だけじゃないってこと?」
「そうさ」
 賢一は言う。
「ソーニャって名前はね」
「ソーニャは確かにいい子だけれど。名前には意味があったのね」
「御前は気付かなかったみたいだね」
「罪と罰は知ってたけれどね」
 それ位は真美子も知らないわけではなかった。イラストレーターとしての仕事の中には小説の挿絵も多い。だからそこで知ったのである。
「ソーニャは娼婦だったけれど心は清らかだった」
「そしてその名前を持つソーニャは立派な犬だったと」
「そういうことだよ。それがわかってくれたみたいだね」
「今になってやっとね」
「そしてコロも」
「ソーニャとは違うけれど。素晴らしい犬だってことね」
「ソーニャはソーニャ、コロはコロでね」
「あなたはコロには気付いていたの?」
「まあね」
 うっすらと笑って答えた。
「ちゃんとね。わかっていたよ」
「そうだったの。それじゃあわかっていなかったのは」
「まあそう気にすることはないよ」
 落ち込もうとする妻を慰める。
「気付いたんだから」
「有り難う」
「確かに鈍くて外見も綺麗じゃないし小さいし。そんな犬だけれどね」
 だがコロには他の犬よりもずっといいものがあるのだ。他の犬にはない素晴らしいものがあるのだ。
「優しい。気のいい犬なんだ」
「そうね」
「そんなコロだから一樹も気に入ったんだろうね。ほら、ソーニャは一樹と遊ぶ時一樹に合わせてるって感じだろ?」
「そういえばそうね」
 これも言われてみてようやく気付いたことであった。迂闊と言えば迂闊かも知れない。母親として真美子は自分の至らなさに恥じる気持ちを感じた。
「けれどコロは違うんだ」
「コロは。一樹と一緒になってるのかしら」
「そうなんだ。一樹と一緒に楽しんで、一樹と一緒に悲しんで。一樹とコロはいつも一緒なんだ」
「そう。だから一樹はコロが好きだったの」
「それもわかってくれたみたいだな」
「今やっとね」
 それまでわからなかった。いや、わかろうともしなかったと言うべきだろうか。コロのそうしたところに。ソーニャと比べてばかりでコロのことには気付かなかったのだ。気付こうともしなかったのだ。
「私、やっとコロのことがわかったわ」
「ソーニャとは比べられないだろう?」
「ええ」
 そのうえで頷く。
「全然違うのね」
「そうさ。ソーニャだってその名前とは違っているし」
「コロもソーニャとは全然違う」
「けれどいい犬なんだ」
 真美子に言い聞かせた形になった。
「コロはコロで」
「ソーニャはソーニャで」
「そういうことさ。ソーニャは名犬だよ、確かに」
 これは否定のしようがない。
「コロは駄犬かも知れない、けれど」
「素晴らしい犬なのね」
「そう、名犬でも駄犬でも素晴らしい犬だってことには変わりはないんだ」
 賢一の顔が明るくなっていた。
「ソーニャもコロも」
「いい犬なんだよ」
「ええ」
 それが本当にやっとわかってきた。真美子は晴れやかな顔で窓の方を見る。 
 コロが笑っていた。にこやかな顔で真美子を見詰めていた。
 真美子もそれに微笑み返す。そこには侮蔑も何もなかった。そのままの笑みであった。


名犬駄犬   完


                   2006・5・26


 
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