或る皇国将校の回想録
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第三部龍州戦役
第四十七話 <皇国>軍の再動
前書き
馬堂豊久中佐 駒城家重臣団の名門 馬堂家の嫡流 先遣支隊支隊長
大辺秀高少佐 独立混成第十四聯隊首席幕僚
新城直衛少佐 近衛衆兵鉄虎第五○一大隊大隊長
藤森弥之介大尉 近衛衆兵鉄虎第五○一大隊首席幕僚
西津忠信中将 集成第三軍司令長官 西原家分家当主
荻名中佐 集成第三軍 戦務主任参謀 西原家重臣団出身
佐脇俊兼少佐 先遣支隊に組み込まれた独立捜索剣虎兵第十一大隊の隊長 駒城家重臣団出身 新城直衛を嫌っている。
皇紀五百六十八年 七月十八日 午後第六刻
南方戦域〈帝国〉軍防衛線より北方一里 集成第三軍先遣支隊 支隊本部
「――以上が先遣支隊の編成構想であり、我々の作戦目標である。
この目標達成に至るまでの先遣支隊長としての構想を述べる。説明は首席幕僚が行う」
浸透突破による指揮系統の破壊――その説明を受けた先遣支隊の将校達は顔を見合わせてざわめく。
単なる夜襲ならまだしも、本来なら小隊、中隊規模が精々の浸透戦術を三千を超す大型聯隊規模で試みようと言うのはいかに二個大隊もの剣虎兵部隊を保持しているとはいえ思考の埒の外であった。
「先遣支隊本部 首席幕僚の大辺秀高です。さっそくですが、本構想についての説明を行わせていただきます。
支隊長殿の説明の通り、本構想の目的は払暁までに敵旅団、及び師団司令部を殲滅し、指揮系統を破壊、集成第三軍を主力とした反攻部隊の突破を支援する事です。
つまるところ、我々の努力の大半は敵の哨戒網に察知されずに浸透するか、に集約されます。」
「何か質問はあるか」
戦務幕僚である石井少佐が指揮官達を眺めながら尋ねる。
「――宜しいでしょうか?」
第十一大隊指揮官である佐脇少佐が手をあげた。
「支隊長殿、ならば戦闘が避けられぬ場合はどのようにするのでしょうか?」
佐脇少佐が慎重な口調で尋ねる。彼の部隊が先導し、先遣支隊の状況を造る以上、当然の質問であった。
「遭遇戦状況に陥った場合は独自の判断で攻撃を行って構いません。但し、その場合は最優先で通報手段をつぶし、周辺部隊と連携して包囲殲滅を行なって下さい。一人も生かして帰すな、隠密性の保全が第一だ」
「一人も――ですか」
「当然です。我々の行動目的は指揮系統の破壊であり、兵力を削ぐ事ではありません。
警戒を強めた敵陣のただ中で消耗戦を行うつもりはない」無感情に首席幕僚は語る。
「今現在、我々が血を流して良いのは敵司令部を潰す時だけです。
敵と遭遇した時点で作戦破綻の危機にあるのです――」
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大辺秀高少佐は不安げに自身の上官へと囁いた。
「よろしかったのですか?第十一大隊に先行を任せると言う事は佐脇少佐に主導権を与えることになりますが」
「構わんさ、遠隔捜索は我が聯隊の導術部隊に任せる事になっているからな、情報は此方とも共有せざるを得ない。貴重な捜索大隊との連携が上手くいかない可能性を潰す方が先だ。信頼を見せてやらねばならんだろうよ」
支隊長となった馬堂豊久中佐は、何ら気負う様子を見せずに答えた。
こうした気遣いは幕僚である大辺達から見るとやや過剰であるが彼自身は将家と云う生き物の事を深く自覚しており、今回の急な作戦に護州の臭いを(確証がなくとも)嗅ぎとっていた。この手の餌を与えて分裂を煽るやり口は守原が好むやり方である。
故に馬堂中佐はこうした問題が拗れる事を酷く恐れていた。
――そもそもからしてこうした作戦を自分が行う事は好ましいものではない。もし失敗したら国防戦略に大きな支障をきたす事は当然であり、更に自身の家を存亡の危機に晒す事にもなる。自身の推測が正しければ――守原が書いた筋書きに通り、望まぬ神輿に乗る羽目になる。そして過剰に一人の陪臣を持ち上げるようになれば――駒州は荒れるだろう。
――無位の育預の手で勢力を伸ばす衆兵の対抗馬か。そうなるとますます護州が煽るだろう。馬堂家にとって最悪の展開だ。
疼痛がしてきた胃を軽くさすりながら元軍監本部参謀の支隊長は首席幕僚に御題目を伝える。
「――今、必要なのは緊密にして円滑な連携だ。ただ、指揮下に入ったからと横暴に振る舞うと組織の歯車は瞬く間に摩耗するからな」
この表向きの理由とてまた必要な事ではある、これが損なわれたらまず先を考えることが極めて医学的な理由で不可能になる主に自身たちの胃痛とかで。
「そもそも、捜索部隊が先行しないのも妙な話じゃないか。下手に外せばその方が軋轢を生みかねんぞ」
支隊長の言葉に首席幕僚は珍しく言葉を詰まらせた。それはまぎれのない事実であった。
現在の決定されている隊列は第十一大隊が中隊単位で分散しながら半里程度を先行し、その後ろを銃兵達が中隊単位で縦列を組み、それを鉄虎小隊に護衛される形で進んでいる。
鉄虎小隊にはそれぞれ導術兵を配置し、幾らか柔軟性を損なわない程度に細々とした工夫をこらしてある、これは馬堂中佐の指示を受け、調整能力に富む大辺少佐と剣虎兵運用に熟練した秋山大尉を中心とした幕僚陣が構築したものであった。
佐脇少佐は先鋒を任され、支隊長に幾度も隠密性を保持するように言い含められながらも意気軒高と云った様子で大隊本部へと戻っていった。
取り敢えずは彼自身に指揮系統を乱さぬ程度の敬意を現す事に成功したのだと馬堂豊久は判断し、この案件を処理できた事に安堵した。
支隊長として豊久が幕僚達の提案を基に構築した構想では、聯隊本部――現在は支隊本部と名称を変えているが――とにもかくにも彼とその幕僚団が導術通信網によって全てを管制するつもりであった。部隊の分散による危険性を多少なりとも軽減する為である。
大辺少佐が懸念をあらわにしたのは、この運用法では第十一大隊が齎す情報こそが最も重要な命綱となっているからだ。聯隊導術中隊による導術捜索は導術通信に比べて術者に対する負担が大きく、基本的には半刻に一度の周期で行うのみにとどめていた。
大辺も若い中佐が何に神経を尖らせているのかも理解していたが、馬堂家に連なる者としては諸手を上げて賛同できるものではなかった。佐脇家は護州の意向を受けているのだからなんとはなしの不信感を抱いていたのである。
「さぁて、どうなるか・・・・」
気負いを見せずに飄然と支隊長は呟き、導術士に向かって告げた
「第三軍先遣支隊長より各隊へ、行動開始」
本隊は静かに、全ての将兵が|徒(かち)で歩み始めた。
同日 午後第九刻 中央戦域〈帝国〉軍防衛線より南東五里
近衛衆兵鉄虎第五〇一大隊本部
新城直衛率いる第五○一大隊は、既に三刻程を無言のまま歩いていた。未だ、五里程度しか進んでいないが、訓練を完全に終えられなかった故の練度の低さと、無言のまま周囲を警戒しつつ隊列を整えている事を勘案すれば及第点を与えられる範囲だろう。
現在、新城直衛が引き連れているのは第五○一大隊、第五旅団の総計5.000名弱である。
第五旅団は既に初期の警戒網を突破し、第五○一大隊が第五旅団を先導している事で新城の手に主導権が転がり込んでいる。何故なら、何もかもを第五○一大隊の齎す情報でしか現在の状況を判断できないからだ。つまるとこ集成第三軍の先遣支隊における第十一大隊とほぼ同じである。違いは本隊――第十四聯隊と第五旅団における導術部隊の充実具合の違いである。
第五旅団は未だに最低限の連絡用の導術兵しかその編成に組み込まれていない為、その情報の全てを第五○一大隊に頼らざるをえない。
「――大隊長殿」
「なにか」
やはり無言で付き従っている副官が声をかけてきた。
「この先に森林地帯があります。そこをぬけると二十里ほどは緩やかな丘陵地帯が続きます」
無意識に視線が側を漂う(或いは浮く)観戦武官の天龍に新城は向けるが、特に緊張した様子はない。もっとも、<大協約>を遵守するのならば彼には公然と頼る事は出来ない、大隊長達は捜索剣虎兵達へ指示を飛ばし、その結果を待つことにした。
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森林の中で将校達を集めると新城直衛は隊形の変更を告げた
「これから我々は第一中隊(捜索剣虎兵中隊)を先頭に大隊全力にて、鏃隊形をとる。
つまり諸君はよくとも中隊規模で行動を行う事になる。で、あるからにはこれからは導術に関して、必要だと判断したら諸君らの裁量の範囲においての利用を許可する。
あぁ、もちろんこれから深部に近づくにつれ、敵の警戒網が厳重になる事を考慮してくれないと困る。大隊長としては以上だ」
それからすぐに、新城直衛は副官と最先任下士官、そして観戦武官を連れて捜索剣虎兵中隊の面々を訪れていた。捜索を任務とする彼らは戦闘導術兵を配属されており、彼らは先述した第五旅団にとっての五○一大隊の如く、彼らがこれからの状況を作り出す事になる。
故に新城は彼らと話し、彼らが戦意と集中力を保っているか確認する事を自身の義務として定めていた。
「既に始めております、大隊長殿」
中隊長である本田大尉は報告した。実戦経験が豊富な元陸軍将校であるこの男や、かつて第十一大隊で共に戦った妹尾中尉を代表にこの中隊には大隊から選抜した最も優秀な将兵が配属されている。
「何か分かったか?」
大隊長の問いかけに本田大尉は焦りの色を見せずに答える。
「現在最も近い反応は三里ほど南東に大隊規模の宿営地らしき反応があります。
導術探査は半径二里以内の反応は切っていますので、我らはこれより樹木線に展開し、周辺の捜索を開始する予定です」
「――その宿営地は視認できるか?」
「距離が離れていいますので現在の装備では光量不足です。
ですが、よほど良い望遠鏡ならば光帯の反射を拾えるかもしれません」
本田の答えにそっと新城は夜間行軍に備えて持っている望遠鏡に手をかけた。新城が持つ望遠鏡は海賊退治を任務としていた水軍の者達が使うものである。そのため、夜間に光帯の反射を拾えるようにあれこれと工夫が凝らされている。
――試してみるか。
自身の決定にすら恐怖する臓腑の不快な蠢動を抑え込み、新城は口を開いた。
「前に出てみる、一個小隊をつけてくれ」
樹木線で彼らが見たものは騎兵――であった。それも僅か十五騎程のものであり、単純に考えれば高級将校とその護衛と思われた。新城が思考する時間を得られれば浸透突破の目標の一部を楽に行える機会だと考えられただろう。此処で潰しておけば一時的に司令部の動きが鈍る可能性が高い――勿論、逃げられたらお仕舞いである。だからこそ引きつけて殲滅せざるを得ないのだが。
だが新城直衛は不幸にもその手間を省く事になった。視界が開けた時点であまりにも接近しすぎており、騎兵達は無用心に彼らへと接近してきたからだ。
そして、そのうちの一人が小用の為か森に潜む猛獣たちに気づく様子もなく近づいた瞬間――腹部を鋭剣に抉られ、その生命を散らせた。
大隊長に従い剣虎兵小隊も次々と敵に襲いかかった。真っ先に騎馬の者達へ剣牙虎達が飛びかかる。そして兵達も着剣をした騎銃を構え、容赦無く敵を刺突する。
瞬く間に不運な騎兵たちは縊り殺されていく、日が沈み、逢魔が時も過ぎた闇の中で人ならざる猛獣たちに出会ったのだ、これほど確実な死もそうそうなかろう。
鋭剣を抜き自分が鍛えた小隊による攻撃の成果を分析する一瞬の空白
「大隊長殿!」
彼の副官が発した悲痛にすら聞こえる警告と同時に
「猛獣使いめ!よくも!」
軋るような帝国語が新城の耳に響いた。
彼が本能的な小心さに従い身を縮こまらせるように体を捻って森の方へと跳ぶと先程まで首があった場所を鋭剣の軌跡がなぞった。
内心、奇声を上げたくなるほどの渾然とした何かが新城の内心を荒れ狂う。それは生きている歓喜なのか死への恐怖なのか或いはその両方なのか本人にも分らない。
その全てを無視して鋭剣を構えながら千早を呼ぼうとすると――新城の臓腑に不快な蠢動を行わせる光景が飛び込んだ。
「なんのつもりだ、女。剣を捨てれば見逃してやるというのに」
「貴様こそ、大隊長殿に手を出さなければ見逃してやってもよかったのだがな」
――高級将校の軍装に身を包んだ大柄な壮年の男と自分の個人副官が向き合っていたのだ。
天霧冴香は両性具有者であったが、新城は基本的に女性として扱っている。その個人副官に相対している男が刃を油断なく構える姿は、高級将校というよりも舶来絵巻に描かれている騎士に似た気迫があった。
一方、天霧冴香中尉は鋭剣を構える姿は美しくはあったが(新城から見ると)それはあくまで美術品としての美であって自身の盾とするべきものではなかった
――止めろ!逃げろ!
叫んだつもりだが――奇妙な音が喉から漏れるだけだった。新城がそれを自覚したのとほぼ同時に彼が止めようとした戦いも決着がついていた。
「まだだ――私は義務を――」
太腿をおさえ、そこから湧き出る血を止めようとしていた――〈帝国〉将校が。
「――苦しめはしない。」
一見たおやかな手から鮮やかに胸部へと刃が滑り込み、一瞬の痙攣を経て老騎士は黄泉路へ旅立つこととなった。
一瞬の剣劇で主役を務めた天霧個人副官は鋭剣を引き抜くと速足で新城の下に駆け寄る。
「大隊長殿、申し訳ありませんでした。自分が迂闊に離れたばかりに」
光帯に照らされた美しいいきものの表情は苦悩に満ちていた。
「見事だった――君に剣を抜かせる事は好みではないが」
早口でそう言うと新城は何故かとぐろを巻いている天龍の無事を確かめるべく歩み寄った。
『少佐殿が御無事の様でなによりです。』
そう言って蜷局を解くと中から吐血の後がある騎兵が崩れ落ちた。相当死ぬまでに苦しんだのだろうが坂東は気にした様子はない。結局は種族からして違うのだ、感覚が違うのだろう。
「申し訳ありません、観戦武官である貴方にこうした火の粉が降りかかるとは」
『私も、観戦武官となった時からこうなる事は覚悟しています。
どうか少佐殿はお気兼ねなくお進み下さい』
天龍独特の細波で青年龍は“声”を響かせた。
「特務曹長、この敵は将官だ。押収物は厳密に取り扱う様に」
ほかに言うべきことはなかった。既に戦闘の痕跡は血の臭いしかのこっておらず。猪口が手をかけた死体以外は既に森の奥へと運ばれている。馬は剣牙虎達が取り囲み、怯えきっている。間も無くそうした恐怖とは永遠にお別れできるだろう。
「大隊長殿、友軍に動きが」
導術兵が駆け寄り、指揮官へと囁いた。新城が無言で頷くと導術兵は小声で伝える。
「集成第三軍が先遣隊を派遣しました。部隊名は先遣支隊です。浸透突破を行い、払暁の主力による再攻勢を開始するまで後方攪乱の為の攻撃を軍司令部が命じています。行動開始は一刻前、現在は敵防衛線を1里ほど浸透しております」
「――部隊の規模と指揮官は?」
答えはほぼ分かりきっているが、新城は敢えて訊ねた。
一瞬目を閉じて交信した後に導術兵は応える。
「大型聯隊規模です。主力は剣虎兵二個大隊と銃兵二個大隊の四個大隊。支隊長の名前は馬堂豊久中佐殿、次席指揮官は佐脇俊兼少佐殿です」
「――そうか。報告御苦労、行ってよし、暫く休んでいろ」
これがどう転ぶのか、新城には未だ予想がつかなかったが少なくとも佐脇俊兼の名を聞いた時点で酷く気に入らなかった。支隊の指揮官もまた、望まぬ神輿に担がれるよりはと軍命を忠実に守る事は疑いがなく、であるからには彼らは本営制圧を軍主力に譲る事になる事も確実であった。そしてそれを狙って何者かが圧力をかけたことも理解していた。
であるからには自分達は彼らが攪乱を行う前に本営に辿り着く事なくてはあれこれ苦労して手に入れた主導権が無意味になる事も理解していた。
――僕の戦争を政治で弄ぶものがいる。
半ば直感でそれを決めつけた新城直衛は――酷く不機嫌になった。
同日 同刻 南方戦域〈帝国〉軍防衛線より北方一里
集成第三軍先遣支隊本部 支隊長 馬堂豊久中佐
先遣支隊の行軍開始から三刻が経ち、先遣支隊もまた、近衛と同様に指揮官達を集合させていた。
各員が得た情報の統合を行い、各級指揮官から提案された運用法についての改善案を討議し、改善案を反映させる為の方策を決定した。浸透中である為、数十人が集まったとはいえ、立ち話ではあったが数千名の命運を決める会議であった。
一通りの意見交換が終わると支隊長が中央へ歩み出た。
「――さて、諸君。ひとまず結論を確認しよう、支隊長として方針は変わっていない。
戦闘は可能な限り避ける事、旅団本部を潰すまでは敵に勘づかれてはならない。
諸君らの努力もあり、ほぼ順調に本作戦が進行している事を喜ばしく思う」
馬堂中佐が笑みを浮かべて言う。
「この先は東に進路を変え、丘陵地帯を橋頭堡に向けて行軍する為、導術による連絡が主となる。
これが戦闘前の最後の指揮官集合となるだろう。 支隊長からは以上だ」
再び将校たちの様子を眺める。
――疲労の色も薄く、士気も萎えていない。同様に浸透している近衛も上手くやっている。
意識して笑みを浮かべたまま支隊長は満足そうにうなずいて見せる。
――まだ、我々にも勝ちの目があるわけだ、いやはや都合がよすぎる考えだろうが、そう考えるしかあるまい、少なくとも陽光を再び拝むまではこの幸福な考えに浸るしかない。
同日 午後第九刻 集成第三軍司令部
集成第三軍司令部戦務主任参謀 荻名中佐
先遣支隊から初の定時報告が届いた時、司令部の緊張が多少なりとも緩んだ事は確かだった。
「予備隊の三分の一、それも我が軍の保有する剣虎兵科を丸ごと無為に使い潰さずに済みましたな」
軍参謀長の豊浦少将が汗を拭きながら言った。一見貧相な中年男にしか見えないが、軍官僚としてそれなりに良い評判を得ている。作戦業務に関しては、壊滅に近い状況にある砲兵隊の再建と補給計画の構築に関する業務を主導しており、どうにか明日の攻勢に向けて準備を整えている。
「護州の横槍の所為で余計な面倒を抱える羽目になった。ここは第三軍司令部であって護州軍の参謀部ではないのだぞ」
司令長官である西津中将が不機嫌そうな顔のまま云った。彼自身は西原に利害が絡まない限りは深入りを避け、調停役として立ち位置を維持する現当主である西原信英公の従来のやり方を望んでいたが、護州――守原英康大将は旗幟を鮮明にする様に欲求したのである。
「此処で護州に敵対するのは望ましいものではありません。御本家の事を慮るのならばこれが落としどころかと」
情報主任参謀である長隈中佐が司令官を窘め、そして話題を変えようと彼の部下に視線を送る。
「それにしても<帝国>軍は流石に補充が早いですね。予備部隊の上陸もほぼ完了しつつあるようです、我らも計画を前倒しした方が宜しいかと」
地図に報告の入った情報を書き込んでいた情報次席参謀の土屋大尉が報告した。衆民出身であるが故に先程までのような事には半ば憎しみを抱きながら無関係を貫いている。
将家出身の司令官・参謀達は導術の積極利用に否定的であったが、<帝国>龍兵による大規模爆撃まで戦局を優勢に維持し続けでいた事にこの衆民大尉が構築した第三軍の導術運用が大きな役割を果たしている事を認めざるを得ない事も理解していた。
そして奇妙な話ではあるが、彼ら高級将校達は導術を利用せずにもっぱら次席参謀如きが導術による司令部からの発令を代行する羽目になっていたのである。傍目からすれば馬鹿げた姿であるが、これは、太平の世に見つけられた落としどころをそのまま受け継いだ光景であった。
「予備が出てきたとなると、第二軍だけではなく火力を削がれた我々か、近衛総軍に対し反攻をしかけられる可能性もあります。自分は龍州軍の支援を受け、可能ならば攻撃開始時刻を一刻程前倒しにして払暁直前に奇襲を仕掛ける事で機先を制する必要があると具申します」
「――可能か?」
視察から戻った兵站参謀達と話し込んでいた豊浦参謀長が慌てた様子で可能だと応えると歴戦の将軍は直ちに実行を命じた。
「どのみちとるべき行動は何も変わらん――向こうが動き出す前に機先を制し、一挙に本営まで打通するしかあるまい。先遣支隊がどの程度まで動くのか分からんが、今はこの戦の主導権を握らせるしかなかろう
……荻名、方策をまとめたら龍州の司令部に行き、段取りを整えよ」
「は」
かくして<皇国>陸軍は明日の陽光を拝むまでにこの殺し合いの主導権を再び奪い返そうとひそかに身動ぎを始めていた。
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