| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

幸せな夫婦

しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
< 前ページ 目次
 

第一章


第一章

                   幸せな夫婦
 できた女房という存在がある。これは一口に言っても中々いはしない。もっともその逆のできた旦那というのはもっと希少価値であるかも知れない。
 昭和の二十年代終わりの大阪。天下茶屋に秋元芳香という女がいた。これが所謂過ぎた女房と評判だったのだ。
 何がいいかと言えばまず顔がいい。これが最初に大きかった。それだけでなく身体つきもいい。和服の上からその姿がはっきりとわかる。実に艶かしい。その顔も絶妙に奇麗で妖しく色香漂うものだった。黒髪を上でまとめてそのうなじがこれまたそそるというものだった。肌は白く紅い唇を見事に映えさせていた。
 それで終わりではなく性格もいい。慎み深く夫を立てるし貞節だ。物語にあるような女であった。
 おまけにやりくりも上手くて料理もできる。何も悪いところはない。よくもまあこんな女がいたものだと感心してしまう程だ。そうした女であった。
 その彼女が今日傘を持って道の往来で世間話に興じていた。相手は昔から馴染みの静江という女だ。彼女も結婚してもう子供が結構いる。彼女は彼女でおおらかでできた女だが評判は芳香程ではない。それでも嫉妬を覚えないのは静江の得ではあった。
「それでや。この前やけれど」
 静江は芳香に笑いながら話をしていた。その大きな口をさらに開いて言っていた。
「道頓堀まで言って」
「何してたんや?」
「旦那と善哉食べたんや」
「あんたの旦那お酒飲むんちゃうん?」
「それでも甘いもんもいけるんや」
 静江は笑ってこう述べた。
「特に善哉は好物なんや、うちの人」
「行ったんは夫婦善哉やな」
「わかるん?」
「わかるで、それは」
 芳香は笑って静江にこう返した。
「道頓堀の辺りでええ善哉のお店いうたらそこしかないやん」
「まあそやな」
「そやからわかるで。それで夫婦で一つずつ?」
「いや、二つやで」
 静江は笑って言うのだった。
「お互い茶碗を一つずつ交代してや。それでや」
「そうやったんか」
「そういうことや。旦那も美味しい美味しいって食べてな」
「美味しいやろ、あそこ」
 芳香もにこやかに笑っていた。艶やかな顔が少女のそれに見える。
「量もあるように見えて」
「あるんちゃうん?」
 静江はその言葉に目を丸くさせた。おっとりした目がほんの少しだけ驚いた感じになった。
「うち二つ食べてもうお腹一杯やったで」
「そう見えるだけやねん」
 芳香はそう言って笑うのだった。
「ええ?これってコツやねん」
「コツ?」
「そや。ほら、一つのお皿や御椀に入れると寂しいやん」
 彼女は静江に対して語る。
「それをな。二つにすると一杯あるなって思って。そういうことなんや」
「そうやったんか」
 静江はそれには少し驚いた。言われてみればそうだ。そういうやり方もある。そうした意味であの店はよく考えているものだと思った。実はこの値段でこれだけ食べられるのだから贅沢だとも思ったりしたのだ。
「何でもそやで」
 芳香はその子供っぽささえ見える顔でまた言った。
「多く見せるにはコツがあるねん」
「そやったんか」
「そうやで。おかずかて同じや」
 主婦の話題の中心に来た。やはりその日のおかずが何なのかが最も重要なのだ。それを考えればここに話が至るのも当然と言えば当然であった。
「一つのもんを一つのお皿に出すより」
「二つにする」
「それは何でもええねん」
 そう付け加える。
「どんなしょぼくれたお味噌汁でもな。あるとないのとで大違いやで」
「そうやったんか」
 静江はそれを聞いて感心すること至極であった。
「そうすればよかったんか」
 実はおかずが少ないと結構亭主に言われたりするのだ。しかしこれで大きく違うと思った。本当に目から鱗が落ちる思いであった。
 だが芳香の話はこれで終わりではない。さらに言うのだ。
「お味噌汁の具もな」
「どんなんでええんや?」
「残りものを入れたらええんや」
「残りものなん?」
「大根の葉っぱとか昆布の残りとか」
 案外見ているようで見ていないものだ。それを言ってきたのだ。
「そういうのでええねんで。いや、それでかえってええんや」
「かえってなん」
「そや。大根の葉っぱなんてあまり見たりせえへんやろ」
「まあそやな」
 少し前までは食べるものが何もなく何でも食べていたがもう戦争から十年近く経っている。だからそういうものを食べるのも次第に忘れてきていたのだ。
「大根自体はともかく」
「そういうことやで。おかずかてな」
 まだ話が続く。
「一度にようさん作るんや」
「何日も食べる為やろか」
「それもあるけれど他にもあるんや」
 まだあるという。彼女の目のつけどころは中々様々に至っている。
「一度にようさん作った方が味がええ」
「そうなんか」
「特にカレーはそやで」
 といってもこの時代はカレーに肉が入っていればご馳走である。よくて豚肉といったものだった。肉そのものが非常に貴重な時代であったのだ。これは昭和五〇年代までそうであったであろうか。
「一度にようさん作るんや。味も出るしな」
「ほなうちも明日からそうするわ」
 静江はおっとりした調子で言った。
 
< 前ページ 目次
ページ上へ戻る
ツイートする
 

全て感想を見る:感想一覧