帝国の衛星都市
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帝国の衛星都市
前書き
拳闘士の話。
壱
僕が眠っている間に『帝国』が染み入ってきた。といっても体の内部に異生物が忍び込んでくるというようなオカルトなことではなく、僕の精神の一部、それは常に手の届くはずの思考の自由を侵してきたということだ。それは随分と当たり前の口上を述べて手を握って、微笑をくれた。僕はその優しさがうれしいのです、ずっとその優しさを求めていたのですと嘯いたが、僕の心はひどく曖昧でまた彼らを深く忍び寄らせた。僕はいつそのような優しさを求めたのかを思い出せない。彼らが微笑をくれた後、心が和んで、嗚呼それを求めていたのだと意識したのかもしれない。どちらが先でもなく心の磁化により惹かれたのかもしれない。心は磁気のように僕を揺らがせて、僕は彼らに飲み込まれてしまって、お互い要求どおりな雰囲気になってしまった。
僕はその侵略の意図を分からないままで手を握った。その手の温もりも、不意に他人の肉に触れたしまったときの、明らかに拒まれるべきものではなく、とてもフレンドリーだ。たまに台詞が聞き取れなくて僕は人差し指を立てた。もう一回、と人差し指を立てるんだ。『帝国』から滑らかに放たれた言葉達は意味を無くして、有無を言わさず僕に納得を促す。納得は無抵抗に犯されることをよしとする。
僕の意識はどこか知らない水脈にたどり着いて新しい思考回路を開こうとしている。
「昨日のあの事はこんな意味合いだったかしら、ああ、なるほど」と僕は思う。
『帝国』は確かに染み入ってきた。
彼らは僕のシャツの匂いを嗅いでいる。たまにしかめ面で宙を眺めて鼻をすすり、またシャツの袖口に鼻先を寄せた。僕にとっての侮辱であるかどうかは微妙なところだ。袖口の匂いが好きなのかもしれない。僕は手首にコロンをつけているのだ。柑橘系のいい匂いがする。
彼らは壁をノックしては隣の音に耳を澄ませている。僕の耳には隣の部屋からの返事が聞こえている。隣の住人は人の心を惑わす植物を栽培している中肉の男だ。怒らせたくない。隣に迷惑だからと僕が忠言すると、隣には誰もいないから大丈夫だと彼らは答えた。ではなぜ壁をたたくのですか? 何故? 僕は聞かなかった、聞けなかったのだ。
彼らが冷蔵庫を開け、スパイスのついた菓子を食べて僕のボトルの水を飲み、水をスパイスだらけにして大笑いしたとき、僕はどうやら犯されているのだろうと感じた。冷蔵庫を無断で開けられたことにひどく心を揺さぶられたのだ。そして演技で怒鳴り声を上げた。
「おまいらよぅ、人のことなんだと思っているわけ? おもちゃじゃないのよ。ここは俺の領域よぉ? 法律じゃぁケリが付かねぇ事でもやっちゃいかんのよ。とりあえず出てけよ。俺の右ストレート顔面ヒットするかんなぁ。くらぁ! 出てけっ!」
僕は眠っている間、夢中の彼らに拳を振るっていたらしい。目覚めたばかりでまだ世界が揺らいでいる。体に先んじて意思が宙にある誰かを殴り倒そうとしている。その相手は筋肉の隆起した色黒の男から僕好みの女の姿に変わり、母親にも変わった。うん、確かにこれは世界が揺らいでいる。
僕は夢の出口を塞ぐように現実に体をねじ込んだ。
右ストレートから左アッパー。左アッパーから右のフック気味のストレート。左、左、右一発。アッパー気味の左ボディーフックから顎をかち上げるアッパーストレート。
ウンウン、ヨシヨシ。キエロキエロ、帝国のカゲ。
「よし今日は…」
扉を開いて左に曲がる。左伝いに壁を周ってきつい上り坂を選ぶ。ふくらはぎを鍛える。踏み込みが大事だ。
僕は空気の冷えた夜明けの部屋で、体中の筋肉に弛緩と緊張を交互に与える。筋肉がピクピクしている。ピクピクしている筋肉は僕のものじゃないみたいだ。遠い海の思い通りに跳ねるイルカみたい。僕は両手を合わせる。右手と左手は同じ体温だ。汗はかいていない。
扉の前に立ち天井を見た。見慣れた天井にお馴染みの言葉。
「強く生きなくちゃいけない、僕は童貞なんだから」
僕は扉を開けた。朝の空気はまだ誰にも犯されていない。いい匂いだ。
弐
「殴り合いのテスト。それに勝たなければ英雄じゃない。ただ殴り合っている人だ」
僕は狭い路地を、シューズの柔らかいかかとで音を消しながら、つま先の蹴り出しを強く意識しながら走っている。まだ朝は早い。人は皆無で心地いい。人の目線を受けても平気なほどには強くはない。僕は密かに強くなりたいのだ。狭い路地は僕の疾走感を盛り上げている。
僕は坂道を登って丘を望み、円形劇場外周を目指している。円形劇場はこの都市のシンボルだ。広い谷沿いの大通りを抜ければ大概は辿り着く。僕は距離を稼ぎたい。フットワーク良く角を曲がって景色を新しくしては意気をあげて走る。大通りは走らない。まだ走れないのだ。
扉を開けてから劇場外周に着くまで四半時。外周を二周りでもう四半時。引き返すのにもペースは落とさない。時計の針は一周半。冬の寒い日でもたっぷりと汗をかく時間だ。地面を二回蹴って空気を肺から絞り出し、同じタイミングで息を満たす。坂道で積極的に心臓を乱してやる。単調は体に馴れを引き込んでしまう。ひとつの神経の僅かな目覚めがクリエイティブなパンチを生む。それだけを考えている。
その道のりにある種々の商い屋に横目をくれながら、それに触れることなく過ごしてきた三十年を振り返り、感慨のわかないことに安堵をする。僕の行き先はまだ先にある。
僕は十四の時アカデミーに入学した。将来を望めるスポーツアカデミーだ。受験資格が与えられる十二で初受験し、三度目の十四で跳躍競技試験を抜けて合格した。試験では自分の身長を越える高さのバーを越えた。身長を越える高さを跳躍するのは才能の証なのだそうだ。他にも自分の体重の何割増しかのバーベルを持ち上げたり、当時の最高記録保持者の七割五分のスピードで走ることができる十二歳がいた。十四での合格はそれほど出来の悪いほうじゃない。僕の同級生には十七の人もいたから遅くはないと思う。
試験が行われた十数年前の劇場は深い赤銅色に磨かれていた。僕の物心が付いたときからそれはオレンジ色の光りを放って、シンボリックに、しかしそれとしては小ぢんまりと荒野に在った。周囲を高く土壁の塀に囲われ、その内側はこの街が生まれる前の地肌のままに。壁はその向こうに労働者の人いきれを遠ざけている。そこは「容易く手を触れる事のできない」というイメ―ジ。神的な匂い。塀の向こうから望むドームは太陽に照らされ、その頂上に角膜のような突起をあしらい、この街の歴史よろしく静座して心のより所。
僕はその突起が明り取りのパラボラレンズであることを試験のときに知る。屋根の頂天はすり鉢のようえぐれ、その底に金色の満月ほどの穴が開き、すり鉢に反射した太陽光はその上に据えられた巨大なお椀型の円盤に集められ、その真下、円形劇場の中心に設けられた舞台に注がれていた。お椀型の円盤は槌で叩かれており、太陽光の熱さを散漫にしているのだと言う。千千に降り注ぐ光りは土と錆の中に淡くにじみ、全ての物の粗を隠して美しく飾っていた。
天井の裾は円柱が見えるだけで外に開かれていて、外気を自由に吸うことが出来た。閉塞感のない舞台から柱を抜けた視線は僕たちを街から隔てるその壁の姿だけを捉えることが出来た。十二の僕は守られていた。自由に吸える空気。視界の中には一色に馴染んだ世界。同じところを見つめている受験生。これから先も守られたい。その想いは僕を二度三度受験に駆り立てたのだ。
僕は土を蹴って飛び続けた。時には空の隙間を狙う猛禽類のように風を切って飛び、また人知れず輝く多等星のように闇を舞い続けた。僕は強くなり、次第に愚かになっていった。僕の未熟な強さと傲慢は嘲笑を誘い、さらに僕を独りよがりの世界に押し込んでいった。「アカデミーなど君の入るところではない」「その力でどこまで通じると思うのだ」という視線に耐えられなかったから僕は愚鈍になった。まだ少年の僕にはそれに頼るしか逃げ道はなかったのだ。
「孤独の方が人間、強くなるんだぜ」
無心と麻痺が入り混じり、愚かと信念とが入り混じる。体中に切れ込んだ筋肉の筋だけが頼りだった。筋肉と共に日々心まで固くなってゆく。そうして僕はアカデミーに入ったんだ。この愚鈍がいつか正論になってはじけまわる日を夢に見て入学をした。
アカデミーに入った僕は、奨学金を得るために毎日バーを跳んだ。体重の二倍もあるバーベルを持ち上げ、円盤を投げた。毎年の奨学試験を抜けることは出来たが、それぞれに抜きんでる事はなかった。世の中には選ばれた人というのがいるものなのだ。僕の日々はアカデミーの看板に甘えていった。僕らの背中には常に賞賛が降り注ぐ。胸を張りながら心もとない自分を隠し続けた。プライドと卑屈を混ぜこぜにして、僕は複雑で理解しがたい人間になっていった。
僕は二十一で拳闘を目指す。テクニカルに相手を裏返したり、相手のいないところにボールを転がすことは性に合わないみたいだった。僕らにはあらゆる競技を選ぶ権利があった。親から与えられた環境しか享受できない一般市民的不幸は考えられなかった。選択は無限にあるように見えたが年齢だけは無限ではなかった。年月は僕に妥協を許し始めていた。衰えが来ていたのだ。
二十四で本校を離れた。アカデミー認定の町外れの拳闘施設で、アカデミーの影の薄い、人生が早く終わってしまった中年の人々に指導されている。僕の他の練習生は生え抜きではない子もいる。最下層の出でがんばっている子もいる。むしろその子らの方が実力は上のようだった。この競技はメンタルが重要な位置を占めるのだ。ハングリーがいい。彼らは昼間学校や仕事をこなして夜練習をする。とてもハードだ。僕ときたら奨学金を貯金していたから(貯金していた!)細々と生活をして実力のある若い子と時間帯をずらして練習している。僕の闘争心は砂袋を殴るぐらいで満足をしている。誰よりも気持ちのいい音を立てて殴ることに得意になっていたくらいだ。それだけできれば何とか様になって素人はごまかせる。
僕は砂袋を殴りながら僕を守っている。愚鈍に叩き続ける。それはアカデミーに入るための日々とは違っている。僕はただ拳闘士という立場を守っているだけだ。他人より秀でるための一歩が限りなく遠い。
そうして僕は今、三十になった。何にもなることなく三十に。僕は走っている。「拳闘のプロ試験」に受かることを目指して。
僕に与えられた『アカデミー』のプライドというガソリンの残り僅かを燃やしながら走っている。
こうして僕は立場も心も複雑で「童貞」な男になってしまったのだ。きっと試験に受かっても「三十過ぎたアカデミー出のペーペー拳闘士」になんか女の子は振り向かない。僕の人生は水晶玉の向こうまで疲弊が続いているように思えてしまう。
僕はランニングの度に思う。いつしか円形劇場に立てたら水仙ほどには咲けるだろう。
僕の部屋にはタバコが1ケース用意されている。これを買うとき店主から「アカデミーの子がタバコはいけない」と売り渋られた。僕は素直にやめるとき吸うんだと答えた。そのおじさんの顔には憐憫が満ちている。そのタバコはとてもカラフルに飾られている。装飾が好きだからそれを選んだ。僕は隠れてタバコを吸った思いでも、そんな仲間もいない。人生の終わりを見つめて一人でその選択をした。それは夢のある選択よりも確かに僕に僕自身の人生を刻んだ。
夢は見るほどにその破れる怖さを増していく。汗を流すしかなかった人生が干からびることのないようにまたぼくは夢を見る。汗をかいて満たしてきた自尊心は、いつしか言い訳に変わる。僕は賢くなり臆病になってゆく。
僕は三日後に泣きながらタバコに口をつけることになる。
参
風は強い。砂を巻き上げて太陽をぼんやりと隠している。砂は粗くなく、空気に馴染み、靄みたいに空気に濃淡をつけている。その向こうを見ることが出来ないでいるが、僕は気にすることはないと言う。気にすることはない、いつもの街じゃないか、と言う。
どこかのドアが強く開いて壁に打ち付けられ、また閉まった音が耳に届いた。砂と風が単調に音を送り続けている。僕はひどく静かに、悪事を働き尽くした老人みたいに歩く。砂嵐に犯されないように、世界を犯さないように黙々と。僕は使われなくなった地下トンネルに潜る。ここには昔鉄道が走っていた。それは網の目のように張り巡らされ、砂漠の動物の巣穴のように要所に出口が設けてある。
「今日は風が強いのかな」僕はふと思う。特別強くはないのかもしれない。僕はまだ三十年しか生きていないし、それにすごくナイーブになっているんだ。
「いや、風は強いはずだ」僕の思考はトンネルの緩やかな換気に流されず、しっかりと僕に浸みた。「風は強い」
僕が生まれてから後、このトンネルよりはるか深く『帝国』の新しい交通機関が建設された。この街は『帝国』の衛星都市だ。『帝国』が地球でこの街が月だといえば想像しやすい。僕らの街は昔『帝国』に逆らい王の治める小国として独立して、何かのきっかけで(それが何かは僕らには知らされてはいないが、多分テクノロジーの浸透だと噂されている)手を結び直したらしい。僕らと『帝国』を繋ぐのは新しい交通機関だ。僕はその仕組みを知らない。僕だけじゃない、この街に住む誰もがそれを知らないでいる。車輪もなければエンジンもないらしかった。聞いた話ではその交通機関は空間を縮めて走るらしい。得体の知れないチューブが地下に埋め込まれていて、それがこの街と『帝国』を繋いでいた。その上には渇いた大地が広がっている。風が吹けば砂が舞う。僕は『帝国』の姿を見たことがない。
この角を曲がれば、あの日見た、あの人の家がある。彼女の唇はその日寒くて乾いてた。この壁の向こうは他人の心。思ったより硬くて冷たい。地下の水脈に手の届きそうな今日は、未来に希望を残してコネクト。首まで漬かった疲弊の世界にさよならを告げるため。 ♪
余りにも心細くて歌ってしまった。周りの人に注目されている。トンネルを行き来する人は、「不憫な子…」という顔をしている。アカデミーで疲弊したのね、という顔で僕を見ているんだ。
そう、このトンネルを抜ければ光りが見える。 ♪
僕は灰色の試験場に辿り着いた。真四角で角の尖った窓の小さい建物だった。僕のお父さんに似ている。受付の女の子が可愛かった。
ここは英雄の入り口♪
僕は彼女と長い間目をあわすと脳みそが振動してしまいそうだ。アブナイ、アブナイ。僕は目をそらす。短い廊下の両脇にひとつずつライトグリーンの扉があって、その向こうは四角く行き詰まりだった。部屋の奥には壁一面の鏡があって、僕らを映している。どこまでも僕らばかりで僕らは部屋の主人公だ。人が多すぎてお互いの気がふれる。年の功で落ち着きのある僕はちょっと負ける気がしない。どっしりとした構えで鏡の前に立ち、右頬と左頬のコケているのを確認した。僕は英雄より太っちゃいない。拳闘の戦士は英雄より重くちゃいけないのだ。重さだけで強さを得るなんて恥ずかしいものなのだとアカデミーでも教わってきた。
八十年前の英雄は(八十年前! なんて最近なんだ!)金属球にその姿を変えて天秤の皿に乗っている。僕らはその球を持ち上げてはいけない。体を英雄より重くして英雄を超える事は許されてはいない。
八十年の年月を越えて、未だに英雄は僕らの中で新しい芽を吹き続けていた。――彼は砂の中から生きる糧を取り出して舐めて、干からびながら生きた――とか――空の色を読んで口笛を鳴らせては『帝国』のロボットを手なずけた――とか――影よりも速く走ることより、影に先を譲ることを選んだ男だ――とかいったものである。日々僕らは英雄を超えないように慎重に贅肉を削ぎ落としてきた。尊敬、畏怖、敬遠、小言を密密にして。誰も彼を超えないようにして。
秤の上で全裸の僕らは、これから神聖な儀式に望む僧侶みたい。
「サトー 合格!」 の声で退路を塞がれる。部屋の人々には程よく傲慢がにじんでいる。とても好ましい。これから傷つけあうのに後ろめたさがない。僕にも滲んでいるだろうか? 傲慢が? 僕を殴るのに何の抵抗もない? とても不思議な職業だ。
興奮するわけでもなく、緊張するでもなく、手に汗をかくことも無く宙を眺めている。巻き上げられた埃が電灯に照らされている。体の反応を見るために椅子から立ち上がってみる。体を揺らして脹脛でバランスをとってみる。体にまとわりつく怠惰を振り払うように左右の拳を空に振るってみる。思いのほか疲労が早くまわって、ウォーミングアップを促す。
もしかすると緊張しているのかもしれない。僕はペニスを確認した。それほど冷え縮こまってはいない。むしろ俗才に恵まれて豊富に経験を積んだように色づいて、冗長に見えた。
僕の手は指先まで血液に満ちている。それは満ちていると感じるほど重く、手の甲をオレンジ色に染めている。いつもは青い筋が目立つほどに薄く透けているものが、赤肉のように色艶やがいい。僕の色素はもともと薄い。うっ血をうれしがるほど色に飢えているぐらいだ。何故皮膚に色が付いたのだろう?
§
僕の前に一人の男が立っている。拳にタコのある者同士の握手。
「よろしくお願いします」彼の言葉に「よろしくサトーです」と返した。彼は目の細い頬骨の張ったいい男だ。色は黒い。僕は鏡を見る。
「こんな外見の硬派を売りにした軟派男にひっかかりやがって、世間の女共は」
こう思えるのが未だ童貞の原因なのだ。女に触れたことが無い男に何の意味があるのか。僕の境界線は砂に煙る地平線ほど曖昧にぼやけている。価値の置き方にいつも迷ってあやふやな言葉を連想してしまう。連想の源はいつも自愛だ。
「うぶな男は人気があるだろうか? 珍獣みたいに」
僕のわき腹にはトレーニングでは落ちきらない贅肉が付き始めている。歳を重ねて汗の匂いも変わって、意気地が虚勢にとって変わられようとしている。
試験前、僕は「最後のプライド」と唱えて小便をした。陰茎はさっきより随分小さくなっていた。これはいつもの僕だ。
切り裂いた 拳にぃ~ 奴の潮が 霧のように
木綿の白いさよなら 揚羽蝶の様に 世界の終わりを~ ♪
僕はリングに上がった。
僕は渾身の右ストレートを振り上げて疲弊してしまった。ゴングの直後に振るうものじゃなかった。ピリピリと緊張が満ちてきて我慢できなかったんだ。弛緩して呼吸が深くなってしまった。視野が急に明るくなって、目から入る刺激に逐一反応して落ち着きがなくなる。太ももが狼狽している。コーチに好評だった左アッパーから右のストレートのコンビネーションも空を切った。一発、左をもらって心が固まった。強張った両腕は前に突き伸ばされ、「嫌嫌」をしてしまいノーガードの顔面を打たれ放題だ。拳が振るわれる恐怖に片足を上げてまでそれをのけようとした。典型的なチキンのやられぶりだった。
レフリーが間に入って、僕はスタンディングのままでカウントされている。
「シックス…セブン…エイト…ハイ、目ぇ見て。ヤレマスカ? マダヤレマスカ? ヤマダトハダレノコトデスカ? ハイ、ファイト!」
「ヤマダトハダレノコトデスカ?」
僕は帰りの道でヤマダルム・ベヘ・タカシモンの事を思い出していた。僕の後輩だ。とても綺麗なパンチを打つ。神様に導かれたような綺麗な軌道をした右フックを打つ男だ。僕は彼と互角に打ち合う事が出来る。今日はじめて打ち伸ばされたことはそれに比べて大したことではなかった。僕の十四年間のアカデミー生活も、肌の色も、女を知らないこともそれ程のことではないような気がした。
僕はタカシモンの声を思い出している。高く擦れるような音と、低く潤いのある音を同時に出す男だった。彼の母親はシャーマンだったと誰かに聞いた。霊的な意味合いのある発音方法だったと思う。「彼の先祖は『帝国』で何をしていたのかな」
僕らの街に住む人々は『帝国』にそのルーツを置く者が多い。今やかつての『帝国』を思い図ることは出来ないでいるが、その祖師の時代に後の世代に重荷になりえることを背負ってしまい国を後にした人も多いらしかった。だから僕は自らのルーツも知らない。皆忘れたかったのだ。僕は彼のことを知っているのだろうか? 僕はタカシモンとの思い出から洞察で世界を作り上げている。それは僕を簡単な答えに導いて、真実を突いて殻の向こうに抜け出るエネルギーを奪ってゆく。人間の想像力は大抵そんなものだ。
彼に会おうか? いや、今は会わないでおこう。僕のホモセクシャルな部分が、そうではないだろうかと思われるものが少しでも沁み出るのは本意じゃないし。すぐに会いたいだなんて。まったく、ありえない。
僕は深く息をつき、目をしかめて渋い表情を作り、『帝国』の乗り物に乗ってみようかな、と呟いてみた。僕を包んでいた濁りのある空気がふとどこかに消えていく。
「よし、乗ってみよう」
僕はこの街の地下深くに潜ってみることにした。
§
静かな縦の穴道の中は艶やかに光っていて、装飾も無く、海抜の文字も記されてはいない。壁は一枚の透けたクリスタルの向こうに、湖の底の揺らめきのように光っている。青緑に透けたクリスタルは僕の姿を映すことでようやっとその存在を確かにしている。透き通る向こうの景色を眺めてみたが、艶やかであるのが壁なのかクリスタルなのかは判らなかった。その美しく磨かれた穴道が「地下深く」である恐怖から僕を遠ざける。テクノロジーの粋を、その力を誇示するように足元には振動がある。それは『帝国』の抜かりかもしれなかったが、僕は威厳と捉えたのだ。それは僕をカタカタと揺らして我々は君より大きいのだと言っているよう。
透明な長い円柱を下り、僕は地中深くに運ばれていった。
僕は地下ステーションのほぼ無風の中で、肩から提げる鞄の重みに頼りながら、大きくスクエアにカットされて磨き上げられた石の床を踏みしめていた。床板は浅い緑色で、一枚がひと十人を乗せるほどの大きさで光沢のある斑模様の表に女性が歩くたびに揺れるそのスカートの裾の影が映っている。床の緑が彼女の色を比較的鮮やかに写し取る。遠くから見ると水面に立つ聖人の姿のように神聖な絵に見える。
僕は静かな空間で物思いに耽っていた。
「タカシモンは今日の僕の相手に勝てたか?」
「これほど音が無いのは何も地中深在るからだけじゃないだろう」
「今日は何曜日だった? 安息の日ではなかったはずだ」
「壁に僅かに滴がついているような気がする地下水か? いや、このトンネル内で結露が起こっているのかもしれない」
「タカシモンは今まで何人に勝った? ナカムラプソには? いやあれはタカシモンの体調が悪かっただけだ」
「今日の受付の女の子は可愛かったかな。彼の目には僕はどう映っただろうか。どうか同情でセックスしてくれないかな」
「レフリーは何故ヤマダルムのことを言ったのだろう。ヤマダトハダレノコトデスカ。ヤマダ? ヤマダ……誰だろう」
ボウっと妄想に耽っていたが、周りを見ると皆も足元に視線を落とし、考え込んでいるように見えた。それは一様に歳をとっていたからかも知れない。逃げることをあきらめてここにきた、という風な姿が目立っていた。僕らは『帝国』と向き合わねばならない。こうして僕らの生活に浸透しているじゃないか。それは老人の皺のように取り返しのつかないことだ。
線路のトンネルは丸くくり抜かれていて、ホームは金属の格子入りのクリスタルで覆われている。円柱型のクリスタルの表面に僕らが間延びして映っている。
クリスタルのトンネルの中をゆったりと一隻の楕円形の黒い塊が滑り込んできた。鯨の様な重々しい体だ。黒い躯体はまたしても鏡のように磨かれている。『帝国』はどこまで行っても鏡のようなものを作っているのか、と思う。全て鏡のように僕らを写し取っているのだ。マッタク…。クリスタルのドアがせり上がって、車体のドアが奥にずれ込み横にスライドする。さかいめをくぐるとき上から急風が差し込んだ。
「下から捲り上げるほど下衆ではないのか…」
僕らは景色に包まれている。見たこともない緑の景色だ。それは音も無く僕らを運ぶ。景色はスピードを上げるとそれにともなって前方に集中してゆく。景色のありとあらゆるものが歪んで流れてゆく。それはもうなんの景色でもなく、誰かの意識内のイメジかもしれない。車体はそのスピードをこの演出で僕らに伝えている。景色はやがて紫の光線になって車内を包む。冬の日暮れ前、遠くから闇に挑戦する太陽の色。
車内の壁は一面のスクリーンで、僕らは一枚の絵に包み込まれているのだ。それが何の意図なのか僕は判断しかねた。ただ、どこからどこまでを移動したのだと言う実感が損なわれている。僕は一歩も動かなかった。怖いのだ。ここは嵐の砂漠のように怖い。
僕は野良犬のようにその恐怖を引きずって家まで帰った。
僕はめくれ上がって乾いてしまった粘膜にタバコを挟んでいる。かさかさしたところで挟んで唾液を付けないように注意しながら火をつけた。煙は体から雑な思考と雑な気持ちを拭い去ってくれる。誰の仕業か涙がこぼれた。晴れた空気が僕の心を射抜いたのだ。
涙は生きている証だと強がるほど悲しかった。
僕は勝負に負けたのだ。
四
ヤマダルム・ベヘ・タカシモンが拳闘を引退していた。
アカデミーの先輩が人生に負けていた。
僕はcafe「ヤマキチ」にいる。
風は最近吹いていない。
神様に導かれた右フックはもうこの街にはない。
先輩がトイレットから帰ってくるまで長い時間が経っていた。テーブルを一つおいて向こう側、お尻の小さい色の薄い美人が色の濃い男に口説かれていた。男の目は濃い涙に覆われてテラテラと光っていた。男の提案に女が頷いたとき、僕の前頭葉にじりじりとした電気が満ちて、太ももがうずいた。焦燥感を感じてため息をついてごまかす。先輩がトイレットから出て、大きな窓から光りを浴びている壁の書きかけの絵を見ている。人物をモチーフにした抽象画のように見えた。
「なぁ」と先輩が語り始めた。用を足していて何か思い出したのかな。それは僕らが友達になった頃の話だった。遠征先の近く、山の谷間に空を舞う猛禽類を見つけたのは先輩だった。僕らはそれを目で追っては、その急降下や急上昇を見て「はあ」とか「ほお」と言って声を合わす。僕がその後に感嘆するように言った言葉を彼は覚えていたのだ。
「俺たちは飛べないのだ。そう言ったことはなかったかな? サトー。俺もそう思うよ。俺たちは勘が良かっただけなんだろう。そうだよ、きっと」
「誰でも勘は良いほうがよいと思うんじゃない」と僕が答える。
「勘はよいけど才能が無い」と先輩が言う。生まれつきの繊細さを彼は全て敵に回してしまったのかな。残念なことだ。目の前の彼はまさに人生に負けつつあった。
「俺は薄っぺらと戦ってきたんだけどな。薄っぺらじゃないと言い聞かせて生きたんだけどな」そう言う彼の顔は感情の抜けてしまった人間に良くある薄ら笑いに包まれている。
「僕も薄っぺらですよ」僕はハキハキと言った。先輩は何も言わなかった。彼のどこが薄っぺらなのだろう? 人生に負けたからかな。言葉の意味など人間の人生の重さには敵いやしない。反論は避けておこう。
僕らが話をしているうちに十代の未だ半ばにも至らない二人の子達が壁の絵を書き足していた。一人の老教師が微笑ましくそれを監視している。僕らはそれをまた微笑ましく眺めていた。先輩も他意無くそう思っていたと思う。彼らのうちの一人、色が白くて目の細い男の子は、人の体の輪郭を描いて、その輪郭を外へ内へぼかしてやはり元の絵と同じような抽象画を描いていった。先輩が「エネルギー体だな」と言ってニコニコしている。もう一人の子がその絵に笑いを漏らし、色の白い子に背中を殴られている。結構派手な音がしたので店中の客が注目した。視線を感じて二人は僕らを見た。この年頃の子には良くあるヤンチャだ、と心で思う。彼らはその後も絵を描いたが、それまでの勢いはなくしてしまっていた。僕らの視線に何を感じたのだろう? 引きずらなければいいな。こういうことで才能をなくしてしまう子供はたくさんいる。取り巻いている空気を拭い去ると分かるのだが、その雰囲気自体が才能を導いていた例が往々にしてあるのだ。
「これからどうするんだ」と聞かれて「しばらくはのんびりしたいと思います」と答えた。ゆっくり物事を考えることにする、と言ってから、その気がないことに気づいた。「アカデミー崩れは嫌われるから」と付け加えて、自分に釘を刺した。さて、これからどうするのだろう。
僕は先輩と別れて、タカシモンに会いに行った。そして彼が引退したことを知ったのだ。
§
拳闘養成所から、サトー と ヤマダルム・ベヘ・タカシモンの名前が削除してあった。養成所の主役はナカムラプソ・リベッタ・エブリキルに変わっている。タカシモンはミットを持って、若い子のパンチを受けてやっている。ナカムラプソにあてがうのはさすがに心無いということはコーチも承知している。彼らはライバルだった。彼らは毎日犬のように殴り合っていた。今を輝く才能は、若いときの自らの輝きを知るタカシモンには苦いものだろうとコーチは笑う。そうなのかな、確かに僕が初めて見たときタカシモンはまだ老獪を背負っていなかった。ずるくて汗をかかない男ではなかったし、左右のフックは砂袋を弾きあげていた。初めて彼を見るとたいてい驚く。背中がフナのそれのように盛り上がって、肌は色素が薄く、目が乾いた灰色をしているのだ。僕も色素は薄いが、目は茶色をしている。僕らの人種は肌の色では分けられていない、黒い親から白い子供が生まれることも良くある。ナカムラプソは同じ人種でも色は普通だ。肌が血の薄茶色をしている。
僕は練習生の視線を感じながらタカシモンがリングを降りるのを待っていた。僕は年齢制限でもうリングには縁遠い人間になってしまったのだし、しょうがない。彼らの視線は痛い。ナカムラプソの汗がリング下まではじけ飛んでいる。いつもどおり激しく動いている。彼のパンチはマスタードのように辛い。
「タバコ臭いな」コーチが言う。
「出てましょうか?」と僕は答える。
「あぁ、…」と言って腕組みをほどいて「いや、いいよ」と手を振った。コーチは動揺のないため息をした。
「何しにきたの」と聞かれて少し考えてしまった。タカシモンに「君の右フックは神様のものだった」というだけだなんて言えないじゃないか。馬鹿みたいだ。別の質問を思いつこう。
僕はかつてナカムラプソの粗を探していた。宝石の原石が磨きこまれるまでその価値を知らせないのと同じように、彼の奥底の瑕疵を期待していたのだ。彼にはそう思わせる何かがあった。別に自己弁護をするわけじゃない。汚い心を肯定したくもない。彼は疑念を注がれながら(少なくとも僕には)隙を見せなかった。そして僕は歳をとっていった。もう僕が毎朝のランニングから遠ざかって短くはない時間が経っている。不純と呼ばれる行為から逃れて空気を吸い込み、健やかさに魂の救いを求めていた日々が遠く過ぎて、後ろ髪惹かれる思いで節制と不節制を繰り返し、ハードボイルドを気取って体を遣りこめ、今に至っては喫煙と飲酒に救いを求めて便器に用を足すのも気苦労になりつつある。
救いの場である煙とアルコールが体に沁みこんだまま抜けなくなり、はてと思い立ってももう長い距離は走れなくなっている。さては僕のほうに瑕疵があったのかな?
僕は長い時間をかけてゆっくりと錆びていった。僕の日々は僕自身から逃れられないことにより僕の肯定に向かい、堕落をナルシズムに変える。僕は確実に終わりに向かっている。
「僕はナカムラプソに勝てた」いやいや、そんなこと言えるわけないじゃないか。
ラウンドの終わりにゴングが鳴る。
息の上がったナカムラプソが「サトー先輩もうやらないんですか」と聞いて、「もう、おじさんの臭いする」とコーチが笑った。
「アカデミー出ですよね」と質問されて「わりと長いこといたよ」と答えた。
「他に手ないんですか?」
「手?」
「行き場所とか」
少し考えて「考えたことない」と泣き笑った。コーチも笑っている。タカシモンはロープにもたれて天井を仰いでいる。
「何でもできるんじゃないんですか? 顔もいいし、でかいし、結構さまになる仕事ありますよ」その後にタカシモンが遠くから続けた「カタルシスがあるかなぁ」
「カタルシス?」と僕が続ける。カタルシスとは何だろう?
あっ! なるほど。タカシモンの右フックにはカタルシスがあるんだ。
「でも、気ぃつけたほうが好いですよ。あんまり人に受けると『帝国』が奉ってる神様に捕まりますから」とナカムラプソが付け足した。黒目がちの彼の言葉は僕を突き抜けてどこか遠くを見つめているように響く。こいつは良いやつなんじゃないかな、いまさらそう思った。
それにしても何故『帝国』が関係あるのだ。
§
三十で枯れた。十代で燃えた分、人より早く。一生燃えることなく終わることには意見を述べないけど、キリリとした目的を持たない無茶な燃焼はぶよぶよとした中年への近道だ。人より燃えたのだという自信がその後の弛緩した生き方の言い訳になる。僕はそれほどこの世界を愛していなかったのかもしれない。そんな内容のことをタカシモンと話した。僕はタバコの煙をせっかちに吸い込み、事務所を煙で満たしていた。ガラスの向こうには拳闘の練習生が汗にまみれている。タカシモンは僕を見て言う。
「サトー、アカデミーに入ってからの十六年を見つめたことあるか」
僕は「ない」と言って考え直した「やっぱりない」
「毎日、軍人みたいに気を張って生きてるとなかなか振り返れないものだよ。毎日の苦痛が我が物顔でしゃしゃり出て、忍耐を要求する。苦痛の先に何があるのか分からなくなって困惑する。隣の芝は青すぎて、もう憧れることも出来ない」タカシモンは首を振って言う「俺もこの十年が振り返れない」彼は でもさ、と言って後に続けた「俺は十年、お前は十六年負けなかったんだよ。人生と引き分けてきたんだ。大したものだろ? これからも引き分けていくんだろうな、お互い不器用だし」
僕は笑った。僕が誇りに思っていた「拳を交えた男」が勝てなかったと言うと、僕の人生はまたひどく曖昧になった。
「なぁ、」と僕は言った「そんなこと言わないでくれよ。俺のプライドまで傷つくからさ」
「ああ、悪かった。アカデミーの中のことは俺は知らない」
「いや、そうじゃなくてさ…」僕は君を誇りに思っていたと言いかけて止めた。恋する乙女みたいになっていたから「お前の右フックは神様のものだよ。そう、カタルシスがあるし。言ったろ? さっき。カタルシスがなんだかって」と言い換えた。
「そんなもんあるなら『帝国』に買い取ってもらいたいね」
「何で?」と僕は聞いた。
「お金にはならなかったという意味なのだけれど」
「いや、何で『帝国』?」
「知らないのか? 『帝国』は俺たちの先祖の体を買っていたんだぜ」それからタカシモンは『帝国』から少女の目を守るために砂漠の砲台で戦った英雄の話をした。
「『帝国』の神様は体を新しく保っていなきゃならない。俺たちの祖先から肉を頂いてたのさ。肉、言葉、魂。ある日少女は選ばれ、宝箱に右目を納めた。その箱はリレー方式で神様まで運ばれることになっていたんだ。神様はそれを古くなったやつと取り替えていくんだ。そして神様であり続ける。誰もリレーをやめることは出来ない。一人の手からまた一人の手に渡ると、彼女の目は神様のものになってゆく。誰も止めることは出来なかったんだ。そんな馬鹿な話はありえないけど、生贄をささげることで生活は保障されるんだからさ。システムを破らなければ安泰を得られるし、選ばれなければ五体満足だ。そう考えたのだろうな。そして『英雄』はそれを打ち破ったんだ。砂漠の砲台から火を放った。かなり多くの『帝国』の軍人が死んだらしい。百年も前の話じゃないよ。それまで生贄として僕らの仲間はささげられ続けてきたんだ。それから逃れるために多くの人は『帝国』を後にした。そして俺たちはこの街に生まれたんだ。砂漠の砲台は今でもあるらしいよ」タカシモンはこう付け加えた「アカデミーにいたから知らなかったのか? あそこは『帝国』の息がかかるって話だぜ」
僕はタバコの火をカリカリと消した。軽い灰皿がカタカタと音を立てた。僕は『帝国』のことを知らない。知らずに聞いた話でも肩にかかる重みぐらいは知ることが出来た。はじけた笑いで吹き飛びそうな話じゃないのは彼の顔を見てわかった。僕は、アカデミーが『帝国』の…、と言って宙を眺めている。もう筋力で憂さを跳ね飛ばすことを止めた僕には、ありとあらゆることが重みとして腹に残る。僕は歴史を知らない。知らされていない。僕はオナラが出るのを我慢している。
「なぁ、十六年は長いのかな?」と僕は聞いた。
「十年より六年長い」タカシモンが言う「これからの俺の六年は未知の世界だよ」
僕は少し安心した。彼は少し僕のことを気にかけているのだ。
「タカシモンの家系はシャーマンだったっけ」
「この街に住む人はシャーマンの血だよ。何も知らないんだな」タカシモンが顔を赤らめて笑っている。とても色が白い。
「昔のことが気にかかるんだ」
「『帝国』のこと」
「芸術を知れよ」と指を立てて得意げにタカシモンが言った。「ヒントがたくさんある。隠された所のね」
§
「もしもし、私サトーですけれども、ご無沙汰しております。あのーですね、教官のムラサワルさんいらっしゃいますか? 私、教え子のサトーです。いや、どうも、ちょっと聞きたいことがございまして、卒業後の仕事の斡旋のことでお聞きしたいことがありまして、私、いま仕事しておりませんで、少しね、安いところでもいいから、どこか、こうね、世界を知るためには芸術系のところにね…いやいや、そうですけれどもね、畑違いは承知ですよ、分かりますけれどもね、一度見た広い世界をですね、これ、生かすか殺すかは職種にかかってまして、全てをあきらめるのは心の整理も一筋縄ではいかないわけですよ…あっ、電話くれますか? いつごろになりますかね…近いうち…分かりました、お待ちしております」脇に冷汗をかいてしまった。彼らと『帝国』との係わりのことを察するのはもちろん、アカデミーの権威を使わせてもらう承諾さえままならなかった。欲張りすぎたのかもしれない。僕はとりあえずアカデミーへ向かった。頭の中にはこれといった恣意もない。馬鹿なふりをしてノコノコといこう。
〝ソノチカラハゼツダイデスカ〟
今年のアカデミーのキャッチフレーズらしい。僕の入った年は〝チカラノミナモトガミツカリマス〟だった。とてもイヤラシイ。
校舎に入った僕は誰からも気にされない。そこかしこに若い、張りのある声が響いている。校庭に校旗が翻っている。クリーム色に焼けたそれは、大分長い間ここを守っている。風が平和に音を流して、程よく世間を遠ざけてくれる。僕はひどく馴染んでナチュラル。長い間アカデミーにいたのだ、空気に臆さないのは当たり前なのかもしれなかった。誰にも気にされないことに落ち着くのは、自分の不甲斐なさを感じているからかな。下級生からは尊敬されることはなかった。先輩からは慕われた。誰も脅かすことなく粛々と生きたんだ。孤独は孤高に似ているし、少し気分がいい。僕は「愛にまみれた記憶だけがないな」と思う。他にも足りないことは沢山あったはずだけど。
ムラサワル教官は相変わらず同じ口調で生徒を教えている。「ラ行」を強調するしゃべり方だ。僕はそれを遠くから見ていた。馬鹿なふりをして、ぼんやりと眺めて、『帝国』の影を探していた。胸の奥が悪心で騒ぐ。悪心だけで走り出すほど子供ではないから、じっと見つめていた。
それは愛のように僕を責める。これ見よがしに知るものと知らないものとを差別して、知ることを誘う。知らないことを好としないで、知るものに優位を記し、劣るものはそのしもべになる。雄と雌ほどに違う、と刷り込み恐怖に曝す。血管を縮め、僕を青白くして、反対に誰かをオレンジに染める。劣等感はより大きい方が人を大人にする。僕は今大人になるべきだろうか? 『帝国』とは何なのだ。
ぼおっとしている間に教官が僕の後ろに回っている。それまでの思考はオナニーの後のように弱弱しくなってしまった。
「って、なによぉ。久々寂しいなぁ、腕から何から太くなたんでねぇの? すっかり老けたべ。おれ、すっかり老けたべ。もう速く走れぇんのを見てたか。見てたか、あはあは」ムラサワル教官の短距離走に関するロジックと指導法は抜群だ。弁護したくなった。彼は馬鹿じゃない。
「あれ、北の空に明星見えるかぁ。生徒が落ちる落ちる言うのよ。サトー博学だからわかるべ。何よ? 明星が何とかって。誰か死ぬのか。いや、うちの子がひどく俺のこと好いてよ、明星と関係があるって言ってたから聞いたんだけれどさ、俺が死ぬのか? その子が死ぬのか?」
「明星はインスピレーションの象徴ですよ」と僕は答えた「恋にも通じるところがあります」教官はうんうん納得している。
「何でそんなこと言うんだ? 明星が落ちるとか」
「寂しい若い子は叙情が全てなんです」少し巧い台詞だった。
「僕らの時は『帝国』に遠征行かなかったですね」とあらたまって聞く。空気に気圧されて、顔が歪んでいるのが分かった。
「何で行くの? あすこは俺たちの事嫌いよ、アカデミーは『小国』の名残だからよ、おたがいプライドがあって触れたがらないのよ」
「『帝国』に行ったことは?」
「行けばいいべ。トンネル抜けてピューと」彼は何度もピューと言って笑った。人差し指を前に突き出してピューピュー言って笑うんだ。僕は彼が馬鹿じゃないと思う。
午後の空に輝く明星は初恋のように生々しく輝いていた。手に触れること誘う。
五
ひどい嵐の中を一人で歩いていると苦しみを見せることに恥ずかしさを思う。苦しんでいる自分はとても醜い顔をしている。
「この風は本当に悪いやっちゃなぁ、人の事を何にも考えちゃいない」そう言って顔をゆがめてしまえば良いのに。
砂を噛んで唾液を出し、寒さに凍えて自らの体を揉む。体温も体液も他の誰かを知らない。寂しさに震えたのか死に近づく怖さに震えたのか、体は何かに犯されている。
『帝国』を知ればその先に温かさは待っているだろうか? 包皮が剥けるのを待つように春が来るのを待っている。
視野に入るひとつひとつのシーンに心を溶かしたくない。心があれば僕が僕になってしまうじゃないか。かもし出す雰囲気が誰も傷付けないように呼吸をしている。誰にも虐げられないように歩いて世界を知りたいのだ。
知った後は何になるの?
僕には分からない。
六 ――『グライダース』――
砂丘の砲台から放たれた鉄球はあれども、その魂は今は枯れて、その錆を落としても英雄は劇場の地下深くに眠るだけ。英雄の放った魂は鉄球に乗って『あの国』を揺らしたけれど、揺らぎは湖面の広大さに絡み取られて元の木阿弥に。私たちに英雄の血が通っていればいいものを。
神秘的ナモノゴトハ
非神秘的ナニンゲンニ内包サレルコトニヨリ
ダイヤモンドホドノ価値ニカワル
ヨノナカノスベテノ事象ハワタシヲスギサッタアトモ
厳然トシテソコニアルトイウノニ
リュイは『あの国』のエンジンを積んだEmpire Bullet 1100に跨っている。『あの国』に生きるモーターサイクルの巨匠が作った物だ。実用品を作り続けた彼の作品達には、使い尽くすことで保ち続けられる「行為の中での完成形」が存在している。使われないことで各人の想像の自由のままに評価されてしまうことを拒んで超然として実用的を主張している。それに触れるものは融合を堪能する。朽ち果てるまで使われた実用的な作品達は芸術品を越えているように見えた。
リュが一体化しそうなモーターサイクルから話しかけている。「モトヤマきつくないか?」
「ウレイライ」口が回らないので何回か言い直している。
「ウレがもたない」モトヤマはワイヤーにつかまり踵でスライディングしているのだ。
円形劇場を取り巻く幾本もの環状線の一番外側はリュイのものだ。モーターサイクルは『グライダース』の象徴だ。モトヤマはリュのモーターサイクルにワイヤーで繋がれて踵の鉄をすって火花を散らしている。毎夜、環状線を赤く染めて胸を躍らせる。『グライダース』の活動なのだ。
聞けば確かなものを求めて彷徨っている時代だとかいう人がいる。確かなものが無ければ話は聞けないという人がいる。確かなものとは人の生き死にがかかわっているなら好いのかな? ならばあなたに死んでもらおうかという気持ちになる。間違っているだろうか? そこまで追い詰めれば話を聞いてもらえるだろうかと。
この日、不安がモトヤマの中に動揺の種を見つけた。不安は水をまき続ける。モトヤマは音でそれを枯らすように滑り続ける。種が先人を追いかけて不安にならないように、逆手に取られて白が黒にならないように、確信が墓穴にならないように
消えかかった焚き火の焼けぼっくい。眠る頃に気にかかる。
例えどこかで人が死んでも、砂漠の人々がオアシスを見つけられなくとも、英雄の瑕疵が伝聞されようと、世界は進み続ける。誰の話も聞いちゃいない。
ボクタチノ旅ハツヅク
タトエバソレガ年老イタサルノシッポヲツカムタメノ
タトエバソレガ人間ノ叡智ノヴァギナヲ超エルコトヲシラヌトモ
タトエバ奪ワレタモノニコソ真実ヲミルハメトナッッタトシモ
一刻サキヘノタビガツヅク
モトヤマがシートに座り、リュがワイヤーをつかんだ。交代でグライドを楽しむ。モトヤマはさわやかな悪意でスピードを上げる。リュの踵から派手な火花が散る。吹きつける風が花に味付けをした。風の中の微細な砂に反射して火花が朧になる。髪が後ろに流れて額を露にする。前頭葉にある意識が頭蓋を飛び出なくなり、未来が真白になる。逃げ場を失った煙が穴を求めて空間に漏れ出ようとするように、頭があべこべに働き遠くの世界まで旅をさせてくれる。
二人は交互に疲れ果てていく。景色からその色を失わせるまで疲弊する。そして彼らは曖昧なものを見つめている。知識が無いからこそ感じることのできる曖昧だ。日々生活が進化して細分化され、その闇の部分をあからさまに照らし出してもひそかに生き残っている曖昧だ。
彼らはその曖昧を「夢」と意訳しそうになって慌てて曖昧を曖昧なままにした。危なくキレイごとに心を犯されるところだった。危ない。その姿は日増しに大きくなり名づけられるのを待っている。
彼らは同じ影を見ているのだ。ないしは世界には見出だすべきものが真実の影のように横たわっている。柔らかいところを痛く刺激するようにそれは風に紛れている。
曖昧はあるときは小説や劇になり、あるときはコーヒーショップのメッセージコピーになり、またあるときは『あの国』の皇帝になる。そのほとんどのものが日々ザーメンになってほとばしって消えてしまう。
すべての曖昧の色をより集めたら曖昧を説明できないだろうか。曖昧の存在を確たるものとして『あの国』を滅ぼすことだって出来るかもしれない。
「曖昧の結実」
ソコニハ向日葵ガアッタ
ミタコトモナイオオキサノ向日葵ガアッタ
制服ヲキタオトコノハッコツガアッタ
ヒマワリノ根ハ ハッコツヲツツムヨウニシテ
オトコカライキモノノ影ヲハギトッテイタ
モウマルデヒトガシンデイルナンテオモエナイホド綺麗ダッタ
何故ここまで辿り着いたのだろうか。トンネルを抜け、円形劇場の地下に入ったかと思えば地上に穴が開き降り注ぐ太陽の中に向日葵と白骨を見た。肉を失った彼は何故死んだのかは分からなかった。
ここに辿り着き、そう思うまでのことを思い返してみる。
○ くわえたタバコが唇にはりつき粘膜がはがれて吸い口に着いた
○ わりと大きな砂を奥歯で噛み締めてそれを虫だと気づいた
○ 分かれ道は風の吹いていない方を選んで進んだ
○ 月は大きく闇の前に突き出し、そのディティールを露にしていた
○ ペニスは冷えても縮んではいなかった
○ 物心つかない時期に一人の下級生が事故で死んだことを思い出した
○ 削られた人生のことを想い、自分たちが誰を削ったかを想った
○ 過去に行った性交の思い出が色あせていた
○ 「腕を切られても仕方がない」とふと思った
○ 唇の裂け目から滲み出た血を舐めて正気に戻った
○ ソコニハ向日葵ガアッタ
この結実には曖昧を確たる方向に固定する事はないようだった。全てを結びつける強いロジックは捨て去り、世を捨てた僧侶のように向日葵が佇んでいる。
彼らはまたモーターサイクルに跨るだろうか? 多分跨るだろう。汗は引いてはまた流れる。
私たちは英雄の末裔を知らない。砂漠の砲台の姿を知らない。時の経つことの意味を知らない。
全ての物が己に矢印を向け、私たちはそれがすり抜けるまでじっとしていた。その恣意さえ無視して世界を妄想のままに遊ばせている。
§
誰かが僕の耳元でささやいた。
「結実はそれまでの曖昧を確かなものにしやすい。それが幸せなことであるかは誰にも分からないことだ。曖昧に身もだえして滅びそうなら結実を求めるのも良いことだろう。曖昧はそれ自身が人生そのものだといえるほど君にフィットしてくる。あがなえないのだ。風に任せて舞う砂も、猛禽類もいつかは地上に降りるときが来る。たとえばそれは目じりに浮かぶ皺の一本のように」
僕は部屋で猫を撫でている。
ふわふわでとても気持ちいい。
七
足のすくむような黒い乗り物に乗って、地下深く息を潜めながら、裏切り者のように街のはずれまで来た。
『帝国』は何故こんな怖い乗り物を作ったのだろう? 車内は前と変わらず誰かの思想世界を表現したような演出をスクリーンに映していた。スクリーンに神と天使と悪魔が飛び回ってドラマを繰り広げているのだ。停止して乗客を降ろし、扉を閉めてスピードを上げるたび違うドラマが進む。
「われわれは、この世界を救うために! ははっ、負けぬぞ! 負けぬぞ!」という具合に進むんだ。過去に僕たちの地下鉄が広告に溢れていたようにそれはそこにあり、訳の分からない何かを売りこんでいる。
視界が覆われていて目を背けるところがなかった。他の乗客は四六時中目をつむっている。これほどの苦痛が訴えられないなんて。
逃げ場がないじゃないか。マッタク。
環状線の最外の街外れ、『グライダース』の舞台になったところを僕は目指したのだ。
僕に何故あのストーリーが降ったのだろう? 僕は小説など読まないのだ。
赤茶色のコーヒーショップでコーヒーを飲みながら、街外れに行くほど物価が上がることを興味深げに考えていた。僕の近所より二割高い。
磨かれた窓が光りをそのまま通して僕の体は温まっている。風のない店内は砂の匂いを残して、それでも柔らかい空気を提供してくれる。窓のサンに分けられた光りが、僕のタバコの煙を青白く、世界にあるものとして照らし、煙は光りと影の縞を流れわたってゆく。コーヒーカップとソーサーはぴかぴかに磨かれて光り、スプーンは傷だらけでもなお光って僕をゆがめて映している。唇を伝ってカップからソーサーに一筋コーヒーが流れた。不潔な感じはしなかった。
窓の外には飛行船がじわじわと街の中心に向けて移動していた。船体に馬鹿みたいに『Empire』と書いてある。
僕の目に違和感はなかった。なぜ感じないのだろう? 僕らの上に『帝国』が舞っているのだ。それは一つまぎれる事で白い砂糖を台無しにしてしまうような、そんな黒い一粒。なのかも知れないのに。平和って怖い。
僕の体は焚き火の後の灰のように軽い。
僕はタバコの煙を吐いている。
この街の人々は、その国から逃げてきたことを忘れたみたいに堂々としている。
僕はイマジネーションの豊かな人じゃない。イマジネーションは恐怖と繋がっていて、いつも僕はそれに逆らってきた。それを殺したほうが上手くいくことが多いのだ。イマジネーションの豊かな人じゃない? いいや、僕はそんな僕を否定してきたんだ。
新しいイマジネーションの繋がりは僕を混乱させてしまう。『帝国』や、僕らの血筋のことや、童貞である事実はもはや男性ホルモンの強靭さだけではねつけることが困難になってきている。もう三十なのだし当たり前なのかもしれない。イマジネーションが恐怖と手をつないで僕をじわじわ責めている。早く本当のことを知らないと。
数えられるほどの短い時間が過ぎて、ふとその積み重ねの人生を見つめてみる。熱っぽく目を凝らすのだけれど、そこから滴るはずのエキスを見ることが出来ない。どこかに眠る熱い想いや、潤いのある風景がそこにはあったのじゃないだろうか。砂嵐に吹かれただけの人生じゃないだろうに。そして時間の過ぎることの重みを理解できない僕は灰のように風に揺らいで、タバコの煙を吸い込むだけだった。
店内には誰もいなかった。僕が入ってから一人の男が店をのぞいて扉を開けたがそのまま扉を閉めて去ってしまった。カフェのマスターと通じ合ってしまうほど濃密な空気が流れていた。僕は太陽の目を逃れるまでじっと待ってから外にでる。薄闇が僕を隠してくれるまで待っていたんだ。
僕は環状線を上から覗き込んだ。
この街の環状線は、かつて地下鉄が走っていたトンネルの天井を打ち抜き、凹の字の溝にしたものだ。モーターサイクルがイモリほどに小さい。断崖と地平の境目は小さな土手になっていて一応「人止め」が並べてある程度だから自由に自殺できる。自殺できる? うん、それほど危ない。
僕の意識にスルスルと入り込んだあの景色。
『グライダース』
どこにもない。いや、ここにない。どこかにあるのだろうか。どこかにあったとしても意味はない。天変地異の予言が的中しなければ意味がないのと同じで意味がない。僕はひたすら気の済むまで眺め続けた。そして気が済んでしまった。淡白だ。魚のように淡白だった。
夕暮れと闇の間に浮かぶ月はその球面を押し出して、リアルを主張している。時間を食いつぶすように肺を煙で満たし、のぼせてしまった。風の寒さが現実を運び、僕は叱咤されている。
イマジネーションはいつまでも着地しないで綿毛のようにふわふわと舞い続け漠然とした不安を植えつけている。不安は言葉にならず、体の隅まで震えが満ちている。
§
僕は環状線に沿って歩いた。風と砂がリズムを乱した音楽のように鼓膜を叩いている。場末にあるバーが看板を地味に光らせて夜に浮かんでいる。僕の血管は縮み上がっている。青白い顔をしているのだろう。近くでモーターサイクルの排気音が響いた。僕の左手の方に数台が蒸気を上げている。看板には太陽を戴いた女神が記されている。「マズルカ」という店だった。客寄せにエンジンを響かせているのだろう。僕は暖かさを求めて店に入った。
「しばらくご覧になりますか?」と店主が声をかけた。「ハイ」と答えた僕に素早くコーヒーを用意してくれた。コーヒーはカップごと保温器の中に入れられていて、店主はその扉を開けてテーブルにのせるだけだった。店主は仕立てのいい深緑のジャケットを着ている。肩口のピンと張りのある、見ていて気持ちのいいジャケット。
店内には数台のモーターサイクルがショウアップされている。ぴかぴかに磨き上げられてライトに照らされるとたいていのものは魅力を増す。女の子みたいだ。
「これは外のやつみたいな音がするの?」
「音ですか? 音がすきなのですか?」
「僕は音で決めるのですが」と言うと、店主は「ちょっとお待ちを」と言って、片隅のモーターサイクルを押してきた。「試乗」と書いてある。
「どこのものでしょう?」
「マズルカです」
「それはこの街の?」
「この街ではここにしかおいておりません」
「この街のモトがですか?」
「この街のものじゃなく『帝国』製です」
「テイコク」
「帝国」
「はぁ」
「嫌ですか?」
「ナゼ?」
「古い方は避ける人が多いのです」
僕はその理由をご存知ですか? と訊きそうになって黙った。年上の店主に不躾はよくないだろう。僕はモーターサイクルを音で決めるなんて嘘もついたのだし。ほんとは止まってるやつに跨ったこともないのだ。
「どうでしょう? 跨ってみては 」
帝国製のモーターサイクルに跨ってみる。景色が少し低くなる。地面すれすれにステップがあってハンドルまでが遠い。前傾姿勢でひざを曲げてがっしり燃料タンクを抱く感じだ。僕とモーターサイクルが一体になって抱き合うようになっている。胸が車体に近いと体中に力がみなぎる。体中のチャクラを塞いだような充実感がある。
「燃料は何なのですか」と僕は店主に尋ねた。
「これでございます」店主はプラスティックのボトルを指して言う。
僕は、油ではないのかと聞いたが店主は曖昧に濁した。
「『帝国』製なので…」
「『帝国』製なので?」と僕は聞き返す。
「得体が知れないのですよ」
「得体の知れないものを売るのですか?」
「『帝国』は信用商売なのですよ」店主が苦笑いだ。
「本当にそれで走るのかな。それ水ではない?」
「水ではなく、燃料ではないかなと」
「それほど売れてないのですか?」
「いえ、売れておりますよ」
「入れてみてもいいですか」
「もちろん」店主の顔が笑みに溢れている。なんだかうれしそうだ。
プラスティックのボトルはねじが切ってあり、ぐるぐるとねじ込むと燃料の補填口にぴたりとはまる。店主が慌てて燃料タンクの下にあるコックをひねると、泡と入れ替えに燃料が下に落ちた。
「これ一本で一昼夜走れます」また店主の顔に笑みが溢れる。スイッチを押すように促される。気前良く音が響いた。
僕が「外のやつと、外のやつと同じですね。同じですか」と聞き、店主が手を小さく振って、スロットルを回すようにジェスチャーする。僕がアクセルを開けると、「もっと」と手を回す。
僕の耳から音が遠ざかっている。背筋の芯から平常が染み渡って、脳天まで包み込む。スロットルを緩めると外の音が入ってきて、またそれを絞ると震えのない空気が僕を包む。機械の回転が上がれば車体の振動が細かくなり、僕の体をまた同じように震わせている。スロットルをひねればひねるほど僕とモーターサイクルは一体化してゆく。心地いい支配感だった。店主の顔には笑みが溢れている。
僕はスイッチを切って言う。
「免許を持っていないのですが」
「良い教官に心当たりがあります」
「ありがとう」
僕がモーターサイクルを降りた後、店主がそのハンドルを触っている。
「汗ですか?」
「いえいえ、珍しいですね、この街の大抵の人はこれに触れると汗をかくのです。拒否反応が出るのですよ」
僕は汗をかいていなかった。へえ。
八
雨季が来てスコールが降った。砂を洗い流してしまうほどのスコール。ヒステリーみたいなスコール。激しいセックスのようなスコール。現実を固定するスコール。
僕のイメージは静かに、灰色のように重く、宿命を胸に焼く。冷えている空気と低い空。それがイマジネーションの招く恐怖と戦うほどの覚悟を。
雨はオアシスから黄色いサルを呼んで、サルは猫をいじめた。僕は猫が好きだから怒る。
「それでは人間になれない」
雨季が中断をした。
すっかりと乾いてしまったシャツに触れるのは久しぶりだった。とても気持ちがいい。人生が上手くいくような予感がある。
しばらくの間続いたスコールで、僕は濡れることに慣れてしまっていた。知らぬ間にでっぷりとしてしまった腹にシャツが張り付き、以前より髪が薄くなっていた。それでもイメージの中に残るプライドが孤独の日々で膨らみ、自愛に満ちた心が僕をそれでよしとしていた。鏡に映る僕にあの「曖昧」が着地しようとしている。
「君はそんなもんさ」
排泄しなければならない。
僕は劇団の門を叩いていた。
§
僕は逆立ちをしている。顔が紫になるまで逆立ちをして、体を震わせ、ニワトリにつつかれながら客から笑いを取っている。肉体の限界に達したところで滲み出る精神的なエキスを客に見せてお金をもらうという趣旨らしかった。どこから見ても下衆な見世物だった。笑いのほとんどが嘲笑なのだ。
僕は二日目に「円形劇場に立てるんですか」と訊いた。近くにいた女の子がくすくす笑っていた。演出家はしかめっ面で、若い俳優は宙を仰いで、先輩俳優は苦笑いだ。ニワトリが卵を産んでいる。僕はどうしようもない空気を流してしまったらしい。
「ここじゃないだろ」
僕はダッシュで新しい劇団の面接を受けていた。
僕の評価はそれほど悪くない。あくの抜けた三十は使いどころがあるらしかった。逆立ちだけでお金をもらおうと思うほど人生をあきらめてはいない。
「あなた他の仕事はやめてね」太い体の赤茶けた男から本番は一月後だと言われる。寄り道の暇もない。話の舞台は「砂漠の民」だ。
§ 『砂漠の民族』
衛星都市から派遣された調査員達――反帝国主義の諜報員――がビトの胸を見ていった。
「胸のクリスタルはこんなに幼い子にも出るのかい?」
「この子は特別だ。みんなは14で出る。大概青い」トムが答えた。
「私たちもこの鼈甲色の飴を舐めればできるのかな」歳をとった調査員の目が好奇心に光っている。右手指にはたっぷりとポン砂がついていた。
「君たちにはできない。できても色が悪いだろう。商品にはならないだろうな。その飴は『ポン砂』と言う。ポン・ノ・メリアムのポンだ」
ポン・ノ・メリアムは中指と言う意味だ。ちなみにダウ・ノ・メリアムはペニスのことだ。ポン砂は中指で舐める。
トムは調査員の顔を一人ひとり眺めて吟味する。目の細さ、その色の深さ、その奥の輝き。羊を見極めるのと変わりは無い。そして一人を決めた。頬白い青年だ。彼は「私が?」と自分を指差しため息をついた。トムはポン砂を舐めろと言う。
「一口くらいじゃ出ませんよね?」と青年が言う。とても不安げだ。
「一年舐めつづける。それで出なきゃ素質は無い。クリスタルができることは光栄じゃないかい?」トムは言う。「いやならやめていいよ」
「ハイ分かりました」と言い、青年が中指で砂をかき回し指にまとわりついたポン砂を舐めつづける。
ビトがトムにささやく。
「あのお兄ちゃんいい色出るよ。帝国の人種のにおいがするしね」
ポン砂を食し続けてクリスタルが出るのは帝国の上流階級の血が流れていればこそなのである。
ある調査員が言う。
「あのクリスタルは高く売れるのですね」
「その考えではだめだ。神秘的な物事はお前のようなものに理解されてダイアモンドほどの価値に落ちる」
『ダイアモンドほどの価値に落ちる?』あのフレーズに似ていた。
僕は台本を置き、知識の共有について思い出している。
「確か百匹のサルが新しいことを覚えると、接触のない他の群れのサルにも知識が伝わると聞いたことがある。第六感に近い」
僕の妄想はどこかで信じ続けられている物語のオーバーフローなのかもしれない。
ポスターは街中に貼られている。円形劇場の舞台で演じることが決まっていた。僕の名前は書いていない。その代わり主役級の俳優についているパトロンの名前が書いてあった。
§
僕は『帝国』から衛星都市に向かう砂漠の道でトラックをヒッチハイクする役を演じている。
「お二人はタバコを吸うのかな? 吸う? お二人とも吸うんだね。お墓はある? 『帝国』に? 『帝国』にご先祖さんの魂が人質に捕られているんだ。あぁ、もう死んだのに人質なんておかしいいね。でもさ、お墓のお守りをしているお坊さんは魂が浮遊しないように不思議な力を使うんだってね。彼らの目の届くところは気持ちが良くて魂が逃げ出さないんだってさ。彼らの見ている世界はとても確かだから、魂も確かな世界が好きだから、彼らの記憶やら視界からは逃れていかないのだって。それで彼らはいつも目を見張ってお墓を守るんだ。でもさ、最近いい加減な墓守が増えてさ、魂が浮遊しちまってるって。浮遊した魂は気持ちのいい人を媒介にして近々衛星都市にも入り込むらしい。ほんとお二人みたいないい人にはきっとくっついていると思うよ。でも『帝国』から逃げるんじゃ人を選んでいる場合じゃないよね。ねぇ、タバコを吸う人には色々な魂が寄り添ってるって聞くんだけど、お二人は浮気なんてしない?」
ここで僕はトラックから放り出される。
舞台袖で俳優たちとすれ違いながら、邪魔にならないように舞台を見ていた。
舞台では青いクリスタルを粉々に砕いて麺に振り掛ける淑女や、愛人の肛門にクリスタルをねじ込む老紳士が感嘆を誘っている。舞台の中心には常に砂漠の砲台が据えてあって、『帝国』から逃げてきた少女と英雄が性的に交わる過程が描き出されている。セクシャルでスキャンダラスな内容なのだ。砲台は大きな睾丸と屹立した陰茎のように。英雄をセックスの対象にするなんて!
一つの舞台で二つの物語が同時に進行していた。少女が大人になり英雄とキスを交わし、その傍らで『帝国』の新女王が誕生していた。
終わりは、英雄が客席を向いて『帝国』の女王を背中に頂き、振り向かずに歩いていくシーンだった。女王は白鳥のように空を舞って見守っているとも取れる。英雄が『帝国』に向かって火を放ったという事実はカットされていた。
喝采!
カーテンコールで花束が宙を舞う。劇場からサロンへ向かう廊下の賑わい。主役たちに数歩間を空けて付き添うパトロン。お香を焚き染めていてよい香りがする。廊下は石畳で、円形劇場から真直ぐ離れに向かう。劇場が地球で離れが月といった感じだ。
月に向かう階段を踏みしめるのだ。僕はそう思った。
想像より騒がしい中、アルコールの匂いが満ちている。僕にヒッチハイクされる夫婦を演じた俳優達と酒を酌み交わしている。妻役の女優は暗がりで肉感的に光っている。緊張から解き放たれて僕のペニスが少し膨張している。沢山の人々の視線が交差している。僕もたまに視線を感じる。いやな感じはしなかった。もうこそこそして体を鍛えるような立場じゃないのだ、僕は立派にやった。
「アカデミーにいたんだってね」夫役の俳優が言った。
「人生の半分はそこですよ」僕は年齢のことを言おうとして止める「随分長い間です」
女の人の前で歳のことを無闇に話すべきではないかな。
「空気が違うわ、硬いもの」妻が言った。
「私たちはもう随分やわらかいところにいるからね。ここはなかなか心地良いよ。ふわふわと人生を楽しんでいる。私は芸術アカデミーにも用がなかったから堅物にはならなかったからね」
僕は頷いて考えている。堅物? アカデミー出が? 僕は主役を目指したのだ。拳闘士。今も誇りに思っている。ふわふわと漂うのがどうしたというのだ。
英雄を演じていた俳優が派手に中年の女と抱き合っている。あなたはすばらしい、とか賛辞を浴びせて女が頬にキスをした。英雄が唇に人差し指を押し当てて、また後でお楽しみがあるから、と言った。本当の英雄はそんな人だったのだろうか。
僕が英雄役の彼に話しかけようとして二人に止められた。
「それはいけない」夫が言う「今大事なところなんだ。ここで上手くやれるかが次の舞台にかかっている」
「あなたもそうしなくてはならないのよ」妻が手を握って教えてくれた。「顔を売りにいきなさい、朝飯前よ」
ああ朝飯前なのですか。
パトロン達について来た女性たちと話をすると腹のそこから下衆がこみ上げる。彼女たちの体には使われることのない肉の塊がついている。僕は眠っている間に彼女たちに追いついてしまった。僕は話しながらローストされた鳥をほおばって、パンツの上に肉が盛り上がってしまっているのだ。そんな僕に拳闘士の誇りが? はは、と笑いが起きるとゆらゆらと彼女たちの乳房が踊っている。
僕の鼻からアルコールに満ちた熱い空気が吐き出されて、彼女たちの口から肉油がてらてらと滲み出る。この部屋のそこかしこには控え室があって壁を埋め尽くしている。今やその向こうは羞恥の社交場になっていた。
僕も手を引かれて部屋に入る。
そこで赤いドレスの女性と性交をした。僕のペニスは六割がたに硬くなり彼女の中を行き来した。すぐに終わりそうになったので慌てて乳房を露にして愛撫した。とても貧乏症に思われたかもしれない。睾丸が今までないほど熱くなって果ててしまった。
「女の人はね、食べられるべき鳥を知っているのよ」
彼女はそういってそそくさと部屋を出てしまった。よく分からないコメントだ。
彼女がいなくなると、僕は一人になった。湖底にいるような静けさだ。光は空気の粒まで映し出している。
ここに来るまで長い時間が過ぎた。狼の咆哮のような長い時が過ぎたのだ。パンツの中では揺ら揺らしたペニスがバラのような色をしている。
僕は大きく溜息をついた。その場にふさわしい大きな溜息だ。大事な境目を上手く越えたのだ。うれしい。とても。
九
僕は毎日向日葵のことについて聞いている。
「ここの近くに向日葵の生えそうなところはないかな」
「その向日葵はさ、花びらがピンとしたやつじゃなくて、劣等生みたいにねじけているんだけれど」
「色が濃くて、たべるといい味がしそうな」
「茎が皺だらけで、群生して絡みあっているイメージなんだけどな」
「茎は緑と白の縞々…緑の茎に白い筋が入ってる。おじいちゃんの肌みたいに筋が入ってるんだ覚えはないかな」
「向日葵はそれ自体のことじゃなくて、何かの暗示だと思うのだけれど」
人に聞くたびにイメージが固まり僕の中の向日葵はリアリティーを増してゆく。向日葵は僕の投影になり、彼らからの答えも彼らを投影しているように聞こえた。
「向日葵は太いの?」
「艶がないところがリアリティーあるわ」
「希望の光りのことを言っているのかしら?」
「向日葵としては失格ね」
「君は自分を表すのに向日葵を使うんだね。僕はよく建築物を使うよ。特に無くなってしまった地下鉄はよく使うね。かつてあったもの、かつて愛されていたものという感じが好みなんだ」
その頃、僕は向日葵にとり憑かれていた。僕は『グライダース』に出てきた向日葵は形而上の更に上の世界を反映したものだと考え始めていた。何気なく降ったあのイメージに何らかの意味がなければならないような気がした。それは想像を刺激するオリジナルのインスピレーションの原子みたいなもの。誰にでも降りてくるインスピレーションの源。誰の記憶にもアクセスできる秘密の鍵だと思い始めていた。なぜそう思うのだろう? なぜだと思うか、質問してみた。なぜ、僕は思うのですか?
「創作の始まりよ」と女の子が言った。なるほど。
「その向日葵は人の死体なんかを栄養に大きくなって、そうだな俺の身の丈の三倍ほどの大きさなのだけれど、天井に大きな穴が開いている洞窟か何かにいるような気がするんだ」そう話した相手は僕の父親だった。僕の生家は寂しさに包まれていた。部屋中が父親の寂しい空気に満たされている。雰囲気は彼の知らない間に彼の外堀を埋めつつあるのかもしれない。いつかからだの中まで寂しさが染み入るかも。
「食べられるのか」と父親が聞いた。
「食べると美味しそうなのだけれど」と答えた。「そういう問題ではないのだけどさ」
「この世のものではないのか」
「両方の意味がある」
「現実であって現実ではないのか」父親は宙を眺めている。「食べられるかどうかを聞いたのはまずかったのか」
「まずい?」
「いや、真剣に考えているから」
「いや、食べられるかどうかはきっと重要な問題だと思う。向日葵側からしてみればきっと重要なことだと思う」
「現実的でない向日葵は何のためにあるのかい?」
「『帝国』の宣伝みたいなものだろうと思うよ」
「『帝国』?」
「この街にも普通に飛行船が舞っているから、それが日常であるから、私たちの存在は認められるべきものなんだ、とか。写し絵に秘められた情報のコントロールとか。例えばそれが本来の形を隠すためのものだとしたらさ。影武者は本当のこと言わないだろ?」
「お前を可愛そうな子だと思ったことはない」
「俺もそう思うけれど」
「それならいい」
「俺がかわいそうな子?」
父親はタバコをふかして鼻を何度かすすった。緑の濃い葉物を煮込んだスープの匂いがした。子供の頃に慣れた匂いだった。
「現実とその向日葵は同居しているのかい?」
「同居?」
「食べられない向日葵は何のために存在しているんだ? 同じような質問をしたかな」
「問題は向日葵が何かじゃなくてさ、なんの隠喩かなんだけどな」僕はそう答えて父親が揶揄していることに気がついた。随分怒っているのだな。
「おい」と父親が声をかけて僕のポケットを指差した。僕はそこからタバコを出して火をつけた。煙は僕の肺にしっかりと吸い込まれ鼻の穴から吐き出された。
「アカデミーは終わったからな」と父親が言う。
「あぁ、終わりましたよ」と僕は答えた。
白壁の部屋に外からの音が漏れ聞こえている。
「こん畜生!」 とか、「うらぁ!」 とかいった掛け声だ。近くで工事をしているらしい。人足の声だ。
僕は父親との沈黙の中でアカデミーの頃を思い出した。その沈黙の意味を考えたくはなかったし。
重いバーベルを上げながら劣等感と戦った日々。考えをめぐらすことなく男性ホルモンで物事を解決した日々。汗を流した爽快感に中毒のように溺れて思考を捨て去っていた日々。何も心配は要らなかった。僕は考えるということを体に溜まる重金属のように排泄して生き残ってきた。そして今、かつて僕を取り巻いていた空気は、ここぞと言わんばかりに浸みこんで僕に思考を促している。
渋色に染められた木枠の窓の向こう、砂混じりの風と白壁の長屋。宗教の違いで諍いを起こす飲食店の軒下。黄色い太陽。遠いオアシスの底からパイプが伸びて各戸に飲み水を運ぶ。この部屋の僕らの沈黙。
僕と父親はスープを啜っている。食べるという行為はとても野生的で、問題をあやふやなまま解決してくれる。力強い笑いみたいに問題を解決してくれる。
「あの人は帰ってこないのですかね」
「帰ってこんだろう」
「何年になりますか?」
「四半世紀だ」
「何をしているのでしょうね」
「憶測も届かない距離だな」
「おじいちゃんになっているかもしれませんよ」
「誰がだ?」
「あなた」
父親はうんうん頷いている。僕は向日葵の話を止めてしまった。
僕より十一歳の離れた兄は、僕が七歳のときこの街を後にした。兄は歳のいかない僕に青年としての面影を残して二度と家族に交わることをしなかった。血を分けた人が知らないところで歳をとり続けていた。とても不思議な感じだ。僕は帰り道ふと思う。僕ら兄弟は等しく息子である責任を負ってきただろうか。息子である責任が何かは想像できなかった。それは曖昧に宙を舞う。よく思えば月のように汚れなく、悪く思えば肉をついばむ死鳥のように確かに。僕は何かをなすべきなのだろうか。僕は夜道を家に急いだ。
十
僕は劇団の役を何役かこなし、それでも蓄えを減らして過ごしている。スコールの日に想った充実は現実に触れてしまうと、言葉にされた夢みたいに千億の価値を失う。僕は与えられたものだけでは心をやり繰りして過ごすことが出来ないみたいだった。枯れ果てるまで鈍重を決めこむことも出来ないようだ。
僕は部屋で一人、向日葵のイメージを体現する踊りを踊っている。
中指と中指だけを強く合わせたり、指先だけを触れ合わせるようにして空気の塊を作り全身を力ませたり、昔鍛え上げた後背筋をうねらせたり、を繰り返して生命の息吹を表現してみたりしている。
部屋でコーヒーを淹れ、買いだめしたタバコを吸い、人に会わなくてもいいようにして、日持ちのいい食料を買い込み煮炊きして過ごしている。時間が僕に吸い付いてくる。人の視線にちりばめられた、破壊的な力に及ぼされないで、日々イメージは僕に染み入り続けた。曖昧な力を持った時間やイメージは僕の味方についたように思える。
ひげが伸びて、それを束ねてねじれるまで伸ばして、土に伸びる毛根を表現しようと試みる。このまま土に埋まってしまおうかしら。空気を押しのけて光りを求めるようにうねうねと体を揺らしている。指先は小さい望遠鏡の中から抜け出て星の光りを求めるように震え、伸びている。すべての動作が子宮から這い出す子供をイメージさせないように、エロティックを排せているか鏡で確認する。人間を感じさせるのは本意じゃない。僕の肩幅は顔幅より狭くすることが出来るようになっていた。ちょっとした芸当だ。
僕の四肢はそれまでの白い肌色から土の色を交えたようなオレンジ色に変わっていた。あの日のオレンジ色だった。体育的日々が終わりを告げたあの日のオレンジ色の肌だった。
穴から出た僕は劇団の練習に向かった。一躍主役に踊りだす気分だ。
僕は稽古が終わった後で直訴した。
「君がやるのかい?」
「何をやるの?」
「前衛的なのは飽きたからね」
「下衆なものはやめてくれよ」
「パンツ脱ぐの?」
演出家が口々に醒めた言葉を言う。女の子が笑っていた。あの子はこの間「トラウマ」という題名で踊っていた。でんぐり返しを繰り返す踊りだ。輪廻転生を表していたらしい。最終的には全裸にさせられていた。
「ヒマワリです」と宣言した。
「それはタイトルですか?」とチーフの演出家が言った。僕はペリカンのように頭を縦に振った。
僕は瑞々しい柑橘類のようにエネルギーを絞って踊った。乾いた手ぬぐいを渇いた唇で吸うようなみすぼらしい真似はしたくなかった。嘘でも潤いを撒き散らして屈服させたい。胃の中の空気まで吐き出して腹を波打たせ、世界をもぞもぞと手繰り寄せるように指先を走らせた。汗は清潔感溢れる飛び散り方をして演出家を濡らした。舞台を擦る足音は甲高くなく肉食獣のもの。癖の出るまで伸びた髪の毛は野生の狼のように。僕は空気を叩き割った。生きるために土を破り這い出たヒマワリのように、人間の血肉から輝きを奪ったヒマワリのように。そして光りを浴びて超然と輝くヒマワリのように汗にまみれて光る。汗は僕をオレンジに輝く超者に変えた。
踊り終えた僕に拍手が吹き付けた。春の日差しのような光りの粒が体を抜けていく。そこには神を呼ぶ音楽のように密な意識が充満していた。
帰り道。浅い春のまだ冷たい風。オレンジ色の僕。指先についたタバコの脂が鼻をこする度に香る。ひどくタバコを吸いすぎていたせいか鼻の奥には発酵した乳製品の匂いが満ちている。一瞬、その匂いが冷たい風と相まって南国の甘酸っぱいフルーツの匂いに。僕はオレンジ色でフルーツの匂いがする男。とてもいい男。
体が軽くなり、ふわふわと飛びそうになり、腹の奥でふつふつと湧き上がるエネルギーは体をめぐり、全身のチャクラから外に揺らいで出て行って体の外と内との境目を無くす。僕は流れ出るエネルギーを何とか体のうちに留めようと息をこらえたり、スースーする咽喉元を手で押さえたりした。せっかくオレンジ色になった肌が、また青白くなるのは御免なのだ。もっと僕を満たしたい。電気でも、興奮でも、振動でも、恋でも。体中に血液を廻らす何かを求めていた。
そうだ、モーターサイクルに乗ろう。
僕は資金繰りに頭を凝らした。
拾壱
棚の上から箱を引っ張り出し、不意にそれがひっくり返り、ばらばらに散らばった内容物の細々としたものを調べて「ないない」と独り言をいいながら、舞台の主役になってパトロンが出来て、彼らから貢いでもらえる夢を見ている。電話をかけて確かめてみようかと考え、電話機を見る。人差し指を立てて「いやいや」とまた独り言をいう。
「女々しいじゃないか、『僕は主役になれますか?』なんて」
お金を作るためにアカデミーの卒業記念リングを探したり、競技会でもらった腕時計を「どこかどこか」と探しているのだ。盲目的にお金の工面を考え、働いて「こつこつ」と、とは考えられない。アカデミーの生活から抜け出しても、まだ追い求め、迷走して、想像の赴くまま堅実を避けている。大人の妥協の潔さというやつが僕にはまだないようだった。手を広げればまだ何かに届きそうだったから。
「この家を売ろうかしら? いや、売ろうかしら」
モーターサイクルを手に入れることに疑う余地もない。
「どこに住むの? えっ? 実家? 後ろめたくないのか?」
舞台で主役を張るために修業していると言えばいい。
「いくらになるか? ここはいくらになるか」
その前に父親に電話しなければならない。僕は「いやいや」と言ってそれを避けようとする。
「それは大事なことだ。何せこの家は父親から貰ったものなのだから」
僕はタバコの煙を肺の奥深くまで吸い込み、吐き出した。過敏になった神経をまろやかにしたい。脳みそにやわらかい霞がかかった。タバコのせいか深呼吸のせいか分からないが浮ついた考えがしっとり馴染んでいく。タバコをもみ消し、灰皿に散った赤い火を蜘蛛の子を潰すように一つずつ消してゆく。
「嘘をつくにはそれなりのインパクトが必要だ」と僕は語る。
嘘なの? 僕が舞台の主役になることが? 僕は俳優業に修養しないの?
「強く言えば嘘になることもあるから」
強く言えないほどならば真意ではないのでは?
「嘘に導かれたい気持ちもある」
本当だと思い込めるまで待ったほうが得策だと思うね。
「僕は今モーターサイクルが欲しいんだ」
そこに逃げ道があるんだね? つらい三十年から逃げる道があるんだね?
「僕はまだオレンジ色かな?」
卵の黄身みたいにオレンジ色だよ。
僕は一人問答を切り上げて鏡を見た。僕の色は少しくすんでいる。逃げ道なのかな…と思い、それもいいことだと合点する。何より新しい世界から貰い受けるエネルギーを欲していた。体の隅々まで満たしてくれそうな新鮮なエネルギーを欲していたんだ。それは嘘を正当な物へと落ち着けてしまった。「モーターサイクルが欲しい」が翻って「舞台の中心を担う夢」に。もともとの夢が嘘を覆い隠す毛布に。僕は嘘を通すために夢を強く想う。
「ここを売るのに同意してくれないか。俺が舞台の真ん中に立つのに必要なんだ。父さんと話した後につかみかけたからさ。大事なものだと思うからそれ、放したくはないんだよ。世界の中心に立とうと思うことなんてめったにないから、賭けてみても好いと思うんだ」
電話をかけて数日後に父親の拇印が押された書類が届く。今でも嘘と本当がない交ぜになっていたが後悔はなかった。
夕闇に黄金色の月が浮かぶ夜に、風の色が澄んだ紺色の夜に、降り積もった砂がまた黄金色に輝いて、僕の恣意は、世界の諦観と共に、宇宙の真理よろしく僕を満たしていた。
拾弐
「ここの書類を埋めてください」と店主は言った。「すぐに知覚の検査がありますから」
僕は丁寧に一文字ずつ、空欄をペンでなでてゆく。名前、住所、生年月日、病歴。
病歴? 少し動揺するじゃないか。
「住所はもうすぐ変わるのですけどね」
「新しい住所でお願いいたします。モーターサイクルの居所が分からないと困りますので」店主は重たげな機械を店の奥からごろごろと運び出してきている。
「これ一台で反射神経から色覚やら聴覚やらを全て調べ上げることが出来るのですよ。すばらしいでしょう? 反射神経は自身おありですか?」
僕は「ええ」と答えた。「人並みにはあると思います」僕は人生の半分をアカデミーで過ごしたのだ。
「これを聞くと大抵の人は尻込みします。怖いのですよ、普段の生活で使い慣れていないものを自己申告するのは。劣等感も伴いますし。私は鈍いのじゃないかしら、なんて」店主は満面の笑みだ。
店の中は昼の光りに満ちて少し庶民的な色を浮かべている。日の光りの下では『帝国』のモーターサイクルも性行為の後の女の裸ほどの輝きだ。僕は教官を探している。
「どこで教えていただけるのですか」
「環状線の内側から六番目の線が一部貸し切りになります」
「六番目とはどの辺でしょうね?」
「この街の切れ目ですね。繁盛している街の中心と郊外の独立商業地区とのちょうど境目です。惑星の周りのドーナッツみたいな飾りの境目みたいに何も無いでしょう? あの辺は。この街にしては緑の綺麗な、人の匂いがしない、ないしは孤独な、というところでしょうか」
「孤独な」と僕は繰り返す。孤独な、という表現が胸に痛かったのだ。店主は満面の笑みだ。
店主の声は滑らかで、少し毒を含めていて耳障りがよく、不用意に胸を突く。確かに僕は孤独だがいい匂いがする男だ。街の中心からドーナッツの最果てまで『帝国』の地下交通網が僕を運んでくれた。この店はそんなところにある。
「マズルカ」この店の名前だ。
「左から何か飛んできます。何かを答えてくださいね」
「黄色い動物」
「何科ですか?」
「何科?」僕は考えている。
「羽が生えていましたか?」と言って店主が僕の右手ごとスロットルを握って捻った。スピードが落ちていたんだ。
「飛んでいなかったと思います」目が大きい動物だったけど。
「猫科ですか?」
「近い感じがしました」
「リス科ですか?」
「猫科です」
「猫科じゃないですよ」
「関係あるのですか」
「猫科じゃないですよ」と店主は繰り返した。轢かなければいいのじゃないかな、と思いながら僕は前を見てだんまりしていた。店主はだんまりしている僕の背中を突いたりしている。色々な邪魔をしたいらしかった。目の前の画面に見たことのない風景が流れている。『帝国』の乗り物で見た風景と似た、何か緑色の風景。この街のものじゃない。ああ、『帝国』は緑溢れる国なのだな。ああ。
「あなたが猫だと思ったアレは今何をしていますか?」
「餌を食べている」
「肉ですかね? それとも魚?」
「肉です」と僕は答えた。
「はぁ、肉」と店主が言う。「オスはいつごろ発情しますか?」
「発情?」
「発情」
「月の出る頃には」と僕は答えた。僕の乗るモトは光のある緑の世界を越えて暗闇に差し掛かっている。暗闇の中を走っていいのだろうか? 漆黒の闇で何もないのだ。僕はスロットルを戻して、ブレーキを踏んだ。
「ハイ、いいでしょう」店主はカリカリとペンを走らせている。僕はミスを犯しただろうか。
僕はスクリーンの中の前を走るモーターサイクルのナンバーを記憶しながら足し算と引き算をしている。とても疲れる。疲れて笑ってしまいそうだ。前のモーターサイクルが急停車すると僕は右足のペダルを踏む。ブレーキだ。耳元で雑音がひどく鳴る。店主の話を聞きながら標識を読んだ。店主の話は、英雄は何故逃げたのか? だった。
「これまでの自分を責めて、羞恥を覚えたから?」
「すばらしい」と店主は言った。「その通りです」その顔には笑みのかけらもない。すごく真面目な話だったんだ。
僕は周りを見渡して教官を探した。
「教官は環状線で待っているのですか?」
店主は、あぁと言って手を広げた。
「あいにく私しか空いてないのですよ。失礼でなければご一緒させていただきます。サ・トー様」
僕はそれほど悪い気はしなかった。行こうじゃないか、その孤独なところにね。
僕らは地下に潜る。
§
「僕はどうしてもこの乗り物に慣れなくてね。時間を吸い取られている気がして」車内は天使と悪魔の戦いが繰り広げられている。たまに悪魔が乗客に微笑んでいた。店主が眉をしかめてそれを眺めながら言う。
「あなたの歳なら『帝国』のプロパガンダが真っ盛りだったと思いますが? 私は四十も越えたころにそれがやってきましたが、もうこの乗り物にも慣れました」店主が僕の顔を見ないで言う。
「僕は慣れないですけどね」と僕は言った。店主も慣れたようには見えない。眉をしかめているじゃないか。
「お若いのに珍しい。あなたの年頃なら英雄を使った宣伝の真っ最中でしたでしょう。英雄の話に夢中にはならなかったのですか?」
「英雄と入れ替わりに生まれたのですか?」と僕は筋を変えた。英雄の話に心酔したことのない僕はもじもじしている。
「誰がですか?」と店主は言う。
「いや、あなたが」と言って僕は店主に水を向ける。
「ええ、ちょうどその年です。大変な熱狂の中に私は生まれました。そして英雄の生まれ変わりとしてからかわれ続けました。足が遅い、色が黒い、鼻をほじる、勇気が無い。髪の毛のカールのことでも笑われました。そこだけは英雄に似ていると。英雄は『帝国』を変えたのです。そんな人物と比べられるのはたまったものじゃない。毎日恐縮して過ごしました。私たちの頃はまだ本当の英雄の影が存在しておりましたから生々しい話も残されていました。『帝国』の兵が死んだ英雄の死体から服をはぐとそれほど大きくないペニスを切り、これほどの大きさで少女を犯したのだ、という卑猥な話しも伝えられました。英雄を卑しいものにしたかったのでしょう。しかし、それから時を経ても私たちの中に英雄の物語は武勇伝として残ります。神格化さえされます。英雄の威を借りて『帝国』にはむかうものも多数ありました。そこで『帝国』は手を変えたのです。われわれの『小国』にプロパガンダをかけたのです。英雄をそのまま神格化し、それを崇めようと。『帝国』は英雄によって永遠に変わったのだと。皆さんも英雄を見習い優秀な人々になりなさいと啓蒙していったのです。その主なものが、スポーツ・芸術のアカデミーだったっでしょう? 『帝国』はアカデミーの優秀な子供たちを、その幼いうちに集めることで氾濫分子を見つけて統制の方向に持って行こうとしたのですね」
僕はポケットからタバコを出そうとして店主にたしなめられる。
「ここは禁煙のはずですよ。それに顔色が悪くなってきています」
「英雄は肌が白かったのですか?」
「アルビノではないですがそれに近かったのだと思います」
「確認できる写真は無いのですか?」
「確認?」と店主は言った。「英雄の欠点をあからさまにすると?」
「欠点なのですかね」
「一般的には」
「白いことが?」
「影響を受けやすい」と言って店主は喉を鳴らす。「色の黒い私でも『帝国』の影響を受けているのですよ。私の笑顔は『帝国』っぽいとよく言われます。こういう笑い方は『小国』の血筋では珍しい。よく言えば洗練、悪く言えば心が無い。上っ面の正義みたいによく嫌われるのです」
「英雄はもともと『帝国』の人でしょう?」
「彼は私たちと同じ搾取の対象だった、まぁ『帝国』の言うところ劣っている人種なのですよ」
「だから…白いのは…よくない?」
「人の意識は何もかも書き換える力があるのです。正義を裏返したり、恋を憎悪に変えたり、痛みに喜びを見出したり。英雄に特別な色を付けてはならないのです。普通の色をした普通の男が英雄であるべきなのです」店主は人差し指を立てて僕を見ている。「特別は間違いを生みやすい。私にも偏見がございまして特別なものを斜めに見る癖がございます」
「僕も色が白かったのですが」
「あなたは英雄じゃない。大丈夫」
僕は英雄の写真を持っているのかと聞いたが、店主は首を横に振る。見たことはあるが誰の元に渡ったのかは分からない、何せそれはプラチナのように貴重なものだから。
店主は『帝国』の巨大な鯨に映し出される映像をじっと見つめていた。僕はもうたじろぎはしなかった。二人でいることがそうさせたのかもしれない。相変わらず、そう、相変わらず『帝国』はプロパガンダを続けている。僕がその訳を知り始めたことに気づかないように天使と悪魔を躍らせている。
湖の底に潜む魚ように、僕は深く水底に落ち込んでいたのかもしれない。透き通る光だけを頼りに澱んだ目で自分を見つめてきたのか。僕は店主の話を聞いて水面から顔を出し空気を吸い込んだ。世界ははっきりとした輪郭で視野に飛び込んでくる。僕はずっと『帝国』に触れて育ってきたのだ。今、僕に『帝国』の浅浅しさが笑みをこぼさせる。
英雄の体重を超えてはならない。
英雄を超えてはならない…うふうふ、ふふふ、これから『帝国』のバイクを乗りこなす。カモフラージュに使ってやろうかしら。僕は『帝国』に迎合しておりますって感じで。うふうふ。
六番目の環状線に着いて僕らが降りるまで乗客は一人も減らなかった。
§
「その指輪がキーになります。左手の大きさに合うところにはめてください。いち・にい・さん・でエンジンが回りますよ」
僕は指輪をはめた左手をハンドルに添えてモーターサイクルに跨り店主の手はスロットルをひねる。イチ・ニー・サンでエンジンが音を立てる。
「左手を離してみてください。エンジンが止まりますよ」
「このままでは走らないですからね。安心してください」
「足は地べたに着いたままで、スッテップのちょっと前にあるレバーを踏み下げると走り出しますからね」
「両足を上げてみてください。止まっていてもジャイロの効果で倒れませんよ」
「ハイ、右足でレバーを踏んで。前輪・後輪、ちょうどよくブレーキがかかりますよ」
モーターサイクルは僕が触れると電飾が光り、何かレバーを触ると逐一しるしを出している。左足でレバーを踏まない限り動くことはない。手で足で刺激してやって何が起こるのか確かめてやる。何よりうれしいのは止まったままで直立することだった。エンジンの回すジャイロで姿勢が制御されているのだ。この乗り物がイメージさせる不安定さを払拭してくれるのが何よりもうれしかった。
左足をレバーに乗せてしまって、店主にしこたま怒られてしまった。
「レバーの硬さがどんなもんかと思って」
「レバーの硬さはブレーキから知るのが良くありませんか? そのまま踏み込むと遠くに行ってしまいますよ。私の声も届かない遠くに行ってしまうのですよ」
「まぁ、ごもっともです」
「遠くに行きたいのですか?」
僕は疑問符を投げかける。
「『帝国』程にも遠くへ行きたいのですか? それとも月へ?」
僕はどちらも否定する。
「モトは地べたを這って走ります。月には行けませんが、『帝国』には辿り着けるでしょうね。燃料五本もあれば辿り着くのですよ」
「形而上の『帝国』のことを言っているのかと思いましたよ」
僕は柔らかに立つモーターサイクルを右に左に揺らして質問した。
「あなたにとって『帝国』は現実的なのですね」
「この街にも『帝国』は染み出していますよ。少しエンジンを吹かしていただけますか?聞かれるとまずいので」
僕は耳障りな音が消えるまでエンジンを回した。周りに人の姿はなかった。
「すべての仕組みに『帝国』は染み出しています。あなたの左手の指にはまっている、何も印のないリングにさえも、いや、印がないからこそ染み出しているのですよ。分かりますかね? メタファーは自在に姿を変えます。気をつけて。外堀を埋められないのが何より重要です」
僕は黙って聞いていた。何でこんな話になったのだ。彼はまだ話し続けている
「物事の分別を右に左に分け隔てるのは、一から十を夢想する人々なのですよ。分かりませんか?」店主は首を左右に細かく揺らしている。揺らされているように見える。「一つの情報から十のイメージが生まれるとします。そのそれぞれがある方向性を持っているとしたら、一つの目的地を目指したものであるなら、それはメタファーを牛耳る人々の思惑しだいなのです。言わずもがな十のイメージとはメタファーなのですが。多くの人々は気づいておりません。『帝国』の人々はそれを操ることが出来るのです。分かりますか?」
僕はすっかり困ってしまった。「操る」なんて、人生の一大事じゃないか。プロパガンダどころの話じゃないじゃないか、まったく。もう僕はモーターサイクルの上でユラユラ揺れているしかない。僕のヒマワリはどうなの?
「イメージは外堀なのですか? 何かこう、砦を落とす時の作戦みたいなものにつながるのですかね」
店主は思いついたように指輪を指差した。
「『帝国』ならではの焼き色。これが曲者なのですよ。どこにでも在るようで知る人ぞ知る物という…。これが曲者でして。知らない人々の余剰意識を、知るものが右に左に…」
「何も感じない僕は操られているのかな?」と聞く。
「相容れない思想を持つものも同じ馬に乗るという事でしょうか?」
店主は話を聞いていなかったようだ。
「僕は何も感じないのだけれど」と声を張る。
「あぁ、失礼。あなたにも染み出していますよ。感動のないということは、ごく深く、自然に染み入っているのでしょう」
「心外だなぁ」
「いずれ染み出しますよ。あなたとして。その十のイメージが。あなたが汚されていないことを祈りますが」
何故こんな話になったのだ。モーターサイクルはまだ走り出してもいない。マッタク。
「『帝国』製のシートは質がいいですね。長く乗っていても全然疲れない」
「あぁ、あぁ、そうでしょう。あはあはあはあはあは。これ以上のものはないですよまったくその通り、あは。」
店主はまた満面の笑みだ。あなたはどちらの味方なのだ。
深く掘り下げられた環状線。風の巻いた音。僕を乗せ人知れず走り出すモーターサイクル。初心者の照れを拭い去るのに十分な時間。馴染み始める股下の熱っぽいエンジン。ボトルの燃料は五本を消費。『帝国』まで走れる距離。
「敵か味方か? この人が? 『帝国』が? すでに沁みこんでいるのだろう?」
いや、染み入ってしまったものを否定できないのは腐れ縁を断ち切れない臆病に見える。触れてなお超然を欲したい。
「それほどの強さが僕に?」
僕は不満足を『帝国』にぶつけ始めている。人はそれをスケープゴートの齧りと笑うかもしれない。しかし、僕の中に残る僕が「押しのけるべき何か」を見つけ始めている。詳しいことは分からない。何せそれは心の奥深くに関わることなのだ。
風景は変わり始め、懐かしい思い出を新しく生み出す今。新しい心だからこそ、過去を振り返る。新しい空気は無垢の匂い。女体の匂いを消し去ってくれる。
しかし、どうだろう、この新鮮な空気はとらまえようとすると魚のぬめりを使ってするすると逃げさって行き、驚きとともに現実の手厳しさに僕を浸してしまうのだ。あぁ、僕は卑しい人間だ! 新鮮な空気を捕まえようだなんて!
僕はモーターサイクルを駆りながらアカデミーの日々を振り返る。風景は後ろに流れ、後続の過去が背中に焦燥を貼り付ける。
僕は沁みこんでいる筈の濁りを思い浮かべては言葉で描こうと努力する。
血肉に混じり入った僕らの過去は何ゆえ否定されたのか?
僕の中には輪郭のない『帝国』が宙をまっている。
確かにつかむべき何かがあるのに! 僕らの血を否定した、英雄の血さえ否定した、忌むべきものがそこに在るというのに! それをつかむべき手を持ち合わせていないなんて! あぁ!
僕はそれをつかむ為なら囮にだってなる! 食らえ! この血肉!
ゆらりと浮かんだ『帝国』はその住処を知らせない。
すべての否定が内向する。
悶々。
昨日と同じ日などないから今日は前に進んだのか否か。今いる場所が、心持ちが、一日、日を重ねて熟して、新たな匂いを発することを待っている。それが南国のフルーツのように食指を震わすまで。
壱拾参 ――夢――
闇の中の一筋、薄く白い光に浮かぶ花びらは月の色。影に滲む花びらが濃いオレンジ色に。茎は束になってよじれて螺旋状に天の方へ。遠い光の源はのぞき穴のような小さな白い円。そこにくり抜かれた風景は暗闇で開かれた瞳孔だから白に滲んでしまう。幾百の花が寄り集まって黄色い塊になり、宙に浮かんでいる。それは僕の頭の上に輝いて、太陽よりは優しく照らす。
これはヒマワリかしら。
かつて夢で見たヒマワリは僕の中で僕色に染まっているのかも。それは不意に輝いた友達を見る心地。僕の居所がなくなる。
黒い闇に包まれる足元におぼつかない心地を覚えて、膝を折ってすくむ。指に触れたつるつるとした地面に、「果たしてここに根が張るものだろうか」と疑問に思う。地べたをイモリのように這い、その根元まで手を伸ばす。地面に負けず劣らずの硬い茎がある。それは骨太な腕のように力強さを感じさせる。
僕は劣等感にさいなまれている。
夢が途切れた。
僕は深い眠りに落ちている。晴れた夜の空にある露な月のような眠り。それは海や草花や人いきれに味付けされる事が無く、種の中の仁のように白くぷよぷよと露な月だ。
太陽が生きるものの源であれば――それはどのような宗風が私にそう考えさせたのだろうか――喜びや憎しみ、その他諸々のあがなえない感情が現実に曝されない私事の夢の世界は、過剰な太陽を冷ます理想世界。日差しから身を守ってくれる仏の袖下。
太陽は僕を夢に追い立てたのかしら。太陽は敵かしら。
§
僕の家に紙切れが届いた。白くハガキほどの大きさの紙だ。油取り紙のように薄い。柿渋のような色で任命状と書かれている。僕は配達人に尋ねる。
「これは何でしょう」
「何か知らないのですか? 任命状ですよ」配達人が答える。
その配達人は夢中の人であるからの自らの無臭を、疑われぬ者の特質としてまとっている。夢中の事であるから、その景色と物事はあらかじめの自問自答のように軽々と私の中に迫っている。それらは、すべてがリアルなのだと訴え、私の心の底まで行進をやめない。やっとこ私は任命状の裏を返したり透かしたりするほどの切迫を覚える。何も情報が無い。インスピレーションも働かない。何も書いてはいないのだ。
「何に任命されたのでしょう」
「塔の人足じゃぁないですか」
「トウ? ニンソク?」僕は「トウ!」と言って配達人をチョップした。ジョウクのつもりだった。綿飴を潰すほどの自らの手の感触。その意図にそぐわない、目の前が闇になるほどの彼の反撃の鉄の拳が見舞われる。それに耐えると僕は少し男として強くなった気がした。足腰に重たい力が漲るのを感じたのだ。爛々と輝く僕の目を見て配達人は言う。
「公園の真中に立つ塔ですよ。建築中じゃぁありませんか。もうしばらくたって…千段は組み上げてありますからアトちょっと、アトちょっとでしてね。うん、ここからはミィエナ・イ・ノ・カナ。ミエマスカナ? おぉぉぉ見えた見えた」配達人は「ほほ」と笑って続けた。「良い色だ。灰色ですよ。見事に自然なハイイロデスコト。ほほ、灰色はねぇいい色だ。右にも左にも、正義にも悪行にも、男にも女にも偏りませんな、ほほ、真直ぐ月まで届くでしょう、ほほほほほほほ……」
「何段で終わるのですか?」
「一〇二六段です。それで月に届く事になっております、うふぅ・・・」
「えぇ、月があそこまで降りてくるのですか?」と、自分でも不可思議な事を聞いた。
「月が降りる? あぁここから見ると月は降りるように見えますか…こうなだらかに」配達人は四本の指を真直ぐ窓に向けて手首をスウィングさせている。そのたびに「こうか? こうか? 嫌、こうか?」と自問する。「降りる降りないは別として、月は我々の形而上の上におりまして、形而上の可能性を超えた一〇二六の魂のスロープを通りまして我々にその光を差し込むのでありますよ。嫌、こういう風に」配達人は両手の指をピンとして窓に向け何度も左右にスライドさせた。「うん、ピンとしている。ですね? ピンとしているでしょう?」彼の合点した顔は明らかに遠くに行ってしまった人の顔として僕を正気に戻す。僕はおかしくない、彼がおかしいのだ。
ちょっと窓から見えた塔は雲にも届いちゃいない。見た目はちょっとでかいチンポだ。
灰色の塔は街の空き地に建てられている。何を思うことなく僕はそれを見上げている。
§
僕は塔の下にいる。一人の男がロープを引いてくれと言う。ロープは天に届きそうなほど高く組み上げられた塔の横に沿うように垂れ下がっている。遥か上を見上げるとそこには滑車が見える。そこで折り返したロープの先は、僕の後ろにあり子供が乗れるほどのお椀がついている。お椀の下には砂の錘がついている。僕はカラカラとロープを引き寄せる。「カラカラ・・・」
飾り気のない塔はその足元から太さを変えず天にまで伸び、僕を威圧する。 私は近くにいて大丈夫なのか?
己の身の危険に右に左にうろたえる。空に流れる雲の近さにうろたえる。自分が半ズボンを履いていることに気付きうろたえる。マスターベーションの記憶とその後、手を洗っていなかった事にうろたえる。私は目の前に幸福が降って湧いたとしてもうろたえるだろう。
僕の引き上げているお椀には何か入っているのだろうか? ロープを戻しかけて男に注意された。
「いやいや、何のためにロープを引いたのぉ? だぁめじゃない、最後まで引っ張ってくれなきゃ」男は大きな銀色の眼鏡(銀色のお椀の底に穴が開いたもの)をかけ、ブルーと白のストライプのシャツを着て口を尖らしている。男の細いストライプがちらついている。「戻したりする必要あるのぉ?」
「いや、何を入れたか確認しようと」
「だぁめだよぉーーーー。目ぇが潰れちまうってぇ。あぶねぇってぇ」
「いや、あの、確認したいって、言っただけだから」男はそう言う僕の腕の肘の少し上、ちょうど敏感なところを握ってブルブル揺すっている。男の肌は土色に焼けている。
「確認できるのぉ? 魂よぉ? 何? 確認できる人なのぉ? そういう人なぁのぉ? 嫌だぁなぁー」ちらつくシャツに目をしかめている僕にこう続ける。「いやぁな顔するなぁってぇ。あんたまだ二十代かそこらでしょー。魂のことなんかわかんないって。イヤイヤ、わかんないってぇ。あれは宇宙の始まりの前からあるのぉ。たくさん偉い人が考えてもまだわかんないの。もう何百年も考えてるのよぉ。でもまだわかんないものあんたにわぁかぁるわけないじゃなぁーい。それともあれ? 魂の事も宇宙の理のこともみんなわかっちゃう人なのぉ? もう何百年もこの塔を作り続けてまだみんなわかんないのにぃー」
「月に届くのじゃないのですか」と僕は聞いた。馬鹿な話だと思っていたことを聞いた。
「月には届くよぉ。何せ魂のことだもんな。子供の作るおもちゃとは違うからさ、偉い人が考えに考え尽くして作ってるから。ここまできてもまだ考えてるって話だから、月には届くんじゃないのぉ」男は続ける「偉い人は月なの。王様は太陽なの。俺たちは土なの。あんたは人足なの。分かる?」
僕は分かると答えた。男は「偉いねぇ」と僕を褒めた。「偉い人ではないけど、偉いねぇ」僕は犬の気持ちが少し分かる。うれしかったのだ。
何往復もしたお椀の中には魂が入っているのだそうだ。僕は石を運ぶのではなく、ただひたすら魂を運んでいる。石を組み上げないで、魂だけで月に着くのかしら? 魂の姿は見えない。
「これは、何か、『帝国』の仕業? 月に行く名目は何かの目隠しかしら?」
僕はモーターサイクルの店主のことを思い出していた。
壱拾四
環状線は太く、右にカーブしている。月は僕の視界の右端から左に移り、背後に回って景色を青く濡らす。街の中心部に近い環状線は古く、凹凸が多い。危ないからモーターサイクルはあまり走ってはいない。他のサイクリストといざこざを起こしたくはないからここを選んだ。
雑音が消えるまでスロットルを回し切り、地を這うように疾走した。風が車体に切られて流れ、僕の体を包む。首を持ち上げるとヘルメットごと引きちぎられそうになる。体をぴたりと車体に寄せる。鼓膜に血液の音が響いている。
これは僕の体とモーターサイクルが一体化したのかな?
腰に響く振動が細かくなって、僕の体もそれに同調して震えている。震えが細かくなるのにしたがって気力が強くなるのを感じる。心の芯が太くなり象のように悠然としていられる。
これはもしかすると勇気かもしれない。このモーターサイクルは勇気かもしれない。
音は聞こえていないのだが感じる。音の振動が感覚として伝わってくるのだ。ほとんどの情報が視覚と触覚に集中する。
『帝国』は音を排除するのかしら。
僕はゆるりと車体を傾ける。少しきついカーブなのだ。サイドミラーから見える砂煙は過去のよう。小さい俗事にまみれた過去のよう。環状線は二週目に入る。
優しげなヒマワリは姿を偽った太陽。
高く建てられた塔は悪事から目をそらすスケープゴート。
僕は人足。
僕は十のイメージのうちの一つ。
外堀は僕らで埋まり、やはり僕らの大事なところを攻め落とす。
英雄はヒマワリを咲かす。
英雄は『帝国』から逃れられてはいない。
もちろん僕らも逃れられてはいない。
僕は正しいだろうか? 『帝国』は僕の手を後ろに回してもいないのだ。何故?
逃れられてはいない
曖昧が僕に着地しようとしていた。僕は音のない世界で思考を回し尽くし、刻々とオナニー気質な男になってゆく。最初に交わった女の人のことを遠くに忘れ、イメージの中に埋没してゆく。あの外向的な行為をなくして世の中と繋がりはしないのに。誰にも触れられない心をより所として深い洞穴の出口を目指す。
僕は、夜明けは近いとつぶやいてみるが、それほど近くはなかったみたいだ。渇いた声が響いただけだった。
拾五
砂嵐のない日の午後。僕らの家に軍の保安係が二人やってきた。一人は見事に黒髪を整髪した目の大きい若い男で、もう一人は贅肉の付いた白髪混じりのカーリーヘアの中年だった。カーリーヘアの男は冬なのに汗をかいて首筋をハンカチで拭きながら立っている。二人ともカーキ色のコートを羽織っていた。ボタン閉めて立っている姿は軍人のそれらしかったが、その容姿は俗にまみれた感じがあった。さっきまで女の股間の感触を思い出していました、という感じの顔だ。
僕は部屋を振り返ったが父親はいなかった。彼らの姿を見て動揺してしまって、いるはずのない父親を探してしまった。父親は注文していた靴を取りに行ったのだ。
「私たちカワシチズムで起きた殺人事件を調査しておりまして」と若い保安係が言った。「ご存知で?」
「知らない」と僕は答えた。「カワシとはどこに?」
「サセンはご存知で?」
「砂の泉の? サセン?」
「そう砂が湧き出ているあそこですが、その向こうにあります」
「カワシとかいう所が?」
「カワシチズムというところなのですが、サセンが砂の湧き出るところだと知っているのですね」
「三十年生きてますから」
「三十年」と抑揚をつけて保安係が言う。「足は大きくならないですか、この何年も」
「しばらくは大きくなってないと思いますが」
「靴のサイズは変わらないわけですね、分かりました。見せてもらえますか?」
僕はトレーニングシューズを渡して、腕を組んで彼らを眺めていた。手にはべっとり汗をかいていて、僕は何度もわきの下でそれを拭かなければならなかった。カーリーへアの男も汗をかいている。トレーニングシューズはもうしばらく履いていない。昔の汗が臭っているはずだ。目の大きい若い男は靴の中敷の番号を確かめて、つま先のところを指で潰して頷いている。僕はつま先に詰め物などしていない。そんなことをしたら走りにくいじゃないか。
「この靴はどこで買い求めたので?」
「アカデミーのトレーニングシューズです」
「アカデミーにおられた!」若い男はカーリーヘアの男を振り返った。
「もう、何年も前、随分昔のことだと思うよ。かかとが擦り切れているし」
「お仕事は何を?」
「今は俳優を」
「何の役を?」
「ヒッチハイクをしたり、ヒマワリになったり」
「ヒマワリになる!」と二人はのけぞった。
「逆立もします」
「逆立ちでヒッチハイク!」と二人は驚いてみせて、もみ手をしている。「それは随分アナーキーなことを」
僕は否定することもなく笑っていた。僕の顔は歪んでしまっている。確かに華のある役じゃないし、ヒマワリは役でもない。
「すいませんタバコを取ってきてもいいですか?」と僕は聞いた。
「いえ、いえいえ、それほどお邪魔はいたしません」
「ドアを閉めてもらいたいな。風が強くなりそうだし、部屋に砂が入ると面倒なんだ」
目の大きな若い保安係が部屋をじっと見つめていた。その先にはアカデミーの修了証書がある。
「ありがとう。もう大丈夫です」
若い保安係は何かありますか? と中年の保安係に聞いたが、彼は首を振っている。何も無いようだ。
彼らが去ってから父親が帰るまで、僕はなぜ疑われたのかを考えていたが思いつかなかった。今までの『帝国』に関する思考が影響しているのではないかと考えて急に恐ろしくなり、ますます『帝国』に対する妄想が膨らんでしまった。
彼らは僕の心を読んでいるのだ。軍は『帝国』の犬だ!
強く思えば強く思うほど、思考が絡み付いて抜け出せなくなった。恐怖心がヒルのように膨らんでしまっている。夕日が傾いて風が強くなり始める。そういえば僕は彼らに「風が強くなるから」と言ったはずだ。大地さえ僕を捉えようとしているのか。風はあからさまに強くなり、僕は父親が帰るまでひどく疲弊してしまった。
僕は父親にアカデミーの生徒の身体的情報と、その後成功したか否かは逐一報告されるのだと聞かされるまで、この疑心暗鬼によって恥ずかしいほど目を剥いて彼を見つめていた。父親はアカデミーで挫折した人間は保安係にその後を追われるのだとも言った。一度道を踏み外したらたがが外れることもあるのだと言う。まあ、そういう理由ならありえるかもしれない。僕は容疑者の身体的特徴と似通っていたのだろうか。
僕は父親に仕事がしたいと言って部屋にこもってしまった。父親はそれを黙って聞いて、その後も口を閉ざしたままだった。ドアの向こうで新しい靴が床を鳴らす音が聞こえた。そして僕はアカデミーの日々を思い出している。
僕はアカデミーで輝くことのできた人たちのことを頭に浮かべている。憐憫に欠けた連中。思い出はそれに終結する。ペニスの大きさに支配され、肌の色が優劣を決める日々。彼らの多くは賢い女の子に好かれていたことを思い出した。優しい顔の同期生もいたが、彼らは否応なく人生に飲み込まれていった。その優しさから人に頼られて、輝きはすれども、やはり二十代の前半で力尽きて深い闇に飲み込まれていったのだ。情が欠けていることが、そこで生き残るための重要な要素だった。僕はそれを傍で見ていてあきれてしまい、輝くことも、廃れることからも逃れるように三十までスポーツを続けた。
何に逆らうこともなかった人生かな? いや、逆らっていたのだろう。彼らのどちら側にも付きたくはなかった。それで僕は複雑な人間になっていったのだ。あらゆる物事を右に左に放り投げて波に任せるやり方を放棄したのだから、複雑なことになるのは当たり前だった。
童貞を捨てるまで随分と時間がかかったな。
その時間は複雑を乗りこなすまでの試用期間。乗りこなせなければ一生を迷って暮らす羽目になる。
僕は父親にもう一度言った。
「仕事がしたいのだけれど」
父親はうなずいている。
部屋には軍の保安係が残していった匂いが残っていた。大丈夫、僕は誰も殺しちゃいない。
拾六
『蜂の巣』を剥き出しにして、僕はタバコをふかした。その煙が、回転する『蜂の巣』に吸い込まれてその前後に波を浮かび上がらせる。
「出てるな」
「あぁ、出てる」
タバコの煙は電気の波に誘われて螺旋状に形を変え、目に見えない電磁をサトーたちに知らせた。
「これが帝国のツーサイクルか」タカシモンが言う。
「違うな」僕はそう答えてエンジンを止めた。「大して詳しくないけど、怖いな。これ」タカシモンは少し震えている。未知の力はその操り方を知らないままででは単なる恐怖の対象となるのだとか。知っておかないと昔々の感染症みたいに人を不安にさせるから。
「『帝国』の乗り物はみんなこんなか」とタカシモンが言う。
「音が消えるんだよ」と僕が答えた。「誰かの体内にいるみたいだ」初めてそう考えて口に出した。「きっと、生まれる前みたいなことかな?」
「それは狙いなのかな。『帝国』の」
「僕は『帝国』を知らないよ。タカシモンの方が詳しいだろ。僕はアカデミー出なんだ」
タカシモンは黙ってしまった。顎に手をやってじっと宙を見つめている。
ガレージには風が吹いて、細かい砂が光の中を舞っていた。むき出しになったモーターサイクルの中身は蜂の巣のような形をしていた。『蜂の巣』が互い違いに回ってエネルギーを発生しているみたいだ。はじめはお土産がてらにタカシモンを後ろに乗せようと考えていたんだ。彼はそれを断って「中身を見せてくれ」と言い出した。「知らないものに跨るわけにはいかない」
僕は砂が怖くてカバーを閉じる。精密機械なのだからこの街の風土は僕を心配にさせる。何せ家を売って買ってしまったのだから。
「女を買ったことがあるかな」とタカシモンが口を開いた。随分の沈黙の後だから、話題が変わりすぎだから、僕は驚いてしまった。
「ない、全然」と僕は答える。
「さいなまれているんだ」とタカシモンは不思議そうに言った。彼自身のことなのに。
「歓楽街を通るといつもさいなまれる。意識の奥深くをえぐられるように頭が痛むこともあるんだ。このツーサイクルは同じようなものを感じるのだけれど」
「簡単な話、良心の呵責とかではないかな」
「あぁ、これがっ! この痛みが! 良心の痛み! そうなのか!」
「人それぞれ違いはあるだろうけれどもさ」
「いや、違うんだ。これは断じて良心の痛みなんかじゃない。もっと外圧的なものなんだ。内から沸いてくるものに対する痛みなんかじゃない。僕には女を買う意思がこれっぽっちもないんだから」
そう言うとタカシモンは腕組みをして黙り込んでしまった。彼はこれほど複雑な男だったのだろうか? あの神様に導かれた右フックの男は口元に深い皺を刻んで考え込んでいる。
「このツーサイクルに跨ることと、買った女に跨ることは一緒のことではないかな」とタカシモンが言う。
僕は答えることが出来なかった。その場を立ち去りたくて彼に用件を伝えられないままモーターサイクルを駆った。本当は―拳闘のコーチをさせてくれないか、そう言うはずだった。
僕はカワシチズムを知っている。歓楽街のことだ。殺人事件のあったそこへ、僕は行ってみようと思う。
太陽が地平線に沈んで間もないスカイライン。青と赤がせめぎあっている。燃料は月に届くほどに蓄えてあるからモーターサイクルはスピードを上げて砂を巻き上げる。そしてしがらみの向こうへ。しがらみを捨てるための歓楽街へ。
拾七
何件か店を回った。――仕事はないか? そう聞いて周ったが門前払いを食らう。
女の子の配達はしていないんだよ。知らない人に任せるのはちょっとね。バス運転できるの? 歳をとっているのはいいんだけどね、ここの水に慣れてないでしょ。
「若い娘が好きならいくらでも」と言われて――客じゃないんだ、と何度目かの断りを入れる。二、三件で気分が萎えなかったのが不思議なくらいだ。もう十件は回ったかもしれない。客として馴染んだ方が上手くやれるのかな? と意気を抜くとボーイからこの店の系列に女の子の配達をやっている事務所がある、と案内された。その事務所は店の奥にあって、ボーイが連れていてくれる。店を通り抜けるときコロンとタバコの匂いが充満していたがそれほど厭なにおいじゃなかった。僕もタバコの匂いがしているだろうし。ああ、そういえば初めての女もこんな匂いがした。
胸のふくらみを露にした女の子たちの世界を深く知りたいと思わなくはない。タカシモンは何に反応していたのだろう? この匂いじゃあるまいし。
店の奥はカーテンで仕切られていて、僕は店の喧騒の端っこに座っている。痩せた中年の男が座ったままで電話をいじっていた。皺の多く髪の黒い男だ。
「見ての通りこういうお店。女の子とお酒を飲んで、気に入ったらお金を払って寝る。上玉はほとんど出払っているからあんまり見ないでくれ。客が醒めると悪い。何せ魔法にかかっているようなもんだからさ。たまに電話がかかってくる。このあいだの女の子を用立ててくれないかな、というやつだ。簡単な話そういう仕事なんだけどな。仕事が欲しいって? やってみればいいじゃない。女の子とは寝るなよ。そう、それで今までどうやって食ってきたの?」
「アカデミーを出て、そのあと俳優になりました」
「俳優! 芸術アカデミーかい!」
「いえ、スポーツアカデミーで」
「スポーツから芸術に! ほう。女の子に惚れないでくれ」
僕は頷いて、これは採用なのですか? と聞いた。
「バスは運転できるのな」
「モーターサイクル」
「モーターサイクル! はは。それは惚れるなというのが間違いだ。乳に触れたら惚れるしかないからな。惚れないか?」
「多分」
「多分? ルールに多分はないよ」
「絶対」
「そう、絶対」男は舌を鳴らして僕を見つめている。「アカデミーなの。誰に教わったの」
「ムラサワル教官です。ご存知で?」
「いや、知らない。知るわけないじゃない」
彼の目が随分どろんとしてきたように見えた。
「どこで待ってればいいのかしら」
「下のカフェで待ってて。呼びに行くから。君、女言葉使うんだな。かしら、言うてたぞ。はは」彼が僕の二の腕をつかむ。「あぁ、硬い。硬いもんな、これ。これで戦ってきたの。ほうほう、お疲れさん。下で待ってて」
カーテンを開ける僕を男が呼び止めた。
「名前なんていうの?」
「サトーです」
「サトゥーかい」
「いや、トゥーじゃなく。サ・トーです」
男は手を伸ばして握手を求めている。「サトー君よろしく」
「よろしく」と僕は手を握った。僕の手は汗ばんでいた。悪い印象を与えなければいいのだけれど。
最後に見た彼の顔には深いくまが浮かんでいた。この僅かな時間で深くなった気がしたのだ。僕は暗い店内の鏡で僕の顔を確認したが、肌の色が上手くつかめなかった。僕は今、青白いのかどうか。
店を出るときさっきのボーイが「支配人ですよ」と言った。僕は支配人の意味をよく知らない。どれほど偉い人なのだろう。「せっかちで気持ちがいいね」と僕は答えておいた。
下のカフェからはいい香りがして足を誘っていた。豆を煎る匂いだ。
カフェは上の店の休憩場だった。酒を飲みすぎた女の子がコーヒーを飲みに来る。近くにいたカップルの男の方がお金を一枚二枚と数えて値踏みする。――もう一枚? もう半枚? ううんそれ以上は。
女の子は両手を合わせて切なそうに目を細めた。それが演技でも男の方は払わなくちゃいけない。切れ長で目の大きい女なのだ。男は大枚プラス一で交渉を成立させ二人で席を立つ。ガラス張りの向こうに手を繋いで歩いていく二人を見つめていた。タカシモンはほんとに何を感じていたのだろう? 僕は全然頭が痛くない。そしてここのコーヒーは、僕が今まで飲んだベストのブレンドだった。
夜のガラス張りの店内は余すところなく僕を映し出している。逃げようもない僕は、青白い顔を映す夜のガラスをじっと見ていた。動揺がなかったわけでもないが、このあいだまでオレンジ色に光っていたおでこまで青白かった。この街がそうさせたのかも。ガラスの向こうを歩く人々は同じように白く街灯に照らされている。この街は僕の居場所なのだろうか。僕はオレンジ色だった一時期を除いて彼らと同じような肌の色をしているからこの夜の光に落ち着きを感じる。
同じ肌の色に落ち着くなんて。
僕がボーイに呼ばれたのは何杯目かのコーヒーがまだ熱いときだった。
地図に載っている地名に聞き覚えはあるが、土地勘がない。彼女に聞けばいいのかなと言って、近くで待っている女の子を目で見る。見られた女の子は後ろを見渡して落ち着かない様子だった。
いやいや、女の子は土地を知らないからね。大抵はじめてのところに行くんだ。環状道路と大通りの交差が分かってくれるくらいでいいよ、一つ角を曲がるとすぐ道が分からなくなるけど気にしないで。無線を付けてあげるから。とても簡単。耳でもヘルメットでもいいや。呼称はP‐53・サトー。君の番号だよ。とボーイが言った。
「P‐53?」と僕は聞いた。
「P‐53。この店の名前だから。何の意味かは知らないけれど」ボーイは快活に笑っている。「マッタク僕は、聞かれもしないでね」
ボーイが振り返って手招きで女の子を呼んだ。
「P‐53」と僕は復唱する。
「そう、P‐53」
僕はボーイに何の意味かなと聞きそうになった。知らないと言われたばかりなのに。女の子が可愛かったから動揺してしまったんだな。女の子は白い服を着てふっくらと可愛かった。日差しの似合うタイプの色の白い子だ。とてもやわらかいセックスをするのだろうな。
「この土地の生まれなのですよね」とボーイが聞く。
「この近辺にアカデミーの養成所はある? 多分来たことはあると思う」
ボーイは、アカデミー! と言って驚いて見せた。女の子も驚いている。まあ、つまりアカデミーはそういう存在なのだ。
拾八
「ここの仕事は長いの? ですか」と聞いた女の子の声はお酒に焼けていた。その声で僕は少し落ち着く。全てがやわらかだと緊張してしまうから。ヘルメットのシールドを叩く砂粒がカチカチいっている。道には砂が積もっているけれど二人の体重で車体は安定している。
――今日、仕事をもらったばかりだよ。
――ヘルメットをかぶるのは僕が臆病だからじゃないからね。
――おでこが広くなりはじめてんだ。
――父親の匂いがするでしょ?
――あそこのコーヒーはお酒が入っていなかったかな? あんずの匂いがしたけど。
――目の色が薄いけれど、北の方から来たの?
「目の色が薄いなんて初めて言われました」と彼女は答えてくれた。本当はそれほど薄くはなかったのだ。
「僕は薄いよ。北の人ではないけれど。とても苦労する人が多いし」
「色が薄いと苦労するかしら」
「そういうところにいたんだ、もちろん一般論ではないけれど」
僕は少し考えて「アカデミーのことはあまり知らないよね」と続けた。そこを掘り返されると僕の濁ったところが出てしまいそうだ。アカデミーは特権階級に近い。そういうところに長いこと居たんだもの。
「肌が薄いのはアルビノのことかしら? 言ってはいけない?」
「よく言われた気がする」
「それは怒ることなの?」
「微妙なところ。何に対して怒っていいのか。あえて言うなら概念に、かな」
「ガイネン!」
「概念」
「好きな言葉です」
「ありがとう」
風で舞った粗い砂は馬の尻を叩く鞭のように。
「上手く話をするのですね。知性とかいうものですか」
「知性があるなんて初めて言われました」と僕は声を真似た。とても楽しい気分だったから。
「知性のことはあまり知らないですからね」
背中にあたるおっぱいが体温を伝えずにそのやわらかさだけを知らせて、ちょうど良い距離感で女の子を感じている。生に触ると心が乱れすぎるから。
環状線からそれて細い道をクネクネと曲がり始める。目的地まであとわずかだから、と無線が知らせてくれる。ここは僕の若い頃を過ごしたところからはそう遠くはないけれど、見たことのない景色が広がっている。それぞれの町がそれぞれに完結しているからはみ出して遠征に出かけることは滅多にない。道を真直ぐ行けば知っている店を見つけられるだろう。アカデミーのお膝元に近いここは、猫も嫌いそうな閑静な住宅街だ。涼しい顔で端整な邸宅が並ぶ。
「ここでいたすわけですね?」
「まあ、そうです」と言った彼女の手が砂粒に当たられて赤らんでいた。
「はぁ! グローブを貸すべきでした!」
「遅いです。とても」
手はとても大事だから、と言いかけて止める。その言葉はとてもいやらしい。
背中を向けた彼女の後姿はとてもたくましい。後ろ指を刺されないほどたくましく見えた。そういう仕事なのだ。
帰ってきてくれないかな。迎えは他の人を回すから。と支配人の声がする。
「僕ですか」
「君は誰?」
「サトーです」
「こちらはP‐53。今日入ったサトー君?」
「P‐53の」と僕は付け加えた。
「家は間違えていないよ。よくやったね。手袋とヘルメットは彼女につけてあげたのだろうね?」
「おお、それは痛いところを、とてもすっかり忘れてしまって」
「急に言葉がフランクになっているよ、サトー君。気をつけて。この会話は聞かれているからね。あんずの仁で出来たお酒。それが入ったコーヒーを飲みに戻ればいい。お気に入りなのだろ? あんずの香り」
私もコーヒーが好きだ、と言って支配人は無線を切った。後には夜のしじまが。聞かれていたのだ。砂の音で分からなかったな。
彼女はいまどの辺まで? やわらかいところまでいったのだろうか?
胸の辺りからこみ上げる情がもどかしげに指先を揺らす。太ももに焦燥が満ちる。春浅い風はまだ冷たく、この心を溶かすには少し時が必要かも。僕は帰った方がよさそうだった。
拾九
「若くてインスピレーションの強い娘は大抵険しい顔をしているのよ」目の寄った肌の浅黒い女の子が言う。「そういう娘はこの仕事には珍しい」
僕が声をかけた店の女の子の二人連れは仕事終わりにお酒を飲んでいた。接客の後に酒をあおるのは若すぎるのじゃないかなと言えば、老け込みすぎと返された。女の子の一人は僕と目をあわさずに、さっき手洗いに消えた。険のある目をして回りを見渡しながら歩いていった。
「さっきからなんで指先をもぞもぞ動かしているの?」
「いや、なんでもない」と言って僕はもみ手をした。彼女たちと話しながら槍の投げ方を試行錯誤していたのだ。「とても遠くに槍が投げられる。長いことアカデミーにいたんだ」
「アカデミー!」世間を知らないほどこの名前に驚く。「何年くらい?」
「十四から」
「長いね。歳を聞いていないけれど」と言って彼女は笑った。「その指のせいですよ、彼女が気分悪くなったのは。アソコの奥をまさぐる感じで」
「ああ、いやらしかったのか」と僕は狼狽して見せた。老人のように狼狽している。
「この店、厳しいんですよ。他の店みたいにやらずぶったくりじゃないから。やめる人も多いし」彼女は連れの入ったトイレットを振り返った。
僕は、もう一人の娘が帰ってこない間に『帝国』の話で目の前の女の子を口説いてみようかと考えていたのだけれども、不謹慎が漂って口を閉ざしてしまった。
「形のないものは芸術にしかならないかな?」と僕の言葉は曖昧に変わる。「いや、愛とか。形而上の問題とか」
「愛!」と彼女は目を丸くしている。
「外堀を埋めるように言葉で周りを固めていって、塔のように積み上げた先にあるものがそれであったならさ」
「積み上げるものは何かしら?」
僕は、お金? と聞き返しそうになって、「日々溜まり続ける贅肉」と答えてしまった。どちらも女の子の前では禁句だった。言い訳をすると、僕にとって贅肉というのはあきらめの象徴なのだ。あきらめにもみくちゃにされながらタバコを口にしたあの日を思い出した。もっとマシな人生のはずじゃなかったかな、と思ったり。
僕は、あきらめの先には月に届くほどの悟りがあるとか、そんな言い訳まで思いついてしまった。
僕らが沈黙してしまうと連れの娘が席に戻る。僕との情事を彼女に譲ったのかしら? そんなおこがましさまで首をのぞかせる歓楽街の深夜。帰ってきた女の子の顔を見る。瞳のつやつやと黒い、心のありそうな顔だった。まつ毛まで黒々としている。その女の子は左右の顔に少しずれがあった。僕は申し訳なくなって目を背けてしまう。その歪みは彼女自身のものではあるのだけれど、それは同時に世界の歪みでもあるのだ、と僕は思う。世間の矛盾が彼女を通して現れていて、彼女は世界の代弁者なのだ。彼女のそれを許すには、彼女にそれを強いた世界を敵に回す必要さえある、と僕は思ってしまった。そう、それは『帝国』のせいかもしれない。それを彼女の何らかの欠陥に由来するものと考えるのは心が痛むんだ。つまりその位好きになれそうなタイプだった。
「英雄のプロパガンダのことは知っている?」と、僕は質問してみた。彼女たちは首を振って知らないと答えた。それどころか英雄のことを何一つ知らなかった。少女の目を救った話やら、砂漠の砲台から『帝国』に火を放った話、戦う男の鏡であると言うことまで。いまや英雄は噂話にものぼらないらしい。現実に存在するか否かの話以前に何も知らないのだ。
「英雄は今から八十年も前の人で、『帝国』のシステムに飲み込まれていた人々に、それに反発する契機を与えた人物なのだけれどな。それを本当に知らないの?」と僕はいらだってしまった。僕だってタカシモンに聞くまでは、英雄の作りこまれた武勇伝を眉唾で聞いていて、その存在自体をおぼろげにしか想像していなかったのだけれど、彼女たちの無知の前では俄然意気が上がってしまった。
「英雄っていうのはさ、それまで人々が運命だと思ってきた苦痛やら何やらの問題を『帝国』のシステムの問題にまで降ろしてきた人なんだよ。分からない? これが『帝国』のプロパガンダの威力だよ。参ったな。『帝国』は英雄の仕草一つ取ってしても、それを人々の目に曝して一般化を図ったんだ。ないしは第二の英雄の誕生を抑えたと言えるかもしれない。英雄の性行為なんかがよく演劇に取り上げられるのはそのせいなんだよ。彼らは少女を犯した英雄を皆に刷り込んだりしている。英雄なんて存在しない。皆、同じだ。私たちに戦いを挑めば、失われることは多い、と言ってね」
「よく分からないけれどシステムって何?」と目の黒い娘が聞いた。
「システムって、『帝国』の?」と聞き返すと、それ以外ないじゃない、と肌の黒い娘から突っ込みが入った。
「分かった、いや、そこに感じるとは思わなかったから」ここは誠実に答えなければならない。女の子をものにできるかの勝負なのだ。「システムというのは簡単なもので、上納金みたいなことだと思う。そういうのはここにもあるだろ? それを『帝国』では肉体でまかなっていたんだ。飛び切り上等な肉体で払うんだ。さっき少女の目を救ったって話をしなかったっけ? その目は女王に渡されるものだったんだ。女王がそれをどのように使うかは知らないけれど、まさかスープにして食べるのじゃないだろうとは思うよ、でもさ、それで『帝国』は潤うのだそうだ。『帝国』の価値が保たれる。彼らは信用商売だって誰かが言ってた。飛び切りの肉体がどんな信用を支えているのかは知らないけれどね。でも、それでそこに住む人間は生活を保障される、みたいなことになっているんだ。誰かが犠牲になって、自分が選ばれなければ、『帝国』の信用の下で食っていける。霞を食って生きているようなものだろ? 『帝国』の正体のことを 僕が知らないのは、それは演じてはいけないことになっているからじゃないかな。あっ、僕は俳優なんだ。言ってなかったっけ?」
僕がそこまで言うと二人はこう聞いた。
「肉体で払うシステム?」
どうやら僕の答えが彼女たちの弱みに触れてしまったみたいだ。怪訝そうな顔をされている。
「ここのシステムは渡来のものらしいですよ」と黒い肌の娘がタバコを取り出した。「すべて『帝国』から渡ってきたシステムで運営されているの。私たちの仕事に難しいことはないけれどね。タバコを吸ってもいいかしら?」
僕はもちろんとすすめて、自分でも一本くわえた。
「この仕事、守られているらしいですよ。その信用とかシステムとかいうので」
「守られている?」と僕は驚いてみせる。「なにが守られているの?」
「よく神様みたいなものだから、仕事をおろそかにすると罰が当たるなんていい聞かされているけれど。何か関係あるかしら?」
「罰が当たらないことが守られているということだと思うんだね?」
「思い返せば後ろ暗いことばかりだからね」と目の黒い娘が笑った。笑った彼女の目のその奥は深い色を見せて、計り知れない記憶のひだの折り重なりを思わせる。何か沢山あるのだろうな。
「お客様は神様ですもの」
僕はしばらくの間、黙って彼女たちの過去の話を聞いていた。この仕事に足を踏み入れる前の学生時代の話だ。もちろん『帝国』の話も『システム』の話も出てこない、普通の昔話だった。それは何分教訓を含まない取り留めのない話だったから、僕はあくびを我慢しながら聞いていた。彼女たちはいくらでも酒を飲み、話をした。そして、僕は彼女のうちの一人と寝ることになったのだ。もう日にちが変わってしばらく経とうとしている時だった。僕の相手は肌の浅黒い女の子だった。
夜が明けるまでに僕らは店の控え室で三回(三回!)致した。毒のないさわやかな歌のようなセックスだった。朝日が滲む頃には余韻は胸にかすかに風を吹かすほどに。
「小さい頃からこの辺りに馴染んでいたから。こういうものなのだろうな、と思って。それが呪いみたいに私のこと大人にしたのよ。気持ちのいい大人でしょ?」と唐突に言った彼女は笑っている。「こういうときに限ってまとわり付くのよね。気を付けなくちゃね」
僕は「何が?」と聞いた。それは、とても感情を抑えた言い方だったと思う。
「プライベートなことよ」と彼女は答える。
「それは気を付けて。もしくは僕も気を付けるべきかな?」
「気を付けるべきじゃないかな。誰でも等しく空気を吸えるでしょ? あなたも吸うわ。きっと」
僕は今この時の幸福を思い描いている。それは激しいいスコールの午後に天を仰いで雨粒に満たされた黒く輝く瞳の男の子を想像させた。幸福は君のそばで音を立ててはじけているよ。いや、彼女の言う空気とは不幸のことかもしれない。
僕が別れ際に「また会えるかな」と聞いたら「店で働いているから」と笑われた。僕は今になってお金を取られないか心配している。
彼女は明日も出勤するらしい。今日の夜にここで着替えを済ませて、僕との思い出を微塵も匂わせないで出勤するのだ。彼女にとって、しがらみは遠く夕日を眺めるようなものなのだろうか。人ごみにまみれていても、僕と同じ根無し草なのかもしれない。僕は同じ強さを感じようと思う。そういうものなのだ、と。
廿
窓の外には緩やかに風が吹き、窓外に見える近隣の屋根からは積もった砂が糸を引いている。深く掘り下げられ、風から守られた環状線には細やかな砂粒が霞のように舞い降りているだろう。太陽が南中からやや傾き、日差しが部屋に届く。僕は苦い野菜に塩を付けてぱりぱりとかじっている。いざというときは常に悠々と勃起していたい。苦い野菜が効果的だと聞いたことがあった。
精力をあげる為の体操をしているとき父親がドアを開けた。それは僕が四つん這いで肛門を天に突き上げているときだった。僕はゆっくりと動きながら体位を崩して、もぞもぞとベッドにもぐりこんだ。父親はかまわないという風で話をしていた。口調がてきぱきしている。意識しているのかもしれない。僕に仕事を見つけてきたのだと言う。
「昔の風景がなくなろうとしているんだ」と父親は言った。「今のうちに残しておかなければならない。そういう仕事を作ってきた」
「もともとある仕事でいいのだけれどな。新しく出来た仕事なんて重苦しいからさ」
「良い仕事だ。誰からか強いられたことじゃないし。私が役所にいた頃からも随分変わってきてしまって、まあ、私にも一端はあるのだけどね」
僕は父親が役人であったことしか知らない。その仕事で上手くいかなくて(役人の仕事で上手くいかないなんて!)母親に逃げられたことしか思い出にない。確か上司に歯向かったのだとか、一般的な話だ。上司に逆らって悶着しているときに妻を他の男に揉まれてしまったらしい。余裕のないときには不幸が舞い降りるのだろう。
「何をすればいいの?」と僕は訊いた。自分で頼んだことなのに随分と横柄な態度を取ってしまった。「何をすればいいのかしら」
「写真を集めて来て欲しい。古い写真だ」
「それをどうするのかな?」
「役所の出先に出版部がある。そこで刷る原稿を作るんだ」
「たいそうな仕事じゃないか」と言って僕はベッドに座りなおした。「本を出すんだろ?」
「売れるのもじゃなくていいんだ。役所の書庫に収まるやつだ。一般にはほとんど出回らない」
「それでも仕事としては成立するんだ」
「そういう考え方をするんだな」と父親は言った。「そう考えるとは思わなかった」
「責任がないほうが喜ぶと思ったのかな」
「そうは思わない。でも、期待はあまりしない方が良いと思って。臆病だろうか、そういうのは。責任の重い方がいいか?」
僕は歓楽街の仕事と、俳優の仕事とそれを同時にこなせるかと考えている。俳優の仕事は今のところお呼びがない。あそこはいくつかのグループに分かれていて、順繰り役を回していく。役より俳優の数が多いから、なかなかお鉢が回ってこない。歓楽街には楽しみがあるからはずせない。もちろん彼女との関係から逃れるのは男じゃないし、本を作ったなんてなかなかおいしいネタだ。
考え込んでいる僕の顔を見て、なんだか父親は満足そうだ。顔がホクホクしている。僕はいつまで可愛い息子なのだろうか。
「大丈夫。大丈夫。はは」と言って父親は笑った。「まだ、大丈夫。よく考えなさい」そう言って彼は扉を閉めてしまった。
何が大丈夫なのだろう?
それが何なのかはその後の遅い昼食の席で分かった。結婚の話だった。
僕は子供を作らないから孫は抱けない。そう言ったのは僕がまだ童貞のときだった。その後に「自分の血を残すことは無い」とか「この家の血脈を閉ざす」とか付け加えたかもしれない。とても青い言葉だ。余裕のないときには不幸と約束さえしてしまう。
一通り話しを聞いてみたが、それは一般的な催促だったみたいだ。気分が良くなって父親の口から漏れただけだった。結婚という言葉を口にする父親はなぜか頬を赤らめている。僕から性的な干渉を受けたのだろうか?
「もらった体はたいしたものじゃないから」と僕は憎まれ口を叩いた。本当にそう思っていたし、浮かれる父親をなだめてやりたいとも思った。「どこにでもいる家畜のような体だよ」
僕の体は本当に家畜のように贅肉が付き始めていたのだ。長い間鍛え続けてきた体が柔らかい肉に突き崩されていくというのは、少なからず僕のプライドを傷つけている。それに勃起力にも満足できないでいるのだ。
僕が醒めた言葉を吐いても、父親の顔からは明るい色が消える様子はなかった。馬のように悠然と夕食を咀嚼している。長いあいだ、彼を陰鬱に貶めていた何かが消え去ったのだろうか? 顎の筋肉が肉を噛むたびに浮き出て、これから石でも堀に行く鉱夫のようなたくましさがあった。父親は昼食を食みながら「茫洋と広い人生の海原がね」と講釈を始めている。僕はそれに苦笑いをしていた。風の音が気になって、僕は外を見る。
窓の向こう、光の筋を写し取る砂粒は美しくとも、僕らの肺にそれは溜まり続けてこの命を削ってゆく。生まれたときからある逃れられない災いのように、空気に馴染んで、呼吸という不可避な事象に頼りながらその居所を臓の腑にまで広げている。それは口に出されてしまった愛の言葉のように現実を突きつける。それは漂っているだけでいいのかもしれない。僕らの肉体を通じて汚されてしまうのかもしれない。英雄は砂を食んで生きながらえたのだ。汚れは僕らの中に潜在しているものかもしれないのだ。
僕はふと『帝国』のことを口にしたのは間違いじゃなかったのか、と思った。口に出さなければそれはいつまでも宙を舞って、僕らに降りかかりはしないのではないだろうか。
廿壱
僕は山鳩の鳴く朝にコーヒーショップにいる。喧騒はあれども安穏。カウンターで手に取ったデイリーニュースペーパーに代金を払い、クッキーを齧りながら紙面に目を通した。
僕の前に住んでいた地域は公の機関に買い取られて、再開発が進むらしい。
劇団の若手女優に再三交際を申し込んでいた男が逮捕されたらしい。
今年の春は猫が大発生するらしい。
カワシチズムではそう少なくない人が死んでいるらしい。
この街の長が代わる。文民の血筋からかつての国王の血筋へ。
僕は紙面を閉じて目をつむった。
服を剥いだ後の肌の甘い香りで
君の汚れた過去に胸を熱くする
確かなものをつかむために
遠い月のことを忘れたふりをして
よじれたしがらみが太陽に焦がされていく ♪
焦げたコーヒーの匂い
タバコの辛い味
現実をまどろませる
魔法の力さ ♪
僕は複雑な女の子が好き ♪
太陽は燃え尽きた後に
汚れを残すかしら ♪
僕の人生は気付かないうちに複雑になった。僕には、夫以外の男に胸を揉ませた女の血と、世渡りの下手な四角い顔をした男の血が半々流れている。嫌いじゃない。そして僕は複雑な女の子が好きだ。「複雑」はその枝葉のつくりは等しくなくとも、それを持つもの同士に共感を運ぶ。あのふっくらとした白い女の子はどうしているだろう? 窓を叩く砂の音、千々に流れる時、ふとよぎる窓の向こうを歩く人の安寧の地。焦燥を伴って飲み下されるコーヒー。
廿弐
春の暖かさは肌を緩め、過去にあったものが束縛であったことを気付かせてくれる。頬にあたる砂粒が寒さにごまかされず、痛みを伴う。ほどけた心が昨日を確かに透かしている。太陽に眉をしかめて僕は少しだけ大人になる。冬が終わったのだ。
劇団からは連絡がない。もう新しい舞台の練習が始まっていると聞いた。カワシチズムの支配人からは新しいバスを買ったと電話が入った。あの女の子とはあの時以来顔をあわせていない。
僕は劇団でよいコネクションを築くことも出来ず忘れ去られようとしている。お店の女の子と寝てしまって店を追われ、その女の子からも敬遠されているのだ。自ら手にした選択肢にことごとく振られてしまった。確かなことではないけれど、僕は一般的に見て賢くない男なのだろう。
僕の年の頃では「上手くやる」人も少なくないのだろうな、と思った。雲が流れるように頭を回して、高い山にあたれば雨を落として知らぬ顔、タバコを一本ふかすうちに記憶を消し去る、そんな感じでもって指先で札束を弾いて、女を抱いているのかも知れない。でも僕には「上手くいく」という、その感覚がいまいちピンとこなかった。そのイメージはまさに雲の感触ようにあやふやで、細かなところを想像すると僕はますます鈍重になった。嫌悪感が付きまとうのだ。僕は想像することをやめてしまった。
年の浅い頃見た、いつでも通り抜けられそうな大きな穴は、僕の頭の上でその世界を閉じようとしていた。本当にどんな手でも抜け出せそうな穴だったのに。世界は枯れて、色を失いそうになっている。蔦でも生えていたら、僕はそう思った。僕の足元には冷えた固い土があるだけだ。ヒマワリも生えないような固い土があるだけだった。
いや、と僕は思う。いや、世界は閉じられていないのじゃないか? 閉じられてもいないし、錆付いてもいないのじゃないか? どこかでもっと閉じられて、錆付いた世界があるのではないか? どうしようもなく停滞して風の吹き抜けない世界があるのではないか? 慰めでもなんでもなく、まだ僕の世界は閉じられていないのじゃないかって。そう思ったんだ。
どうやら僕には時間がないようだった。大抵それに気付くのは時間を大分使ってしまった後だからしょうがないのだけれど。少し悔しかった。そう、僕には時間がないのだ。
廿参
僕が『帝国製』のモーターサイクルに乗っていることは気になさらないで。古い歴史を知る人には気にされる方も多いでしょうが、僕の中にはカモフラージュという言葉もあるのですから。基本的に僕は歴史を曲げるのは好みません。幼い子の志を曲げるのを好まないのと同じくらいなことです。
こうして僕のインタビューは始まった。
廿四
「君はそう言うが私はそれほど気にはしない。私は英雄がいなくなってから生まれたのです」
彼は古びた写真を何枚か出して言う。「地下鉄がなくなるまでは少し緊張感のある関係だったけれどもね」
写真は地下鉄の車両と乗務員の敬礼を写している。
「戦争の名残ですよ」と言って彼は敬礼している男を指差した。節くれ立った指で、皮があめ色に焼けている。「三百年前の戦争でひかれた地下鉄は全部軍事用でね、それに関わる人々は今でも皆、誇りを持って敬礼をするのです。あの『帝国』にひれ伏さなかったってね。誇りを持っているの」そういうと彼はホクホク笑った。深く刻まれた皺がより確かになる。「新しい『帝国』の乗り物はもう乗ったかい?」
僕は、はいと答えた。
「そうだな、もう三十年になるもの」
僕は頷いて、黙って続きを待った。
「私はもう七十。七十四になりますが、この街は変わっているようで、変わっていないような気がします。まあ、地下鉄はもうありませんが」彼は神妙な顔をして、君は何歳なのかと僕に言う。僕は三十と答えた。「ああ、地下鉄に乗ったことがないのですね? あの粘りのある、力強いモーターの乗り心地。ちょっと頭の足りない力持ち的な可愛げを体験したことがないなんて。ホント、それより君は『帝国』の世代じゃないか」彼は本当に残念そうな顔を見せた。「この街は変わらないようになっているのかも知れません。常に『帝国』から追いやられた人々の安息の地になっているのですから。まあ、変わらないといってもそれは『帝国』に対する私たちのスタンスのことですが、君たちの世代は違うだろうね。いやいや、三十年。世の中は変わらないように見えるのですけれど」
彼はあらたまって僕に聞く。「君は軍人じゃないよね?」
「いえ、普通の役人の息子ですが」
「どこで教育を受けたのかな」
「アカデミー」と僕は答えた。
「アカデミー! 道理で戦う顔をしている。あそこは軍人になる人が少なくないというけれど」
「体の大きい人は多いかな」と僕は答えた。
「『小国』の伝統を学んだのだね」と彼は言った。
アカデミーも『帝国』寄りなのだけれどな、と僕は思う。
「ここが『小国』から『帝国』の衛星都市になった変遷を聞きたいのですが。もちろん地下鉄の職員の立場からです」と僕は訊いた。
彼は、ああ、そういうことかと合点してこう答えてくれた。私たちから仕事を奪った『帝国』は憎いかと申しますと…まあ正直その通り。しかしね、この百年か二百年、もしかしたら『帝国』との戦争が終わったあとからかもしれないけれど、私たちの文明はどうやら足踏みをしてしまったらしい。本当の発展はどこか宙を舞う世界にあって、私たちは取り残されてしまい、『帝国』はその波に乗った。私たちは次第にそれを『帝国』の波だと思ってしまって、彼らを優等生の集まりだと感じるようになったのだろうね。技術の革新は私たちの手の届かないところに歩みを進めてしまって、もう、あがなう術を持たなかったんだ。君のモーターサイクルはまだ車輪があるだろ? しかしどうだ、最新の『帝国』の地下交通なんて何で走るのか見当も付かない。それを分かる科学者なんてこの街には一人もいないのだよ。君の歳でわかるかな…、私たちは張りぼてになりつつあるんだ。私たちの内部で訳のわからんエンジンが私たちの生活を動かしているんだよ。
廿伍
タバコを吸うね君は、と彼は言った。
はい、と僕は答えた。「この部屋でよろしいですか?」
僕はとてもうれしい。他人の世界を語り訊かされるのにタバコなしでは僕は結構きついほうなのだ。ため息もつけるし。彼は写真ではなく一冊の法律書を取り出して、この本を是非紹介してくれないか、と言った。
「今から六十年前の話だ。この本が新しい法律家によって書き換えられたのは。あの日からこの国に住む法律家の魂は『帝国』に従属することになったのです」
彼はタバコの煙を人より多く吸い、ゆっくりと吐いた。部屋はすぐに白い空気に満たされてしまった。ここの部屋はすべてが琥珀色で統一されている。客間と言うより贅沢な書斎という感じだった。法律の名が刻まれた書物に囲まれている。部屋には脂の匂いが満ちていて、彼は途切れることなく煙を循環させている。本に沁み込むのは全然気にしない風だった。僕も遠慮なくタバコに火をつけた。彼は話を続ける。
「法律は感性から生み出されるものだと思いませんか? サトー君。 感性を納得させて初めて法律として機能するのだと思いませんか? 私はそう思うのです。人々は法律に対して消費者になってはならない。いつも心を通わせていなければならない。法律とです。六十年前この『小国』の法律をすべて挿げ替えた男がいました。同じ内容、同じ趣旨、ともすれば同じ文章。まったくかまわないことでしょうかね? これは。何故書き換えたのだと思います? 小国の感性で紡ぎだされたものを、何故一人の男が? 換えなくてもいいじゃないか、今までどおりの条文じゃないか。でも、それは違ったのです」
僕は彼の吐き出す煙に少し酔いそうだった。僕も負けじと吸い込んで、煙はますます充満してしまった。窓を開けてもいいですか、と訊いたが、それは困ると彼は言った。話が終わるまで、と。僕は黙って従うことにした。
「男は『帝国』からやってきました。男は法律そのものでした。法律を体現する男でした。男の血の通い方すべてが法律なのです。男はこう言いました。いつの日かあなたが嫌悪することのない世界が見つかるのだと、そう女王に告げられたのだと。そして、それがわが『小国』だったのです。男は法律を学ぶことなく法律に通じていました。大抵の人は欲のままに法律を、進むべき道のりにある邪魔な法律を蹴飛ばしてゆくでしょう? しかし彼は意識しなくとも違法から疎遠な男だったのです。法律を肉でわかる男だったのです。彼が言うにはこうです。一つの法律が出来上がるまで、それに携わった人々の意識の上に法律の血脈が浮かび上がる。血脈は世界の記憶となり雨となって人々に降り注ぐ。その雨が降っていたときに生まれた子供はまさにその法律の体現者となる。男は『小国』の法律をそのままに思考回路を作りあげられた、まさにこの国の体現者だったのです。一つ条文を挙げれば彼は血の通った言葉で答えてゆきます。今までの法律家が単なる受動的な犬に見えるほど、それは主体的な響きをもっていました。そしてこの法律全書は男によって書き換えられたのです。私たち法律家はそうして六十年前にその男の魂に従属したのです。この本はまさに記すべき歴史です」
彼はそう言って本を叩いた。少し強めに叩いたので怒っているように見えた。
「法律自体が変わってしまったのではないのですね?」と僕は訊いた。
「それはその通り。変わったのはこの国の法律家の魂だ。私たちにもそれ相当の気概はあったのだよ。法律に魂を注いできたのだからね。それが男の存在でまったくポジションが変わってしまった。私らはなつきのいい犬になってしまったのだよ。悲しむべきことだね」
「法律を書き換えた後に、一般的な人々は変わらなかったのですね?」
「よく、法律を理解するようになったよ。まあ、それはむしろ啓蒙活動の成果だったのだけれどね。この国の法律家があの男の魅力に取りつかれて、一人でも多く彼のような男を、とね、雨を降らせたんだ。『帝国』に頼んでね」
「『帝国』が法律の雨を? ですか」
「くわしい仕組みはわからないけれど、法律は雨になった。そして皆に浸みこんでいったんだ。君も『帝国』の乗り物に乗っているね? 仕組みはわからないだろう? でも、雨は私たちを従順な法の解釈者にしたのだよ。それがいいことなのかは今ではわからないけれどね」
彼はそう言うと窓を開けてくれた。部屋はとうに煙で白けきっていた。僕は大きく息を吸い込んだ。鼻の奥にはチーズの匂いがした。
「生気がないね」
「僕ですか?」
「いや、街全体に。随分前からだと思うよ。それが何のせいなのかは語りたくはないけれどね」
艶のある書棚に映る僕の顔は太陽で照らされて白々と輝いていた。話の最中、青白い僕が彼の目に映っていたのだろう。
僕は帰り道に考えている。
僕らが女陰を愛撫するときに迷いがないのは雨のせい? タカシモンの右フックは生まれながらの世界の記憶かしら? 僕にはどんな法律の血脈が刻まれているの? 世界には曖昧なまま着地していないものが沢山あるような気がするけれど? それも、雨によって着地するのだろうか? 文章家が恋のイロハを読み解いて広めるように。
廿六
「雨なんてさ、強いイメージじゃないか。なんか癪に障るな。すべてを洗い流そうなんてさ、強い精力で女を押さえつけるのと同じじゃないか。間違っているかな?」
僕は首を振った。
「僕のお父さんは一つだけ好い所がある。それが雨に頼らなかったことさ。柔らかな光の粒や、風の匂いを描いた優秀な画家だったと思うよ。でもさ、雨のように鋭い筆使いが身に付いちゃってさ、やわらかなやつが描けないの。描いた光の粒も大きすぎるしね。でも、僕はお父さんのことは尊敬するよ。強さだけでカタルシスを生み出そうなんてしなかったもの。そこだけは僕は踏襲することにしたんだ」
匂い、と言って彼は難しい顔をした。彼が答えを逃さないように宙を見つめているのだと、僕は思った。眉間の皺が何度も浮き上がては消える。
「花のにおいだけを描写するってなんて不思議なことか知っている?」
僕は何度も首を振った。
「花の匂いはね、形から発するんだ。その形がなかったら匂いはただの匂いだもの。もっと優秀な匂いはこの世にあまたも存在するよ。女の子はせっかちだからコロンをつけるね。花のいいところだけを抽出しちゃうんだね。でも花は微妙だろ? ちょっと臭いのもあるだろ? 形と相まっていい匂いになるだろ? 僕はいい匂いのするところだけを描写するんだ。視覚が嗅覚を助けてくれるようにしてね。これは父親に習ったことだけれどね。僕の話は退屈かな?」
僕はいいや、と言って首を強く振った。後頭部が少し痛い。
「お父さんはどんな時代に生まれたのですか?」
「お父さんはね、お祭り騒ぎを体験した人。あの胡散臭い英雄が英雄としてこの国に舞い降りて、大事なのは、やれ精神の強さだ、肉体の美しさだ、反骨の精神だと、もうまわりの人々は歌や踊りで大騒ぎのパレード。お父さんは英雄の肖像画を沢山書いたよ。儲かったのだもの。僕はそのとき父が築いた財産で悪いこともしたけれどね。お父さんは力強いタッチで絵を描いて自分のスタイルを忘れたの。雨の強さで何もかも流し去るタッチに変わってしまったの。ほんと、残念だな。僕の宝物はそれ以前の作品群なのだけれど、どうかな本に載る? その時期の作品集は絶版なんだ」
僕は部屋に飾られている肖像画を指して訊いた。
「英雄ですか?」
「英雄です」彼は僕を随分と見つめている。「ひどい絵だろ? 現実なんてどうでもいいんだもの。これは英雄の英雄たらんことを目的とした絵だからね。彼の背景やら傷跡やらを全部覆い隠しちまってる。肌はピカピカで性的だし、目は誇りに満ちた輝き方をしている。憐憫のかけらもないだろ? この国の人たちが初めて英雄の顔を見たのは彼が死んだ後なのに。彼は砂漠の砲台でからからに干からびて死んでいたのにね。あなたはこの絵好き?」
僕はまあまあ好きだと答えた。否定されるものに追い討ちをかけるのはどうかと思ったし。彼は強く何かを憎んでいたから便乗するわけにはいかなかった。
「肖像画らしい」と僕は付け加えた。
「僕らは真実を描いちゃいけない、って感じの答えだな」と彼は言った。「彼が救った少女のその後を知っている?」
僕は知らないと答えた。
「やっぱり『帝国』で生贄になったのだって! はは! 話では恋の女神になったらしいよ。日々天から降り注ぐ恋の雨は彼女のものだったりね」
彼はおおきな声で笑っていた。予定調和の響きがあった。炸裂する感情からではなかった。少なくとも僕は同調しなかった。彼の声が治まると僕の心はいくらか安静になった。
「ちなみにどの絵を本に載せればいいかな?」と僕は訊いた。
彼はこれなら間違いないだろう、と言って一枚とって僕に見せた。女の子が一人椅子に座ってこちらに目線をくれている、背景のない絵だった。醜いものをあえて愛さない視点が心地いい。とても愛らしい、まだ澱みのない女の子の絵だった。
廿七
「今思えばそれは雨の止んだ時期だったのかもしれませんね」そう言って彼女は写真を取り出した。二十数年前の夫の写真だった。背景には環状線にかけられた橋が写っていて、夫の顔は誇らしげに笑っている。目の細い好い男だった。
「あなたのお父さんがまだ現役のとき計画したのよ」と彼女は言って、眼を丸くした。
僕は知らない、と答えた。「僕は父親の仕事を聞いたことがなかったから」
僕の父親は土木作業を取り仕切っていたらしいのだ。その橋は環状線を跨ぐように建てられ、中央の車線はトンネルを掘って地下に入り環状線と結ばれている。トンネルの奥の景色は美しい闇に隠されていた。写真の奥には円形劇場も見えている。今の街の風景となんら変わりはなかった。二十年以上も前の写真だ。
「風の吹かない道路を作るのに尽力したのにね。知らないの? かわいそうお父さん。お父さんが頑張ったおかげで私たちご飯が食べられたのだけれどね」
「それと雨の止んだ日とは何の関係があるのですか」と僕は訊いた。
「雨が止んだなんて言い方は分かりにくいかもも知れないわね」
それから彼女は『帝国』から来た人足のことを話し始めた。彼らは雨によって動くらしかった。彼らは蟻のように働き、街に浸透していった。運命も何もなく子供を作り、数を増やし、『非帝国』を追いやっていった。彼らは太陽のように照り続け、『小国』をおかし続けた。彼らが疲れなく動けるのは『帝国』に従っているからだということだった。『帝国』から逃れた人々は仕事を奪われて、汲々としていたらしい。彼女は言う。雨は彼らを生かし私たちを殺していたのだと。
『帝国』が降らした雨のことについては今なら僕も少しは知識があった。その雨は『帝国』を追われてしまった人々、そういうタイプの人々には厳しい雨だったらしい。人々は言いようのない痛みを伴う精神的な沈み込みを「雨の仕業」と考えていたようなのだ。僕の父親が『帝国』と繋がりたがる権力を押し切って、この街の人足に仕事を振ったらしい。彼女はそれをとても勇気のある事だと言った。
「街は栄えて、楽天的な歌が流行ってね。とても沢山の人が結ばれたのよ。こういうことって雨が止んだとは言わないかしら?」
「雨は痛みなのですね?」と僕は訊いた。
「お仕置きみたいなものかしら。『帝国』を逃げ出した人はいつもそれにおびえて、誠実に生きなくちゃいけないって肝に銘じているところがあるから、神様の力みたいね、なんだか。誰が降らした雨なんだか知らないのに、まっとうな生活に痛みは伴わないなんて考えたのね。世界は良心に満ちているわね」
精神の鬱屈というものが、現実の貧しさから染み入ったものなのか、神の戒めのように超自然的に引き起こされるものなのかは僕には分からなかった。結果的に現実世界の充足が幸せをもたらしたのだ。
この街は英雄が現れた頃から僕の父親が活躍していた時代までは『帝国』の政策が推し進められていたらしかった。建築物の多くは『帝国』製に塗り替えられ、『帝国』的に物事が進んだのだ。それはあの法律を司る男が『小国』に現れてからのことなのかもしれない。環状道路に架かる橋は一矢報いたと言う感じだったのかも。
「この写真は『帝国』の雨が止んでこの街に日が降り注いだ、とかそういう意味合いのものだと考えていいわけですね?」と僕は訊いた。
「悪口はだめよ。その言い方じゃ『帝国』が悪みたいじゃない。他の人に知られたら大義だからさ。わかる? 言い訳が大変なのよ。雨なんて表現を使うのはそのためなのね、普通に空から降る雨のことを言ったのよって。そうしないと生きづらいの。『和解の日』とか、その程度にしてもらえるかしら」彼女はすっかり女らしくしなをつくっている。「あなたに平気で話せるのはお父さんの得だからね」
僕は少し気持ち悪くなってしまった。酔ったのかもしれない。
『帝国』の雨は止んだのかしら
そこに歩く人は『帝国』の血を継ぐもの
僕のペニスは年増を欲しがり
男前の股間にも喉を鳴らす
孤独な僕の頭は空っぽ
雨はどこまでも沁み込んできて
過去の日まで灰色に染める
逆らう術などありそうもない
生まれたときから降る砂の雨 ♪
僕はすっかり滅入っていた。その原因を探すのも困難なくらい。それは空を舞う猛禽類のように優雅に見える。きっと僕は優雅じゃないから滅入るのだ。
廿八
僕は彼に雨の概念について訊いた。インタビューでたびたび取り上げられる「雨」という表現をはっきりしておかなければならなかった。彼は霊能力を使うことを生業とする家系に生まれた男だった。この街の政治の中枢にもお呼びのかかる人物らしかった。彼は話し始めた。
「われわれが『帝国』を離れたのは本意じゃないのだよ。ひどく降り注ぐ雨に耐え切れなくなって逃げ出したんだ。われわれはシャーマンとして『帝国』に仕えてきた。現実とあの世を繋いでいた。目の前にある問題を、風の流れを読んでその意味合いを理解し、風と言葉を交わし、風俗を乱さぬように王に忠言をする。常にあの世と、現実のバランスを取るように努める仕事だ。シャーマンとして最後の日が来るのは誰にもわからない。まさに神の思し召しだ。われわれの言う神とは『帝国』の王のことなのだけれどね。でもまあ、肉体だけを神と崇めているわけじゃなく、彼の思想と、その思想を導いた精霊を含めて言うのだけれど、わかるかな? 人には常に精霊が寄り添い、その人生に導きを与えている。その力が強いものが王のような存在になる。簡単に言えばそういう意味だ。人間は一人ではない。君は雨の事を聞いたな。雨が降っていることに気付くのかね? 君の中にもシャーマニズムが宿っているのかな?」
僕は分からないと言って首を振った。今までのインタビューで分かりそうな話など何もなかった。
「世の中に勝者と敗者がいるように、選ばれたものとそうではなかったものがいて、常に諦めの雨は降り、心の奥に沁みこんでいく。その本意を遂げられなかったものを導いた霊魂たちは諦めの雨になり、地に降り注ぐのだ。その雨の意を汲むのがわれわれの仕事でもあった。われわれはシャーマンとしての教育を受けてきたから雨の降る『帝国』でそれを理解して生きて行けたのだけれど、今の女王になってからは雨がひどい。空を行きかう霊魂共が降りしきるんだ。女王の前で自尊心を捨て去り、盲目的に従う官僚たちが増えてからのことだよ。シャーマンの教育を受けてきたわれわれでもその降りしきる霊魂を慰めることは出来なかった。シャーマニズムの教育を受けていないものの心に染み入るほど強い雨だったんだ。私たちは素人を教育した。その中には女王の存在を否定する事柄も含まれていた。彼らは激高してね。こんな雨を降らした王の下で生きていくことを否定したんだな。それで彼らは『小国』にかくまわれた。そして心の底に流れる反発の魂は戦争へと向かったんだ。女王の降らした雨、それは絶念の雨だった。女王の魂の前に己の導きを捨てて地に落ちる霊魂たちの諦めの雨だったんだ。われわれ、『小国』に逃れたものはそれに服従することを拒否したのだな。なあ、君は大きなものを諦めたことがあるかい?」
僕はアカデミーをやめて、初めてタバコを吸うまでのことを話した。
「おお、君にも雨は降ったのだね。絶念を呼び込んだのだね」そう言うと彼はホクホクと笑った。「雨は君と共にある。読み取りたまえ。この街の雨はまだ弱い。絶望を誘うものじゃないだろう。雨の意を汲み取りなさい。指に触れるほど近くに世界が寄り添ってくるだろう」
彼の目は深い色をしていた。どれほど複雑に入り組んだ回廊を当てはめても納まりそうな深い色だ。僕はかねてからの思いを訊いてみた。彼なら答えを知っていると思ったからだ。
「僕の肌の色が薄いのは何かの暗示なのでしょうか?」
「その肌の色に生まれた男は、よほどの美少年でなければ大抵人の眼に醜く映る」
「それは答えなのですか?」
「シャーマンの世界に肌の色は関係ない。黒くてもシャーマンの才能はある。白い方が感度はいいと思われがちだがね。私が言ったのは視点の切り替えだよ」
僕は少しだけ考えて頷いた。釈然としない思いが残った。そして彼は最後にこう言った。
「雨の毒を感じたら、正しさで切り抜けなさい。痛みに耐えて正しい答えを見つけるのです。臓の腑を毒に侵されそうならタバコを一吹き、それを自らの臓の腑を痛めなさい。悲哀を心に刻むのです」
その帰り道。
ああ、僕は色の白い美少年ではない。色の白い三十の男だ。
そう思った。諦めの雨が降りそうだった。
僕は数日後、彼に電話でこう訊いた。見えない雨が降るなんて。遅まきながら思ったのだ。
「女王の雨はもともとどういう事なのですか?」
「優しい悟りの雨だったんだよ」と彼は答えた。
「いや、そうではなく、どういう仕組みでということです」
「あれは仕組みじゃない、宿命的なものだ。人、一人が生まれれば新しい雨も降ろうし。わずかながら。女王の雨にかなわなくても」
「なるほど」なるほど。「あの、『帝国』は怖くないのですか?」
「世の中を保つのは『帝国』の女王だけじゃないさ。私たちも重要な位置にいるのだよ。つまりおあいこだな」
なるほど。僕は電話を切り、手を上に向けてゆっくり動かしてみた。上下に、左右に。手のひらにジンとする温かみを感じて、なるほど、今は温かい雨が降っているのだな、と思った。僕が泣きながらタバコを吸ったとき、こうして手を上にしていれば、痛いほどの絶念の雨を感じれたかな。
外は砂の吹く街。
僕は普通の一日。
雨は誰の頭の上に。
廿九
「舞台から疎遠になったんだね」五十二代目が言う。「まあ、良くあることだ。この世界はあからさまに断りを入れないんだ。欠員が出たとき君をもう呼べなくなるのは困るからね」円形劇場の真ん中。土を盛り上げて作られた円形の舞台の上。屋根の穴から明かりが差しこんで僕らを闇に浮かしている。五十二代目はこの劇場を守り続けていた支配人の五十二代目だ。
僕は何故僕の事を覚えているのかを訊いた。僕は人の記憶に残るような人じゃないんだ。
「君は運動神経がいい」と五十二代目は答えた。「俳優は運動神経が指先まで通っていないと駄目なんだ」
僕はスポーツアカデミーにいたんだと笑いながら答えた。五十二代目はそれを見て知らないと首を振った。ひどく否定的な顔で知らないと言った。それ以上言うと鉈を振るうぞ、と言う感じだったから僕は笑うのを止して、改めてアカデミーで鍛えられたと真顔で言った。それでも彼は知らないと言った。どうやら僕の顔が気に入らなかったのではないようだった。
「この舞台の上でインタビューするのは少し、畏怖? 畏れ多い気がするのだけれど」と僕は言った。あなたはこの劇場がどれほど由緒あるところか知らないのでは? と訊きたくなったのだ。五十二代目に対して。
「演劇が昔から変わらない演目を演じ続けて何故廃れないのだと思う?」と五十二代目は訊いた。
「見栄ですか?」と僕は即答してしまった。知識人の見栄のためだと思ってしまったからだ。
「汚いね」と彼は言った。「自分のことを棚にあげている。君もこの舞台に立ったじゃないか。何故馬鹿者の虚栄心のために演じたと言えるのかな」
僕はすいませんと謝って口を結んだ。彼はしばらく考えていた。彼は老猿のように静かに座っている。
「新しい、新鮮な声で演じているからだよ。観客はエナジーを感じに来ているんだ。君が呼ばれなくなったのも、君が一番理由を知っているね?」
僕は頷いて黙っていた。随分屈辱的なことになってきた。
「昔からの演目というのはね、歴史のエナジーを含んでいるんだ。新しく演じる人に気軽に馴染まないような、つっぱりを持ち合わせている。それをどう手なずけて演じきるかの技量を見に来るんだ。あの新しい俳優はどれだけのエナジーで私たちの過去を見つめているのだろう、と言う感じで見に来るんだ。君が呼ばれなくなったのは何故だろうね?」
五十二代目は随分怒っていた。僕はますます舞台を降りたくなってしまっていた。こんな所に上がるのは心細い。
「僕は進化を求めているのだけれどね」と彼は言った。「もっと新しい視点で『帝国』を切り取った舞台があっても良いと思っている。例えば、いつまでも強大なものに立ち向かう弱者としてしか、あの英雄を描くことしか出来ない作家に嫌気がさしているんだ。僕たちは『帝国』に見切りをつけた人々と共に戦ったのだよ? シンパシーが欠落している。君のように『帝国』に関心のない人間ばかりじゃないんだ。君はぬくぬくと育ってきただろうけれどね。あの『帝国』の威を借りたアカデミーの中でぬくぬくとね。自尊心を無闇に膨らまして、いつしか自分たちが『帝国』の治めるこの街のマジョリティーであるかのようになって、自分たちの過去に目もくれないで歴史を踏みにじっている。多数派に迎合することで保身を考える。何より、自分たちを虐げた『帝国』の息がかかるアカデミーなんて所に自分の子供を喜んで入れる親がいるなんて! 君が呼ばれなくなったのはああ間違いなく僕のせいだよ」
なんということだ、と僕は思った。お前が俺の首を切ったのか! 口が過ぎるにも程がある。僕はひどく混乱してしまった。
そして僕は「僕が書きますよ」と言ってしまった。自分でも目がドロンと濁っているのがわかった。意識の混濁の中で出た強がりだった。僕は何でこんな男の思いまで背負わなければならないのだろう? 根拠は無いがお前には負けたくない、そう思ったのだ。
「書きますよ。今までにないやつ。それと、アカデミーは天国じゃないですからね」
「ぬくぬく生きてたのはお前だろうがよ。五十二代目なんてたいそうなもんになってよ。お前の口一つでなんで俺の首切れんだよ」
僕は帰り道、その台詞を繰り返し口の中で転がしていた。
三十
タカシモンは古いバスの駅舎で横になっている。駅舎は個室になっている。清潔な匂いはしなかったが、それでも上等だった。それまで夜の田舎道を一人で歩いてきたのだ。疲れてもいたし、足が痛かった。体中が何かの虫に噛まれて痒かったが、文句は言えなかった。タカシモンが眠りに落ちそうな朝頃に南方の顔立ちをした男が近くをうろついていて、タカシモンを気にしている。タカシモンは財布を確認して瞼を閉じ、また瞼を開いては財布を確認した。しばらくすると男はタカシモンを諦めて遠くに行ってしまった。眠るにはもう明るくなりすぎていた。
タカシモンは数日前、教え子をしたたかに殴った。拳闘を引退した後、初めて人を殴った。憎しみを込めて人を殴ったのはそれが初めてだと感じた。現役の頃はもっと清い心で拳を振るっていたと朝日の中で思い出していた。
理由は些細なことだった。タカシモンがタバコを吸っているのを教え子が小ばかにしたのだ。教え子の中ではまだタカシモンは輝きを放っているはずの人だったから。タカシモンは憎しみと優越感にまみれて彼らの肉を叩いた。それは彼を正当化する。例え間違いであったとしても、内から湧き出た感情を否定するには若すぎたのだ。正当化はタカシモンを保安係から逃れることをためらわせた。俺は悪くないのだと。
タカシモンは胸を張って保安係に連行されている。
取調べは枠の外からじわじわとタカシモンを責め立てていた。生い立ちから、心の内面、友人関係から、これからの事。はじめのうちは単なる取調べかとタカシモンは思った。両親の名前から、当たり前の身辺事情まで。友人関係を詳しく聞かれたときは彼らが要注意人物ではないのかを調べているのだと思った。生憎俺の友達に悪いやつはいない、とまで先を制した。しかし話が進むにつれてそれが個人の情報を記録しておきたいと考えた作業であるように思えてきたのだ。過去を聞かれてなんら困ることはなかったタカシモンだったが、これからの行動に制限が出てくるのでは話が違う。タカシモンが口にする一つ一つの物事に含まれる思い入れは、取調官により剥ぎ取られ、彼らの口から語り直されることで、その物事は罪悪の一部だとして彼の前に提示される。彼らは、人生で起こった出来事に寄り添っていたはずの温かな血の通った部分を拭い取り、寒々とした概観を罪のイメジと共に突きつけてくるのだ。タカシモンは外堀が埋め尽くされていくような、恐々とした心持ちになって日々を過ごさなければならなかった。そして取調官はこれからの事を訊いた。
これからの事?
それは曖昧な言葉で濁すと問い詰められ、誠実に答えていくうちにほころびを見せ始め、補修をする度に小さくなっていった。漠然と描いていた未来がである。何故そんなことを聞かれなければならないのか? と憤慨もするが、君が悪くなければ語ることも悪くはないだろうと責められてしまった。
君が悪くなければ語られる言葉も悪くない。
過去のことは捨てればいいかもしれない。未来が縮められていくのにタカシモンは気が滅入った。権力に自分の未来図を語るのは恐怖を招いてしまうことに気付く。彼らはそれを狙っているのだ。未来永劫権力に付きまとわれるイメージはタカシモンの内臓を縮みあげた。誠実な未来を描けば許されるような心理になり、嘘をちりばめれば、それから先嘘の通りに行動してゆかねばならないような窮屈感に襲われる。いくらほころびを繕っても抜け道を見出すことが出来なかったのだ。もはやどれだけ善人になれるかの勝負だった。
そして、すっかり自分は善人であると語り尽くしたあくる朝に、タカシモンはベッドに横たわったまま意識を奪われてしまった。余すところなく権力の犬でありますと認めたあくる朝のことだった。
タカシモンは半眠半醒の状態で流れる雲を見つめていた。そして同時にタカシモンは明け方のバスの駅舎で財布を気にしているのである。ベッドに横たわるのも彼であったし、駅舎で眠りを求めるのもまた彼であった。彼らはお互い自分ををタカシモンだと思っていた。そしてまたまた同時にタカシモンはあらゆるところに出現することになるのである。
歓楽街で酒を飲みながら強い性欲と殺人の関連を語り、過去に寝た女の子の父親に言い訳をして、拳闘の試合で殴りあった男を大声で威嚇している。また猫から餌を奪う黄色いサルになったり、円形劇場を補修するビスになって暗闇を眺めたりしている。ばらばらになったタカシモンが過去にあった一人のタカシモンになることはもうなかった。彼はすっかり世の中に溶け込んでしまったのだ。
§
僕がタカシモンに会ったのはその日が最後だった。僕が彼に持った印象は、随分と色が薄くなったな、というものだった。色が薄くなって随分男前だった。彼はもともと色が白かったが、くまのない透き通る肌の男になっていた。彼はポケットに指を突っ込んで、僕にこう言って去っていってしまった。
「『帝国』に行くんだね」
そう言うと彼は歩いて行ってしまった。僕は誰に放たれた言葉なのか分からないまま、彼を呼び止めることが出来なかった。それは僕の後ろにいる人に話しかけたような言いようだったから。
僕はまた会えるだろうと思っていた。しかしそれが最後になった。彼の行方は誰も知らなかった。
三十一
僕はタカシモンを黙って見送った後カフェに入って思考を廻らしていた。庭に大きな樹木があって青々と葉っぱが茂っている。カップルが僕の後に入ってきて、「ここだけ南国だね」と言っている。随分とドラマチックなことを言うな。砂の街にポツリと南国の飛び地。随分劇的だ。
今日のデイリーニュースペーパーにも『帝国』のあからさまな記事は載っていない。外を歩く人は空から降る何かにおびえる様子はなかった。本当に何か雨のようなものが降っているのかな? 僕の目は紙面とコーヒーカップと窓の外の人々を行ったり来たりしている。紙面をめくると新しい首長の写真が載っていた。新しい首長は『小国』の血筋だ。何か変わるのかしら。僕の知らないところで、風向きがそっと変わるみたいに何かを招いて、また何かを押しやるのかしら。
僕は考えている。空から降る魂たちの意を汲むように、己の規範をなるべく当てはめないように、疾く風のように。
僕の知るこの世界はドラマチックに動いている? 僕の思索の及ばないところで? 誰かが命を賭けるような情熱で大地を潤したり? もしかしたら他人のドラマチックなんて何のことはない群像の凡と変わらないものかも知れないけれど、しかしながら僕がインタビューした人々は何らかのドラマチックを体験している。それは違うこともなく『帝国』との境目で起こっていたことなのだ。そして僕は境目を通り越したところで大人になってしまったのかもしれない。道理で僕の人生はドラマチックじゃない。全てのドラマチックが『帝国』との境目で起こったこととリンクするならば、僕の思い出も僕一人の概念を超えて普遍的な広がりを見せるだろう。たとえ僕がその庇護の下に暮らしていたとしても、雨の雫くらいは引っかかっているだろうし。
僕はドラマチックを感じてはいなかったのかな。
それはとても臆病な僕を思わせる。劇的な思考を否定して、安穏を選び取ってしまう爺むさい僕を思わせるんだ。
あの庭の大きな樹木は誰かの傘になって。と僕は心の中で二度唱えた。けれども僕の心は震えなかった。それに付随するはずのさまざまな感情は僕から遠く離れてしまっている。とても寂しい、とても寂しい。想像が渇いているなんて。
僕はふわふわのおっぱいを求めて歓楽街に向かった。
三十三
僕が待っていたのは初めてモトの後ろに乗せた彼女だった。色が白くてふわふわの娘だ。店を解雇になってから初めて歓楽街に来た。少し後ろめたいから支配人にあてて言い訳を考えている。
「いや、いい仕事が見つかりました、やあやあ、ご心配なく」
でも、もし会ったとしても黙っているのがいいだろうな。
僕はカフェの奥のほうで大張りのガラスがくまなく見渡せるところに座った。僕の手元には杏の香りがするコーヒー。僕の体ごと杏の香りに包まれてしまえばいい。店には粋のいい声が響いている。嘘でも笑顔を振りまかなければならない給仕も好ましい。雑音に消される僕、雑音に臆しない僕。好ましい。
無論彼女に会うのは仕事じゃなく、僕が今まで見聞きしてきた話がどれほど口説き話に通用するのかと言うところだ。話のネタがあると話したくなるのは世の人の心情だ。もちろん僕はそのネタでストーリーを紡ぎ出さなければならない。五十二代目が頭をたれるようなやつだ。あいつだけは許さないから。
彼女は僕の前で連れの男性に値踏みされていた。その場慣れた雰囲気に取り付く島もないのかなと思ったが、男がフロントで今空いている連れ込みを探しているうちに僕は彼女のところに歩いて行った。
「ねえ、覚えてますか? サトーです。モーターサイクルの。一日で辞めた。後ろに乗ったの覚えている?」と僕は言った。
「覚えている? 何を?」と彼女は言う。少し怖がっているみたいだった。
「何もうらみなんてないよ。いい? 何もやましいことをしようって事じゃなく、お話がしたいのだけれど。僕は本を書く人なのだけれど、その中にここで起こった殺人事件のことを入れたい。怖いかもしれないけれど、それならそれでいいし、感じたままのことをインタビューしたいんだ。いいかな? 僕はそういうのを仕事にしたんだ」
「インタビュー?」と彼女は訊いた。
「そう、インタビュー」
「どうすればいい?」
「毎日ここで待っているから、店が閉店するまで客を連れ立つことがなかったら、ここでお話を聞かせて。いいかな?」
「来るの?」
「ああ、どこかに連れて行くような感じじゃないよ」
「今日終わったら二日休み、その後三連勤」
「分かった。二日休みの三連勤。必ず来る」
僕は少し離れて戻ってきた男と連れ立っていく彼女を見ていた。今頃になって随分好色そうな女だなと思った。お尻が大きく張り出してエロティックを振りまいていたからだ。僕は何故惚れたのかね? 分からないところだ。単純な男になりかけているのかもしれない。
僕は一人、コーヒーを口にして醒めた空気を吸っていた。
それは僕が醒ましたのかな?
店の中は何も変わっていない。相変わらず給仕の笑顔が強張るばかりだ。絹に包んだいかがわしい言葉も柔らかに響いている。
女の子に跨りたくて僕は嘘をついてしまった。僕は想像以上にスマートじゃない男だ。色気を素直に出せないなんて、実は虚栄心の塊なのかもしれない。
やはり僕が醒ましたんだ。僕の周りで精霊たちが冷笑しているんだな。
§
彼女は三日後の夜中にきっちりカフェに現れた。人妻みたいな固さを持って現れて、難儀な仕事をさっさと切り上げるみたいな感じで給仕に水だけを頼んだ。彼女は僕に要点を分かりやすく伝えてくれるように言った。僕がインタビューなんて言ったからそうなるのは仕方のないことだったがなんだか色気のないことになってきた。それでもふわふわした彼女の服装のやわらかさは男心に気持ちがいい。彼女もイメージを売りにしているのだろう。
「うん、君にも仕事があるからね、疲れてもいるだろうし。でもここじゃまずいな。話の内容が聞かれちゃわない?」
「それじゃまずいかな?」
「いや、ホントは僕がここにいずらいだけなんだ、ごめんここでいい」
「タバコ吸っていいかしら?」と彼女は訊いた。
僕はどうぞとすすめて、火をすった。
「あなたはいい?」と彼女が僕にすすめる。
僕は一本咥えて彼女に火をもらった。とても慣れた仕草だった。随分彼女は夜の女の子なのだ。
「話って?」と彼女は訊いた。
「もう? うん。殺人事件。そのこと。ここではそれが少なくない数起こるってね。君の周りで殺された人は?」
「いない」と彼女は答えた。何か隠し事がある感じじゃなかった。
「情報ない?どこかの組織がやったとか」
「まったく」
「まったく?」
「知る限りね」と言って彼女は口に水を含んだ。僕はそれをいつ吹きかけられるかびくびくしている。この後どのタイミングで僕と寝てくれるかなんて言えばいい?
「その出来事は君にとってどんなことなのだろう? 例えば実生活の問題とか、真理的な問題とかでいうと」と僕は訊いた。
「私に回ってくる客は多くなるかな。他の娘が怖がるから出なくなるのよ。それで私みたいな鈍い人にたらいまわしされるのね、お客さん」彼女は一息置いて水を口に含み、それを飲み込んだ。「心理面。心理面でいうとね、私の周りでは、請け負ったっていうかな」
「請け負った」と僕は訊き返した。
「世の中殺伐としているようでそうでもないじゃない。優しいところは優しいし。でも殺伐としたところはごく一部で、そこには魔が通りぬける出口があるって聞いたよ」
「出口って?」と僕は訊いた。
「人のこと。よく魔を請け負っちゃう人のこと」と彼女は答えた。
「被害者はそれを更に請け負っちゃったんだ」
「まあ、そういうことになるね」彼女はお酒を給仕に頼んでいる。「もうそろそろ終わるでしょう?」
「もうちょっと、時間無いの?」
「おさけ飲みたいの」と言って彼女は笑った。少し空気が色気づいた。「カタルシスって知ってる。スーッってするやつ」
「うん、浄化作用、カタルシス」
「あれ、よく感じるけどね」と彼女はビールを飲み始めた。
「何のとき?」
「誰かが死んだとき」と彼女はささやいた。「心根が腐ってるのかな」そういう彼女はもうふわふわの悪魔だった。
「それは雨が降ったんだよ」とここで初めてその話題を出した。「一人の夢が儚く終わるとその人につき従った霊魂たちが諦めの雨になって空から降り注ぐんだ。人は沢山の霊体をつき従えて生きているんだよ。事件が起これば諦めの雨も降るだろう。きっと君は諦めの雨と気が合うらしい」
「あら、話の入り口と出口がそろったわね。魔が取り付いて誰かが人を殺し、私の心がスッとするのは、魂の悲しい雨。カッコよすぎるわよね」
「ああ、僕が本を書くと言ったけれど、その本を書く作業というのが、ちょうどその魂の悲しい雨を感じ取る作業なんだとかいう話なんだ。これは霊能者から聞いたんだけれどね。空から降る何か満たされない魂を体に感じて物を書くんだ」僕の言葉を彼女はビールを流し込みながら聴く。「それでね、君の事を諦めた悲しい魂たちは僕に降り注ごうとしている」彼女は意を捕らえられないように呆けている。「つまり、誰かが君に失恋するたび諦めの魂は僕に降るんだ。僕だけに降るんだ。僕はそれを受け止めようと思う」
「つまり、どういうことかしら」と彼女は訊いた。
「好きなんだ、商売抜きで」
彼女は思ったとおりふわふわで気持ちが良かった。
僕はこれから何をしたら好いのだろう。
月は満月、黄金色に潤んで。『帝国』は遥かで、手のひらには柔らかい思い出。このまま僕らそれに触れないでいれば、幸せにやっていけるのかもしれないし、そこには何もないかもしれないし。秘められた想いを炙り出すのは僕の役目ではないような気がするし、真実は誰の目にも現れていないと言い訳して逃げて行きたいし。僕の体はほの白いし。
三十四
僕の中で赤く焼けた鉄は冷めてしまって、身につけるには硬く冷えた鎖かたびらが良いと思って、あれこれねじ繰り回しているうちにそのものの素直な形はどうでも好くなって、怒ることをしないで『帝国』を見つめたくて、臆病なままでこれが僕のスタンスですと言いたくて、運命的な物事の密度を少しずつ薄めていって、すべてまとまれば英雄的な運命の強さに繋がると思って、甘えて考えていた。僕の過去を包み隠さず曝してしまえば、どんな凡作も傑作に近づくと思っていたんだ。僕の過去から英雄と『帝国』のイメージを抽出すればいい、なんて。僕は本の中に自分のペニスのことを執拗に書いたり、どれだけ惨めに青春を送ったかを大げさに書いたりした。どれほどいろんな物事を諦めて生きてきたかを。その端々に曖昧な『敵』のイメージを無理やりねじ込んで、仄めかしていた。劇的な主題を戦わずして遠ざけ、自愛をむさぼっていた。僕はとても孤独だったから、僕はそれを許してしまったんだ。
僕がそれを馬鹿なことだと気付いたのは、雨が降ったときだった。街をスコールが縦断し、春の雨季が始まろうとしていた。
「雨は決まったとき、決まったところに降る」
雨は僕には降っていなかった。降ってもいない雨を、人が降っているというから、僕は降っていると書きました。なんて馬鹿なことなのだろう。雨は英雄に降ったのだ。そして僕と同じ時間を生きる、英雄の魂を何かしら受け継いだ者達に強く降ったのだ。僕は多分傍観者だったのだろう。僕の人生はそれほどドラマチックじゃないから。
僕は強く雨に打たれた人々のことを考えていた。現実的なことが生み出す痛みばかりに気を取られまいとして、外界から沁み込む、無罪な人々を打ちのめす雨のことを考えていた。すべての要因を鑑みても不公平な雨のことを。
僕はまだ若くて、熟していない記憶から観念を搾り出すのが右足と左足を交叉して歩くように難しい。
僕はアカデミーの先輩のことを思い出している。眉間から搾り出すように思い出している。
§
彼は神秘的なイメージに包まれていた。誰にも媚びなかったから、孤独だったから、僕と友達だったから、鼻が高かったから。どれでもいい彼は神秘的だった。神秘的は年頃の女の子に笑われながら恋をされた。こそこそことこそばゆい感じで何かを刺激していた。
彼は知らないうちに顔の強い密度の濃い感じの女の子とセックスをするようになっていた。彼のペニスの話はじわじわと広がり僕らを安心させていった。それほど大きくはなかったのだ。それでも彼はまだ神秘的だった。
そして彼は複雑な男になった。
彼は随分耐えたのだと思う。イメージと現実の格差に耐え忍んで、とかそういうありきたりな感じで。そこまでは良くある話だった。それが次第に奇異な方向へ向かいだしたのだ。彼の周りで気違えたような笑い声を上げる男が増えて、それは遠く離れたクラスの男にも増えて、彼の事を知らない人々に移って、街中を気違えた笑いに包んだのだ。もはや彼のイメージから連想する笑いではなく、気違いの連鎖とも言うべき現象が起こってしまったのだ。突拍子もなく笑い始める子供や、腹のよじれるほど笑う老人まで。精神的病理は人に連鎖するというのを僕は知っていたから皆が発病してしまったのだと思って背筋を寒くしたのを覚えている。彼の心持ちなどには関係なくその物事は進んだのだけれど、彼は少しだけ頭が良かったから、随分と影を背負った顔つきになっていたのを覚えている。
その後、アカデミーは随分の退学者を出して、教官たちを驚かせた。何が原因か分からないけれどとても多くの生徒が校舎を去っていった。スポーツのアカデミーから芸術の分野に出て行く生徒も増えて、それを受けて校長も代わってしまった。アカデミーの入学試験に弁論が加わったのもその頃だった。
彼はアカデミーに長く在籍していた。僕がやめたときもまだ在籍していた。そして格闘技で組み合った相手をひたすらに裏返していたのを覚えている。
§
僕は考えている。じりじりと太陽を動かして考えている。
彼は何をひっくり返したかったのだろう?
何か大きなものを抱えてそれに付随するものすべてを?
メタファーも引きずって?
世界の意味を変える?
いや、自分自身が世界の意味になる。一人潔く去ってゆくより、過去をひっくるめて背負おうとしたのかも知れない。ひっくり返すまでは、と。
僕のイメージの中には英雄が一人、砂漠の砲台で何かがひっくり返るのを待つ姿が見えている。
三十五
僕の中で――
英雄は女の子に詫びている。君の前にも不幸な子はいたのに。生贄になる時期を過ぎた俺なんかに君の気持ちはわからない。だから君を守る。命がけで。二度と誰にもその時期が訪れないように。
『帝国』では彼をさらし者にすべく盲者を集めて未来を語らせる。
盲者は言う。雨の味、変わりつつあり、未来を読むには難しいと。これまでの理を崩さぬようにと。
少女は言う。逃げ出したかっただけじゃないのかしら?
英雄はきりりと言う。理由はどうでもいいんだ。僕は現実にここにいる。砂漠の砲台から故郷を狙っているんだ。後戻りできないことはわかっているから、理由は要らないと思うのだけれど。
少女の目は宝箱に収まったままだ。彼女の眼窩に納まることはもうない。けれども女王のそれに納まるべきものでもない。『帝国』を包む雨はその味を変えてゆく。
人々の目に映る現実の色は、その裏側にある真理にとって変わられようとしている。イメージは芽吹き、心は潤い、悲しみは雨のように。
軍人の行進は続く。確固として私たちは揺らぐことはないとして行進は続く。砂漠の砲台は近い。
もはや『帝国』の信頼は渇いた川のように失われ、潤いはいち早く雨を感じていた英雄の方へ。人々の心は彼に手を貸さなくとも彼に通じ、砲台から火を放たせた。
軍隊を燃やした火の明かりは、遥か我が『小国』に届き、眠りについていた心に熱を送り入れる。我々が抱えていた『帝国』への憤懣が砂漠の砲台に露になったのだ。私たちは英雄をここに招き入れる。我々はますます『帝国』の人々を啓蒙する。
『帝国』の雨、にわかに黒くなり感情を生む。人々千々に散らばり英雄の種を撒く。人々雨を感じ、今、英雄の花が咲こうとしている。
三十六
僕はミルクポットの中身を確認する。白いミルクが温まって湯気を上げていた。僕は蓋を閉めて父親の帰りを待っていた。父親は朝の散歩に出かけている。僕はミルクポットの中身を何度も確認する。同じように湯気を上げたミルクがあるのだけれど、それは言葉の響きほどには確かな感じを僕に与えてはいない。僕はミルクポットの意味も、ミルクの意味も、湯気の意味も何も知らない。僕は温かいミルクを口に含んだときの喜びを想像することができないでいる。少し緊張していたせいかもしれない。
父親が帰ってきた後で、僕はもう一度ミルクポットの蓋を取って中を確認してしまった。
「ミルクが沸いてる」と僕は言った。
「ありがとう」と父親は言う。
「父さん、どうしても書きたいものがあって後回しにしてしまったけれど」
「どうしてもやりたいことだったんだろ? いいじゃないか」父親はミルクをちびちびと飲みながら言う。少し熱すぎたのかもしれない。父親は「終わったのか」と言葉を続けた。
「終わった」
「少し見た」と父親は言う。
「どうだった?」
「わからない」と言ってまたミルクを口に運んだ。「自信ないのか」
「そういう訳じゃないけれど」と曖昧に僕は言う。もう書いていた自分とは遠く離れてしまった感じがあるし。
「大丈夫、全部抱きしめとけ。登場人物から、台詞から、思考したことすべて抱きしめておけ。抱きしめて頬ずりしておけ。宝になる。全部含めておまえ自身なんだからな」
僕はミルクは熱くなかったかを聞いた。父親は大事に飲んでいるだけだと答えた。そして僕もミルクを飲んだ。甘い砂糖が心に優しかった。
「父さんはある意味時代を変えたのだよね、橋を作るとき『帝国』なんかともめて」と僕は訊いた。
「それでその後仕事を失敗した」
「エネルギーを使ったのかな?」と僕は曖昧な質問をしてしまった。ミルクを飲んでこう言い直した。「自分の中に何があったのかな、心とか、因縁とかそういう起因みたいなものが」
「正論を使った。それだけだ。正論は痛い。常識を撫で回すやつには正論は痛いから、痛い私を引きずりおろしたんだ」父親はミルクを飲み干して、もう一杯くれないかと言う。僕はもう一杯注いでやる。
「甘くて美味い。栄養だ」父親はそう言って自分の部屋に向かって歩きだした。扉を閉める前に、上演されるといいなと声を出した。僕はそれに越したことはない、と答えた。
僕はこの人の血を継いでよかった。幸多かれ。
題・・・ 『三十七 トイウスウジニ意味ハアルカシラ?』
三十八
幕が開いた。
失われてしまった
私の体は
一人の英雄に
恋されて
遠くに行ってしまったの
失意は諦めの雨を人々に沁み込ませた
もう喜びの雨なんて降らせそうもない
諦めを捨てて
一からやり直す
私は失われなくとも
世界が失われたの
今日も悲しみの雨が降る ♪
女王様は片目を白く濁らせて踊り始めた。
彼女は片目を欠いて、それを補うように美しく踊った。その美しさはまた女性のエロティックを失っている。顔も歪めず、汗もかかず、胸が揺れることもない。彼女の心はその仕草で彼女の周りに充満し、もう放たれた後には彼女のものではなかった。僕はどこまで行っても彼女は失われ続けるのではないかと思った。彼女の誠意はけなげで、僕の中の愛おしく思う心の、その場所に触れる。僕は彼女がこの道を選ばなければもっと溌剌として生きていけたのじゃないだろうか、と浅はかに思う。つまり、それほどに失われる彼女が寂しい。
真直ぐに伸びた体は柔らかな隙を見せない鎧のよう。僕は周りを見渡した。彼らは彼女の何を洞察しているのだろう? 彼らの目は輝いている。もしかしたら彼女のことなんか見ていないのかも。彼女の作り出す彼女じゃないものに魅入られているのだろうか。僕は彼女がいとおしく思えてきた。本物の女王なんて全然愛おしくない。
目の前のものは芸術なのかも。人が大抵絡め取られるエロティックを越えて愛なのかも。
愛? 芸術? 芸術が愛? うん。それは深い洞察の極致。肉体の枠を超えた精神の着地点。曖昧など存在しない。
僕は彼女の衣装からはみ出した胸のふくよかを見つめていたが、場の雰囲気はその奥の何かを、それによって得た彼女の不幸を、精神の痛手を読み取るように導く。
確かなステップを刻んで彼女は踊り終えた。
拍手。
女を満たすのは男と相場は決まっているのだろうか。様々な男が女王を満たしにやってくる。
あなたに宿る
過去を拭い去る力
すべてを忘れて
踊れる力
僕らはそれに恋して
諦めようと誓った
もう二度と悲しみの雨を
降らすことの無いように
ラララ~ ♪
もう一度喜びの雨を
杯に満たしてほ~し~い~ ♪
男たちは歌い、慰め、時に腰を奮い立たせて女王を誘っていた。筋肉が波打ち、彼らはそれを力の象徴のようにして震わせている。僕の心に諦めの雨が降りそうだった。そういうのは馬鹿なアカデミー君で十分なのだ。またっく。何も満たせやしない。
彼らは照明の具合で花を咲かせ、太陽を照らせた。一人の老人がやってきて彼女の脇にあるスイッチをひねった。舞台にはコメディーのように雨が降った。男たちの顔は曇り老人は首を振った。
私たちの知る
満たされた世界など
あなたの悲しみの
深さには及ばない
底の深い湖が神秘を戴くように
あなたの傷は僕らを……
嗚呼、嗚呼、嗚呼~ ♪
舞台の奥では小さな(実に小さな!)民衆が慌てふためいている。沢山の民衆の血が流れ、腕や足が飛んだ。阿鼻叫喚が舞台に響き渡る。老人はスイッチを元に戻した。舞台には静寂と退屈が舞い降りて、民衆は何もなかったように闇の中に消えていった。
雨は女王だけに降り続けていた。彼女は雨に打たれている。すべてが彼女に張り付いてなんだか彼女は人間らしくなった。乾いているよりずっと色気があった。男たちは風に吹かれて乾いていきとても気持ちがよさそう。老人ははかなく宙を眺めている。誰も彼女に近づくものはいなかった。彼女の失われていない目には憎しみが。そして老人が歌う。
儚きは人の心か
いま在った物を
すでに無いという
世の理と申せども
あなたの悲しみを忘れるなんて
風をふかす南の熱は
あなた様のものだというのに
それは遥かあなたを離れて
愛しくないものにまで
愛を注ぐ
摩訶不思議な女の人よ ♪
女王は踊る。水びだしになった舞台でくるくると回り続け、その飛沫を霧のように撒き散らしている。男たちは不快な顔をして、老人はうんうん頷いていた。彼女は乾いてしまうぐらい回って疲れ果てるとにこにことして王座に座った。女王は歌う。
あなたはいま誰をイジメているのかしら
私の心は晴れて花のように香る
この身に与えられた
力とはいえない
運命のようなものを
与えてくださったあなたは
いま誰をイジメているのかしら
私はその方を愛したいの~ ♪
舞台に二人の男が現れる。一人は白い衣装に身をくるんだ皺だらけの背の高い男で、もう一人は全裸の若い男だった。客席からは声が漏れる。二人が歌う。
古より語り継がれた
偶然のものよ
君を探すまで失い続けた
曖昧な愛の形を
失いたくなくて
僕たちはこの国に託したのだ
そのすべてが愛であるように ♪
どうもその二人は神のようなものらしい。舞台の役者がすべてかしづいている。裸の男が何の加減か四人に分かれた。四人とも同じ顔で、また全裸で、女王を取り巻いている。彼らはくるくると回りながら、女王の上に降っていた雨を体に浴びて、飛沫を散らしている。飛沫が飛んだ周りでもまた役者たちがくるくると回り始める。女王を中心に舞台が波打って、女王から何かが発信されているようなイメージになった。
四人に分かれた男が踊りながら女王の前後左右に陣取り、胸に手を当てて何かを宣誓している。すると四人の男がやおら宙に舞い、丸くなって光り始めて、観客は何が起こったのか騒ぎ始めた。僕は何故四人に分かれたとき驚かなかったのかを不審に思ったけれど、やはり男たちが光として消えてしまうと、同じように驚いた。
舞台は光に包まれて、光は人の血管のような網目に変わってその足を伸ばし、客席まで包んでしまった。光の筋は砂に沁み込む雨水みたいにどんどん僕らの体に差し込んでくる。テクノロジーが僕の体に沁み込んで来て怖い。体が光の網に曝されている。四人の男が放った光の網はもう観客席どころか劇場の外まで覆い尽くそうとばかりに伸びて、観客はもう動くことも出来なかった。客席のあちこちでは、これは脅しじゃないかと叫び声をあげる人もいるし、息苦しくなって目を白黒させる人もいる。僕はやりすぎじゃないかと思って頭をめぐらすけれど、何の対応策もひねり出せない。まさにテクノロジーにやられている。犯されている感じだった。
観客が徐々に怒り出し、席を立って警備員ともめ始めている。次々と席を後にして光の網から逃れてゆく人を見て、これは肝を据えてじっとしている場合じゃないぞ、と僕は思った。席を立って出口を求め、関係ない人を押しのけて殴り、その場から走って去った。人を殴ったのは久しぶりだった。反撃の無い暴力は少し快感で、悪意の感じ。光の網はもう劇場の外にまで漏れ出している。これは一体どういうことになるのだろう?
僕は円形劇場を飛び出て走った。かつてスポーツマンだった頃のように走った。誰もついてこられないぐらいに早く。振り返ると劇場はもう光っていなかった。劇場から千々に走る観客たちがいる。劇場の周りで事の次第を眺める人々も見える。
劇場の中にいる人々はどうなったのか? いまだあの光に曝され続けているのか? あの光に害が無いということになれば逃げた僕らの阿呆がニュースペーパーに載って笑われることになるのだけれど、これほどまでに人を脅かす演出は悪趣味だ。
逃げ出したチキンな心を覆すためにここでもう一度劇場に足を向けるか? いやこれ以上付き合えない。こっちが下手に出ることはないのだ。僕はゆったりと、『帝国』を馬鹿にしながら家路についた。
「やつらにはデリカシーが足らん」
そしてとっぷりと日が暮れてから家に着くと、僕の兄が帰郷していた。
三十九
「ツモル話モアルコトダカラ」と僕は言う。
「そんなに話はない」と兄は言う。
「ユックリシテイクノカナ」と僕は訊く。
兄は答えなかった。窓の外を見て、父親を見て、宙を見た。目を細めて唇を結んだ。
「父サント話ガアルノダロウ? 僕ハ席ヲハズシテイルカラサ」
二十三年ぶりの再会は親身を装わなければならないほど。僕は近所のカフェに出かける。
僕はもう古くなったデイリーニュースを手に取りそうになって、明日の僕らの記事まで待とうと思った。コーヒーと甘い小麦粉のお菓子を頼んで席に着いた。給仕の女の子の胸が大きかった。その彼女は色が浅黒くて、僕は彼女と交わる想像をするのに時間がかかってしまった。僕にはそういう傾向がある。暗い窓の外を眺めたけれど、何も起こっていなかった。別に暴動なんて起こっていない。あの騒ぎはそのぐらいのものだったのかもしれない。
兄の顔立ちは十八の頃から変わっていなかった。それは四十を過ぎた顔にしては青年の香りがしていた。肌は茹でた小麦粉の塊のように白かったし、髪の毛も薄くはなっていなかった。でも、あらゆる曖昧なところ、僕が記憶している兄の顔立ちの曖昧なところが別の世界に染められて、もう、血を分けただけの人になってしまっていた。この二十三年で兄に刻まれたものを、僕は想像しなければならなかったのかもしれない。しかし僕のイメージの中で彼はやすやすと生きていた。他人の人生がたやすいと思うのと同じくらいの浅はかさで。
僕はコーヒーとタバコと甘いお菓子を堪能している。まったく優雅な人生だ。
僕が家のドアを開ける手前、父親と兄の談笑が響いてくる。ドアを開けると二人はミルクを飲んで小麦粉のお菓子を食べていた。頬を膨らましている二人は小さな賢いサルみたいだった。
「話があるらしい」と父親が言った。「食べなさい」とお菓子を僕にすすめる。
いま食べてきたんだと断って僕は席に着いた。二人は前かがみになって砂糖がこぼれないようにしているから、なにやら密談しているみたいだ。
「しばらく誰とも会いたくない」と兄は言う。「誰か訪ねてきてもいないと言ってくれ。部屋から一歩も出たくないから。事情は話すときが来たら話そうと思う。話さなくてもいいなら話さないことになるから」
事情があるなら話しておいた方がよいのじゃないかな、と僕は訊いた。
「話してしまってもいいのだけれど、余計なことだからさ。この家には僕も、僕が誰にも会いたくない理由も余計なことだろ?」
その通りだ。父親もその通りだと言った。僕が外にいる間何もほぐれてはいなかったのかな。兄の話で僕は温かな街の人々から切り離され、寒い緊張感が取り巻いてくる。僕の緊張感は外に向かっていった。やはり血を分けた兄弟なのだ。逃れたいものがあるなら守ってやるのが筋だと考えている。異物みたいに押し出したりはしない。
僕はあくる日を見つめていた。あくる日は何があるのかを思って、腕を組んで考えていた。しかし、彼らがやって来たのはあくる日の前だった。
四十
「私たち、保健衛生を担当している軍の保健係ですが、タオキさんはこちらにいらっしゃいますか?」と二人の男が訪ねてきた。
僕の兄のことだが、と前置きして、もう二十年以上ここには戻っていないと答えた。彼らは、制服にしては洒落すぎている薄いオレンジ色の服をおそろいで着ていて、代わり映えのしない顔をしている。髪の毛を短く刈り込んで、僕より腕周りが太かった。鼻が低く、目が細く、頬っぺたには肉がたっぷりとついている。彼らはじろじろと部屋の中を見てアカデミーの修了証書を見つけたみたいだ。
「アカデミーにいたのはあなた?」
「はい、大分前に」
「体が出来ているね」と一人が言い。
「投げ飛ばされそうだな」ともう一人が薄ら笑いを浮かべた。彼らの考えていることは顔と同じく大差はなさそうだった。力ずくで負けそうな相手を気にしているみたいだ。
開けられたドアの向こう、闇の中に小さなバスが止まっていた。保健係は運転手を入れて四人。一人がドアからしばらく離れたところで、手を前に組み体を揺らしながら周りの警戒をしている。バスはエンジンをかけたままで、兄を乗せたらすぐに運び出してしまうようだ。誰にも気付かれず、闇の中に消し去ってしまうみたいな感じで。意気やら口調は地味だがどうやらただ事ではないようだった。
「もしタオキ君に接触したらここで待っているように言って下さい。もし隠しておくとね、大事なことになりますから。今度は軍の人とかね、大掛かりになりますから。そのときはね、周りも迷惑する、私も迷惑する、あなたも迷惑する。誰も得しない。わかりますね?」
僕はわかると言った。
「ところで何で探しているのです? 僕の兄を」
「彼の家族からの依頼でして」
「家族ですか?」
「ええ、こういうのは家族の同意がなければ私たちも動かないですからね。犯罪者ではないし」
「犯罪者ではないし」と僕は繰り返した。
「犯罪者ではないのですよ、ご心配なく」と相手はまろやかに言った。
僕は何故なのかと訊いた。犯罪者ではないのに何故追われるのだ。見た目も代わり映えしないもう一人の男が言う。
「どうも彼はたまにどこかに消えてしまうのですよ。そういうのはよくありますが、病気なのですよ。あまりよい言いかたではないですが、波にさらわれやすいと言いますか。とにかく療養が必要なのです。とても疲れている。わかりやすく言うと」
「とても疲れているとあなた方に追われるのですね」と僕は愛嬌を込めて言った。
「本人は気付いていません」と一人が言った。
「私たちは保健係ですから」ともう一人が言った。
「とても親切だ。世の中は親切に出来ているのですね」と僕は言った。彼らは笑っている。
「また近々ね、来ますから。はいよろしく」と言って彼らは去っていった。
とてもあっさりしていた。あっさりしているのは後からいくらでも追いかけられるからかもしれない。公務員を馬鹿にしてはいけないのだ。
四十一
僕は兄の部屋に呼ばれた。父親はもう寝ている。父親を起そうかと訊いたが、父親は表側の人だから話は通じないとい兄は言った。
「手短に話す。俺は消されそうになっている。命はどうかわからない。しかし権力者に似通った力が発症してしまったから邪魔者になったらしい」
「力を発症した?」
「権力者の力だ。最初から話そうか? 嘘だといわないか?」
僕は頷いた。もう実際軍の保健係が兄を捕まえに来たのだ。尋常ではない。
「いいか。この街も、俺のいた街も、『帝国』の支配下だ。『帝国』の論理で動いている。一つの街には表側と裏側がある。問題は裏側の権力だ。裏側にも表側と同じように首長がいる。彼らは選挙なんか出ない。金で買うんだ。もちろん金で権力を買うのではなくて、ある力を買うんだ。それをある組織から買う。すると超自然的な力が宿る。裏の首長はその力を操って街を治めていくんだ。本来裏の首長は代々『帝国』から決められていた。『帝国』からやってくる場合もあるし、地元から選ばれることもあった。選ばれるものはその街を体現した人ではならなかった。完全なる人だ。この完全なる人はごく稀にいる。思考からその神経細胞までその街を体現するんだ。体現するという意味は難しいから話さないぞ。かつては彼らが力を与えられて世の中を上手く回していたんだ。しかしいつの時代からか『帝国』のシステム自体に問題が出てきて街から反発が起こる。今の女王の目が失われて後の話だ。その話は知っている?」
僕は知っていると答えた。
「俺のいた街では私の方がふさわしい人なのではないか、そういう声が出始めたんだ。私の方が選ばれるべき人なのでは? とね。もちろんこれは表ざたになるような話ではないよ。お前も知らないだろう。俺があの街に住んでしばらくしてその後、裏の首長の交代があった。その人に力が授けられたとき、俺にも同じような力が授かってしまったんだ。どうも人間的に近しい立場にあったらしい。裏の首長はその話を聞いて自分以外の偽者を排除しようとしたんだ。そして俺は追われる身になった。理解してくれるか?」
「全然わからないけれど、つまり偽者として追われているのだね?」
「裏の首長のね」そう言って兄はこう訊いた。「今の話に身に覚えがあるかな?」
僕は無いと答えた。超自然的な力? いや、全然ない。
「この話、深く刺さるか?」
「何に」と僕は訊いた。
「心に深く刺さるか」
「いや、全然。全然裏の首長になんて興味ない」と僕は答えた。
「まあいいだろう。俺は発症してしまったし、近しい人は発症して裏の首長の偽者になりやすいんだよ。つまりお前も危険だ。逃げなきゃならないかもしれない」
「それはほんと?」
「本当だ」
「何で早く言ってくれないの?」と僕は怒って訊いた。僕が追われる立場になるなんて。
「何もなければ言う必要はないのだけれど、お前はアカデミーでスポーツをやったって話を聞いたし、精神的にタフなことをやると巻き添えを食いやすいんだ。沢山の被害者から聞いたよ」
「僕はまだ発症していないのかな?」
「大丈夫だと思う」
「何でわかる?」
「独特のものが出るんだ。周囲に違う空間が出来る」
「わからないな」
「なってみればわかる。なって欲しくはないのだけれど」
「タオキからは何も感じないけど」
「裏の首長が力を使うときは決まった時間だ。それに共鳴して力が出てしまう」
僕は言葉で彼を兄と呼ばなかった。兄という言葉にはなんだかてらいがある。馴れ馴れしい感じを滲ませたくなかった。
「深く刺さるとかどういう意味?」
「興味があるかないかで助かる助からないがあるんだよ」
なんて難儀な問題なんだ。
「僕はどっち?」と訊いた。
「わからない」と兄は答えた。
「わからないのに訊いたの?」僕は驚いてしまった。わからないのに。実験かよ。
「ごめん」兄はそう言って続けた。「俺は明日奴らが来たらおとなしく連れて行かれるから。これ以上巻き込むわけにはいかないんだ。心配はしないでくれ。施設の追求からから上手く逃れるのには慣れているんだ」
「なあ、何で僕が弟だってわかった?」と僕は質問した。僕が彼に会ったのは七歳のときが最後だ。
「ああ、予想もしなかった。お前が弟じゃないなんて。サトーなんだろ?」
「ええ、サトーですけど」まったく僕は彼の弟、サトーだ。
兄は一人暗い部屋に入ってなにやら書き物をしていた。彼が翌日保健係に連れて行かれる前に僕に渡したそれは、前の晩に話してくれた内容を説明するものだった。
僕はそれを持ってカフェに行った。
四十二
僕はいつものようにコーヒーを頼み、タバコを吸い、デイリーニュースを読んでいた。ニュースペーパーに兄の書いたものを挟んで、壁に背を向けて読んでいた。それにはこう書いてあった。
[裏の首長]→[その街を体現するもの]→[帝国から力を与えられる]→[権力]
体現とは?
街が生まれて成長していく段階で、もっともバランスのいい時代に、どこかで運命的にその街にぴたりとあった子供が生まれる。街という人々の集団と、その営みは形而上の世界で一つの神様のようなエネルギーをその上に作り出す。(人々の意識の集合体みたいなもの)その街のちょうどいいバランスを保つしきたりもそこから生まれる。(上手く社会を回していく叡智とかも)子供は何らかの上の世界の魂を受け継いでいるのだけれども、まったくある街のエネルギーをそのまま映したような子供が生まれるのだそうだ。帝国の考えではそういう子供は裏側の首長としてそのぴたりとした街に送り込まれることになる。
帝国からの力とは?
帝国からの力とは、まったく女王の意識に由来するものだ。その力をなんと表現するかは難しいけれど、太陽のようなものだといっておきたい。(帝国のシンボルは太陽を戴いた女神だろ?)みんなそのお陰で暮らしてゆけるというのがその意味合いなのだけれど。
権力とは?
権力はその太陽の周りに発生する。太陽に寄り添う月のような存在がいつもいるんだ。世の中のことは月に訊けばわかるといわれるほど付き添う人々には世界の洞察が与えられる。(太陽になった人にはほとんど何もわからないらしい)月は権力者と繋がって利益を得る。権力者は太陽の吹かす風(この場合は崇めることによって吹く追い風)を期待して寄り集まる。この権力の集中は表の政治の形骸化につながっている。(サトーの街も首長が小国の血筋に代わったってね。奉りあげられたのだろうな)欲に駆られた人々は、「私たちに都合の良い人を太陽に」と金を使って帝国に媚びるようになった。本来その街を体現する人が追いやられて、間違った太陽が生まれ始めたんだ。いまや女王の力と間違った太陽のせいで世界は歪み始めている。
最後に
俺はどうにか逃げるから、サトーも気をつけて。似たものを消そうとすることは良くあることだからね。
僕は紙をそのまま挟んでおいてニュースペーパーのページをめくった。昨日の円形劇場の騒ぎのことが載っていた。
「『帝国』の斬新な演出の前に民衆逃げ出す」
記事は笑い話だった。逃げ出した皆もこの舞台の出演者であった、というような締めくくりだった。全然おかしくない。僕は当事者だから。
窓の外には相変わらずの南の国の樹木。給仕がそこに水をたっぷり撒いている。その葉に滴る水滴をとらえる一人の男。僕の斜め前に座り絵を描き始めている。
濃い緑色の葉から滴る水。その無数の中の一滴を描くその男の筆を僕は追っていた。僕はその描写に含まれる様々なイメージを浮かべていた。僕はその水滴の丸みに女の乳房や、尻を思い浮かべていたんだ。その描かれた一滴は僕の中で絶えず何者かに変わりながら、最終的には紛れもない一滴の水滴になった。
僕の周りで物事は当たり前な空気を作りだしている。兄の話を聞いても、さかのぼってインタビューのことにしても、僕の回りにあるイメージからは辿り着けないものばかりだ。僕はそっちに行っちゃいけないのではないか、と思うようになっていた。彼らはもうそこから抜け出せなくて、一生その世界で暮らしてゆくのではないだろうか、と思ったんだ。僕は助けられない。とても冷たいけれど、そう思ったんだ。
僕は父親に頼まれていた本を仕上げる。現実に戻りたかったんだ。
四十三
「これ本にしてどうするの?」と太った男は言った。「こんなこと書いたらいけないことぐらい大人になったら分かるでしょ?」
灰色の四角い部屋で、僕はその男と向き合っている。窓から入る日の光が僕らの秘密性を奪ってしまうぐらい明るい。
「これは僕の手は加えていませんが」と僕は反論した。彼が内容を責めるより僕を批判したからだ。「本当のことではないのですか?」
「知らないよ」と太った男は答えた。太っているから喉に詰まったような声だった。「厄介な」と男は付け加えた。
「何が問題で」と僕は質問した。何が問題なのか知れば真実の重みも僕に分かるかもしれないし、ちょっと意地悪したかった。
「答えようがないな」と彼は答えた。「君、アカデミー君だろ」
僕はその通りだと答えた。父親の名前を出して、彼の息子だとも言った。
「アカデミー君は嫌いだな。攻撃的だ」
僕はそのことについて少し考えてこう答えた。
「アカデミーの中でも温和な方だったんですけれど」
「僕は何にも考えていない」と太った男は言った。「いいのか悪いのか。それは認められるのか、否か。それだけを言っていて、僕の判断じゃないんだ。僕の判断なんて砂漠に投げたちっぽけな水風船みたいなものだ。君は正しければそれが通るといいたいんだろうけれど、それは現実に敵意を見せすぎなのではないかね? 君が温和な男かどうかなんて問題じゃない。さっき僕に見せた態度が攻撃的だと言ったまでだ」
「それは謝りますけど、ではどうすれば? 僕は啓蒙する気持ちでこれをまとめたわけじゃないし。ほら、あなた方の憎むべきものがそこにあるとか、『帝国』が降らせた雨に気付かなければならないとか。そんな五次元的な話を世に広めるためにこれを持って来たんじゃない。こう言っている人々もいるんだと、それくらいで考えてくれればよいのでは?」
「そんなことはニュースペーパーの読み物でやってくれ。それなら冗談で済むだろう。僕がまとめるこの本はね、公的なものなんだ。安売りのペーパーバッグとは訳が違うんだ。ちょっとしたことで人生が変わっちまうんだ」と男は憂いを帯びている。
「『帝国』の記述がよくないのですね?」と僕は訊いた。
太った彼はお腹で息をしながら黙っていた。僕の言葉は宙に浮いたまま、そこらへんを漂って、たまに僕の心を突き刺した。言ってはいけなかったかな? この男は『帝国』の犬かもしれないし。
僕は彼に寄って行って、やおらお腹の肉をたぷたぷと揺らした。
「ゆるゆるたっぷり、ゆるゆるたっぷり、女の子を包み込んで、ゆるゆるたっぷり」と言いながら僕はニヤニヤと笑った。
彼の手が僕の肩をガツリと叩いた。僕はすっかり素に戻った。思っていたより強い力で驚いてしまったのだ。何故僕はそんなことをしたのだろう?
§
「どうやって『帝国』と戦った?」と僕は父親に訊いた。
「戦っちゃいない。前にも言ったけれど、正論ぶちかましたんだ」と答えた。「役人していれば大抵どの人間が何になびいているかわかるんだ。それをわかっていながら、わからないふりをして正論のごり押しだ。足元をすくおうとすると、権力の反撃だ」
「編集者はどちら側?」と僕は訊いた。
「お前は何かに逆らう気か」
いいや、と僕は答えた。
「彼は権力ににらまれるのが怖いだけの人だから。まとめたものが物にならないのならそれでいいし。ホントのことを知らないでもみんな生きてゆけるし」
父親はぼんやりと外を眺めて、肘や手首を手でさすっては揉んでいた。もうそのくらいの歳なのだ。
僕がやることは何でもどん詰まりだな、と言おうとしてやめた。
「もう書かないのか?」と父親は訊いた。
「もう書かないと思う」と答えた。
「いや、舞台の方だ」
「それはわからない」
「もったいないな、お前の知った世界はそこでしか通用しないと思うのだけれど」
五十二代目の顔が頭に浮かんだ。アカデミーは許さないぞって言う風に僕を見ている。
「タオキのことは?」と僕は話題を変えた。
「下手に動くと家族全員敵に回される」
「あの人は本当のことを知っているのかな」
「本当のことはミルクみたいに不透明だ」と父親は言った。
「喩えがよくないね」と僕は言う。
「月みたいに姿を変える」
「大して変わらないよ」
「自分の声を永久に好きになれない」
「それはいいな」と僕は答えた。とてもいい。僕も僕のことが好きじゃない。
教わった話でいくと月は太陽の周りを回っているのではないようだ。僕らのいる星を回っている。僕らの星を回っているのだけれども、それは太陽のように遠い。
そして雨季の雨粒をすっかり吸い込んでしまったこの街に飛行船が落ちた。炎に包まれていた。太陽に焼き落とされるように。
四十四
まだ太陽の高いとき、『帝国』の飛行船が落ちた。僕は家で父親とそれを目撃した。それは飛行船のバルーンの部分がはじけて炎を吹き、残った遊覧船もろとも街に墜落したのだ。
「最近の飛行船はあんなに危ないか?」と僕は言った。
「テクノロジーで危ないガスも制御できると思ったのだろうな。『帝国』の慢心じゃい。行くぞサトー」と言って僕らは家を飛び出した。
僕はかつてアカデミーにいたのだ。父親に遅れを取るはずがない。街のはずれの砂地にまで全力だ、方々の家から走り出す人日を尻目において僕は全力疾走。誰よりも速くついた。
飛行船はばらばらだった、壊れにくい遊覧船部分も真っ二つに折れ、死体が散乱している。まだフレッシュな死体はなんだか終末思想のアートみたいだ。全力で走って意気が上がって意識が朦朧としているからかもしれない。全然残酷に見えなかった。僕は生きている人を見つけよう。空を確認した。もう落ちてくるものはない。バルーンの部分も燃え尽きている。辺りには苦い匂いが立ち込めているだけだ。僕は死体たちに近づいていった。
乗っていた人々は皆上流階級のような格好をしていた。普段街でお目にかからない。そういえばアカデミーで事あるごとにお偉いさんが並んでいたっけ。あそこでは年に何回かお披露目をするんだ。そのときちょうどこんな格好をした人々がずらっとアリーナを取り囲んでいた。特権階級だ。胸に太陽のマークをつけた上等なマントを羽織っている。
救えそうな人、救えそうな人……と僕はつぶやきながら人を掻き分けて、まだ壊れていない船体の内部に入り込んだ。早く生きている人を見つけないと、軍がここに来る前に死んでしまう人もいる。命が助からなくとも、最後の遺言ぐらい聞いてやれるさ。
人々が折り重なっているのをとりあえず一人ひとりに分けてやる。生きている人が下敷きじゃ可愛そうだ。男より先に女子供を確認する、未来があるし、子供も産む。フルパワーで作業を終えた後、一人の女の子が生きていた。それは何人かの下敷きになって生きていた。こういう事故では子供が助かりやすい。どういう意味かは僕は知らない。きっと神様のお陰だと思う。
「大丈夫、大丈夫、もう大丈夫だからね。もう少しで軍隊のお兄さんが来るから」彼女は可愛かった。金髪で目が深々と緑色だった。その深い色は宝石のようで、救えた僕をまた救ってくれた。
彼女はフーフー言いながら怖がっていた。当たり前だ。空から落ちたのだ。
「他の人を探しに行くからね」
その頃になればもう僕一人じゃない、街の人がそれぞれの意識で集まってくる。一人でも多くの人を救おうと作業する。僕は何回か女の子を確かめに行ったが、彼女の意識は確かだった。無事助かるといいな。どこかを打っていれば、今は意識があっても助からない場合があるから。
軍が到着して共同で作業した。さすがに追っ払ったりしない。僕は随分疲れて手を止めて、女の子の運ばれてゆくのを見送っていた。
「助かればいい、お父さんお母さんはどうか知らないけれど」と独りごちる。
「父さんもう帰ろう、もうそろそろ出番は終わりだから」
「帰るか?」と手を止めて父親が答える。「まあ、もう十分だろうな」
倒れている人より救護する人々の方が大分多い。
軍のリーダーがやおら人々を遠ざけ始めた。
「これ以上近づいちゃいけない! 危険だ、後は我々に任せてもらう」
そういうと、僕らを帰すこともなく、一つの場所に集めて名前を聞き始めた。名前、住所、年齢、等々。
「ここにいるもので、以後出頭をお願いすることがある! そのときは進んで私たちの指示に従うように! 以上」
僕らは三々五々家路についた。手にはべったり血がついていた。帰る途中死体からちぎれた頭部を蹴飛ばしてしまった。こんな所まで飛んできたんだ。
「あれはこの街の者じゃないな」と父親が言った。
僕は周りを見渡して、誰にも声が届かないように答えた。
「どこから来たの?」
「北の方じゃないかな?」
「何故」
「シンボルが花だった。この街はシンボルに花を使わない」
「マントには太陽があったけど」
「あれは太陽じゃなくてヒマワリだよ」
ヒマワリ? そういえば、大分前に見た飛行船にもヒマワリの絵があしらわれていたことを思い出した。
「北の方からのお偉いさんだな」と父親は言った。
お偉いさんが亡くなるとどういうことになるのだろう?
「大混乱じゃないかな」と僕は言った。
「曖昧なことを言うな」と父親は笑って答えた。「海に落とされた猫じゃあるまいし」
「その表現は嫌いだ」
僕は猫が好きなのだ。
僕らは家に着くと体をくまなく洗った。目を閉じるとさっきまでの光景が浮かぶ。僕は何かをにらんで考えようとしたけれど、何も思いつかなかった。何を考えればいいのか見当もつかない。見ず知らずの沢山の人が死んだ。それだけのことなのかもしれない。僕は僕に少し閉口する。冷たい人だな、僕は。
四十五
僕はアカデミーの先輩に呼び出されていつものコーヒーショップにいる。理由もなく殴られるのではないかと思ったが、殴られはしなかった。彼は女の子を連れていた。
「彼女は壁に張り付いていたんだ」と彼は言った。彼の横には有蹄類のような顔をした目の小さい美人が座っている。
「僕が人生に気付いたとき、まあ、そう見えたのだけど」
「壁に張り付いていた?」と僕は訊いた。
「つまりこう、ふくらみがなかったんだ」彼は言う。「何か大事なものを奪い取られてしまっていて」
「今は大丈夫なのですか」と僕は彼女に向かって訊いた。返事は先輩から帰ってきた。
「そのとき、僕と同じものが失われていると思ったんだ。理解者になれると思ったわけなんだ」
僕は、そういうことなのですか、と彼女に訊いたが、彼女は目の奥を照れたように潤ませて黙っていた。僕は二人の体の相性が良いところを思い浮かべた。実はその話なのじゃないかな。
「僕は気付いたんだよ、サトー」と彼は僕の名前を呼んだ。「僕のアカデミーの人生が見えたような気がするんだ」
「それは教えて欲しいですね」と僕は言った。
彼はあらたまってテーブルの上に手を組んだ。それまでテーブルの下で彼女と手を握っていたらしい。
「サトー。アカデミーにいた頃、何か重いものを感じなかったか?」
「重荷みたいなことですか」と僕は返した。
「それは普通にあることだろ? それとは種類の違うやつ。こうあらねば、なんて考え方は、どうでもよくなっちゃえばどうでもいいだろ? それじゃなくて、いつまでも頭を締め付けて離れやしない、僕らのことをひどく無視したやつなんだけどな」彼は宙の中に答えを探すように眼を泳がせた。「そうだな、集団が作り出しちまった超意識みたいなものかな」
超意識! あっちの世界のことなのだ。
「本人達が意識しなくともその頭上に浮かぶ、浮遊している意識エネルギーとか」と彼は付け加え、僕の返答を待っている。
「そんな話を聞いたことがあるよ」と僕は答えた。インタビューでも、兄の残した書簡にも、そんな話があった。「それで、何でそんなことを思うのかな」と僕は続けた。
「まあ、聞いてくれよ」と彼は言った。「僕はそのエネルギーに随分削りとられてしまったんだ。何もかもすべてだ。これまでの僕は年老いた有蹄類みたいに、惨めに草を食んでいたんだ」
有蹄類! 僕は少し縮まってしまった。
「僕は思うのだけれど、サトー。サトーはその重荷から逃れているよね」と彼は言った。
「軽く見えるのですかね」と僕は言う。
「その言い方はよくない。軽んじているように聞こえる」
「でもつまり重たい冠に気付いたのですよね。それを被らされたと」
「彼女に会う直前に気がついたんだ。ちょうど抑圧が、アカデミーの呪いみたいなやつが取れると、彼女はふっくらするんだ。わかるかなその関係。抑圧が取れると、彼女はふっくら。抑圧は僕の抑圧。抑圧あると、彼女のっぺり」
僕は頭を振って、わかると言った。うん、わかるから。
「それで、僕に話というのは」と僕はその場を切り上げる方向に向かう。彼女がふっくら。いいことじゃないか。まったく。
「僕と闘ってくれないかな」と先輩は言う。
「力試しとかですか」と僕は言った。
「一緒に闘うということなのだけれど」
「何と?」
「彼女が巻き込まれていることなのだけれど」
「それと僕に一体何が?」
「そういう問題じゃない」と先輩は言った。「そういう問題じゃない。世の中の歪みに対する挑戦だ」
彼は大真面目に言っていた。確かに僕にも見えているよ、『帝国』の歪みは。でも、あなたは何と戦おうとしているのかな。
「具体的に何と戦おうとしているのかな」と僕は聞いた。「政府?」
「その向こうにあるものだ」
「形はあるのかな」
「もっと意識的なこと」
「先輩を削り取ってきたエネルギーのことかな」
彼は、まあ、それでいいよ、と答えた。
「復讐みたいですね」と僕は言った。「彼女と逃げるのですか?」
「お前は冷たくなったのかな?」と先輩が言った。
「いかにも、それが僕の最後の砦です」
「サトー、お前にはカタルシスがある。お前が跳躍するたびそれを感じていたし。カタルシスは正しいだろ? 正しくなきゃカタルシスは生まれないし。どうなんだろう」と言って、彼は手をひらひらさせている。その隣で女の子は魂の抜けた微笑を湛えている。
僕は彼らを救わないことに決める。向かい合っている最中、背筋に寒気が走っていたんだ。その寒気に、彼らのセックスのイメージがまとわり付いてひどい心地だった。救わない、そんな選択肢もあるんだ。
僕は彼らと別れた後、ふと思う。
「あの人がそれに気付いたのはいつのことか。そう、いつのことか!」
僕は走って二人を追いかけた。
「ごめんなさい、ホントにごめんなさい。二人が初めて会ったのはいつですか」
兄がこの街に帰ってきた、その日だったのだ。
四十六
僕ら二人が軍に呼び出されたのはその日から間もなくだった。僕らに説明されたのは、感染症の有無を調べる次第で、云々ということだ。
「僕は夜に仕事があるのだけれど、それまでには帰れるのかな?」と、僕は訊いた。兄は軍に捕まったのだ。帰れる保障を頂きたい。
「それほど時間はかからないと思います。検査自体はコーヒー一杯分の時間でしょう」と保健係は言った。彼らのオレンジの制服が清潔に光っている。
「感染の場合、何か、拘束とか?」
「まあ、それは次第によります」
「次第によるのですか。拘束は困るな」と僕は困ってみた。
「感染も困ります」と保健係は言った。
確かに僕らは血を触ったし、その通りなのだけれど。
父親はゆったりと椅子に座って僕らのやり取りを聞いていた。
「街の病院ではだめなのかな?」と父親が言う。「すぐに向かって検査をするよ」
「私たちにはデータがありまして、あの事故に巻き込まれた人のですね。一般に渡すわけにはいかないのですよ。彼らのデータを」
「彼らの持っていた病気を、一般に漏らすことは出来ないということかな」と父親が質問した。
「まったくその通り」と保健係は目を丸くした。まったく僕の父親は物分りがいい。
僕らはバスに揺られている。視界はひどい砂煙で風景は濁ってしまっている。運転手は不機嫌。でも、僕はこの景色が嫌いじゃない。黄土色に染められた景色は不揃いな色を隠して心を平静にしてくれる。僕らの他に乗客は一人。えんじのスカーフをしている女の人。顔は見えない。彼女もあの現場にいたのだろうか。軍人が一人、一番後ろで腕を組んで前を見つめていた。
父親は前の席でぼんやりとしている。何を考えているのだろう。僕は兄のことを考えている。あの人は上手く逃げただろうか? 僕は同じ立場に立って強くいられるだろうか? 将来幸せになれるだろうか? もう二人ともいい歳なのだ。
僕はバスに揺られながら、実は僕らは何かを発症していて、施設に入れられるのではないだろうかと心配している。
軍の施設に入ってしばらく待たされた。検査できる人はこの施設に一人しかいないということだ。そんな専門的な検査が必要だなんて、どんな病気のことなんだ。待合室の窓は大きくて開かなかった。空気は換気口から新しい、おいしい空気が送られてくる。いつも砂混じりの空気を吸っているからありがたかった。それにしてもおいしいい空気って! まあ、病原体を外に漏らさないために何か仕組みがあるのだろうけど。空気がおいしくてタバコを吸いたい気持ちにならない。もちろんそこは禁煙だったし。
父親は緊張して腕を組んでわきの下に汗のしみをつくっていた。
「緊張するのか」と僕は訊いた。
「緊張? しているのだろうな、汗かいてるし。臭いか?」
「臭くは無いけど、ここのおいしい空気汚さないでね」と僕は笑った。
対応してくれたのは軍人じゃなく、何かの研究職みたいな白い制服を着ている人だった。軍人みたいに肩が怒ってない。やわらかな声で僕らに質問し、僕らの質問にもやわらかく答えてくれた。
「ここは政治犯収容所ではないですよ」と笑いながら言うのだ。裏のない感じで。少し怖いけどね。
ここ地いい場所で過ごしていたので待ち時間は苦痛じゃなかった。
通された部屋は白い部屋で、天井が低かった。僕の身長を僅かに超えるぐらいだ。部屋にはベッド六台あって、誰も寝ていなかった。職員がどこでもいいから寝てくださいと僕らに言った。僕は奥のベッド。父親は出口に近いベッドを選んだ。
ベッドに寝ると上から仕切りが落ちてきた。完全な個室になるのだ。するするとそれは降りてきて、床に触れるときも音がしなかった。なんだか『帝国』の地下交通網を思わせる滑らかさだ。
「これは有毒なガスではないですよ」とスピーカーから声が聞こえた。個室に天井から白いガス状のものが噴出して、部屋を満たしてゆく。僕はその煙を吸うと心地よくなっていく。心拍数が上がり気味だ。
「なんだか気持ちが、こう、変わってゆくような気がするのですが」と僕は叫んだ。マイクは外につながっているのかな?
「大丈夫、大丈夫、こんなことで死んだ人いませんよー」と能天気に笑っている声がする。
しばらくすると僕の心は平静になり心拍も収まってきた。
僕の部屋に老人が入ってきた。老人の外見は、老人らしい見事な老人だった。
「はい、始めますからね」そう言って、老人は僕を脱がせ始めた。
「私、男の人興味ないから安心してね。女の子に対する興味もなくなった人ですからね」
僕は全裸になった。彼はいい匂いのする塗り薬を、チャクラのある部分に塗り始める。額やら、丹田やら、股間のあそこまで。
「じわじわ熱くなりますよ。思ったより熱くなりますよ。熱くても逃げちゃだめですよ。逃げるところはないですよ」
僕は温かくなりながらこう訊いた。
「あなたがこの施設で一人だけこの検査を出来る人なのですか?」
「世界で一人だけ、世界で!」と言って彼は笑った。「他の人は、えせ、えせ! とんでもないもんだよ。この検査は私が一番」老人は満面の笑みだ。
「何を調べるのです?」
「今調べるから待ってて。せっかちさん」
彼はそう言うと。僕の口に粉をつけた。
「味わって。口の中広げて味わって。舌の両側に広げて。苦いと感じるまで。良いかな?」
僕はうんと頷いた。とてつもなく苦いわけじゃなかった。肩透かしだ。
彼は目を閉じて何かを感じているらしい。チャクラから出る熱を手のひらで測っては考え、また別のチャクラに移って同じように手をかざす。そうやって股間から、頭頂部までをゆっくり確かめていった。
「大分苦労した体だね」とその老人は言った。「体は魂の入れ物だからね。大事にしなきゃね。そのうち愛想をつかれて出ていてしまうからね」
老人は、よし! と言って、
「これなら問題ないだろう、どこにも悪い魂は入っていない」と言った。
「そういう検査だったんですか!?」と僕は訊いた。
「八体入ってた。魂八体。結構多い。あんた複雑だね、きっと。でも病気の魂入っていなかった。良かった。女の人はいってた。不思議な人になる、あなた」
まあ、僕は複雑な人生を送っているけれども。
「大体いくつなんですかね? 魂の数は」と僕は訊いた。
「大体、多くて三、四。少なきゃ一だ。単純な『帝国』さんたちなら一個か二個かな? ぶはぶはぶは… 魂の葛藤もありゃしない。ぶはぶはぶは」
「先生、『小国』生まれでしょう」と僕はうれしくなって訊いてしまった。
「バリバリじゃよ!」と言って口ひげを揺らすほど笑った。
「すいません、僕の兄も見てほしいのですが、だめですかね?」
「もう見たよ、カルテ見たらわかったもの。あなたたちタオキさんの家族でしょ? でもね、詳しいこといえないの。彼は外に出せない。ここは空気のきれいないいところ。肺がんになんてならないいいところ。出てゆくことは無いのじゃないの。はははは」
「魂に病気があるとかですか?」と僕は食い下がった。僕も発症するかもといわれたんだし、頑張らなきゃいけないところだ。
老人は口ひげを舐めて考えている。目玉をぐりりと上に向けて考えている。
ちびっと、ちびっとね、と指でジェスチャーしてこう答えてくれた。
「お兄さんは魂のうち一つ。あるお偉いさんの物と同じものが入っているのよ。とても危険よ。あれは人工的にしか入れられないものだからね。これが入っているということはね……おおっとここまで」
「先生、口軽いね」と言って僕は笑った。
「何せ、私は、世界一の男。多少のことでは怒られん! 私に見られりゃ女王も猫だ。だははははは」
まったく最高だな。この人は。でも、僕は猫が好きだ。
「僕の魂は八個ですか」と訊きなおした。
「うん八個じゃ。女の魂もふくまれとる」
僕はくすくす笑った。
四十七
僕は帰りのバスの前で、タバコを吸い、砂の混じった空気に煙を吐き出した。汚したといえるほど、さわやかな空気じゃない。
これで現実に戻れるか、と思う。いやいや、僕は今、魂が八個あるって認めているじゃないか。現実と明らかに境目があることを認めて、僕の中で境界が曖昧になっている。曖昧になっているどころか、今までインタビューで聞いたことも、兄の話も信じちまうんじゃじゃないか? 僕は。正直どうでもよくなってきた。別に本当でも良いじゃないか。みんな知っているの? 魂がいくつも折り重なって自分が出来ていること。父さんはいくつだろう?
僕はバスの中で発車を待っている父親に訊いてみた。
五個。
勝った。
まあ磨り減った体だからな。何体か逃げ出したんだろう。
僕は帰りのバスの中で考えている。
僕は兄の味方に回ることで、これまでの平静な暮らしが壊れることと、兄を信じていながらシカトを決め込んで心を痛め続けること、を天秤にかける。
金で買った力で世の中を治める? 太陽と月? 偽者は消せ? 女王の目が奪われたから諦めの雨が降ります? 馬鹿!
なんて世の中だ。与えられた力は『帝国』の女王様のものらしいじゃないか。ここまで考えて腹を決めないなんて馬鹿げている。
僕は兄を助ける。少なくとも兄だけはね。
四十八
僕はあくる日から走り始めた。拳闘士を目指していたときのようにはいかないけれど、毎日走って汗を流した。汗を流した後、逆らうようにタバコを吸った。
『帝国』の雨は降っているのかもしれない。体に沁みこんで臓の腑を蝕んでいるのかもしれない。僕は今まで現実を諦めてきたのかもしれない。色々な仮定を真面目に考えながら、僕は走っている。
僕は今まで会った人々の啓示をもっと真摯に受け止めねばならなかったのだ。現実にあっち側もこっち側もない。誰かの現実があっち側で、僕の現実にはかかわりがないなんておかしな話なんだ。きっと。
世界には訳のわからない空気が充満している。それを跳ね除けてきたアカデミーの日々。無知に育ってしまった、僕が抱えている魂たち。僕は厳しい道を歩んできたつもりで、同時に厳しい現実を免れてきたのだ。目をつむって。
春の風が黄色い砂を運んで、街中に砂の花を咲かせている。美しいものに目を奪われるのは人の性か、現実の厳しさから一服を求めるからか。
僕を待っている何かしらの変化が厳しいものであるなら、その中に一輪の花を。この街には咲かない一輪の儚い花を。僕の心をもってして。
僕は街外れのもターサイクルショップ「マズルカ」に向かった。
§
「おお、おお。お待ちしておりました」と店主は言った。「久しぶりですね。旧友を温めるとはこのことですね」相変わらずの満面の笑みは気持ちいい。
「そんなに遠い日じゃないと思いますよ。僕が前来たときは」
「人の少ないところですから。一日は一年ですよ。何の御用で」
「店主の魂はいくつ?」と僕は訊いた。
「魂の数?」と店主は笑みを消した。笑みを失った彼は少し陰険な顔をしていた。
「僕は八個らしいです」と僕は笑った。
「では、私は七個で」
「じゃ、燃料を七個もらいたいな」
「七個! 月の裏側まで行くつもりですか」店主に笑みが戻った。彼には笑っていて欲しい。
「じきに魂が増えたりしてね。空から降ってきて」と僕は笑った。「すぽっと、体に入ったりして」
店主も笑っていた。
「もう一つヘルメットが欲しいんだ」と僕は言った。
「良いのが入りました。ちょっとお待ちを」
そう言うと店主は奥に入っていき、二つデザインの違うヘルメットを比べるようにもって来た。
「こちらがこの街の作品。これは『帝国』の作品。二つとも代表作です」
「強いのが良いのだけれど」と僕は言った。この街のものを推して欲しかった。
店主はこちらです、とこの街の作品を差し出した。うんこれでいい。
「彼女ですか?」と店主は言った。
「うん、そうなんだ」と僕は照れ笑いした。僕はそんなうそも出来る。
「ずっとここでこの店をやってゆくのですか?」と僕は訊いた。
「はい」と店主は真顔で答えた。目が優しく光っていた。
「幸せでいられるといいですね」と僕は言った。
「幸多かれ」店主は言う。
僕はありがとうと言って店を後にした。窓ガラスの向こう、店主が仕立てのいいジャケットで僕を見送っていた。
僕は、幸多かれ、とつぶやいてみた。いい言葉だった。
五十
僕は部屋の中で独り。脅かすものは、どこからか入ってきた砂の混じった空気の匂いだけ。
子宮から飛び出す前の赤ん坊のように僕の決心は危うい。そして逃れられない運命なのかも。
僕は買ってきた一つの缶詰を眺めて、明かりを消した薄闇の中で眺めて、ラベルの色を不思議に眺めている。
あらためて、僕を脅かすものは砂の匂いだけ。僕が生まれる前からそこにある匂い。
五十一
僕は街を、円形劇場から放射線状に延びる幹線道路と、環状線とを使って、螺旋状にぐるぐると回っている。一番小さい円から、次の円へ飛び乗って、また一つ大きな弧を描いてモータサイクルを走らせる。ひたすらに走り続けて燃料を消費してゆく。燃料は少しずつ減って、僕をじりじりと追い詰める。
五本あれば『帝国』まで行けるのだな。店主はそう言っていたけれど、本当のところはどうだろうか。実はどれだけ燃料があっても『帝国』になんて辿り着かないのではないだろうか。
僕が買った七本の燃料は、僕の覚悟のしるし。それを少しずつ削ってゆく。
それは印象的な八番目の環状道路。中心部と郊外の境目になる一本の溝、隔たり。ここは僕がこのモトに乗った初めての道。
実はここは環状線の中で一番美しいな。と僕は言った。
垂直に削られた側壁がまだ新しく、風化して滑らかになっていなくて、荒々しい表情を見せて、その上に空を切り取る。人の手によって造られたのに、なぜか手付かずの自然、と思ってしまった。心のどこかに畏怖が舞い降りる。それくらいにここは地下深く。
僕の意識は曖昧から抜けだして、その輪郭を確かにした。確かになった輪郭は、ぼくの心を張り詰めさせ、その鋭さで覚悟を削り取り、疲弊を運ぶ。
なんと、僕は自分の人生が惜しくなってしまった。人を救おうと決めてなお逃げ延びる、この浅ましい心のありよう。なんという僕の矮小さ! さすがにこんなちっぽけな自分では拳闘士にはなれなかったのだ。拳闘士どころか何にもなれやしない。
強い劣等感は僕をぎゅうぎゅうに搾る。そして、強く握られて搾り出される果汁のように、僕は英雄になるあまい夢を見た。
§
愛されないし、愛さない。愛されないし、愛さない。愛されないし、愛さない。
そうすれば苦痛は広まらないのかも。
僕の覚悟が誰かを、願わくば女王を目覚めさせ、そして僕が最後の被害者に。見えない『帝国』の雨を感じに行こうじゃないか。
五十二
僕の覚悟はあの人の慰みになるのかしら。
僕と寝た女の子はなんと思うだろうか。僕の頭の中で彼女たちは「すばらしい」と言う。僕はその中に欺瞞のあることを確かめる。
僕は一枚の絵を描く。タバコを一本吸う毎に一つのモチーフを小さく描き、それを画面いっぱいに広げてゆく。モチーフの形は世間に迎合したわかりやすい形。一つを赤く染めてはその色に反発した心で隣の色を決める。ちりばめられた色は僕の心で満たされている。
僕は想像の中で、知らない女と昔話をしている。女の顔が見知った女の姿にすり寄ると、無理やりそこから引き剥がし、また見知らぬ女の姿に変える。女は赤い服を着ていた。刺激するような赤。
僕は彼女に言う。
「世界を救いたいと考えていた。僕はあの時そんな風に思っていたんだ」
僕の中にあったあらゆる曖昧は、こんな形で着地しようとしている。
僕はじっとして砂漠を眺めている。その向こうに『帝国』を思い描いて。
僕の人生に幾許かの英雄の祝福を。
僕はとても神聖な気持ちだった。
後書き
ちっとな、書きづらかった。
十年前の作品です。
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