俺達のこれから
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始まり 2
「え・・・おい・・・」
今日の昼に母さんに作ってもらった焼きそばが、俺の体を支えてくれる彼の頭や顔や腕や胸元、様々な箇所に散乱していた。吐瀉物(としゃぶつ)を目の前で吐きかけられた彼は、自分の身に一体何が起きたのか今現在ではまるで理解していなかった。いや、直ぐに理解できる訳がない。この静まり返る店内を更に凍りつかせてしまった俺には、弁解の余地はまだあるだろうか。俺を支えてくれる吐瀉物まみれの彼をさりげなく一瞥。
--無いな。そう確信した。
「うわぁぁぁぁああっっっっ!!!?」
自己嫌悪に浸っているところで、今のこの状況にいち早く気づいたのは彼の友人達だった。一人が驚愕の声を上げると、周囲もこの状況に遅れながら気づき、沈黙が続いていた筈の店内も一斉にしてざわめきだした。辺りから聞こえる「臭い」や「おえっ」という不快感を表す声。興味本位でこちらに足を向け、俺や彼に集中して送られる好奇な眼差し。この中で一番不憫な者は誰かと探せば、それは目の前に不憫の象徴とも言えるような姿で立ち尽くす、善意を仇で返された彼であり。この中で一番の極悪な者は誰かと問われれば、それは昼に食った焼きそばを吐き出し彼を不憫な象徴に仕立て上げた俺である。
「あ・・・あ・・・」
人に吐瀉物を吐きかけといて何だが、不快感しかない彼と相対するように俺は実に爽快な気分だった。吐いてスッキリ、というやつだ。
こんな状況でありながらも落ち着きを取り戻した俺は、余りの出来事に固まってしまった彼の手を静かにどけた。そしてそのまま触ったら崩れてしまいそうな彼の懐から抜け出し、何事もなかったように自然に立ち上がる。
「えっと・・・」
声をかけようとすると、彼はゆっくりと首を動かし俺を見上げた。目を背けたくなるような惨い彼の有様を冷静にまじまじと見て、胸中で素直に謝ろうと俺は思った。
「その・・・すいません・・・でした」
頭を深々とは下げず、こくんと首を鎮める程度の軽い謝罪を俺はした。
「こいつ!!」
自分にここまでのことをしておいて、誠意が微塵も篭っていない謝罪に突如として彼は激怒した。吐瀉物をかけられるというショックよりも怒りが勝利し、彼は直ぐ様俺の視線合わせるようにして立ち上がり、凄みのある眼力で俺を睨む。蛇に睨まれた蛙とはこのことだろうか、彼の眼力に身震いした俺の体は全く動かない。
「ひっ」
悲鳴ともとれない弱弱しい声をあげると、彼は勢いに身を任せ俺の胸倉を両手で強く掴んできた。
「てめー、人を舐めるのも」
低くどすの利いた声で脅してくる。彼は視線を逸らさず一線に俺を見てくるが、俺は直ぐに視線を横へと逸らす。彼の顔が怖いというのもあるが、それよりも俺の胸倉を掴む際に詰め寄って来た彼の汚れた顔は、目も当てられない程に苛酷なものがあった。
「おい!! てめぇっなに顔を逸らしてんだよっ!? こっち向けやっ!!」
店内に響き渡る怒号で吠え、彼は胸倉を掴みながら俺の首を激しく揺らす。彼の言うとおりに俺は顔を彼の方へと向けるが、目の前まで寄せてくる彼の刺激臭まみれの顔に耐えきれず、嗚咽する。そして、俺はその流れで思わず言ってしまう。今の彼に対して禁句とも言える発言を。
「く・・・くさっ。おえっ」
汚れた彼の目前で嗚咽し、この事態を巻き起こした原因である俺が彼に臭いと言い放つ。口を滑らした俺の悪辣な言葉を聞き逃さなかった彼は、再び沈黙し、何かを溜めるようにぴくぴくと上半身を震わせる。突然と変わった彼の威勢。それが俺に対する度を越えた怒りなのだという事は、先程とは明らかに違う胸倉の締め具合で言葉無くしても感じ取れた。眼光人を射るという言葉があるが、彼のそれはもはや人を圧倒させるようなものではなかった。血走る眼、瞬きすらせず一点に集中する黒い瞳。彼は俺が言葉を放ってから未だ無言だが、目は口ほどにものをいうのはどうやら事実らしい。ぐつぐつと煮え滾るような怒り以外の感情が存在しない今の彼の心の中、爆発寸前というのが目を見ればそれが嫌でも俺の中へ流れ込み伝わってくる。
「あ・・・あのぅ」
俺はこの空気と臭いと彼の熱すぎる視線に耐えきれず、様子を窺う(うかが)ように声を掛けた。
「殺す」
幻聴ではなく、俺が難聴という訳でもなく、実際に聞こえる嫌悪すべき言葉が俺の耳に届いた。例え耳が正常であっても、自分の耳のどこかがおかしいのだと疑いたくなるような言葉を聞いて、俺は真剣に耳を塞ぎたくなった。
「えっと・・・あの・・・」
だが俺は現実を受け入れず、願うようにして彼が何て言ったのかもう一度俺は聞こうとするが。彼の顔色を窺う限り、怒りに満ち満ちている様子が判断できた。これは安易に言葉を掛けられる状況ではないと察した俺は、一度言葉を濁した。彼はいつ爆発するのか、それはもはや見当がつかない。まるでニトログリセンを扱うように、俺は脅えながらも慎重に、細心の注意を施しながら俺は再び聞く行為に出た。
「すいません。あの・・・」
「ぶっ殺す」
意を決して聞こうとした俺の勇気は、寡黙に爆発する彼の怒りによって一蹴された。
「えと・・・」
「ぶっ殺す、ぶっ殺す、ぶっ殺す!!」
野蛮な言葉を連呼する彼を見て、ようやく俺はある間違いに気付かされた。それは、彼の導火線にはとっくのとうに火が付いていて、さっきから音を出さずに彼の中で何回も爆発していたということだ。この間違いに気付いたという事は、いつ爆発するか分からないと彼を先程から危惧していたが、それは全て勘違いだったという事であり。願っていた身の保証と店の平和は今日はもう叶わなくなったという事でもあり。そして俺の眼前に立つこの悪鬼が、俺に対して猛威を振るうことはほぼ確実だという事でもある。
「てめーだけは許さねぇっ!! ぜってぇぶっ殺す!! 覚悟しろおらぁ!!」
語尾を段々と荒々しくしていき、最後は喚き散らすようにして暴言を俺に向けると、彼は掴んでいた俺の胸倉を突き放し左腕を大きく振りかぶる。俺は彼のその一連の動作を見て、瞬間的に殴られると直感した。
「くっ!」
俺は歯を食いしばる。こればっかりはしょうがない。彼には俺を殴りつける資格は充分にあり、俺が殴られる理由は誰しもが納得する内容だろう。ならば俺は潔くその暴力を受け入れよう。さぁ、殴れ。思い切り殴れ。俺を心ゆくまで殴れ。セリヌンティウスに殴られるメロスが如く、その拳で力一杯俺の右頬を殴るのだ。
「おらぁっ!!」
彼の左の拳が、俺の顔面に目がけて勢いよく向かってくる。
「ひいっ!」
しかし、彼の拳は宙を切る。俺は殴られるという恐怖に先程の強い意思は瞬時に屈し、慄いた体が咄嗟に身を屈めた。すると彼のそれは上手い具合に俺の頭上を掠め、彼は力一杯振った自分の腕の勢いにより、一歩二歩と前へとよろめいていったのだった。
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