群衆
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第五章
第五章
「司祭様はこちらへ」
「どうか悪魔を倒すのを見ておいて下さい」
「そなた達はわかっていないのだ」
彼は俯いてその彼等に言うのだった。
「何処に悪魔がいるのか。全く」
「ですから悪魔はあそこにいます」
「そうです」
老人の家を指差しての言葉であった。
「今からその悪魔も炎で」
「焼き尽くされます」
「本当の悪魔の姿は近くにある」
司祭はそれでもこう呟くのであった。
「だがそれに気付く者は。いない」
「さあ、いよいよだ!」
「火が点いたぞ!」
遂に老人の家に火が点けられた。
「これで悪魔も終わりだ!」
「疫病も終わる!」
醜い、憎悪に満ちた顔での叫びがなおも続く。
「不幸はこれで消えるんだ!」
「俺達の手で!」
「いや、終わらない」
司祭はまた呟いた。
「それどころか。これからも」
その彼の目の前で家が燃えていく。瞬く間に紅蓮の炎に包まれ全てが赤の中に消えていく。家のシルエットが深く出ているがそれもそれだけであった。バチバチと音を立てているそれは死そのものであった。憎悪の炎により燃えているのであった。
次の日。少年が街に帰って来た。司祭はその彼に老人の伝言を伝えるのであった。
「人の為にですか」
「そうだ」
司祭はまた彼に告げた。
「そう言っておられた」
「そして人を怨むなと」
「怨みは何も残しはしない」
その言葉も告げる。
「そうも言っておられた。私にそれを伝えて欲しいと」
「わかりました」
少年は話を聞く間じっと正面を見据えていた。そこには完全に焼け落ち廃墟となった家があった。もうそこには誰もいなかった。
「その言葉。ずっと憶えておきます」
「そうか。それがいい」
司祭は少年が頷いたのを見て静かに微笑んだ。
「そうしてくれればあの方も喜んでくれるよ」
「先生は立派な人でした」
泣いてはいない。だが声が泣いていた。
「ですから。僕も」
「それでこれからどうするんだい?」
司祭はあらためて少年に尋ねた。
「先生はおられなくなったけれど」
「他の街に行きます」
少年はこう答えた。
「他の街で。人達を助けたいです」
「やはり。この街にはいられないか」
わかっていたが。それを言わずにはいられなかった。
「仕方ないな、それは」
「けれどそれはこの街の人達を怨んでではないです」
少年はそれは否定した。
「ただ」
「ただ?」
「この街にいたらあまりに悲しいので」
それが少年の答えであった。
「悲しいのかい」
「先生のことを思い出しますから」
やはり泣かない。しかし声は泣き続けていた。彼の心が。
「だから。もう」
「そうか。では頑張るのだよ」
司祭はその彼に優しい言葉をかける。せめて言葉だけでもと考えての気遣いであった。
「何処へ行っても」
「はい。ではこれで」
そこまで言うともう立ち去ろうとした。
「さようなら」
「あっ、待ってくれ」
だが司祭はその彼を呼び止めた。そうして彼に金を渡そうとする。
「少しだが。旅の金に使ってくれ」
「司祭様・・・・・・」
「よかったらだ。私からのせめてもの気持ちだと思ってくれ」
そう言って彼に渡すのだった。彼の心を。
「それでいいね」
「宜しいのですね?」
「うん、いい」
はっきりと告げた。
「私の気持ちだから」
「わかりました。御気持ちでしたら」
彼も受け取るのであった。これは司祭が完全に好意で言っているとわかっているからである。そうでなければ受け取らないつもりであったのだ。
その金を受け取った。そのうえでまた言う。
「有り難うございました」
「では元気でね」
「はい、司祭様も」
「私はこの街に残るよ」
「そうなのですか」
「これからどうなるかわからないが」
街を見回す。街は機能のことが嘘のように静まり返っている。彼はそのことを内心悲しく思っていたのだがそれは口には出さずにまた少年に言うのであった。
「そうさせてもらうよ」
「わかりました。それではまた」
「機会があればまた会おう」
「はい」
こうして少年は街を後にした。その後彼が何処に行ったのかは誰も知らない。噂ではパリに行きそこで多くの人達を助けたという。司祭はそれを聞いて嬉しく思っていた。誰もいなくなり疫病に喘ぐ街の中にあって。そのことにせめての慰めを見出していたのであった。
群衆 完
2008・1・23
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