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第一章 ~囚われの少女~
行方
真っ暗な闇の中に少年――ジャックはいた。目の前に明かりというものはひとつもなかった。自分がどこにいるのかもわからない。
体を動かそうにも、一体何処へ力を入れようか……もどかしい。一体どうしたというのだろう。自分の体の動かし方を忘れたのだろうか。指が一本たりとも動かない。体の全てが、見えない鎖に縛られたかのようだった。
ジャックにはそもそもこれが自分の体なのか、自分の思考なのかさえも疑問に思えてきた。まるで自分という存在がこの世から消え去ってしまったかのような――居所のない、居心地が悪いような。
(ここはどこだ……僕は、みんなは……)
思えばかなりの時間が経っているような気がする。だとすれば、すでに自分は船の上ではない場所に在るのだろう――曖昧な記憶を辿っていく。
もうずいぶん眠っていたような、気を失っていたような気分だ。もしかすると今でも自分は気を失っている途中で、その意識の中にいるのかもしれない。生死をさまよう時はこんな気分なのだろうか。このまま闇の中に溶け込み、消えてしまうのだろうか。
水底深くに沈められているような感覚。音もなければ光もない。希望もなければ絶望もない。
今までの現実もそうだったのだろうか。いや、もしかするとこっちの方がまだましかも知れない。触れられることを恐れ、怯えなくてもすむ。自分はこのまま消えてしまった方が楽なのかもしれない。自らそれを受け入れ、この闇に己の全てを捧げてしまおうか。
いつもは瞼の裏にあった、永遠の闇のような世界。それを永遠に望んだのならば、僕には何も恐れる必要はないのかもしれない。
しかしそれは人生の終わりを意味する。それを簡単に受け入れられたら、今の人生は未練も意味もないのだろうか。
ジャックは再び、自分の生をかえりみる。
それから真っ暗闇のなかで、ジャックは不思議な事に遭遇する。
突如として自分の記憶にはないはずの記憶が、音声として再生される。
まだ産まれる前。すべてが無だった頃――これは胎内の記憶なのだろうか。普通、人は思い起こすことのできない記憶。けれども潜在意識の中に、それは残っていたというのだろうか。どこからか声が聞こえる。
『ジャック。あなたの名前はジャックよ――』
おぼろげな記憶だが恐らくは母親の声だろう。自分の事を捨てた母親の。
『ジャック。私の愛しい我が子』
その声は優しくて、愛に満ち満ちている。何故だか懐かしい気さえもする。でも――どうして。心身に異常をきたすほどに、僕は母親の事を憎んでいたはずなのに。
そしてその回想は終わり、記憶は徐々に鮮明になってゆく。やはり先ほどの記憶はこの虚偽の世界が見せる、ただの幻想だったのか。そしてまたさらに、あの声がする。
『ジャック、愛しいジャック。聞いて――』
先ほどの幸せに満ちた声とは違い、今度はどこか物悲しそうな声。
『お別れを……しなければならないの』
何を言っている……どういうことだ。僕はただ、いつの日か突然捨てられたはずだ。無理やり引き剥がされるかのように。
『わかってちょうだい。これはあなたのためなの――』
これは母親の言葉なのだろうか。思考が混乱する。何を、どうして分かれというんだ。唯ただ理解に苦しむ。
『あなたにだけは、幸せになって欲しいの。しばらくは辛い日々が続くかもしれないけれど。でもね、これだけは忘れないでちょうだい。私はジャックを愛しているわ。いつまでも――』
そうしてその声は儚く、夢の中に消えた。
今のは何だったんだ――きっと夢だ。何かの間違いだ。……そうでないと。今まで僕が母へ憎しみを抱いていたという事は間違っていたという事になる。
知らないところで、僕は愛されていたとでもいうのか――信じられない。いや、そんな事は信じない。その憎しみの感情で、僕は今まで生きてきたようなものなのだから。
復讐でも誓ったかのような強い想い。それは母親に対するものだけではなく、自らにこのような運命を仕向けた世界の、神へも向けられる憎しみだった。いつも冷え切った瞳で、眼鏡越しに見つめていた、湾曲した世界の。
――ああ、そうだ。そうに違いない。
そうして少年は嘆く。確かめるように。ガラスのように脆い、己の決意を壊さないように。
『この世に。この世に神などいない』
――
ジャックはそれからしばらく、その世界の宙に浮かぶように存在していた。どうすることもできず、自分の行く先もわからない。そうしていると、今度は男の声がした。
「……もうしばらくオマエはそこでそうしてろ」
先ほどのような記憶の中の声ではなく、今回ははっきりとした声だ。
(どういうことだ)
「……ふん。この役立たずが。何も知らないくせに。ずっとここでじっとしてな」
頭の中に響くようなその声は、ジャックの心の声に答えたかのようだった。
「じゃあな――」
(待ってくれ! お前は誰だ。何を知っているんだ!)
しかしそれに答えはなかった。
(ここはどこなんだ……なぜ僕はこんな所に……僕はどうなっているんだ……)
また、さらに混乱していくばかりだった。
(わからない……)
そうして、その意識はそこで途絶えた。
――
物語は終幕を控え、劇場の空気は緊迫していた。
しかし舞台裏は、また違った意味で空気が緊迫していた。
「困ったな――一作上演のみか、寸劇で許してもらうしかないな。脚本もできる限り長く伸ばしたつもり。これ以上は……」
しかしここは観客からは見えない舞台の袖。舞台の表は――どうやら決着がついたようだ。
――
空から地をめがけ、一直線におちてゆく。
その体と地面がぶつかるより早く、ジュリエッタを受け止めたのは――
「ジュリエッタ様……すべては私が……間違っておりました。私はなんと愚かな事を……」
「ああ……。ああ……、エリオなの。助けてくれたのね。私を思い出してくれたのね」
切り取られたように闇色の空は裂けてゆき、そこからは晴れ間が広がった。雲一つなく澄み渡った、水のような色の空。
しかしそこに在ったのは、暗黒色の悪なる騎士だった。本来の人間らしい声を取り戻したエリオ。しかし姿はそのまま、邪悪な色のままだった。
ジュリエッタはエリオの姿を気にも留めず、昂ぶるそのままの想いをぶつける。
「ああ……再びこうして、あなたと会話ができることを。どれほど思い焦がれたことでしょう!」
だがエリオは、邪悪な姿のまま俯く。
「私も……再びこうしてジュリエッタ様にお会いできるとは……。これは神の御慈悲なのでしょうか? しかし……私の罪は消える事は有りません」
ジュリエッタは、エリオが背負ってしまった運命を理解した。
先ほどまでの昂ぶりは、悲哀に満ちた嘆きに変わる。
「ああ……エリオ、どうして。どうしてこんな事に」
エリオはもう、この国では生きてゆけない。国を滅亡へと追い込み、この国で殺戮を起こした。大罪を犯した大悪人として、極刑となるだろう。
「最期にこうして、あなた様と出会えたことに感謝いたします」
エリオは全てを悟ったように儚く、柔らかに微笑んだ。
「エリオ、私の愛しい人……。せっかくまた会えたというのに、どうして? どうして……」
その瞳には、この空のように透明な水が湛えられていた。
それが溢れるのに、時間は要さなかった。ジュリエッタはまるで子供が泣きじゃくるかのように泣いた。素直に、どこまでもわがままに。
「あなたと離れるのは……もう、いやなの。もう……どこへも行かないで。ずっとそばにいて、また私をこうして守って……」
エリオの胸を濡らしながら、そこにしがみつく。
「姿は見えなくとも、私はあなたのそばにいます。いつでもあなたとともに。いつまでもずっと、あなたを見守っています」
エリオは優しく微笑んだまま。ジュリエッタをゆっくりと離す。
そしてその瞳を真っ直ぐ見つめる。
「籠の中に閉じ込められていた、囚われのあなたはもう、どこにもいません。ジュリエッタ様、あなたをお慕いしております。あなた様らしく、どうかお幸せに――」
宙を漂っていた、聖なる騎士はその白槍をエリオへと向けた。
ジュリエッタの目が大きく見開かれたのと、槍が黒の甲冑を貫いたのは、ほぼ同時だった。
倒れるエリオ。
エリオの闇は晴れた。塵となり、大気にばら撒かれて消えてゆく。
すでに息のないエリオは、人間としての姿を取り戻していた。
しかし、ジュリエッタはすべてを失った。残された者を襲う、言いようのない喪失感。
「ああ、せめて……。
せめて私をさらっていって……」
何処にも届くことのない、祈りとも言えないような言葉を呟くのだった。
エリオが携えていた剣で、自らの胸を貫く。
ジュリエッタはエリオに寄り添いながら旅立っていった。
エリオとジュリエッタ、二人とも穏やかな表情をしていたのだという。
――惨劇の結末は、悲劇によって幕を閉じた。
それから歳月は経ち、他国の若き王子が新たな王となった。
そうして国は、平安を取り戻したのだという。
終幕。
「――物語はこれでおしまい。エリオとジュリエッタ。痛みもなく、傷一つない最期だったのだという……」
薄汚れたローブを身に纏った、怪しい人物による最後のモノローグ。
「歯車と歯車が噛み合うように人々は出会い、物語は動き始める。この物語の悲劇の始まりは、一体いつだったのだろう……」
舞台の上を端から端へ、うろうろと何度も往復する。
「しかし気づく事が出来たのは、その悲劇に巻き込まれなかった私たち傍観者。いや……悪なる感情に飲み込まれず、最善の手を尽くす事が出来ていたら……。この惨劇は回避できたのか、それともできなかったのか。二人は最後に幸せになれたのか……それは皆様のご想像にお任せするとしよう……」
そしてぶつぶつと呟くと、そのまま舞台の袖に消えていった。
――
幕は下り、カーテンコールの拍手が、嵐のように会場に沸き起こる。
再び幕があがる頃には、キャストのすべてが肩を並べていた。
役者を務めた皆は観客に向かい、そのなかで誇らしげにお辞儀をした。
-第十八幕へ-
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