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ヒゲの奮闘

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第四章


第四章

「何かあるんか?」
「権藤やろ。もうバテとるんちゃうか?」
「もうってまだ投げはじめて五回にもいっとらへんで」
「権藤の調子もよおないみたいや。それで五回は」
「まずいか」
「ああ、めっちゃまずいな」
 その男はマウンドに向かう権藤を見ながら言った。
「今の権藤はな」
「あかんかな」
「やばいやろな」
 見れば権藤の顔には疲れが見えていた。それはボールを受ける辻からもわかった。
「こらあかんかもな」
 権藤のボールを受けてそう思った。球威が明らかに落ちていたのだ。
 しかしそれでも勝たなければならない。彼は覚悟を決めて権藤をリードすることになった。
「もし打たれたら」
 彼はその中にある決意を秘めていた。
「それの時はわしが」
 男である。その心には熱いものが秘められていた。今それに火が宿ろうとしていた。
 権藤は崩れた。残念ながら辻の予想は当たった。
 貧打の広島打線に足も絡めた攻撃を受け四点を失った。これを見て誰もが終わったと思った。
「四点か」
 甲子園の観客達はそれを見て呆然となった。
「あかんかな」
「かな、やないで。あかんわ」
 殆ど全ての人間がそう思った。
「うちの打線が四点も取れるか。一点取るのも苦労してるねんぞ」
「そやな」
「そや。どっかにスラッガーはおらんのかいな。ドコドコ打つスラッガーがな」
「法政大学に一人おるで」
「法政!?そんな大学あったか!?」
 関西なので関東の大学のことはよく知らない者もいるのだ。
「東京の大学や六大学の一つやで」
「というと安藤とかと同じか」
「そや」
 阪神のスター選手の一人安東統男のことである。彼は慶応ボーイであったのだ。実は辻も六大学の一つ明治大学にいたのであるが彼はそれをよく知らなかったのだ。彼等にしてみれば明治大学といえば大洋の秋山登、土井亨のバッテリーであった。このバッテリーに阪神もかなり苦しめられている。
「そいつは何でも凄い奴らしいで」
「ほう」
「どんなんやねん」
「ボールをポンポンスタンドに放り込んどるらしい」
「ポンポンか」
「ピンポン玉みたいにな。ヒョロ長い身体で化け物みたいに打つらしいわ」
「化け物かい」
「けど顔もええらしいで。ええとこのボンボンでな」
「ほお」
「キャッチャーで肩も強うてな。抜群の野球センスの持ち主らしいわ」
「欲しいな、そいつ」
「ああ、巨人やなくな」
 彼等はそれを聞いて喉から手が出るのを感じていた。
「うちでなあ」
「四番に」
「欲しいのう」
「あっ、そいつのこと聞いてことあるで」
 誰かが言った。
「確か田淵って奴やろ」
「そや、田淵や」
「あいつは止めた方がええ」
 彼はそう言って右手を横に振った。
「何でや」
「あいつは東京生まれでな。ごっつい巨人が好きらしいんや」
「何っ、巨人が」
 皆それを聞いて顔を一変させた。巨人と聞けば捨ててはおけない。巨人は関西では悪の象徴である。甲子園の一塁側で巨人を応援することは死を意味する。関西で巨人ファンに人権はないとさえ言われている。
「そんなん取ったらあかん」
「そやな」
「巨人を好きな奴は別や」
「いらんいらん、そんなん」
「巨人で正力にへいこらしとけや」
 そう言ってその話はここで終わった。だが後にその田淵が阪神にドラフト一位指名されて阪神にやって来る。この年から僅か二年後に。彼は阪神の押しも押されぬスター選手となり甲子園の観客達を魅了する。阪神の心を代表するとまで言われた天性のホームランアーチストが巨人ファンであったことは実は有名な話である。
 戦いはよりによって延長十七回で四点差となった。これが絶望的なのは誰の目にも明らかだった。しかし甲子園の魔物か神かよくわからない気紛れな存在はここでいつもの気紛れを起こしたのであった。
「代打、辻」
「あれっ、辻って」
「ちゃうちゃう、別の辻か」
「ああ、ダンプか」
 ファン達はそれを聞いて納得した。当時阪神に辻は二人いた。一人は今マスクを被っているヒゲ辻であり、もう一人はダンプと渾名された辻恭彦である。そのダンプ辻が出て来たのだ。
 ヒゲの辻が闊達な性格であるのに対してこの辻は理詰めの性格であった。藤本はそんな二人を併用していた。闘志を前面に剥き出す村山に対してはヒゲの辻を、観察眼に優れ、頭のいい江夏にはダンプの辻を。それぞれ使い分けていたのであった。
「打つやろか」
「どうかな」
 ファン達はあまり期待していなかった。だがその辻がヒットで出塁した。しかしファンはそれでも期待はしない。
「あと四点もあるんや」
「しかもうちのクリーンアップなんてな」
「打つ筈あらへんや」
「そやそや」
 そして実際に彼等は打たなかった。遠井も山内も凡打に倒れた。二死である。とても四点という点差は返せそうになかった。皆諦めていた。
「阪神電車ではよ帰れ!」
「御前それリーグちゃうやろが」
「それに広島は電車持っとらへんわ」
「あっ、そか」 
 当時関西にある球団は全て鉄道会社が親会社であった。パリーグの近鉄、阪急、南海もである。パリーグでは相手球団が負けているとこうした野次が飛んだのである。このファンはそれを真似して自分のチームに野次を飛ばしたのであるが。この時代も阪神ファンの野次は有名であった。対する広島のファンも相当なものであったが。
 
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