赤城と烈風
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以下、★改訂前
1937年の異変
1935年12月9日、第二次ロンドン海軍軍縮会議が開催された。
日本代表は前回同様、規定変更を確実と見て調整の熱意が薄い。
翌年1月15日、退席を選んだ後に極東情勢が動く。
トハチェフスキー指揮の軍勢、装甲機械化部隊の進撃を遮る術は無かった。
ソ連海軍は世界最大級の潜水艦保有数を誇り、北極海沿岸の夏季通過も察知されていない。
不凍港ペトロパブロフスク・カムチャッキー集結、オホーツク海に展開の準備は整っていた。
水雷艇130隻も間宮海峡から南下、宗谷海峡で夜間集団雷撃を試みる。
潜水艦数隻は東京湾の南方海域に進み、主要航路で雷撃が繰り返された。
非武装の輸送船雷撃で地上戦を援護、海上補給線の遮断に徹し殆ど損傷を受けていない。
樺太南部守備隊の戦力減衰に乗じ亜庭湾、大泊港に侵攻軍が雪崩れ込む。
宗谷海峡に潜水艦数十隻が集い、逆上陸を阻んだ。
強行突破を図った駆逐艦が雷撃を受け浸水、航行不能に陥り曳航され撤退の事例も多い。
翌1937年オホーツク海の東側を扼する要所、占守海峡を鋼鉄の嵐が襲う。
カムチャッカ半島側は遠浅だが、大型輸送船は深い南側を航行可能。
隘路の戦略的価値は高く、冬季に侵攻軍が凍結の海を渡る。
竹田浜上陸の後、四嶺山陣地も蹂躙された。
一気に幌筵海峡も押し渡り南岸の要地、武蔵湾に滑走路の構築が進む。
松輪島に戦闘機用飛行場、得撫島に爆撃機用飛行場が急造された。
数十隻の潜水艦が根室海峡に現れ、無差別雷撃で海上補給線を遮断する。
鋼鉄の嵐は樺太全域を覆い、北海道沿岸でも疎開船が魚雷を受け緊急避難を強いられた。
艦政本部は護衛中に雷撃され、沈没寸前に陥った駆逐艦を調査の後に責任転嫁を図っている。
経験の浅い電気溶接の強度不足が要因、と誹謗中傷の後ディーゼル推進も狙い藪蛇の事態を招いた。
1935年6月25日『加賀』改装完了後、右舷の弯曲煙突2基から後部兵員室に煙が流れ込んだ。
窓を閉め換気不能の為に熟練の乗組員が肺炎、赤痢、結核等に罹患の事態は減っていない。
此処では通称バルチック艦隊を邀撃の後、兵科将校負傷の際に機関科将校に指揮権委譲を認めた。
史実の機関科将校達も長年に渡る重量軽減の努力を無視、死蔵重量の搭載を無為無策の愚案と酷評している。
軍令部は『大和』設計時に最大速力32ノット未満は厳禁、内火機械併用で燃費改善の要請を覆された。
艦政本部の最大派閥は重厚な鋲構造に固執、水平防御重視の軽装甲高速艦は設計不能と答えている。
垂直防御重視の重装甲案に基き最低30ノット、ディーゼル併用案で航続距離伸延の要望も斬り棄てた。
新技術の実験を厭い直接防御を優先、用兵家の要望を阻む長老の敵は多い。
長老は『妙高』型の設計時に魚雷兵装の撤廃を掲げ、中堅将校達の敵意を買った。
海外視察の間に魚雷発射管を載せ、長老が帰国後に激怒の逸話も残る。
栄達の道は機関科の出身者に開かれ、中島知久平機関大尉も海軍に残っていた。
水雷屋と艦政本部、造船官最大派閥の確執を煽った第三勢力、策謀家の評価は高い。
1937年1月1日、英国海軍は『ネルソン』級2隻の竜骨を据えた。
公表値は最大速力30ノット、基準排水量4千トン、4連装砲356ミリ砲3基の戦艦となっている。
14日ドイツ海軍では駆逐艦『Z1』就役後、関係者が蒼褪めた。
摂氏450度70気圧型缶6基は気難しく、故障頻発の事態が続く。
横須賀では機関大尉と軍令部の参謀が組み、《不譲》の異名を持つ長老に挑んだ。
銃爆撃と雷撃を浴び実戦証明済の艦長、乗組員達の報告書も物を言う。
2月海軍大臣交代後は剛腕を揮い適材適所、配置転換の嵐が吹き荒れた。
既得権益を護る者は薙ぎ払い、間接防御、電気溶接、ディーゼル信頼性改善の提案者に実権を移す。
水雷艇と駆逐艦は爆雷と聴音機を増やし、経験値の還元、装備改善が進む。
地上戦の関連装備改善は陸軍に譲歩、兵器開発担当部門と連携を図った。
第二次ロンドン海軍軍縮条約、エスカレータ条項の発効期限も睨み調整が続く。
地中海の第三勢力、イタリア海軍は動かなかった。
・1936年3月25日、第二次ロンドン海軍軍縮会議で確定
Ⓐ主力艦の建造条件
基準排水量4万㌧、主砲15㌅(約381㍉)上限
Ⓑ主力艦の保有枠
合州国/英国52万㌧、フランス20万㌧(練習艦と標的艦の戦力化、不問)
Ⓒ航空母艦
カタパルト4基以上、水上機多数を搭載の高速大型艦も含む
Ⓓ巡洋艦
主砲の減口径、他艦種保有枠に移動不問(対象『デュケーヌ』級2隻、『加古』)
・1937年4月、改訂
Ⓐ基準排水量4万5千㌧、主砲16㌅(約406㍉)上限
Ⓑ英国/合州国63万㌧、日本40万5千㌧、フランス22万5千㌧
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