もう一人の自分
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第四章
第四章
藤田は球速はあまりない。だがドロップとシュート、そして球威とノビのあるストレートが武器だった。しかしこの日はそのいずれもが精彩を欠いていたのだ。
南海は四回裏に攻撃に出た。一気呵成の連打で四点を奪い逆転したのだ。
「よし」
鶴岡はそれを見て会心の笑みを浮かべた。
「連勝や」
彼はナインに対して声をかけた。
「連勝して後楽園に乗り込むで」
「はい!」
彼等はそれに対し一斉に応えた。その中には杉浦もいた。
「よっしゃ、皆の心意気はわかった」
鶴岡は満足そうに頷くと杉浦の方へやって来た。
「スギ」
そして声をかけた。
「はい」
杉浦はそれに対し顔を向けた。
「いけるか」
鶴岡はここで杉浦の目を見た。
「任せて下さい」
杉浦は意を決した目で応えた。これで決まりであった。
南海は五回から杉浦をマウンドに送った。この得点を守れるのは彼以外にいなかったからだ。
「よし、これでうちの勝ちや」
ファンはもうこれで安心しきっていた。この時代エースの連投は当たり前である。エースにはそれだけのものが求められていたのだ。
杉浦は投球練習を終えるとバッターに顔を向けた。そしていつもの淡々とした顔で華麗な投球フォームを観客に見せた。
やはり巨人打線でも杉浦は打てない。そのボールはまるで何かが宿っているようであった。
その間に南海は追加点を入れる。これで六対二となった。
「おい、このままでいいのか」
水原は巨人ナインに対して言った。
「黙っていては男がすたるぞ、杉浦は確かに凄い。だがな」
彼は言葉を続けた。
「あの男も人間だ。打てない筈がない」
その通りであった。だがそれでも容易には打てる代物ではなかった。
「そうだな」
ここで彼は王貞治と森昌彦に声をかけた。
「二人には期待している。頼むぞ」
「はい」
「わかりました」
二人は水原の言葉を受け頷いた。彼等は二人共左打者である。
アンダースローはその投球フォームの関係から左打者にその動きをよく見られる。従って左打者は右のアンダースローに対しては比較的有利だと言われている。
七回表二人は連続で杉浦からヒットを放った。これで一点を返した。
「よし」
水原はそれを見て頷いた。だがそれもここまでであった。やはり杉浦はそうそう打てる男ではなかった。
その水原が頼みとする二人も九回表の攻撃で連続三振に討ち取られた。一度打たれた男には二度と打たせない、杉浦のその静かな顔の下にある気迫に二人は抑えられたのだった。
「よおやった」
鶴岡は杉浦に声をかける。これでニ連勝だ。南海はその望み通り連勝して気持ちよく後楽園に乗り込むことができるのである。
「有り難うございます」
杉浦は出迎えた鶴岡に対して微笑んで応えた。だがその微笑みは僅かだが何処か硬かった。
「?」
鶴岡がそれに気付かない筈がなかった。だが彼はそれは杉浦の節度だと思っていた。
「やっぱりよおできた奴や。勝ちに奢らず、か。あいつらしいな」
鶴岡はそう思った。確かに杉浦は勝利に奢るような男ではなかった。
だがそれはいつものことである。彼の微笑みが微かに硬かったのは別の理由からだった。
(まずいな)
やはり血マメの状況が芳しくない。それどころか昨日よりも悪化していた。
しかし、それは決して表に出してはいけない。もし知られたら、それだけはならなかった。
(皆にいらぬ心配をかけたくない)
それだけではなかった。敵に知られでもしたら。
そこに付け込んでくるだろう。相手も必死だ。なりふり構ってはいられない。これも勝負だ。
(まだ誰も知らないな)
それだけが安心できることだった。とにかく今は誰にも知られてはならなかった。
杉浦はそっと球場を去った。そして一人自宅でその血を抜き取り手当てをするのであった。
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