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恩返し

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第六章


第六章

「シリーズは三回負けてもいい」
 後に西武の黄金時代を築いた知将森祇晶はこう言った。この言葉はシリーズを考えるうえで非常に重要であると言ってよいであろう。
 すなわち三試合は捨ててもいいわけだ。そう考えると余裕ができる。
 とかくマイナス思考の多い人物だと言われる。森は巨人で正捕手を務めていた頃から陰気なイメージがありファンからもあまり好かれていなかった。特にピッチャーやピッチャー出身の監督、コーチ、解説者達からは今でも徹底的に嫌われている。彼は意に介していないようだが。
 だが彼が知略の持ち主であることに変わりはない。彼のこの言葉はシリーズにおける戦略、戦術を考えるうえで非常に有益なものだ。
 三敗までは許される、そして最後に四勝すればいい。簡単に言えばそうだ。シリーズを七戦まであると考えその中で作戦を組み立てる。彼はシリーズ全体を冷静に見てそこから分析するのを常としていた。
 上田は明らかにこの時それを忘れていた。冷静さを失っていたのだ。
「今日勝って西本さんに・・・・・・!」
 彼はチラリ、と藤井寺の方を見た。
「誰ですか?」
 主審はそんな上田に対して問うた。
「ん!?」
 上田はその言葉にハッとして顔を主審に戻した。
「あの、ですから次のピッチャーは誰かと」
「言わんかったか!?」
 上田は逆に問うてきた。
「言ってませんよ」
 主審は思わず苦笑した。
「ああ、そうやったか、すまん」
「監督、しっかりして下さいよ」
 主審も思わず苦笑してそう言った。
「じゃあ山口な」
 彼は言った。最初からこう決めていた。
「最後は山口で決める」
 マウンドに山口が姿を現わす。それを見た阪急ファンの興奮は頂点に達した。
 巨人ベンチは山口の投球を見守る。相変わらずミットから派手な音が聞こえてくる。それを聞くだけで戦意を喪失している者すらいる。
「ワンちゃん」
 長嶋はそれを見ながら傍らに立つ王に声をかけた。
「山口のボールどう思う」
 彼は山口の投球から目を離すことはなかった。
「そうですね」
 王も同じだ。二人はそのボールを凝視している。
「第一戦、第二戦の時とは違いますね」
 王はその鋭い眼でボールを見ながら言った。
「ほんの少しですが球威もスピードも落ちています。その証拠に今日は見えます」
「そうか、ワンちゃんもそう思うか」
 長嶋はそれを聞いて頷いた。それで充分であった。
「もしかすると」
 長嶋は言った。
「もしかできるかもね」
 少し妙な言い回しであったがそれが彼独特のものであった。長嶋は山口から上田に目を離した。
「向こうは焦ってるな」
 上田のせかせかした様子は彼からもわかった。
「焦ったら負け、とは言うけれど」
 ふと小さい頃母親に言われた言葉を思い出した。
「上田さん少し焦り過ぎだねえ」
 他人事のような言葉だが上田の今の状況をその勘で的確に見抜いていた。やはり長嶋の勘は凄かった。この時でシリーズの流れは微妙に変化しようとしていた。
 山口は六回まで無事に抑える。阪急ファンはもう勝ったつもりでいる。
「いいぞボロ負けジャイアンツ!」
「全敗ジャイアンツ!」
 中日の応援歌をもじった歌の歌詞まで叫ばれていた。もう勝利の時を指折り数えている状況であった。
「いよいよやな」
「ああ」
 彼等は首を長くしてその時を待っていた。そしてそれは上田も同じであった。
「長い試合やなあ」
 彼は顔を顰めて呟いた。
「え!?」
 コーチがその言葉に思わず顔を向けた。
「ああすまん、独り言や」
 上田はそれに対してそう言った。だが顔はそのままである。
(いつもの監督と違うな)
 そのコーチだけではなかった。ベンチにいる全ての者がそう思った。
 だが彼等も同じであった。九回が終わるのを今か、今かと待っている。 
 自然と攻撃が荒くなる。やがて巨人投手陣に何なく抑えられていく。
 しかしだからといって巨人ファンの怖れがなくなることはなかった。
「あんな化け物打てるはずがない」
 球場にいる者もブラウン管の向こうにいる者もそれは同じ意見であった。
 しかし巨人ナインは違っていた。次第にではあるが山口のボールに目が慣れてきていた。
「もしかすると」
 彼等はそう思いはじめていた。
 そして七回、その『もしか』が実現した。
 何と山口からタイムリーをもぎ取ったのだ。これで同点となった。
「なっ!」
 これに驚いたのは巨人ファンだけではなかった。阪急ファンも驚いた。
 特に阪急ナイン、とりわけ上田の驚きは大きかった。彼は一瞬その顔を青くさせた。
「まだ同点ですよ」
 そこでコーチの一人が言った。
「そやな」
 上田はその言葉に冷静さを取り戻した。
「シーズンでもこういうことは幾らでもあったわ」
 彼は落ち着いた声でそう言った。
「こっから逆転すればええわ」
 その阪急の攻撃である。助っ人であるボビー=マルカーノの声が聞こえる。
「ダイジョーーーブ!ボク達が打ってヤマグチ助けよーーーよ!」
 こうした時彼はあえてこう言ってナインを奮い立たせる。攻守に優れているだけでなくこうしたベンチのムードを明るくさせる陽気さが彼の素晴らしさであった。
 だが一度気が乱れた打線の士気を元に戻すのは容易ではない。阪急は巨人の決死の防御の前に得点することができなかった。こうして試合は九回表に入った。
 山口はランナーを一人背負っていた。打席には黄金時代の戦士の一人柴田がいる。
「高めの速球でくるな」
 柴田はそう思っていた。山口の最大の武器だ。
 今まではとても打てるものではなかった。だが今は違う。その剛速球に次第に慣れてきていた。
「今までどんな速い奴も打ってきた、そして勝ってきた」
 彼はこれまでの戦いを思い出しながら山口を見据えている。
「ここでも勝つ、幾ら相手が化け物でもな」
 構えた。そしてマウンドに仁王立ちする山口と対峙した。
 
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