恩返し
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第五章
第五章
翌日、また雨が降った。上田はそれを自宅で見て呟いた。
「秋にはよう雨が降るもんやが」
その言葉には溜息があった。
「幾ら何でも最後の試合の前に降らんでもなあ」
彼はこの日で勝負を決めるつもりであった。それが適わないのが残念であったのだ。
「まあお天道さんのことは人間にはどうしようもないわい」
彼はそう言うと窓から離れた。そして玄関に向かった。
「その間は練習や。少しでも力をつけんとあかんからな」
彼は練習場へ向かった。そこでは選手達が既に汗を流していた。
「ピッチャーはどないや」
彼はユニフォームに着替え室内練習場に出るとコーチの一人に尋ねた。
「悪くないですね」
そのコーチは笑顔で答えた。
「足立は特にええですわ」
「そうか」
上田はそれを聞いて顔を綻ばせた。彼は今日の先発の予定であった。
「じゃあ明日は期待できるな」
「はい」
足立はこれで心配ない。どうやら試合は作れそうだ。
「あと山口はどないや」
「いいですよ」
コーチは答えた。
「相変わらず凄い音出してますし」
「ほお」
上田はブルペンを覗き込んだ。そこでは山口が投球練習を行っていた。
ミットからあの重い音が響いてきている。上田はそれを見ながら目を細めていた。
「明日のトリはいつも通りあいつで決まりやな」
「そうですね。それでよろしいかと」
「よし」
上田は頷いた。そしてブルペンから離れた。
今度は野手陣の方へ行った。こちらには特に心配はしていない。
「問題はピッチャーだけやからな。巨人のピッチャーやったら何とかなるわ」
上田は巨人投手陣の実力をこの三試合で見抜いていた。これなら大丈夫だと思っていた。
実際に巨人投手陣は阪急打線に対して抑える自信を失っていた。それが長嶋の悩みの種だった。
だが巨人打線は違っていた。山口を見ているうちのそのボールの軌跡を見極めかけていたのだ。
「山口のボールはストレートがくるとわかっていても打てるものじゃない」
よくこう言われた。だがそれは普通の状態の時だ。彼も調子が悪い時がある、疲れもたまっていくのだ。
特に山口のように小柄で身体全体を使い剛速球を投げるピッチャーはそうである。それは意識しなくとも蓄積していくものだ。
上田がブルペンから離れてから暫くした時だ。山口のボールのキレが落ちた。
「?」
それに気付いたのはブルペン捕手だけだった。だがそれはすぐに元に戻った。
「気のせいか」
彼はそう思った。そして山口のボールを返した。
その時巨人ナインは必死に練習していた。バッターはただ速球だけを投げさせ、それを打っていた。
「まだだ、そんなことで打てると思っているのか!」
長嶋の声が響く。彼は選手達から目を離さずただひたすら練習させていた。
全ては山口を攻略する為だった。その為だけに練習をさせていた。
巨人ナインは汗だくになりながらも練習を続ける。まるで何かに取り憑かれたかのように。
こうしてその日は終わった。次に行われる死闘の前奏曲として。
第四戦、阪急の先発は予定通り足立であった。巨人の先発は堀内である。
「おい、しゃもじ、わざわざ阪急の日本一決める為に出て来てくれたんやな!」
堀内はその顔の形からそう仇名されていた。
「御前みたいな老いぼれ出すとは長嶋もよっぽどヤキがまわっとるな。とっとと打たれて帰れや!」
「その前に阪急の胴上げ見てからな!」
阪急もまた関西の球団である。ファンのマナーはお世辞にもいいものではない。関西で最も人気があるのは阪神だがパリーグになるとこの阪急の他に近鉄、南海がある。いずれも阪神ファンとかけもちの者も多くその野次は極めて酷いものであった。
「まるで甲子園に来たみたいだな」
巨人ナインはその野次を聞きながら言った。
「連中もまるで阪神みたいな顔しとるわ」
そう言って阪急側のベンチを見る。彼等はもう勝ち誇った顔で巨人ベンチを見ていた。
「そうはさせるか」
主砲である王が言った。
「勝負というのは最後まで諦めては駄目だ」
彼はそのあまりにも苛烈な勝利への執念で知られている。王貞治の辞書には敗北、諦念、容赦、手加減、手抜きなどという一連の言葉はない。ただ勝利、それだけがあるのだ。
その王の執念が巨人のベンチを覆った。上田は迂闊にもそれに気付かなかった。
「今日で決めるんや」
彼の頭の中にはそれしかなかった。
「今日でわし等の悲願が達成されるんや」
巨人を破っての日本一、それこそが彼の、阪急の望みであった。
「悪太郎、とっとと打たれろ!」
「しゃもじは米櫃に帰れ!」
彼の後ろから阪急ファンの罵声が聞こえてくる。彼はそれを自軍へのエールのように思えた。
「お客さんの為にも勝たなな」
人気がないと言われるパリーグでも阪急の人気のなさは際立っていた。昨年日本一になった時でも観客の入りは悪かった。
だがそれでもいつも来てくれたのがその僅かなファン達であった。上田はそんな彼等に深く感謝していた。
「おい」
彼はナインに顔を向けた。
「今日で決まりや」
「はい」
阪急ナインは頷いた。そして一斉にベンチを出た。
阪急ナインが位置についた。そして遂に試合がはじまった。
まずは福本の先頭打者アーチが出た。阪急は三試合連続で先制点を挙げた。
「よし、これでこのまま突っ切れ!」
ファンが叫ぶ。試合はこれで阪急に大きく傾いた。巨人も王のホームランで同点にするがすぐに逆転される。こうして二対一のまま試合は五回に入った。
五回表柴田勲がスリーベースを放った。上田はそれを見て不安を覚えた。
「足立のやつ、疲れとるんか!?」
ふとそう思った。それは忽ち彼の心を支配していく。
「まずいかも知れんな」
それはすぐに彼の心を完全に支配した。彼は急いでベンチを出た。
「ピッチャー交代」
彼はいささかせわしい動作で主審に伝えた。
「えっ、もう交代か!?」
それを見た阪急ファンは以外に思った。
「足立はまだいけるやろ。こういう時には粘ってくれるし」
彼等はそう思っていた。だが上田はそうは思わなかったのだ。
「ここでもし打たれて同点になったら」
上田はそれを恐れていたのだ。そうなっては今日勝つことはできない。今日何としても勝たねばならない。彼はそう考えていたのだ。
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