恩返し
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第二章
第二章
この連中は巨人の日本一を露程も疑わなかった。この連中には物事を相対的に見る知能はない。そのようなことは持ち得ない。巨人のやることなら正義、なのだ。まさしく独裁国家の将軍様の取り巻きそのものである。傍から見ると実に面白い喜劇であるが残念なことに我が国のでのことだ。我が国の球界にとっては悲劇である。
その連中が夢想している間阪急ナインは必死に練習していた。勝つ為に、である。そして遂に決戦の日がやってきた。
一〇月二三日、後楽園球場で決戦の幕が開いた。見渡す限り巨人ファンばかりである。
「フン、そこで黙って見とれ」
阪急ナインと駆けつけたファン達は鼻で笑っていた。
「わし等もあの時のわし等とちゃうからな」
五回も負けたあの時とは違う。彼等にはその自負があった。
阪急の先発はエース山田。巨人は小林繁である。
まずは巨人が先制した。後楽園の観衆はそれだけでもう勝ったつもりであった。
「この連中はホンマ何の進歩もないのお」
阪急ファンはそれを見て侮蔑しきった顔で見ていた。彼等は阪急の力を信じていた。
「今のうちに喜んどけ、じきに真っ青になるわ」
その予想は的中した。阪急は実力の差を徐々に出してきた。小林を攻略し逆転に成功する。
「ようやったな」
上田はナインを笑顔で褒めた。そして同時に試合の展開を考えていた。
「問題は山田を何時替えるか、やな」
今日の山田の調子は普通位か。彼はそう見ていた。
「七回までやな」
彼は山田は七回まで、と見た。
「あとの二回はこいつを出すか」
そこでベンチに座る一人の小柄な男に顔を向けた。彼が山口であった。
阪急二点リードで七回に入る。山田はここまでのつもりだ。
「さて、とここを抑えたらあとはもう乗り切れるで」
上田はそう見ていた。確かにそうであった。だが計算通りにいかないのが野球である。そしてこの時もそうであった。
打席には王がいた。彼はその全てを威圧する目で山田を見ている。
「相変わらず怖ろしいやっちゃな」
上田はそれを見て呟いた。彼には今までのシリーズでどれだけ煮え湯を飲まされたか。
「しかし今度はそうはいかん、勝たせてもらうで」
だがここで王がその力を見せた。山田のボールをスタンドに叩き込んだのだ。同点ツーランであった。
「な・・・・・・」
山田が打たれた。それも王に。上田の脳裏でその煮え湯を飲まされたあの時が浮かんだ。
昭和四六年日本シリーズ第三戦。この時九回裏のマウンドにいたのは山田であった。
試合は一対零で阪急が勝っていた。山田は巨人打線を見事に抑え試合を進めていた。そして九回になったのである。
打席には王がいたランナーは二人。だが山田は臆するところがなかった。
「試合後のインタビューはどう答えようかな」
彼はそう考えていた。そして王に対して投げた。
王はそのボールから目を離さなかった。そしてバットを一閃させた。
「!」
それは一瞬のことであった。王のバットスイングは速い。到底見られるものではなかった。
ボールは一直線にライナーでライトスタンドに向かっていく。そしてそのまま飛び込んでいった。
逆転サヨナラスリーラン、そのシリーズの流れを決定付けたあまりにも有名な一打であった。
そして阪急は敗れた。上田はそれを思い出したのである。
「これはまずい・・・・・・」
あの時の悪夢は今でもはっきり覚えている。上田はそれを思い出したのだ。
それを取り除くにはあれしかない、そう考えた彼はすぐに動いた。
「ん、ピッチャー交代か?」
観客はベンチから出て来た上田を見てそう言った。
「そうやろうな、もう四点やしな、ここらが潮時やろ」
阪急ファンそれに納得していた。そして同時に彼等はあることに期待していた。
「出て来るで」
誰かがニヤリと笑いながら言った。
「ああ」
他の者もそれに頷く。やがてアナウンスの放送が入ってきた。
「ピッチャー、山口」
それを聞いた阪急ファンはニヤリ、と笑った。やがて背番号一四を着けた小柄な男が姿を現わした。
「あれが山口か」
後楽園を埋め尽くす巨人ファンはその男を見て鼻で笑った。
「あんな小さい奴知らんのう、誰だあいつ」
「去年の新人王らしいぞ」
誰かが言った。その声も小馬鹿にしたものだった。
「どうせパリーグだろう、大した奴じゃないよ」
「いや、球がやけに速いらしいぞ」
「そんなものは噂だろう、江夏や村山程じゃないさ」
「そうだな、王も長嶋も連中を何なく打てたんだ。巨人にあんな小さい奴が通用するかよ」
彼等はマウンドに上がる山口を見ながらそう話していた。完全に彼を舐めていた。
こうした愚か者が実に多いのも巨人ファンの特徴である。しゃもじを持って野球通とわめいている男の知能なぞはそこらの犬か猫の方が余程賢い位だ。人間の言葉を話しているから頭がいいとは決して限らないことのいい見本である。こうした知能の劣悪な輩が我が国の野球を腐敗させたのは言うまでもない。
さて、阪急ファンは違っていた。彼等も確かに笑っていた。だがそれはそうした愚か者共に対する侮蔑の笑みであった。
「今にみとれ」
「もう少しで黙るさかいにな」
彼等は愚か者共にこれ以上ない冷ややかな笑みを浴びせていた。そしてグラウンドに顔を向けた。
「山口、頼んだで」
そこには山口がいた。彼は大きく振り被った。
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