恩返し
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第十二章
第十二章
ボールはスタンドに飛び込んだ。その瞬間巨人ファンの断末魔の叫びが後楽園を、日本を覆った。
「よし!」
森本はガッツポーズでダイアモンドを回る。巨人ナインもファンもそれを力無く見るしかなかった。
「よっしゃああ、森本よう打ったでえ!」
阪急ファンは狂喜乱舞する。彼等はここで勝利を感じたのだ。
今まで酔っていた男も立ち上がった。彼が見たのはホームで二列になり森本を出迎える阪急ナインの姿であった。
「はよ来い、はよ!」
阪急ナインの声が呼ぶ。森本はそこに入って行った。
たちまち彼はもみくちゃにされる。そしてその中でホームを踏んだ。
これがこの死闘の行方を決定した。さしもの巨人もこれで力尽きた。
しかしファンはまだ諦めてはいない。歓声はなおも後楽園を包んでいた。
「まだ騒いでいるのか」
足立はそう言わんばかりの顔をしていた。だがもう観衆は見ていなかった。ただ相手だけを見ていた。
「じゃあ最後まで騒いでいろ」
彼はそう呟くと投げた。そして一人、また一人と巨人の打者を打ち取っていく。それは巨人の最後へのカウントダウンであった。
八回表阪急は止めとなる一点を入れた。これで決まった、上田は笑った。
巨人ファンの声は次第に悲鳴に近くなっていく。バッターもその目が血走ってきている。巨人の最後の時は刻一刻と迫ってきていた。
そして九回裏足立は最後のバッターを屠った。その瞬間全てが決まった。
「やったあ、優勝や!」
ナインが一斉にマウンドにいる足立のもとに駆け寄る。まずは殊勲打を放った森本が。一塁を守る加藤が、ショート大橋が。
「やったよ、アダチさんサイコーーーーよ!」
セカンドのマルカーノが飛び跳ねながらこちらに向かって来る。そして足立に抱き付いた。
「遂にやったんやな!」
センターから小柄な男が駆けて来る。福本だ。
「わし等、遂に巨人に勝ったんやな」
その目には涙があった。彼は遂に宿願を果したのだ。
「ダチさん、おおきに」
「福本、嬉しいな」
足立が珍しく顔を崩していた。彼の目にも熱いものが宿っていた。
「親父、見てくれてるやろな」
足立もまた西本に育てられた男である。その恩を忘れたことはなかった。
「足立、ようやってくれたな」
ここで上田が姿を現わした。彼もまた顔を崩していた。
「はい」
彼は頷いた。見ればグラウンドには阪急ナインが勢揃いしている。
「さあ皆、監督を胴上げするぞ!」
足立の声がした。
「おお!」
皆それに従った。
上田が高々と上げられる。そこには勝者の笑みがあった。
「やっと勝ったんやな」
ファンもそれを見て泣いていた。彼等にとって巨人は憎っくき怨敵であった。その怨敵を今遂にやぶったのだ。
「長かったな」
「そやな」
昭和四二年からはじまった。五回挑み五回共敗れた。どれも悔しい思いだけが残った。
しかしそれが今晴れたのだ。阪急はようやく宿敵を屠ったのだ。
胴上げが終わり上田はインタビューに応じた。彼は笑顔で言った。
「この喜びを西本さんに捧げます」
阪急ファンの拍手が鳴り響く。彼等は数よりもその想いで巨人ファンを圧倒していた。
MVPは福本だった。彼もまた言った。
「これで藤井寺のお爺ちゃんも喜んでくれますわ。やっと恩返しができました」
もう涙が止まらなかった。彼にとって巨人を倒すことは西本への恩返しなのであった。
「あれ程の選手達を育て上げたのか」
観客席にいる一人の男がそれを聞いて呟いた。
「西本さんはやはり凄いな」
眼鏡をかけた痩せ気味の男である。
ヤクルトの監督広岡達郎であった。彼はこの試合観客として観戦していたのだ。
「だが無敵のチームなぞ存在しない。必ず何処かに弱点がある」
彼はそう言うとゆっくりと立ち上がった。
「もしかしたら阪急と、西本さんの作り上げたチームと戦う時が来るかも知れない。その時に備えて私も学んでおくか」
そして彼は球場をあとにした。翌年彼はヤクルトを二位にする。そして七八年にはヤクルトを優勝させる。そのヤクルトに阪急が敗れるのは別の話である。
そして彼は西武の監督になった時阪急、そして近鉄と死闘を展開する。鋭利な策士広岡の胎動はこの時には既にはじまっていたのだ。だがそれを知る者はこの時いなかった。広岡自身を除いては。
「そうか」
西本は阪急の勝利をグラウンドで聞いていた。
「パリーグが勝ったんやな」
彼はこう言った。阪急が勝った、とは言わなかった。
「やっと巨人を倒すことができたんやな」
彼はそう言うとボールをトスで横にいるバッターに投げた。
そのバッターは大きな身体を使いそれを打った。打球は一直線にスタンドに飛び込んだ。
「よっしゃ」
西本はそれを見て言った。
「タイミングは合ってきとるわ。これを忘れるんやないぞ」
「はい」
その男は西本に言われ頷いた。見れば外見の割に雰囲気が大人しい。
羽田耕一であった。近鉄で西本が育てている男の一人だ。
「次は御前や、栗橋」
「はい」
今度は左打席に別の男が入った。その男も西本からのトスを次々とスタンドに叩き込んでいく。
見れば栗橋の後ろには多くの若い選手達がいた。彼等は皆真剣な表情でバットを振っている。
「今度はわしの番や」
西本はふと言った。
「あいつ等はわしに恩を返した、と言ってくれた。こんなに嬉しいことはない」
その言葉には一つのチームを育て上げた重みがあった。
「しかしわしもあいつ等も勝負の世界に生きとる。今度はわしは自分の手で日本一にならなあかん」
彼は立ち上がった。周りでは近鉄の選手達が藤井寺のグラウンドに散らばり汗を流している。
「この連中と一緒にな。今度こそ日本一になる。その為には」
彼はここで眦を決した。
「あいつ等も倒すさなあかん。その為にこいつ等を育ててるんや」
選手達は黙々と練習している。西本はそんな彼等を見渡した。
「御前等やったらできる、絶対日本一になるんやぞ」
新たな戦いの幕が開こうとしていた。勝利の美酒を味わう阪急の選手達は後にこの西本が育て上げた近鉄と二年越しの球史に残る死闘を展開することになる。
阪急も近鉄も西本が育て上げた球団である。しかし彼等は同じ師を持ちながらその身体も心も別である。だからこそ競い合い、激しい死闘を繰り広げたのだ。
西宮も藤井寺もシリーズが終わると練習のみに使われるようになる。そこには戦いの匂いはなくなる。
だがそこに住む野球の神々は待っているのだ。再び激しい戦いがそこで行われることを。
西本が育てた二つのチームは今でも互いに競い合い、熱い戦いを続けている。それは決して同じものではない。彼等はそれぞれ西本の野球を受け継いでいる。だが一つではないのだ。
その二つの野球がこれからも行われる。人々はそれを観る為に今日も球場へ向かうのである。
恩返し 完
2004・7・28
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