海岸沿いのシャーデンフロイデ
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今だ見ぬ明日に
グッバイ日常
東京湾の三分の二を占める鍵状の巨大人工島、【新東区】。西暦二◯三五年に完成したそれは今や世界中が注目する海上都市となっていた。リゾート地として人工島を作る試みは過去にもいくつか挙げられるが、実質的に完全な都市機能を備える人工島はこれが初めてだからだ。
新東区は大きく五つのエリアに分かれている。東の居住エリア。西のオフィスエリア。北の工場エリア。南の港。そして中央の観光エリア。
樫見夜 健(かしみや けん)はその東の居住エリアの一等地に住むごくごく普通の高校生だった。『だった』というのはたった今彼が普通の高校生ではなくなったからである。
「あ……あ……」
口をパクパクさせながら健は言葉にならない呻きを出していた。
十メートルほど先のアスファルトの地面には、全身の穴という穴から血を吹き出して絶命したOLが横たわっている。閑静な住宅街には似つかわしい光景だ。そうだ。俺は高校の入学式の帰りだから、今はお昼時だな。だからオフィスエリアのOLさんが飯を食いに来たんだ。この先の大通りを抜けたら超有名なラーメン店があるからな。最後の晩餐も食えないで死ぬなんて可哀想だなあ。健は恐怖で冴え渡る脳みそでそんなくだらないことを考えていた。これから自分も最後の晩餐を終えることなくこの世を去ることに、決して気付こうとはしなかった。
OLのすぐ側には、身長三メートルを越すであろう痩せぎすのスーツを着た男が立っていた。顔はマネキンのようにのっぺらぼうだ。海外の都市伝説にやや精通している健はその存在を知っていた。【スレンダーマン】だ。瞬間移動でどこにでも現れ、その姿を捉えた者は即刻死に至る。写真やビデオなどの媒体を通して目視しても体中から血が吹き出る奇病、【スレンダー病】を発症して数日後に死に至る。スレンダーマンの背中から出る触手に貫かれたら死に至る。とにかく理不尽な方法で我々人間を殺しにかかってくる。何故空想世界の中の住人であるスレンダーマンがこの現実世界に現れているかは皆目見当つかないが、ともかく人が目の前で殺されている以上、逃げなくてはならない。健は踵を返して走り出した。
そこで健は、スレンダーマンが瞬間移動できることを不意に思い出した。
「あ……はは……」
絶望の笑顔が零れ落ちる。視界一杯に広がるスレンダーマンの姿。ガフッ、と音を立てて口の端から血が流れ出た。父さん、母さん、この若さで先立つ不幸をお許しください――健は今生の別れを心の中で告げると、目を瞑った。
◆ ◆
「おい、起きろ。ケン。おい」
誰かが肩をゆさゆさと揺らしている。閻魔か、いや、冥府の鬼か。それとも三途の川の番人か。健はゆっくりと目を開いた。
彼の顔を覗き込んでいたのは、地獄の使者などではなく、よく見知った顔だった。
「アキラ……?」
小さい頃からの幼馴染、早緑 哲(さみどり あきら)であった。
「なんでここに……?」
「今はそんなことどうだっていい。とりあえず逃げるぞ」
哲は出血で意識朦朧とした健を肩に担ぐと、高度三十メートルにも及ぶであろう大跳躍ですぐにその場から離れた。地面から遠ざかる視界の中で健が見たものは、口惜しそうにそのマネキンの顔をこちらに向けていたスレンダーマンの姿であった。その姿は次の瞬間、虚空へと消えた。
約二分後、哲はオフィスエリアのとあるビルの屋上に降り立った。その頃には落ち着いた健も事の次第が分かり始め、平然と高層ビルを飛び越える高度で跳躍を続ける哲に、戦慄していた。
健の側で息一つ乱さず佇んでいる哲に、健は尋ねた。
「お前……何モンだ?」
先程から疑問に次ぐ疑問が次々と浮かんでくる。謎だらけで全く頭が追いついていない。
「何者だ、問われれば俺は【スータブル】と答えよう」
いよいよもって謎である。
「スータブルって何だよ?」
「【神】に選ばれし戦士達だ」
「神ってなんだよ!」
「この世界を創造したと言われている存在だ」
「もう意味わかんねえよ!」
頭を抱えながら健は絶叫した。こいつは何を言っているんだ? いい歳して中二病か? これは一体なんなんだ? 夢? それとも他の人達を壮大なドッキリか? 様々な考えが健の脳裏に浮かぶ。
「とりあえずは落ち着いて俺の話を聞いてほしい。まあ座れ」
哲はあぐらをかくと、ビルの地面をペチペチと叩いた。健は恐る恐る座り込む。
「まずはお前を襲ったあの怪物から説明させてもらう。あの怪物達は俺たちスータブルの間では【ならず者】と呼ばれている。この世界の住人に悪意を向ける異質な存在だ。ここまではいいか?」
早口で哲はまくし立てる。健は時間がかかりながらもゆっくり飲み込んで頷いた。
「そして世界を護るためにそれらを狩るのが俺たち【スータブル】だ」
以上、と言い残して哲は口を真一文字に結んだ。健は思わず素っ頓狂な声を上げた。
「え?」
「ん?」
「これで終わり?」
「ああ。これから質疑応答タイムだ。お前の知りたいことについてだけ俺は話す。じゃないと疲れるからな」
昔っからこいつはこうだ。ひたすら合理的。無駄なことは一切しない主義なのだ。とりあえず健は頭に浮かんだ疑問を片っ端からぶつけることにした。
「その【ならず者】ってのを倒さなかったらどうなるんだ?」
「簡潔に言うと世界が滅びる。さっきも見たろ、あんなんほっといたら三日間で人類なんて滅びる」
「さっきのスレンダーマンみたいに、そのならず者ってのは都市伝説とかに登場する化け物と同じなのか?」
ほう、と哲が感心したような声を上げた。
「あいつは都市伝説上の生物なのか」
「ああ。海外じゃ結構有名なやつ……見た奴が血吹き出して死んだり、瞬間移動したり、能力も同じだった」
「それは収穫だな。ならず者には他にも江戸時代の妖怪と同じ外見、同じ能力を持った個体がいる。恐らくスレンダーマンもその一種だろう。つまり江戸時代の妖怪伝説や現代の都市伝説はフィクションなどではないということだ。ふふ、ワクワクするな」
哲は長く伸びた直毛をかきあげる。整った顔が美しく笑った。こいつの知的好奇心は一体どこへ向かっているのだ。健はいささか辟易した。
「そうだ、それと【スータブル】ってのは人間なのか?」
「紛れもない人間だ」
「じゃあなんでお前は……なんつーかこう……そんな人間離れしたことができるんだ?」
「ああ、さっきの大ジャンプか? あれはただ単純に人間の中の【ハル】を有効活用しただけだ。やろうと思えば誰でもできる。神に選ばれるという絶対条件があるがな」
「は? もっと一般人に優しく説明し――」
「一般人? お前まだ自分が一般人だと思ってたのか?」
哲がバカにしたように健をあざ笑った。
次の瞬間、健の視界の端にあった高層ビルの屋上ドアが勢いよく音を立てて開いた。中からわらわらと警官隊が押し寄せてくる。
やはり。あれだけの人間離れしたジャンプでこの人口密度の高いオフィスエリアまで辿り着いたんだ。一般人に目撃されていない訳がない。健は哲の計画性を疑った。
「おい、健」
こちらへと歩み寄ってくる警官隊を横目に、哲は健に耳打ちした。
「正体掴まれるとやばいから俺はここで逃げる。お前はなんかこう、色々どうにかしてこっから逃げろ」
そう言うやいなや哲は隣のビルへと飛び移っていった。健は彼の人間性も疑い始めた。
「……どうしろと」
五人の警官が距離を詰めてくる。その間五メートルほど。その中の一人は「無駄な動きは止めてそのままでいろ!」と高圧的な態度で声を荒げている。このまま掴まれば、温厚な弁解など臨むことなく自分は不法侵入罪やら何やらで最低でも停学処分、下手を打てば退学だって免れないだろう。どうしても逃げおおせなければ平穏な人生はここで終末を迎えて――いや、既に迎えているのだが――しまうだろう。
さて、どうすればこの苦境を超えられるか。打開策を考えるために脳みそが動き出したその瞬間。健の脳裏に先ほどの哲の言葉が響いた。
――一般人? お前まだ自分が一般人だと思ってたのか?――
何故哲がスータブルでも何でもない、ただの一般人に全ての事情を話したのか。先ほどから健は疑問に思っていた。
その答えが、今出た。それは――
「うおおおおおおっしゃああああああああ!」
思い切って健は警官隊に向かってダッシュし、そして跳躍した。高度十メートルほどの大跳躍をした。そして、向かい側のビルの屋上へと華麗に降り立った。
――自分も、スータブルだからだ。
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