ジプシー=ダンス
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第四章
第四章
「一晩。どうですか?」
「考えさせて下さい」
俺はこう返した。
「ちょっとね」
「ちょっとですか」
「こういうのは長々と考えても仕方ないでしょう?」
「その通りです」
ガイドさんは我が意を得たと言いたげな顔で笑った。
「では歌と踊りが一通り終わってからまた」
「はい」
まずは歌と踊りに専念することになった。ワインが実に美味い。それが終わってからすぐにその話になった。
「それでですね」
「さっきの話ですよね」
「はい。どうされますか?」
ガイドさんはまた尋ねてきた。
「行かれますか?」
「ええ」
俺は決断した。相手はもう決めていた。
「わかりました。じゃあ」
「場所は?」
「ホテルまで来てくれますよ」
「サービスがいいですね」
「すぐ側ですからね」
「はあ」
「じゃあ親父と交渉しますね。誰がいいですか?」
「あの娘が」
俺は答えた。
「白いドレスの」
「ああ、わかりました。彼女ですね」
「そうです、彼女です」
「ではそういうことで。お金は」
金の話になり言われただけのものを払った。そして俺はホテルに戻りシャワーを浴びてベッドの上に腰掛けて待っていた。暫くするとチャイムが鳴った。
「来たな」
席を立って扉を開けると彼女がいた。あの黒い上着と赤のスカートで俺を見上げていた。
「どうぞ」
俺は彼女を迎え入れた。そして一晩彼女と過ごした。
その間彼女は一言も話さなかった。表情を変えることなくずっとそのままだった。だが俺はその彼女と一緒にいた。一晩。一晩だが俺は彼女と確かに一緒にいた。
朝になると俺は朝食を二人分頼んだ。もう一人分は間違いなく彼女の分だ。
「いいから」
丁度シャワーを互いに浴びて服を着終えた時に朝食がルームサービスでやって来た。彼女はそれを見て戸惑う顔を見せたが俺はそんな彼女に対して微笑んで言った。
「いいから」
通じないのはわかっているがボーイさんに通訳してもらって彼からも伝えてもらった。少しだが英語がわかる人だったので英語で説明した。話す方も大変だったが。
朝食は簡単なトーストと卵、そしてコーヒーだった。酒浸りだったのでこうした軽い食事が案外よかった。
それが終わってから彼女は頭を下げて部屋を後にした。俺はそれで彼女とは別れたと思った。
「どうでした、昨日は」
待ち合わせの時間になるとガイドさんがロビーにやって来て俺に声をかけてきた。
「中々よかったでしょう」
「はい」
「いいか悪いかは別にしてああした店もあります」
「それはね」
わかっていた。わかったうえでのことだった。
「じゃあ今日はですね」
「観光を見回るんですね」
「そうです、今日は忙しいですよ」
「わかりました、じゃあ」
「行きましょう」
俺達はホテルを出た。そして道を進む。
「そこに車置いてますので」
ガイドさんに車まで案内される。そこでふと道の横を見た。
裏通りに通じている。そこに彼女がいた。
ふとそれに気付くと気配からか。あちらも俺に気付いた。そして俺の方に顔を向けてきた。
そのまま覗き込んできた。だが俺は何も言えなかった。
黒い目と整った顔で俺を見ている。その顔はもう少女の顔には見えなかった。
「どうしました?」
ここでガイドさんが俺に声をかけてきた。
「いや」
俺はそれには答えなかった。
「何もないです」
そう答えるだけだった。少女のことを言うつもりはなかった。
「そうですか。じゃあ」
「はい」
俺は彼女から目を離してついて行った。それで終わりだった。
スペインの港町の思い出だ。ロマニの少女の。今となっては半分夢みたいな話だ。けれど本当のことだ。そのことは今でも俺の胸に残っている。きっと忘れられない。オレンジの香りと共に。
ジプシー=ダンス 完
2006・10・23
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