季節の変わり目
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絶望
なぜだ。なぜ彼がここにいて、なぜ彼がパソコンの前に座っているんだ。これまで積み重なってきた僕のsai像が崩れていく。想像していたsaiは、進藤だった。例え緒方先生が佐為さんがsaiだと言っていても、信じる気持ちはさらさら湧かなかった。
真実を知りたい一心で、僕は店内に足を進めた。誰にも気づかれずに店内に入りたかったけれど、それには無理があった。扉を開けると同時にベルが鳴り、受付の女性に声をかけられたのだ。とりあえず僕は30分分の料金を払い、進藤と佐為さんのころへと足音を立てずにゆっくり向かった。まるで忍者にでもなった気分だ。あと20メートルほどに二人との距離が縮まる。その時、進藤が佐為さんの名前を呼んだ。彼のこんなに悲しそうな声は聞いたことがなかった。彼の表情も見えない。しかし、泣いている、と直感した。佐為さんは振り向きざまに抱きしめられた。進藤は佐為さんの首元に深く頭を埋め、「佐為」と弱弱しく呟いた。佐為さんの横顔が見える。何かに怯えているようだった。自分の胸に回された進藤の腕に手を添え、唇を震わせていた。そして彼は自分に何かおかしいことが起きている、何が何だか分からない、というようなことを口早に進藤に伝え始めた。
「今朝起きたら、幾つもの棋譜が頭に流れ込んできて・・・私のものじゃない・・・まるで、秀策の考え方が私のものになったように・・・」
「うん」
進藤は佐為さんの肩から顔を上げて、すぐ傍にある佐為さんの頬に自分の頬を合わせた。
「夢を、見たんです。私は知らないところに居て、昔の服を着て、誰かと対局をしていました。・・・周りの誰もが私の敵で・・・呼吸ができなかった。でも、誰かが私の隣に来て、私の味方になってくれたんです。目が覚めたら、前の私ではなくて・・・」
「やっと・・・思い出したんだな。佐為」
進藤がそう言った時、佐為さんの表情が変わった。進藤はそれに気づかず、話を進めていく。彼はまるで、古い友人に会ったように語りだした。
「ずっと、お前に会いたかった。あと、謝りたかった。でも、もう会えないって、諦めてたんだ。だから最初お前に会った時、驚いた。なんで佐為がここにいるんだ、って」
彼は時々間を空けてゆっくりゆっくり話し続けた。僕は話を理解しようと集中して聞いた。しかし、まったく読めない。彼は一体何について話しているんだ。そして、佐為さんも。秀策?夢?あと、さっきの「思い出した」とは、何なんだ。僕は佐為さんの眉間に皺が寄ったのが分かった。
「なあ。消える時、何て言ったんだ、佐為」
消える?彼は頭がおかしくなったのか?佐為さんは今ここにいるじゃないか。「消える」とは何か別の言葉を表しているのか。さっきから進藤がおかしい。いや、彼もだ。一体この二人に何が起こったんだ。佐為さんは進藤の腕に手を添えたまま硬直していた。顔は斜め横を向いたまま。彼は震え続ける唇を何とか動かした。
「ヒカル・・・。一体、何について、話しているんですか」
それを聞いて、進藤の顔色が真っ青になっていくのが見てとれた。彼は佐為さんから身を引き、2、3歩後ずさった。目を見開いているが、焦点が合っていないような気がする。後ろにあった机に身体を支えられ、そのまま佐為さんを見つめ続けた。何か悪いことが起こっているというのだけは分かる。僕は状況を理解できないままに、進藤に詰め寄った。
「進藤、大丈夫か。何があった!」
彼は僕のほうを見ようともせず、手で口を覆った。目から涙が流れていた。僕は進藤の両頬に手を当てて自分と目を合わさせた。彼の瞳は僕の後ろを見通しているように相変わらず焦点がおかしかった。一見すると、眠たそうにも見える。彼は段々と目を閉じていった。倒れていく身体を支えることができなかった。途中で彼の腕を支えることができたけれど、そのまますり抜けていった。気づいたら彼は床に転がっていた。
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