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Cross Ballade

作者:SPIRIT
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第2部:学祭1日目
  第8話『暗転』

 
前書き
榊野学園屋上という、誠にとっては意義深い場所で合流する唯と誠、澪と言葉。
そこに世界もやってきて、修羅場は更に加速します。
 

 
「誠君、一緒に行きましょう」

 言葉が誠に声をかけて、そっと腕を組んだ。

「ああ」
 誠は、笑顔を彼女に向ける。
 が………。
 唯が2人を、大の字になって遮った。
「やっぱり、だめなの? マコちゃん……」
「ゆい…平沢さん…」
 唯の悲しげな視線を見て、誠の胸が急に冷える。

「ね、ねえ…ならばタイムシフト制にできない? 4時から5時まで桂さんが、5時から6時まで私がマコちゃんと回る、とか」
「バイトか。」澪の突っ込み。
 言葉が唯の前に進み出て、炎が付いた眼光を向ける。
 こうなる時、彼女はいつも頑固なのだ。

「平沢さん、学祭で男女2人で回るということは…」
「分かってるよ…付き合ってるってことなんでしょ。私も、一緒に回りたいのに!」
「あげるわけには、いきません!」
 激しくなった2人の口調。
「落ち着け、唯! 桂!」澪は誠に視線を向け、「伊藤、貴方はどうしたいんだ?」
「…それは…」 
 答えられるわけがない。

 真剣な視線で唯と言葉は見るが…。
 澪の顔を見ると、眉が幾分か寄っている。
『どうもはっきりしねえなあ』
 そういう顔だと、すぐに彼も理解できた。
 がちゃっ!!
 突然、屋上入口から大きな音。
 そちらを向くと、世界。
 風が急に、激しくなった。


「どうして…」
 低い声で、世界は言う。

「誠…どうしてここにいるの…」
「世界…」
 誠は、彼女の怒りのこもった瞳から目をそむける。

「せっかく放課後ティータイムの演奏を聴いて、ファンクラブに加入して、学祭で一緒に回るって、約束したよね!?」
「と、トイレが長かったんだって…」
「誤魔化さないでよ!」世界は進みより、唯に目を向け、「聞いたんだよ…平沢さんとキスしてたって!」

 澪と言葉は、思わず目を見開いた。

「ど、どうして知ってるの?」
 唯は思わず、しゃべってしまう。

「やっぱり…!」
「世界、それは…!」
 パンッ!!
 あわてて歩み寄った誠の頬を、世界は張った。

「誠…ねえ…私と初めて結ばれた時、言ったよね…? 誠は私のこと、桂さんより好きだって…」
 世界の声は、震えている。
「…なのに、どうして…?」
「…それは…」
「私、桂さんの代わりだったの…? 桂さんが誠にさせてくれなかったから、私で満たしたかった、ただそれだけ?
それとも、平沢さんが現れるまでのつなぎ? 私のいないところで、ラブラブの登下校をして、喫茶店へ行って…。いちゃいちゃ話をして…」
「いちゃいちゃって…そんなんじゃない」

「待ってくれ!」
 誠と世界の間に、澪が入った。
「西園寺…だったね。」
「貴方は…秋山さん?」
「!」
 ライブで自己紹介しただけなのに、名前を覚えられていたことに少々戸惑いつつ、

「私が桂から聞いた話だが、」澪は探るような視線で、「伊藤はもともと桂の彼氏だったのを、貴方が伊藤と関係を持って、取ったと聞いた。
そんなはずはないんだがもしそうなら、貴方が一番桂を傷つけているし、伊藤を批判する資格なんてないと思うんだ」
「それは…」

 事実だ。練習なんてわけのわからない理屈をつけて。
 誠は言葉をちらりと見る。
 助け船が入ったのは良かったが、知られてはならないことまで知られてしまった。
 言葉は澪と同じく、探る目。

「おいおい、実際に伊藤は、西園寺のことを好きって言ったんだとよ」
 屋上の入り口から、高い声が響いた。
「田井中さん!?」
「律!?」
 世界と澪は、思わずまばたき。

 よっと声をかけて、つかつかと律は話に入っていく。
「いやあ、実はね、こいつとそのダチ公がうちのファンクラブに入っちゃってさあ。部長としてはちょっと気になるところなのよ」
 よりにもよって、と思いつつ澪は、
「面白半分で入るな、律。ちょっと込み入ってるんだから」
 と律をたしなめる。
「とにかく、伊藤だったな。あんたは西園寺にも桂にも、好きって言ったんだろ?」
 両手を腰に当てて、律は誠を向いた。
「…それは…」
 そうだ。
「だけどさ、律、先に付き合ってたのは桂なん…」
 澪が言いかけた時、世界が声を上げた。

「私…みじめじゃない…!!」
 声は、震えている。目も赤い。
「私の方が、桂さんよりも好きって言われて…何度もそばにいて、何度も腕を組んで、何度も身を任せた私って…みじめじゃない…!」
「世界…」
「あの時もそうだったじゃない…。誠が平沢さんや桂さんに目移りしてることをとがめると、逆ギレして…」
「あの時は、申し訳ないと思ってるけど…」
 胸がきゅっとなるのを、誠は感じた。

「もういい! 何も信じられないよ!! 嫌い! 嫌い! 大嫌い!!
誠も、桂さんも、平沢さんも、何もかも、みんな嫌い!!」
「せか…!」
「大嫌い!!!」
 頬を赤くして、目に涙を浮かべて、世界は後ろを向く。
「世界!!」「西園寺!!」
 誠と律が止めるのも聞かず、つかつかと歩き出す。
 風がやんだ。
 律が誠に向けたのは、冷たい視線。怒りをこらえていると、唯にはすぐ分かった。
 振り向くと、澪が複雑な表情で、言葉が冷ややかな視線で、世界の後ろ姿を見ていた。


 唯達に知られないように、梓と七海は、入口付近に隠れて様子を見ていた。
「どんな悪人面かと思いきや、意外と優男じゃない…」
 梓は誠の顔を見て、つぶやいた。
「…桂の奴、澤永の足止めを食らったはずがピンピンしてるな…やはり失敗したのか…」

 七海の呟きを聞いて、彼女は、
『桂と話がしたい』
 という澪のメールを思い出す。
「甘露寺、」梓は口を開く。「私には、分からないの。
桂が気に食わないのは私も同じだけど、何でそこまで、追い詰める必要があるのか…」
 交わした七海の目は、真剣。
「世界の敵だからだよ。」
「それは…そうだけど…」
「あいつ、いまだに伊藤の彼女は私って言ってるからねえ…。脳内どうなってんだか知んねえけど。
世界は彼氏でもゆずっちまうような奴だからよ…」
「……」
「それにしても、桂をかばうあの女も何なんだか」
「! 澪先輩は違います!! …多分桂が可哀想だと、考えなしに思っちゃって…」
「そう…?」
 七海は、あごに手をあてる。

 と、2人の前に、つかつかと世界がやって来て、通りすぎる。
「世界!?」「西園寺!?」
「私、帰る!」
 世界は七海と梓に、これだけ言うと、速足で階段を下りてしまう。
 七海の表情が、さらに険しくなったのが、見て取れた。


 女癖の悪い、ふらふらした少年…。
 これで、すべてのいきさつが、唯にはわかる気がした。
 世界の気持ちもわかるし、言葉の気持ちもわかる。
 でも、この少年を好きになった自分の気持ち…。
 それは間違っているのだろうか…。
「あのね、マコちゃん」
 穏やかな口調で、唯は口を開いた。
 正直、今は頭の中を整理できない。
 でも、自分の思った通りのことを、語っていた。

「私、すっごく楽しかった。
マコちゃんに会ってから。
あのコンビニで、マコちゃんを見てから…。
ううん、マコちゃんに近づいて、そして登下校したり、喫茶店に行ったりして、すっごく嬉しかった。
それだけじゃない。
榊野を通る時はすぐマコちゃんが目に付いたし、途中を歩いていても、マコちゃんのことが心に浮かぶんだ。
放課後ティータイムのみんなで演奏した時も、この演奏をマコちゃんに聴かせたいって思った。
みんなでお菓子を食べあいながら話す時もそう。
お菓子をマコちゃんに食べさせて、お茶飲みあいながら和気あいあいと話して、笑いあいたくなるんだ。
家に帰れば私の部屋をマコちゃんに見せたいと思うし、
ベッドに入れば、夢にマコちゃんが出てきてほしいっていつも思っちゃう。
マコちゃんと帰ると、また軽音部の練習を頑張りたいと思うようになったし、
マコちゃんに会えないと、軽音部の練習すらやる気にならなくなっちゃう。
軽音部にいる時よりも、ずっとずっと、ずーっと充実した一日一日になってたんだ」

「唯ちゃん…」
「えーっと…つまり…何が言いたいというとね。
ありがとう…。
そして、ごめん…。
私をこんな思いにさせてくれた人に、お礼の言葉を言いたいの…」
 そう言うと唯は、満面の笑顔を作る…
 が、誠は彼女が無理をしていること、そしてその目に、涙がにじんでいることをすぐに察した。
「唯…ちゃん…」
 悲しげな表情の誠を背に、唯はすたすたと歩き出した。
 正直、もう何が何だか、自分でもわからなくなっていたのだ。
 
 唖然とする皆、それに梓と七海を無視して、唯は無心に階段を下りて行った。
 ボイラーの音が、相変わらず低周波を立てている。
「…くそ…!」
 誠も入口へすたすたと歩いていく。
 こんなんじゃあ、嫌われるよな。
 理性では分かっていても、やはり耐え切れなかった。
「おい伊藤! お前っ!!」
「唯先輩をたぶらかして、どういうつもりっ!?」
 七海と梓が誠に手を駆けるが、強引に振りほどき、すたすたと降りていく。
「誠君!」
 言葉も誠を追って駆け出し、梓と七海の間をかき分けた。
 その一瞬、言葉は七海を見て、かすかに…だが、間違いなく…微笑んだ。
 七海が反応する前に、言葉は速足で、かけ下りる。
 
 後にはただ、沈黙。
「ちぇ、なんなんだかあいつ」
「伊藤…」
 取り残された律と澪は、冷静につぶやく。
「しかし、まさか西園寺がうちらのファンクラブにねえ…」
「西園寺だけじゃなくて、その友達もだよ。前々から興味を持っていたそうだけど。
案の定榊野でも、唯と伊藤のことが噂になっていたようだった」
「そうか…」澪は腕を組みながら、「となると、それもあって近づいた可能性も高いな…」
「そうかあ? みんなでゲームしてた時は、それなりには楽しんでいたぜ、あいつら。
これがファンクラブ会員の名簿なんだけど」
 律は澪に、今まで入った会員の名簿を見せる。
 世界、刹那、七海、光。
 たった4人。
 それも、世界とその友人ばかり。
「まる聞こえなんだけどなあ」
 額に指を抑えつつ、七海は呟く…。


 ここは先ほどの、1階ロビー。
「……」
 梓から送られたメールを、刹那は受け取った。
 ムギと2人で、放課後ティータイムファンクラブの受付番をしている。

「どうしたんですか?」
 と、ムギ。相変わらず暇なので、あくびを繰り返してばかり。
「中野から、メール」
「梓ちゃんから?」
「はい。世界、伊藤と喧嘩しちゃったらしいです。事実上の絶交。
平沢さんも彼から離れたみたい」
「そうですか」
 ムギは当事者ではないので、余り感慨はわかない。

「…とりあえず、これで伊藤さんは、桂さんと付き合うしかないんですよね。ごたごたが解決して、よかっ…!」
 ムギの笑顔が消える。
 刹那が向けた瞳は、怒りに燃えていた。
「簡単に言わないで!! ずっと世界は伊藤のことが好きだったんだよ!! それをあきらめる苦しみが、貴方に分かるの!?」
「…そりゃあ、唯ちゃんも伊藤さんのことが好きみたいですし。分かりますよ。
でも、西園寺さんは伊藤さんを嫌いになっちゃったみたいだし、こうなっちゃった以上は、しょうがないじゃないですか。」
「しょうがなくない!!」
「…ごめんなさい」

 刹那の大声に、皆がちらちらと目を向けるが、すぐに皆皆通り過ぎてしまう。
「ムギさん」
「はい?」
 刹那は一瞬、ムギから目をそむけてから、
「七海には気をつけた方がいい」
「どうしてですか? 西園寺さんのために、結構気を使ってくれるいい人じゃないですか。
私には、まだどぎまぎしてるけど」
 ムギはいまだに、ことの重大さが分かっていない。
「だからだよ」刹那は声に力を入れる。「七海は女バスのキャプテンだし、うちら誰よりも、私や世界よりも仲間思いだ。
でも、だから怖いんだよ。
友達のためなら、どんなことでも、できてしまうから」


 日は傾き、窓には赤い夕陽が、飾りを照らしている。
 昼ごろには廊下を埋める程に多かった客も、今や数人となってしまっている。
 言葉は一人、誠を探して廊下を歩いていた。

「…どうして、誠に会えてたの…?」
 横から、声が聞こえる。
 世界だった。
 待っていたのだと思われる。

「西園寺さん…?」
「みんな見張ってたのに…どうして近づけたのか、これだけは知りたいの…」
 とは言いつつも、世界の拳は力を入れていた。
「私も聞きたいです。澤永さんに私を襲わせたのは、西園寺さんの差金だったんですか…?」
「澤永に?」
「それを教えてくれたら、教えてあげてもいいです」
「七海…どんなことをしたのかと思ったら…」世界は呟きつつ、「私は知らない…知らない…」
「そうですか?」世界の言葉は正直、言葉には信じられない。「幸い、秋山さんが私を助けてくれまして、誠君ともメールが通じていたましたから。だから、いつもの屋上で落ち合えたんです。
作戦失敗ですね。
平沢さんがそばにいたのは、私も予想外でしたけど」
 皮肉たっぷりの口調に、世界は昂しかけたが、
『貴方が伊藤を批判する資格はない』
 という澪の言葉が、頭をよぎった。
「私はもう、男の人に触られることすら嫌っていた、臆病な自分ではありません。
誠君好みの、誠君に尽くせる自分になれるように…努力しました。
本当の恋人になれる覚悟も、できています」
「でも!」
「あなたは、私が臆病だったことを利用して、誠君に体を与えただけじゃないですか。
しかも貴方は、私に誠君を紹介し、誠君との付き合いで悩んでいた時に相談に乗ってくれましたよね…?」
「違う! 誠は、本当に私のことを、貴方よりも好きって言ってくれて…!」
「その時の快感を、誠君は忘れられないだけじゃないですか…?」
「う…」
 それは…あるかもしれない。
「そして貴方も、それが忘れられなくて、誠君を離したくなくて、流されるままに続けていた」
「違う! だけじゃない!! 好きって、何回も言ってくれたし、コクリコ坂からを見た時だって、街を歩いたときだって、好きって言ってくれたし!!」
「よしんばそうだとしても、貴方が誠君のことを嫌いといった以上、誠君も貴方のことを嫌いになったでしょう。」
「あ…」
 世界は、ガタガタガタガタ震え始めた…。
 感情に任せた、一度の勢いでああいってしまったことを、後悔した。

 言葉は低い、憎しみのこもった声で
「だから、もう…」
「嫌…嫌…」
「誠君に、近づかないでくださいね。」
「嫌あああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
 世界は頭を抱え、消えていってしまった。

 言葉は1つ、息をつく。
 これで1人、ライバルが減った。
「桂!」
 言葉にかかる声。
「秋山さん…」
 どうやら、今のを聞かれていたらしい。
「今の、言いすぎじゃないのか? ほんと律や、西園寺の友達が聞いてなくてよかった…」
「今まで傷つけていた分を、返しただけです。」
「そうだけど、いくらなんでも…」
 澪は呆れた表情。
 と、横の通路から、背の高い、馬面の少年が顔を出す。
「澤永さん!」
「あんた…」
 泰介は「げ…」と呟く。


「へーい、兄さん、私とデートしない?」
 そのころ、山中さわ子は1人、彼氏のアタックを続けていた。
 手元には、女性にだけ配られる休憩所がある。
「受けた」
 さわ子は、1人の男の声を聞き、そちらに目を向けた。
 そこにいるのは、肩までかかる長髪、どちらかというと筋肉質な男。

「おお! うれしい。」
「榊野の休憩所、私も知っているよ」
 その男はなかなかに整った顔立ちだが、目のどす黒い濁りにさわ子は気づかない。
「じゃあ、さっそく喫茶店に…」
「その前にこの近くに、休憩所があるからさあ」
 男はさわ子の肩をつかみ、強引に休憩所へと歩いていく。

「え、は、気が早すぎ…!」
「いや、我慢できないんでね…」
「ちょ、ちょっとやめ…」
 男は、問答無用にさわ子を押し倒す。


 薄暗くなり、空が紺になり始めた時。
 誠は1人、中庭で缶ジュースを飲んでいた。
 広場では、数人の生徒会員が、セットの後片付けをしている。
 知り合いがいないのが幸いである。

「こんなところにいたのか」

 校舎から、声がした。
 泰介であった。
 誠は、無言である。
 正直、誰とも会いたくなかったのに…。
「ま、色々とあった一日目みたいだな」
 泰介は彼の隣に座って、手持ちの缶ジュースを開ける。
 どうやら一連のことを耳にしているらしい。本当に噂が回るのが早いもんだ。
 はぐらかそうとして、誠は、
 
「おい、泰介…。言葉には…」
「分かってる…」泰介はぼやくように、「桂さんには一応謝ったよ。土下座して。
…背後であいつも、にらみをきかせていたし」
 誠は思わず、吹き出してしまった。
 そう言えば、秋山さんに、一言もお礼をしてなかったな…。
「話はちょっときいたよ。西園寺とけんかしたんだって?」
「いや、もう事実上、別れた。絶交状態」捨て鉢になって誠は、「もういいんだ…。好きだけど、好きじゃなかったんだな…」
「は? なに訳のわからないことを。それに童貞卒業した仲なんだろ」
「それは、もういいんだ。その時はお互い勢い任せだったし、結局それで大人っぽくなったわけでもなし。
それにそれが、悪癖になっちまってたよ」
「そうなのか?」
「ただ、最近は、あまりしたいって、思わないんだよな…。
ゆい…平沢さんの笑顔を見てから」
「そんな仲にまでなったのか」泰介はニヤッと笑ってから、「いや、いいって、唯で」
「唯ちゃんの笑顔を見るだけで、それを思い出すだけで十分になったんだ」
「そうかい、そうかい。そう言えば、平沢さんの笑顔だけで満足と言ってたしな」泰介はうなずいて、「ま、お前にはまだ、平沢さんや桂さんがいるだろう?」
 正直、平沢さんと聞くと、あの悲しげな笑顔が目に浮かぶ。
「いや、この体たらくで唯ちゃんにも嫌われたし!
言葉だって、どうだかわからないぜ…。
いい! いい! もういいよ!! 
明日は一人で回って、それなりに楽しむから」
「おいおい、いじけんなよ。もしなんだったらさ、俺が黒田紹介すっから」
「…いや、どう見ても黒田は俺のこと嫌いだろ…」
「だーいじょうぶだ、あいつは俺の言うことには素直だから。
俺はさわちゃんにコクるから、うまくいったらダブルデートな!」
「いや、ははは…」
 取らぬ狸の皮算用とはまさにこのことだが、口にするのはもちろん控えた。
「同じ悩みを抱えてるのは、お前だけじゃないんだぜ」泰介はグイっとジュースを飲みほしてから、「知ってるか、足利のこと」
「足利かあ…。そういえば最近会ってないなあ。」
「あいつ、4組の加藤と、桜ケ丘の真鍋って子に同時にコクられたそうでさあ。今も迷ってるらしいんだ。」
「そうか、加藤が…足利も加藤も中学の同級生だけど、そうだったんだ…。」
「加藤と真鍋は、『彼氏を手に入れるための修行』っていって、早めに帰っちまったらしいが…」
 この学校、本当に恋人を取り合うケースが多いな。
 誠はそう思ってから、空き缶をくるくる回して一人悦に入る。

「それから、教員室でちょっと聞いた話なんだけどよ」泰介は心配げな表情になり、「教員室に桜ケ丘の子が来て、3組の掲示板を見て、なんかお前の住所を調べてたみたいだぞ。
なんかずっと、うつろな笑い声をあげてたって話だ」
「…誰なんだろう」気がかりになった。「言葉や世界は、俺の家をもう知ってるし。唯ちゃんはそんな暗くないしな」

 ふとその時、
「伊藤!」
 校舎から声がして、2人はそちらを向く。と、泰介が、
「げ、あいつ苦手…あとはよろしく…」
 といって、そそくさ逃げてしまった。

 誠は驚かなかった。
 とても見覚えのある顔。
 つり目で黒髪ロングヘアーの子に、小柄で茶髪、カチューシャで短髪の子。
 どちらも桜ケ丘の学生服を着ている。
「秋山さん…それに…ええと…」
「田井中律だ。軽音部部長。」
 髪の短い方が、言った。
「しかしね、何で私まで付き合わなきゃいけないんだ?」
「頼むよ。私は1人じゃ男と話せないんだからさ、
律だって、伊藤と一度話をしたいと言ってたろ?」
 律と澪は、誠に聞こえないようにぼそぼそと話す。
「な、なんですか…」
 2人の表情から考えて、とてもいい話とは思えない。
「伊藤…」最初に口を開いたのは、澪。
 低い声だ。
「貴方は本当は、だれが好きなんだ?
貴方があいまいな態度をとったせいで、西園寺も桂も、かなり傷ついているの、分かっているだろう。
挙句唯まで巻き込んで…」
 誠は、澪の鋭い眼光から目をそむけて、
「唯ちゃんまで、巻き込むつもりはなかったんです…。
それに言葉はあのスタイルと顔だし、世界だって、俺のしたいことをさせてくれたから…」
 ドンッ!
 言いかけて誠は、横っ面を殴られ、地面へ叩きつけられた。
「おい律!!」
 澪のたしなめる声。
「西園寺の言った通り、ハナからそれが目的だったのか!?」律は殴りつけた右こぶしをそのままに、「ったく、いい奴って聞いてたけど、大外れのこんこんちき!! お前の親の顔が見てみたいわ!!」
 セットの片づけをしている人たちが、一斉にそちらを見た。
 澪はパッと顔を赤らめて律をとめる。
 幸いすぐに生徒会の人たちは、自分たちの仕事に戻る。
「そりゃあ、ずるずるずるずる流されていったのは情けないと思うけど…」
「あんたがもっとはっきりしねえとよお! ま、もう手遅れだけどさ」
 律はそっけない。そんな彼女を澪は押さえながら、
「誰も捨てたくない気持ちはわかるが、そういった態度が誤解を生んでいるんだ」
「それは、そうですけど…」
「とにもかくにも、西園寺とは関係を持ち、桂や唯ともキスをして、そんなふらっついてちゃ、だめじゃんか」
「わかってますって…」
 反論の余地がない。
「ま、二兎を追うものは一兎も得ずみたいな結末になっちまったけどさ」
 律は冷淡である。
「それは、覚悟の上です…」
 本音。結局自分の自爆なのだ。
 誠は、律や澪の顔を見ることもできない。うつむき加減に話すしかない。

「何してるんですか!」
 と、律と澪の前に立ちふさがったのは、言葉。
「桂…」
「言葉…」
「誠君を責めないでくださいよ!! 秋山さん、それから…誰でしたっけ…」
「田井中律だ」律は額を抑えながら、「何で部長のあたしが覚えられていないんだよぉ…」
「仕方がないだろ、桂は私たちのライブに来れなかったみたいだし」
 澪は言葉を、例のごとくフォローした。
「誠君は西園寺さんに誘惑されたんです。彼のせいではありませんから」
「言葉…」
 誠も、澪も、律も唖然となっている。
「私決めてるんです。西園寺さんや平沢さんにされたことも含めて、誠君を許すって」
「……」
「おい桂、」今度は律がたしなめる。「澪はあんたのことを思って、」
「もういいんです。これですべて、元通りの人間関係になっただけですから。
とにかく、もうこれ以上、誠君を責めないでください」
そう言って強引に彼の腕を引っ張り、校舎へと連れ戻していく。
 澪は不安と安心が半々といった表情で、
「桂!」
「はい?」
「貴方は本当に、それでいいんだね」
「いいんです」
 言葉の言、それに真剣な目には、迷いも何もないようだ。
「わかった。…それほど、大切な人ならば、そばにいるといいかもな…」
 ぎこちない微笑を浮かべて、澪は言葉を見つめる。
 誠は振り向きざま、
「秋山さん、ありがとう。」
「え、」澪は目を丸くしつつも、「あ、ああ…」
 思わず答えてしまった。
 言葉はにっこりして、誠の腕を引っ張っていった。
 最後に、軽く澪に会釈して。


「桂…」
 呟く澪に、律は、
「澪、桂は、」
「分かっている。今回の1件は全部西園寺や唯がいけないって、伊藤は悪くないって、桂は思ってるんだろう」
「みたいだな。
ったく、桂の奴何なんだか…せっかく澪がいろいろと世話してやってんのにさ」
「いや、いいんだ、律。
これであいつは、伊藤を取り戻せたんだし。
幸せならばそれでいいよ。
あの子の、笑顔が見れたのだから」
 澪の微笑は、どこか寂しげ。
「はいはい。ま、桂もなーんであんな奴を好きになるのかねえ」
「まあいいじゃないか。伊藤も悪い奴ではないし、唯のことも桂のことも気にしているようだったしな」
 2人も校舎へもどり、廊下を歩いていく。

 澪は、
「私、明日も榊野学祭に行ってみるわ。2人のことが気になるし」
「オイオイ、それはお節介っつーもんだろ、」律は笑いながらも、「澪は本当に変わったな…あんなに榊野に行くの、嫌がってたのに…」
 澪は微笑を、律に向け、
「あえて言うなら…桂と会えたからかもしれないな…」
「そうかいそうかい。ま、恋がかなってよかったですなあ」
「だから恋じゃねえっての!!」
「ま、私も行くつもりだけどな。あくまで彼氏探しだ」
「結局彼氏目当てか。西園寺はどうすんだよ」
 澪の問いかけに、律は笑顔を消して、
「私が入り込める余地もねえだろうさ。それに西園寺にはダチがたくさんいるし。
そのうち立ち直るだろう」
「でも、背中を押す人間は必要だよ。ひょっとしたら、お前になるかもしれない。
さて、後は唯か」

 律は梓からのメールを見ながら、
「あいつ、あれからずっと部屋にこもりっぱなしか」
「らしいな。菓子も拒否していることを考えると、相変わらず重症だな…」澪は、急に表情を深刻にして、言った。「なあ、あり得ないとは思うけど…もし西園寺が、伊藤のことをあきらめていなかったら、どうする?」
「は?」
「放課後ティータイムファンクラブに入ったのは、西園寺とその友達だけだったんだよな。
あいつらにとって、伊藤を手に入れるためには、桂は邪魔な存在なはず」
 律も思案顔になり、
「…そう言えばあいつら、桂のことをかなり嫌ってた。西園寺はそうでもないみてえだけど。
それはいいとして、澪…」
 律は真剣な目で、澪を見る。
「お前が桂をかばっていることが知られたら、お前までも浮いちまうかもしれない。
それでもお前、あいつのサポートを続けるつもりなのか?」
 澪は、その後のことを、想像した。
 後に続くのは、ろくなことがない…。
「…正直、分からない。」
 2人は榊野を出て、唯の家へと足を進めていく。
「ひょっとしたらうちらも、割れるかもしれないな…」
 律の口調は、半分自嘲気味。
「割れる…」
 さびしがりやで、長らく律だけがたった一人の親友であった澪には、それが耐えきれない。想像したくもない。
「ま、割れちまってるか。唯が伊藤にちょっかいを出してから。
だけど、私たちはぐだぐだながら仲良くやってきたんだから、今回もぐだぐだやればいいんじゃねえか。どんな状況になっても、のろのろだらだらとさ」
「そうだな…動じないのが大人だな…みんなを、信じなきゃな…」
 最後に澪は、携帯で電話をして、
「それにしても(のどか)の奴、こんな時に限って連絡が取れないとは…。
唯が大変なのに…」


 言葉と誠は、同じ電車に乗って家路についた。
 榊野学園に入学した時から、お互い見かけた場所。だけど長い間、話すことはなかった。
 そして世界によってお互いが紹介され、曲折あって…。
 言葉が触れられるのを拒否してから、世界が『練習』を持ちかけ…。
 本来自分は言葉と付き合うべきだったのに、それからその時の快感が忘れられなくなって…。
 だから、これでいいんだ。
 そんな思いが、頭をよぎった。
 その時、誠の頭の中で、ふいと唯の笑顔が浮かんだ。
 同じく、榊野学園に入ってから、コンビニでお互い見かけていた。
 けれど、2学期まで話すこともなく…。
 突然、声をかけられたこと。
 自分の腕に抱きついて下校していたこと、喫茶店でウキウキしながら話をしていたこと。
 休憩室の中でのキス。
 そして、屋上での別れの言葉…。
 長い時間が流れる。
 車窓から海が見えてきた。
 いつの間にか誠は、あの歌を口ずさんでいた。

『♪キミを見てると いつもハートDOKI☆DOKI
揺れる思いは マシュマロみたいにふわ☆ふわ
いつもがんばるキミの横顔 ずっと見てても気づかないよね
夢の中なら 二人の距離 縮められるのにな♪』

 そっと誠の手に、暖かい手が重なる。
「言葉?」
「『ふわふわ時間(タイム)』ですよね。放課後ティータイムの」
「ああ…そうだよ…」
「でも…もう平沢さんは、誠君の隣にはいません」
「わかってる…」
 半分自棄的に、彼は答えた。
「なら、いいじゃないですか」
「え?」
「私、誠君のことが好きです。誠君の隣にいたいんです」
「…」
 誠はため息をつく。
 流れるように過ぎていく風景。
 言葉は少し、間をおいてから、
「今日、うちに来てほしいです。うち、だれもいませんから…」
「言葉…」
「私、はじめてですけど…やっと、誠君と本当の恋人になれそうで…」
「そういえば、俺もご無沙汰だったな…」
 呟きながら誠は、自分の気持ちに正直に問いかけた。
 答えは、一つしかなかった。
 言った。
「実はゆ…平沢さんと会ってから、あまりしようって気が起きないんだよ…。
最後にしたのは、世界とけんかした時だったかな。八つあたりもあった。
世界と『練習』して以来、なんかあの時の感触が忘れられなくなって…。
それで、あいつと猿みたく毎日していたんだけど、それが嘘のようで…」
「そうなんですか…?」
「…すまない。
もう分かってると思うけど、俺はお前がいながら、隠れて世界と関係を持っていた。
あげくゆ…平沢さんとも、誘われるままに近づいて、キスまでしてしまって…」
 言葉の表情が、一瞬曇った。
 が、穏やかに、しかしきっぱりと言った。
「もういいんです…。どれだけ誠君が他の人に興味を持っても、私が一番好きならば…」
「うん、わかってる。」うつむき加減に誠は答えた。
が、いたたまれなくなって、
「でも、分かってくれないか。
俺の悪い女癖を直してくれそうなのは、平沢さん…唯ちゃんの笑顔かもしれないんだ!」
「誠君…?」
「あの子の笑顔を見てから、俺はしたいなんて思わなくなってきてる。
あの子の笑顔が見られるなら、俺はそれで十分って!
純粋な心を取り戻せるって、自分で分かってきてるんだ!!
女癖の悪さは自分でもまずいと思ってる。
唯一の薬が、あの子が笑ってる姿なんだよ!!」
「…」
 激しく、やつぎばやぎに話す誠の口調に、言葉は唖然として聞くしかない。
「そしてあの子は、決して汚したくない、汚させたくないって、思うんだ。
だから、言葉…。
唯ちゃんとは…、
例え唯ちゃんが俺のことを嫌いになったとしてもいい、会わせてくれないか」
「誠君…」
 言葉は少しうなって、間をおいた。
 電車のアナウンスが、次に停車する駅を告げる。
 再び言葉は思案顔になってから、
「いいですよ。平沢さんとは、今までどおり接しても。
私も、秋山さんにいろいろと助けてもらいましたし。
それに平沢さん、私のために泣いてくれましたしね」
「そうだったな。」
 くすくすと笑い、笑顔になった誠を見て、言葉ははっとなり、呟く。
「平沢さん…?」
「え?」
「あ、いえ、何でもないです。」彼女は赤面して、懸命に首を振ってから、どこか寂しげに、「恋人付き合いをしないという約束なら、これからも誠君が、平沢さんと会うのを許してあげます。
私だけが、深い関係になれるのならば…」
そこまで言われると、もはや断るわけにはいかなかった。
「わかった…」
 これで自分の好色が治って、かつ唯ちゃんの笑顔を見られるのだから、これでいいんだ。
「振り出しに戻っただけですから、やり直しがきかないわけ、ないと思います」
 言葉は言った。
 先ほど熱く語りすぎた照れ隠しもあり、誠はさりげなく聞いてみた。
「なあ…秋山さんって、どんな人だ?」
 彼女は面食らったような顔になったが、すぐに表情を戻し、
「誠君に、似ています」
「え…?」
「不器用だけど、すごく優しくて、一生懸命で…」
「そうか…? 俺は言葉に似てると思ったけどな、顔も性格も。
傍から見たら姉妹に見えるくらい。」
「そうですか?」
「それで、世界は田井中さんとか…。奇妙なぐらいの力の拮抗だな…」
 世界に張られ、律に殴られた頬を、誠はさする。
 言葉の表情が、曇る。
 唇だけ笑みを浮かべ、話題を変える。
「今日、うちに来てくれますか?」
 誠が答える前に、メールが着信する。
 それを見て、
「ごめん、実はいたるが俺のところに来ててね、その面倒を見なくちゃいけないんだ」
「いたるさんって、妹さんですよね。
そうですか」言葉はまばたきしつつも、「じゃあ、私が誠君の家に行きますね。心も連れてきます。せっかくだから、家族ぐるみで付き合いましょう」
「あれ…誰もいないんじゃなかったっけ…」
「心は強く叱れば、私たちの邪魔はしませんよ」
 彼女はにっこりと笑った。


 日は暮れ、曇り空の中。
 灯りを消した自分の部屋で、唯はベッドの上で体育座りになり、榊野学園の休憩室でくすねた『あるもの』を、右掌で転がしていた。
 登下校した時、喫茶店に行った時の、誠の笑顔が、焼きついて離れない。
 始めてキスした時の、彼の赤らんだ顔も…。
 そして、自分が屋上でああ言ったときの、あの傷ついたような顔…。
 あのときは、頭の中が整理できなくて、ついああ言っちゃったけど…。
 やっぱり、忘れられないや…。
『待って下さい、俺も、本当は…!』
 続いて、この言葉が頭の中でリピートされていた。
 そうだ。
 私も、マコちゃんに彼女がいるとわかっていながら、あきらめきれず、近づいていたんだよね…。
 それだけ、マコちゃんに…。
 あのニコニコした顔に魅かれていたんだ…。
 頭の中が、ぐるぐる回り始めた。
 それとともに、手の中にある物も、ぐるぐると回転が速くなる。


 唯の家のリビングでは、梓と純が、ソファーで隣り合わせになって話していた。
 憂が2人を迎え入れた後、外出しているのである。

「そういうことがあったの…」
「ったく、純が無神経にベラベラしゃべるから、さらに状況が悪化しちゃったじゃない」
「だって、そんな複雑な状況があっただなんて思わなかったし…」
 純はふてくされたように言う。
「それにさ、唯先輩だって、その人あきらめたんだから、それでよかったんじゃない?」
「だといいんだけどね…。それにしては立ち直りが遅い…。
どっちにしても、私は明日ゆっくりするから。
榊野に行かない。
あんないかれたところ、二度と行くもんですか!」
「梓ぁ、」純は苦笑いしながら、「アトラクションだけでも行ってくればいいのに。面白いよ」
「い・か・な・い!!」
 梓はぷいっと顔をそむける。

「そういえば、みんなは?」
と、純。
「律先輩と澪先輩は、もう少し伊藤に話を聞いてくるって…あんなの相手にする価値もないのに…」
「そう? 私はコクっちゃいそうな人だったけど」
「このミーハー! 顔よりハートでしょ!!」
「あはは…それにしても、唯先輩もファーストキスを渡しちゃって、どうすんだろうねえ」
「自業自得でしょ。
あ、それとムギ先輩は、甘露寺に誘われて西園寺の家に行ってるよ。
ま、いろいろ迷惑かけちゃったし…」
「そう…」純はせんべいを食べながら、呟く。「そう言えば憂、遅いなあ…」


 夜になったものの、月は全くなく、煙のような雲が厚く空を覆っていた。
 家に帰ってから、世界は自分の部屋のベッドの上ですすり泣くばかり。
 母は仕事で外に行っている。
 傍らに刹那、そして光がいる。
「ねえ世界…」光は、「もう伊藤なんか忘れてさ、他のいい男見つけたほうが得だよ」
「光、今は下手に慰めたりしたら駄目だよ」
 刹那は冷静にたしなめる。
「あの時は同情しちゃったけど、こんなことになるのだったら、敵に塩を送るんじゃなかったかな…?」
 ぽつりとつぶやく彼女。
「刹那?」
「いや、独り言」
 ぴーんぽーん。
 誰かが来たようだ。
 来客を見て、刹那は目を丸くする。
「七海…あれ、ムギさん?」
「よお」
「お邪魔いたします。まさか甘露寺さんが、私を誘ってくれるなんて」
「あたしんちじゃなくて、誘ったのは世界の家ですよ。それにわざわざ、ケーキを持ってこなくても…」
 ムギの手には、お菓子が入った箱がある。
 いつも部室で食べるものである。
「手土産のつもりで持ってきました。私たち、部活はお菓子を食べることがほとんどだし。それに西園寺さん、これで少しは立ち直れるかなと思って」
「ちぇ、七海も私のところにケーキ頼めばいいのに」光は多少むくれながらも、「でも、ありがとうございます。ね、世界、ここはおいしいものを食べて元気だそうよ」
「ねえ七海、」刹那は気がかりなことがあり、口を開く。「他の放課後ティータイムはいないの? 田井中さんや、中野は?」
「あ、いや、その…」七海は笑いながら目をそむけ、「それにしても乙女の奴、こんな時に限って連絡が取れないなんて…」
「……」
「まあまあ」ムギは箱を開いて、「これを食べて、元気を出しましょうよ。
あ、KARAのポスター! 実はりっちゃんもK-POP好きなんですよ」
「悪いですけど、ほっといてくれませんか…?」
 世界はベッドに突っ伏しながら、ぼそりと言った。
「まあまあ、スイーツを食べれば立ち直れることもあります」
 ムギはそう言って、如才なく皆にケーキを配っていく。早速光はそれにかじりついて、
「おいしいです!」
 世界もゆっくりとおきあがり、好物のババロアを口にした。
「おいしい…」
 ぽつりとつぶやく。
「ムギさん、確かにこれはおいしいですよ」
刹那も相槌を打った。
「なあムギさん、」七海はゆっくり口を開く、「ちょっとこっちへ」
「はい?」
 七海に誘われるままに、ムギは誰もいない外へと行く。
 七海の右手が、拳になっていることを、刹那は気にした。


 世界の家のドアの前で、七海はムギに、真剣な口調で、言った。
「ムギさん、いつか言いましたね。
『私、甘露寺さんのこと好きだから。甘露寺さんのためならなんでもできるから』
って」
「え、ええ…」
「なら、私の頼み、聞いてくれないか」
「え…」
「桂に、今までのすべてを復讐するんだよ」
「そん…!」
 ムギが答える前に、5人の女子生徒がムギの周りを取り囲む。
 がんをつけるようにして。
「こいつらは同じバスケ部員の同級生なんだけどさあ、
結構私を頼りにしていて、私の言うことには忠実だからさあ…」
 七海は微笑を浮かべながら言う。
「頼み、聞いてくれるね…」
 その鋭い眼光に、ムギは縮こまり…。
「あんた達も気をつけな。
ターゲット追加。標的は桂、それに、あいつをかばう秋山さんだ」
微笑を続ける七海。ムギは顔が青ざめるのを通り越し、血の気を失っていく。
「そんな…澪ちゃんまで…。
お願いします! 澪ちゃんは私の大事な友達です!! あの子に危害を加えるようなまねはやめてください!!」
「あいつをかばっているんだから、秋山さんだって容赦はしないよ…」
「そんな…」
「どっちをとるかですね。あたしか、秋山さんか。
もっとも、秋山さんを取った場合、どうなるか分かってますね」
 気がつくと、ムギの目がかすみ、ぐしゅぐしゅと鼻水の音が聞こえてきていた。


 学校。
 すっかり夜になり、今や喫茶店の後始末をする人間しかいなくなっていた。
 いったん外を出て、ぼんやりと廊下を歩く泰介の向かいから、人影が現れる。
 さわ子だ。
 なぜか虚脱状態で、服も乱れ、ふらりふらりと歩いている。
 顔は、何かされたかのように歪み、弛緩した口から涎が出ている。
「まさか、放課後ティータイムのさわちゃ…さわ子先生」
 泰介が駆け寄ると、さわ子は彼の腕の中にぐったりとくずおれた。
「ああ…よすぎる…」
さわ子はうわごとのように呟いている。
(とまる)さん…よすぎ…」
「あ、あの、さわ子先生、どうしたんですか!?」
 泰介は正直、これからどうすべきか迷った。


 霧の中で、家やビルの明かりが、ポツポツと町を照らす。
 妹や言葉、それに心に御馳走するための材料を買って、誠はマンションに帰宅した。
 安いひき肉も、4人前となると結構値が張る。
 学祭でも大分使ったし、今月のこづかい厳しいなあ。
 そういう思いを巡らせていると、今日の出来事がおのずと忘れられる。
 というより、もう気持ちを前向きにすべき時だろう。
「いたるー? どこだー?」
 声をかけながら、マンションの廊下を進む誠だが…思わず顔色が変わった。
 妹が人質に取られている。
 いたるが、意識を失った状態。
 その状態で、茶髪、ポニーテールの少女の左腕に抱きかかえられている。
 その少女は桜ヶ丘の学生服。
 右手には、包丁。
「いたる…!?」
 いたるを人質に取った少女の顔を見て、誠は…。
 思わず、自分の両目をえぐりたいと思った。
 だが、盲目になっても、この光景は焼きついて離れないに違いない。
 妹を人質に取ったのは、自分に純粋な心を取り戻させてくれた人。
 自分がだれよりも美しいと感じる人で、誰よりもそばにいてほしい人。
「君は、唯ちゃん…!? どうして…!?」
「『どうして』と聞きたいのは、こちらの方ですよ」低い、ゆっくりとした声で少女は口を開いた。「どうして、私のお姉ちゃんを誘惑したんですか?」
 この言葉に、誠はポカンとなり、
「お姉ちゃん?」
 ふと誠は、唯と行った喫茶店で、『いつもは妹と行くことが多いんです』と、彼女が言っていたのを思い出す。
 木枯らしが急に寒くなる。
「まさか、貴方…唯ちゃんの妹さん…」
 口をあんぐりと開けてしまった。
「そうですよ…はじめまして、伊藤さん…」
 憂は誠を睨みつける。
 その瞳には光がなく、偏執的な狂気しか感じられない。
 そして、がっくりと頭を垂れているいたるの首に、包丁を突き付けた。
 彼は生唾を飲み込む。
「お姉ちゃんから…手を引いてくれますか…?」
「…」
「最初から遊びだったんでしょ。すでに二股かけてるのに。
挙句私のお姉ちゃんにも手を出して、あげくキスまでして。私のお姉ちゃんをその気にして。
可愛い妹の命がかかってるとすれば、はいと言ってくれますね…。
断ったり、一歩でもそこから動いたら、この子の首、切りますよ…」
「そんな…」
 呆然として、誠は憂を見るしかなかった。



続く
 
 

 
後書き
てなわけで、憂が1番のヤンデレ化です。
もともとそういうつもりはなかったけど、敵役にするなら突き抜けないとと思い、こう言う性格にしました。
キャラ分けとバランスの問題も考慮に入れて。
ファンの方には申し訳ないです。

まだまだ唯は迷っています。
誠も新たな事件にぶち当たり、改めて好きな人を決めたい気分でいますが…。
その中で近づく一つの影。
その接近とともに、唯と誠の恋愛は転換点を迎えます。 
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