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最初の夜に

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最初の夜に

 暖房も使用していない、晩秋とも初冬とも言える微妙な日付。地上の喧騒から隔絶されたその部屋。今日と明日の移り変わり。
 黙々と。ただ、黙々とページを繰る音のみが支配する室内。

 豪奢なマンションの一室と思しきその部屋は然したる装飾品、調度品の類などが置かれる事もなく、彼女の背後には、その部屋の主の雰囲気に相応しい落ち着いた色合いのカーテンが、窓と、そして、彼女の空間との境界線を造り上げていた。

 その瞬間――

 ふと、視線を上げる少女。その精緻と表現すべきやや作り物めいた容貌には、何時も通りの感情を現す事のない透明な表情を浮かべ……。
 ………………。
 ……いや、違う。普段の彼女とは少し違う、微かな何かが今の彼女には存在していた。

 それは……。そう、
 失った何か。取り戻す事の出来ない何かを求める者に似た色合いを、その澄んだ湖に等しき瞳に浮かべていたのだ。
 それは……。どのような人間でも持ち得る。そして、その瞬間にこそ、人はやさしく成る事の出来る、懐かしき思い出に浸るかのような表情……。

 彼女の視線の先。テレビを設える為に置かれたサイドボードの上……やや右前方に置かれたその小さな時計は、短い針と、そして長い針が、現在、ほぼ一直線を示して居る。
 これは……。この時は彼女に取って、とても、とても大切な時間……。
 忘れ得ぬ思い出の始まりを示す時間帯。

 やや俯き加減で本を読んでいたが故に、少し納まりの悪くなったメガネを軽く整えるその少女。その繊細な印象を受ける左手の薬指には、室内灯の明かりを反射する小さな煌めきが添えられていた。

 しかし……、それだけ。

 コタツには、コタツ布団ひとつ掛けられる事もなく、テレビも、あの夜以来、映像が映し出される事は無い。

 ただ、時が止まったままのこの部屋。
 そして、もう一人の主人(あるじ)が再び帰り来るその時まで、絶対に変わる事のないこの部屋。

「相変わらず殺風景な部屋だね、ここは」

 刹那、少女と冷たい冬の大気。そして、夜の静寂(しじま)のみが存在するこの部屋に、それまで、一度たりとも響いた事のない男声(こえ)が響く。

 しかし、少女はその声の方向に視線を向ける事はない。
 ただ少女と、突如、現れた青年との間に時間(とき)が過ぎ去り、そして、冬と夜の精霊たちがその活動範囲を広げ、静寂の支配する空間内では、闇と光の粒子たちが、その支配領域の争奪戦を繰り返していた。

「おいおい。あれだけ愛し合った相手を、もう忘れたと言うのか」

 そのまま、無造作な仕草で少女の正面。……彼女が視線を向けたまま、虚空を見つめ続けている場所に、腰を下ろすその青年。
 さして身長が有る訳でもなく、そして、目立つ容姿をしている訳でもない。ただ、街に出掛けると確実に出会う事の出来る、当たり前に存在している普通の青年。
 顔立ちは……整っている、と表現されるだろうか。但し、成人男性とするなら華奢な部類に分類される体型。白のTシャツ。その上に、季節感にややそぐわない淡い色合いのテラードジャケットをはおり、黒のパンツは定番と言えなくもないファッションセンス。
 長くもなく、そうかと言って短くもない髪は黒。

「貴方の事を愛した覚えはない」

 メガネ越しの冷たい瞳で青年を射抜きながら、彼女に相応しい、硬質で、やや抑揚に欠けた口調で、そう答えを返す少女。
 しかし、その瞬間に、夕方から降り出した雨に因って冷やされきった夜の大気が、彼女の口元をそっと白くけぶらせる事により、彼女が、現実に存在する生身の少女で有る事の証明と為す。

「そうだったかな。……確かに、そうだな。あれは今のお前では無かったよ」

 気のない答えを返す青年。少し……いや、かなり、やる気の感じさせないその答え。
 但し、この晩秋の、そして、ひとつの暖房も使用される事のない室内に有っても尚、彼の吐息は、その口元を白くけぶらせる事は無かった。

「けど、あれはお前が悪いんだぜ――」

 そして、それまで発して居たごく普通の青年のままの雰囲気で、その青年は続けた。
 ごく自然な振る舞い。及び、この年頃の青年に相応しい雰囲気で。

「俺を、殺そうとしたんだからな」

 異質で、異常なひと言を……。
 心の底から凍えさせるような、そんな冷気にも等しい狂気を纏った、本能的な恐怖が呼び覚まされる、その言葉を……。

 しかし、少女の方は、その表情を曇らせる事もなく、ましてや視線を逸らす事もなく、青年をただ、そのメガネ越しの冷たい瞳で射抜くのみ。
 其処からは、愛も、そして、憎悪すらも感じられる事はない。

 そう、其処に有ったのは、ただ虚無のみ。其処には何も……。青年も、そして彼女の精神(こころ)さえも存在してはいないかのようで有った。

 その少女の言葉にならない答えを聞いた青年が笑う。その笑みから覗く僅かに残った少年の残り香が、青年が、未だ少年と呼ばれても不思議ではない、そんな微妙な年齢で有る事を予感させる。
 但し、凍てつく冬を予感させる冷気。そして、彼が発する豊かな感情を表現するはずの笑いから伝わって来るのは……。

 表皮が粟立つような狂気。それは日常を容易く浸食し、彼の発する色にすべてを染め上げて行くかのようで有った。

「あの時のお前は人形そのものだったが、今のお前は――」

 何気ない仕草で自らの顎に手を遣り、少女を見つめる青年。その視線は、最初から変わらず、積極的な意志の力を感じさせる事もなく、その口調のやや気だるげな雰囲気は変わる事はない。
 ただ……、

「面白そうだな」

 ポツリと、独り言を呟くように、そう続けた。

 外界より隔絶された閉めきられた室内。明々と灯る室内灯の蒼白い光を受け、青年の影が黒く床に切り取られる。
 黒く、黒く、邪悪な影が……。

「好きにすれば良い」

 少女は、彼女独特の口調で、そう告げた。それは……まるで諦めた者の口調。
 但し、それは諦観などではない。これは……拒絶。他はどう成っても、自らの心は渡さない。その決意。
 一度は失った自らを、二度と失わないと言う決意。

 その答えを聞いた青年……少年が笑う。嗤う。そして、哂う。声を上げて笑っている訳では無い。口角にのみ笑みを浮かべ、瞳の中心に少女を映したまま、
 ただ、笑っていた……。

 そして――

「これが、三年前のあの日に、俺を殺そうとした女かね」

 笑いの中に邪気を隠し、呆れたような口調の中に狂気を孕む。
 それは、陰にして、淫。狂にして凶。
 笑いに満ちた世界。本来、陽の気に包まれたはずのその空間から感じるのは冷たく、そして乾いた大気。

 しかし――
 しかし、その中に微かに漂う異臭。それは、ありとあらゆるモノが腐り行く際に発せられる異臭のようでもあり、異世界から流れ来る薔薇の香気のようにも感じられた。

 その瞬間、青年の背後の空間がゆらり……と波紋のように揺れる。まるで澄んだ水面に広がる波紋のように……。
 いや、それだけではない。その何もないはずの空間に広がった波紋の向こう側から、次の瞬間、何かがゆっくりと顔を出して来たのだ。
 ゆらゆらと。ゆらゆらと虚空を漂いながら、まるで熱を感じさせない光の珠。

 それはまるで深き水底から立ち昇る泡のように、青年の背後の何もない空間から忽然と顕われ――
 そのまま青年の頭上で滞空。少女、そして、この冷たき大気と、人工的な青白い明かりが支配する世界に艶やかな色彩を放った。
 ゆるやかに明滅を繰り返すような、虹色の色彩を……。

「これに触れたら、今すぐに、あいつの居る場所に行けるぜ」

 地の底から。空の果てから聞こえて来るようなその声。それは少女にまとわりつき、周囲を澱ませ、何か……決定的な何かを変質させた。

 青年の闇を孕みしその言葉に、初めて少女の表情が動いた。この陰にして、どうしようもない狂気に等しいその空間に相応しくないその表情は、読書の後に誰も居ない虚空を見つめていた時に浮かべていた表情。

 しかし……。

 二度、ゆっくりと首を横に振る少女。
 その表情は、最初の物。無にして、透明な表情を浮かべる彼女そのもの。
 但し、表情から窺い知る事の出来ない彼女の精神(こころ)は、この時、どのような物で有ったので有ろうか。

 彼女の答えに、青年は嗤う。彼に相応しくない、そして、実に相応しい薄ら嗤いを、その万人に埋没しがちな容貌に浮かべて。
 対して、少女の方は変わらず。感情を表す事のない透明な表情。メガネ越しの冬の属性の視線で、青年を射抜くのみ。

 ………………。
 …………。

 いや、違った。現在(いま)の彼女は、確かに青年を見つめていた。
 最初の彼女は、彼の存在を瞳に映しながらも、関心を示す事は無かったと言うのに……。

「今度こそ、あいつは消えるぜ」

 何気ない。……まるで、昨夜のテレビの内容を語るような自然な雰囲気で、そう語る青年。
 その瞬間、世界にヒビが入る。

 室内の雰囲気は変わらず。二人の人間が存在していると言うのに、僅かな衣擦れの音、いや、かすかな息遣いさえ聞こえて来る事のない静寂の空間。そして、進み続ける時計の秒針は留まる事を知らず、明日、最初にすべての針が同じ時を差す時刻の五分前を指し示す。
 しかし、この瞬間、確かに何かが変わっていたのだ。

「そう言う予定だからな」

 青年は、彼の存在に相応しい雰囲気で少女を瞳に映した。

 刹那、世界のヒビが更に広がる。此方と彼方。今日と明日。現世と異界。
 境界線が更に曖昧となり、世界の軋む、音にならない音。悲鳴にならない声が聞こえて来る。
 気温は低く、しかし、異常に湿度の高い大気の中を、その雰囲気に相応しい夜の子供たちが跳梁跋扈する。……そう言う妖しき気配に支配された世界。
 大地からは蠢く力が立ち昇り、天からは妖の気が音もなく降り注ぐ。

 ゆらゆらとたゆたう虹色の泡たちが、青年の周りを、そして、少女の周りを音もない音楽に導かれ、ゆっくりと周り続ける。
 そう。何時の間にか、彼の頭上を彩る虹色の泡の数が増えていた。

 ひとつ、ふたつ、みっつ……。

 そして。ゆっくりと世界の在り様と、少女が極彩色の渦に包まれて行く。

 よっつ、いつつ、むっつ……。

 光が一周するごとに、世界が軋み、

 ななつ、やっつ、ここのつ……。

 聞こえない音楽が曲調を変えるたびに、世界が悲鳴を上げる。
 時計の文字盤に刻まれた数字が踊り、針は正常な動きとは反対に向け周り続ける。
 まるで時間自体を、あの日の夜に戻そうとするかのように……。

「あいつは、その(サガ)として、易きに流れると言う性質を持って居るからな」

 青年の一語一語に異世界の侵食は進む。その七色の光に包まれた先に垣間見えるのは、人の領域に非ず。
 狂気と邪悪。そして、混沌が支配する世界……。

 七色の泡が、幻想的な光の舞いを続ける。

 少女の本当の願いを知って居るかのように……。
 本人さえ気付かぬままに強く、激しく、狂おしいまでに求め続けた()()の答えを知って居るかのように……。

 何もかもが酷く曖昧で、既に此方と彼方との境界線すらはっきりしなくなっている。
 そう、何処から何処までが、彼の護ろうとした世界なのか。
 そして、何処から何処までが、目の前の青年が創り出そうとした世界なのかすら、今では分からなく成って居たのだ。

「救い出したくはないか」

 青年の言葉。それは、熟れた果実の如く甘く淫靡。
 そして、抗いがたい魅惑を帯びたその問い掛け。

 少女は、真っ直ぐに青年を見つめた。
 かつての彼女がそうしたように。
 かつての彼女が、そうするしか方法が無かった時のように……。

 そうして…………。

 
 

 
後書き
 この話は12年12月25日にアットノベルスさんの方に公開した作品です。
 ただ、アットノベルスさんの方は8月一杯で退会した為、その後は何処にも公開して居ません。

 一応、一話完結の短編です。
 ……今の所はね。 
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