誰が為に球は飛ぶ
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青い春
壱 或る少年
第一話
何の為に野球をしていたろうか?
分からない。
じゃあ、野球以外にしたい事はあったろうか?
無かったようにも思う。
気がついたら始めていて
いつの間にか、自分の一部になっていた。
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目覚ましが鳴る。
ジリリ、ジリリと、枕元でやかましく、
碇真司、16歳は億劫そうにその目を開けた。
時計の針は7:30を指している。
始業の時間に間に合うギリギリの時間であった。布団をめくり、その上体を起こして、八畳間の窓のカーテンを開けた。
「雨だ…」
外は秋雨が降っていた。
真司はそのままそっとカーテンを閉じ、もう一度ベッドに体を横たえる。
白い天井を仰ぎ見て、ぽつりとひとりごちる。
「僕は何でここに居るんだろう?」
そのまま、その中性的な顔の瞼を閉じた。
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彼の事は、入学以降半年が経とうとしている今でも、いまいち良く分からない。
「シンちゃん!まぁーた遅刻!ちょっち多過ぎやしない?」
そう私に言われても、地味ながら、それなりに整っているような顔に他人行儀な笑みを浮かべるだけで、しれっとしている。
「ホントにもう!留年なったって責任持てないわよ」
呆れてため息をついても、その笑みはビクともしない。いつもいつもそうやって、遅刻を咎める担任とのやり取りの終わりを待つのだ。
「……早く授業行きなさい」
「すみませんでした。失礼します。」
自分の方も暖簾に腕押ししてる気分で、面倒になって解放すると、彼は長身をぺこりと折り曲げて、職員室を出て行く。
その後ろ姿を見るのはこれがもう何度目だろうか。
ネルフ学園高等部1-C担任の葛城美里は、どうにも掴めない自分の教え子に、首を傾げてばかりである。
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「また遅刻。君は本当に学校が嫌いだね」
途中から行った授業が終わると、後ろの席の少年が話しかけてきた。彫りが深く、細面で、肌が異常なまでに白い。生まれてこの方、日の光を浴びた事があるのだろうかと思えてくるほどだ。そんな顔に、いつも品の良い笑顔を張り付かせていた。
「別に学校が嫌いなわけじゃないよ。…ただ、雨が降ってたじゃないか。止んでから来ようと思っただけさ」
碇真司にとって、それは本心だった。
その思惑通り、今は雨が止んで、空には虹がかかっている。
「そろそろ気をつけないと、出席が足らない授業が出てくるよ」
「大丈夫、ちゃんと休みは計算してるから」
いつもこんな風に、お節介を言って、自分に関わってくる。自分自身より自分を気にかけてるのではないか、と思うほどだ、さっきの美里先生にしても、この渚薫にしても。
でも真司としては、特に薫には感謝したいくらいだった。根暗な自分は、薫がいちいち話しかけてくれなかったら学校に来てもたった一人で途方に暮れていただろう。今よりもっと、学校に来なかったかもしれない。
「今日はクラブハウスに来るかい?」
「うん。行くよ。そのつもりで来た」
薫の目尻が更に下がった。嬉しいらしい。
「来るのは久しぶりだね。真司君の演奏をどれだけ待ちわびた事か。一日千秋の思いだったよ。」
「よせやい。趣味でしてただけだよ、僕は下手だよ」
薫はこんなオーバーな事を臆面も無く平気で面と向かって言ってくる。少し照れ臭いが、しかし、煮え切らない物言いばかりするような自分に比べればずっと良いのかもしれないな。
薫の笑顔から目を反らせながら、真司はそう思った。
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第三新東京市。
首都機能分立計画の一環で、埼玉県秩父に建設が進む都市で、真司の住む街だ。
コンセプトは「学術都市」。様々な研究施設、機関をこの第三新東京市に移転し、この第三新東京市を「日本の知」が具現化される場所とする予定である。
ソーラーパネルが壁面に設置され、夕日に輝くその姿が何か結晶のような印象を受ける高層ビルがいくつも立ち並ぶ様は壮観で、その景色は高台にある国立ネルフ学園の部活動用のクラブハウスからよく見えた。
何度も見てきたはずのその景色を、「相変わらず、綺麗だよなぁ」と思って見やりながら、真司はチェロを弾く。何度も何度も弾いてきた曲だ。何かの為に練習したわけでは無い。やってるうちにそこそこ弾けるようになっていた。
弾き終わり、自分の視線を窓の外から部屋の中に移すと、音楽部の部員達が、うっとりとした顔を真司に向けていた。適当に真司は弾いていただけなのに、いつからか静かだなぁと思っていたら、他の音楽部員がほぼ全員真司の演奏に聞き惚れていた。ぎくっとして、真司はどうにも決まりが悪い感じがした。
「やっぱり、チェロは真司君のに限るねぇ。」
薫がピアノの影から顔を覗かせ、微笑みをたたえた顔で-美少年だからニヤついていても全て微笑みに見えるのだが-真司に視線をやる。
「やっぱすごいわよねー」
「碇さん、かっこいー!」
中等部から高等部の2年まで音楽部員は居るが、その殆どが女。薫ほど抜群に整ってるわけではないが、それでも真司は容姿的には、中性的で美しい方ではある。薫はほぼ毎日クラブハウスに来ているのに対して、真司は来るのが珍しい分だけ、希少価値があるのだろうか。真司に注がれる視線も心なしか熱いものがある。
参ったな。恥ずかしいじゃないか。
真司はもう一度、その視線に背を向けて窓の外に向き合う。陽はさらに西に傾いていた。
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