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第一章 ~囚われの少女~
少女の名
「――嘘よ……。そんな、そんなことって……」
フードを被った少女は、額に滲む汗を拭うことなく走った。先ほど見たものを忘れようとするかのように。
――
「ナイト様……」
伸ばした手の先には何もなく、ただ、目の前は絶望で真っ暗だった。
「あ……」
いつもと変わらない、目を閉じていた頃よりも暗いこの暗闇が、少女が夢から覚めたことを教えてくれた。
夢を見ては目覚め、とてつもない虚無感に襲われる。そんな日々を、もうかれこれ幾年も過ごした。
気の遠くなりそうな年月の中、少女は空想し、演じた。理想の自分を、まだ知らぬ幸せを。
「ホーリーナイト様……」
夢に現れた男の顔を見たのか、見てないのか。その顔は、ぼやけた姿しか思い出せなかった。
(私の望みを叶えてくれるといったのに)
あの時心の奥では死を望んでいたのならば、ここはすでに死の世界であるのかもしれない。貴女は既に死んでいると言われても、何の感情も湧いてこない。
――ああ、そうか。
(結局は、どちらを選んでも、あるのは死……)
自分は、この死の運命から逃れることは出来ない。
望んだものは、夢の中に消えてしまった。
死を明日へ控え、生きた心地がしない――とはいうものの、生きているとはどういうことなのだろう。
――どうすれば今、自分が生きていると思える? 己が生きていたと証明できる?
(所詮、夢は夢。本当はわかっていたはず)
一度目覚めると、先程まで居た場所に戻ることは不可能。夢は儚く、ささやかな祈りを聞いてくれる神はどこにもいない。
「ああ、こんな人生とは。虚しい」
(そして呆気なく、終わってゆくのね)
――果たして私に、この世に生れ出た意味はあったのだろうか。
少女の嘆きは心の中だけで響く。
「ナイト、様……」
そして深く、少女が落胆のため息を吐いた事を知るものは、誰一人として存在しない。
――
「夕食をお持ちしました」
時を知るのは、いつもこの声がした時。
食事の時間が来るたび、黒っぽい服の少女がそれを運んで来る。
――重い扉が開くのは、その時だけ。
闇色の服を着た小柄な少女は、手首にはめられた鍵の束から、慣れた手つきで一つを取り出す。そして、小さな手で淡々と鍵を開ける。
少女の仕事。他の人間がこの扉を開けているのは見たことがない。
そして、この部屋の数少ない家具の一つである、簡素な木製テーブルの上に銀色のトレイを置く。
今日の食事の内容は、いつもより、多少ではあるが豪華なようだ。いつも銀の安っぽい食器に、いつもは病人用であるかのような食事だった。
しかし特に気になったのは、小皿に乗っている、柔らかそうだが箱のようなそれだ。
円を何等分かに切り取ったような、扇形のそれ。一応、食べ物だとは思う。
「これは、何?」
そこでふと、少女へ質問を投げかけてみる。
「こちらは、明日へ迎える誕生日のケーキでございます。ささやかですがお祝い申し上げます」
表情は一つも変わらない。仕事の一つをこなしただけのようで、淡々とそう述べた。
「それでは私はこれにて」
フリルのあしらわれたエプロンの前で手を揃え、少女は丁寧にお辞儀をする。
闇色のスカートがふわりと広がると、身を翻す。そうして再び、重いドアの向こうに消えていった。
ガチャリと鍵の音がした後、そこにさらに鎖もかけられる。
あの少女は、いつもこんな感じだった。
冷たいと言えばそう感じる人もいるだろう。でも実はそうではなくて、言葉遣いは柔らかく丁寧なものだ。
――逃げようと思えば、いくらでも逃げられただろう。相手は自分よりも小柄な少女。しかも自分より幼いかもしれない。
しかし、逃げようという欲などは持ち合わせていなかった。決して逃げられはしないと、心の底では感じでいたのかもしれない。
「誕生祝い……これはどういう皮肉なのかしらね?」
添えてあった小さなフォークで、ケーキの角をふわりとすくいあげる。
口に入れた瞬間――甘い。
ひんやりとしたクリームと、ふわふわの生地。この触感には、予想外の衝撃を覚えた。
(なんて不思議な味なのかしら……)
“ケーキ”は最後に食べることに。
それから。普段は食べられない、ローストチキンをナイフで切り取り口に含む。
――またしても口の中に広がり、ゆっくりとはじけていく衝撃。
「私の憎むべき人たちは、いつもこんなのを食べているの!?」
これはその人からのおこぼれなのかしら……と一人つぶやいていた。
食事の時間はあっという間に過ぎ、お腹が落ち着いてくる頃合いになった。
ランプに灯った火が消えるまで、時間もあとわずか。夕食と共にそのランプは運ばれ、その火が消えるとともに1日が終わる。
――少女の夜の始まりである。
そして今日は最後の夜。
何故だかわからないが、今日は胸騒ぎがする。明日を迎えるにあたって、やはり動揺しているというのだろうか。
少女がそんな風に思いを巡られていると、扉の向こうに何やら、人の声がした。
(……誰?)
少女は壁に近づき、聞き耳を立てる。
「……気づかれないよう時間を稼いでおります。……様も速やかに、ご自分のお部屋へお戻りになりますよう」
何を言っているのか、はっきりとは聞き取れなかったが、誰かがいるのは確かだった。
しかも一人ではない。
会話をするという意味。
しかし、一人はすぐにその場からいなくなった。
得体のしれない何かが向こう側から来るような気がした。
しばらく様子をうかがっていると、小窓の下の方から、何かが見えた。
こちらから警戒心を露わにする。
「誰!?」
一瞬びくりと動いたが、向こうにいる人物は恐る恐る、こちらを覗いてきた。
どちらにも怯えの色が見えるなか、互いに声なくにらみ合う。
その目の位置からすると、自分と同じくらいの背をした人物らしい。
少しおどおどとした、震えているかのような、そんな相手の様子が見て取れる。
そして、ようやく口を動かした。
「あなたは……誰なの?」
いきなり現れた謎の人物に名前を聞かれるとは、なんだかおかしな気分だ。どうやら向こうは何も知らないらしい。警戒するには値しないようだ。
「私の名前は――」
こちらの方から告げる。
「もう、必要のない名前だけど」
牢獄の中の、少女の赤い瞳は、どこまでも真っ直ぐだった。
「――レナ。私の名前は、レナ・オレリア――」
-第七幕へ-
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